未亡人に救われて
それはこの頃、毎日のように正面の特別席の中央に陣取って、座員全部の眼に付いていたお客で、あれは西洋人だろうか、日本人だろうか……お嬢さんだろうか、それとも奥さんだろうかと問題のタネになっていたシロモノであったが、近付いて来たのを見ると、何というスタイルの洋装か知らないが、その頃では眼を驚かすハイカラであったろう。真赤な血のような色をした下着に、薄い、真黒い上服をピッタリと着込んで、丸い乳と卵型のお尻をタマラナイ流線型にパチパチと膨らましている。それが白い羽根付きの黒いお釜帽からカールをハミ出させて、白靴下のハイヒールの上にスラリと反り返って、縁無しの鼻眼鏡をかけたところは、ハンカチの箱から脱出して来たような日本美人だ。年は二十ぐらいに見えたが、実は二十五か六ぐらいだったろう。見物席からイキナリ駈上って来たらしく頬を真赤にしてセイセイ息を切らしていたが、吾輩が振翳している死骸なんかには眼もくれずに、ハンドバッグの中から分厚い札束を掴み出すと、みんなの鼻の先へビラビラさせて見せまわしながら、ニッコリと笑った。銀鈴のような嬌めかしい声を出したもんだ。 「……サア……皆さん。この坊ちゃんを妾に売って頂戴。千円上げます。ちょうど今日中の上り高ぐらいあるでしょ。親方へ上げる妾の香奠よ。ね……いいでしょ……いけないの……。いいわ。どうしてもこの坊ちゃんを殺すと云うんなら、妾にも覚悟があるわ。御覧なさい。この小ちゃな七連発のオモチャに物を云わせますから……妾はこの坊ちゃんに惚れてるんですからね。そのつもりで話をきめて頂戴……サアサア。警察が来ると話が元も子も無くなるわよ。サアサア。早いとこ早いとこ。オホホホホホ」 みんなこの別嬪さんに呑まれてしまったらしい。イツの間にかメイメイに持っていた獲物を取落していた。吾輩もソロッと親方の死骸を下して額の汗を拭いていた。 こうなると話は早い。廿分と経たないうちに、金モール付赤ビロードの舞台服を着た吾輩は、今の別嬪さんと一緒に、その頃まで絶対に珍らしかった自動車に同乗して、どこか郊外の山道らしい処をグングンと走っていた。つまり吾輩はこの、日野亜黎子という金持の未亡人に買取られて、郊外の別荘に匿まわれて、その未亡人のハンドバッグボーイにまで出世したもんだ。禿頭のオモチャから一躍、別嬪のオモチャにまで出世した訳だね。 イヤ、出世だよ。たしかに出世だよ。堕落じゃないよ。第一昨日までは毎日何度となくタタキ店の瀬戸物みたいに荒板の上にタタキ付けられていた奴が、今日は正反対に真綿ずくめの椅子やクションの上でフワフワフワフワと下にも置かず歓待される訳だからね。人生は京の夢、大阪の夢だ。電光朝露応作如是観だ。まあ聞け……そんな経緯で吾輩は、その未亡人の手に付くと、お母さんだか妹だか訳のわからないステキな幸福に恵まれながら学問を教わった。吾輩を立派な青年紳士に仕立てて見せるという未亡人の意気込みでね……何でもその日野亜黎子夫人の旦那様だった男は、日野有三九という名前でチャチな探偵小説を書いて、巨万の富を積んだあげく、妻君の精力絶倫に白旗を揚げたような……そうして揚げたくないような神経衰弱の夢みたいなエタイのわからない遺書を書いてアダリン自殺を遂げた。自分が探偵小説になっちゃったというダラシのない男だったそうだが、そのお庭の片隅に立っている図書館の中には美事な寝室を作って、あらゆる科学書類、百科辞典、歴史、法律書、小説の類が山積していた奴を、吾輩は未亡人との恋愛遊戯の片手間に一字一句残らず暗記してしまったものだ。アベコベに未亡人を手玉に取ってやったワケだね。嘘だというなら大英百科全書のドノ巻のドノ頁の第何行目に、何が書いてあるか質問してみろ。即答して見せるから……。ソレ見ろ……。 そこで世界の大勢に通じた吾輩は科学なるものに非常な興味を感じたね。早速亜黎子未亡人に甘たれてその図書館の中に立派な実験室を作ってもらった。その実験室で吾輩は超越智という毛唐人が発見した脂肪の分解剤を逆に分解して、有効成分だけを取出し、そいつを応用して動植物の脂肪や油をドン底まで分析し、ダイナマイトに数十層倍する猛烈な液体火薬を作り出す事に成功した。 その時は嬉しかったね。まるで世界を征服したような気持だった。あんまり嬉しかったもんだから吾輩はその爆薬の製法を極秘密の中に日野亜黎の名前で海軍省に投書した後に、その実際の効果を証明するために、その亜黎子未亡人と合意の上で爆薬情死を企ててやろうと考えたもんだ。むろんその時分には二人とも青春なんかドッカへ行っちゃって貧乏屑屋の股引みたいに、無意味に並んでいるだけの状態だったからね。吾輩の考えなんか知らない未亡人は、今の内閣と政党みたいに心中しましょうよ、しましょうよって毎日毎日うるさく吾輩に甘たれていたもんだから無論、異存は無かったろうよ。そこでその火薬の話を打ち明ける前に、取りあえず骨休めかたがた、吾輩は娑婆の見納めのつもりで或夕方のこと、下町のバアへ一杯飲みに行っているとその留守中に、その実験室が大爆発してしまったのには驚いたね。否。実験室どころじゃないんだ。二町四方もあるかと思っていた日野家の屋敷内に在る鉄筋混凝土の家作と立木なんかが、地の下数千坪の土砂や、女中や、自動車や、未亡人と一緒に大空に吹上げられてしまった……らしいんだ。その時分には酒場でグデングデンになって狸の睾丸の夢か何か見ていたもんだから吾輩は全く知らなかったんだ。 むろん新聞に出ているよ。君等が生れない前の初号三段抜きだから、今で云ったら号外ものだろう。……亜黎子未亡人の前の夫、日野有三九という男は生前に非道い神経衰弱にかかっていた者だが、自分の死後、精力絶倫の亜黎子夫人が必ず不倫の行跡に陥るべきを予想し、嫉妬の念に堪えず、これに対する深刻な復讐の準備を整えていた。すなわち自分の建てた図書館内の豪華を極めた寝室に、自分の死後三年目の或る夜半に相違なく発火するように工夫した精巧な時計仕掛の爆薬を装置していたものであるが、そのような事実を夢にも知らなかった淫婦の亜黎子は、亡夫の予想通りに有名なる曲芸師の不良少年をその室に引っぱり込み不義の快楽に耽っていた結果、まんまと首尾よく亡夫の詭計に引っかかったのが、この大爆発の真相に相違ないのである。敏腕を以て聞こえた当局も、流石に斯様な超特急の椿事に遭遇しては呆然として手の下しようもなく……云々……といったような事を筆を揃えて書立てていたが、流石の吾輩もこの記事を見た時には文字通り呆然、唖然としてしまったね。日本の新聞記者が、これ程までに素晴らしい創作家だとはこの時まで気が付かなかったからね。 ……ナアニ……あの実験室に立入る人間は亜黎子未亡人だけだからね。多分、彼女が吾輩の留守中に眼を醒まして、吾輩が作り溜めていた液体火薬に手を触れるかドウかしたんだろう。アルコールに溶いた甘ったるい、赤黄色い火薬を、ベルモットの瓶に詰めて、塩と氷に詰めて冷蔵しておいたんだから、事によると酒と間違えて未亡人が喇叭を吹いたのかも知れない。そいつが腹の中の体温で発火してアレヨアレヨと驚くトタンに、三町四方の霊魂がフッ飛んだんだから思い残す事は無いだろう。もちろん吾輩もアンナに猛烈な炸裂力を持っていようとは思わなかった。分量が二倍の時には四倍の熱……四倍の時には二百五十六倍の高熱を発する事だけは知っていたがね。アトでその爆発の遺跡をコッソリと見に行った時には文字通り「人間万事夢だ」と思ったね。直径二三町、深さ二十間ぐらいの摺鉢形の穴が残っていただけだからね。それ以来何もかも夢だという事をハッキリ自覚した……女ばかりじゃない。人間万事が何一つ当てにならない事を自覚した吾輩は、越中褌の紐が切れたみたいな人間になってしまった。する事為す事が、一つも手に附かない。面白くも可笑しくもないが、そうかといって死にたくも生きたくもないといったようなアンバイでブラリブラリやっている中に、イツの間にか現在の職業に転落して来ると又、世の中がチットずつ面白くなって来た。 何しろ世間の人間が殆んど気附かないでいて、ステキに儲かる商売だからね。又気付いたにしたところが、滅多に手を出せる商売でもないんだがね。イイヤ。詐欺でも泥棒でも、乞食でも何でもない。そんな間だるっこいヘゲタレ商売とはタチが違うんだ。詐欺と泥棒と乞食の上を行く商売だ。毎日毎日往来を歩きながら、オール日本人の生命の綱を握っていようという、警察でも大学でも吾輩の前には頭が上らない上に、毎日美味い酒が飲めようというんだから大した商売だろう。 ……そんなドエライ商売がどこに在るかって……ここに在るんだ。この破れマントのポケットの中に在るんだ。今見せてやろう。ホラこの通りだ。
博士製造業
何を隠そう。吾輩の職業というのは医学博士を製造するのが専門だ。 笑っちゃイカン。世の中に何が気楽だといったって医学博士を製造する位ワケのない仕事は無いんだ。一人前の掏摸やテキ屋を作るよりもヨッポド容易しい仕事なんだ。 先ず博士の卵を探し出すんだ。博士の卵なんて滅多に居ないようだが、気を付けてみると虱の卵と同様、そこいらにイクラでも居るんだ。天下の青年、悉博士の卵ならざるなしと云っていい位なんだ。 その中でも理窟の強い奴の方が見込がある。何でも理窟の世の中だからね。「親は何故に吾々を生みたるや」ナンテいう余計な事を、一生懸命に考え詰めて、何でもカンでも理窟に合わせて終わないと鳥目だの、近眼だの、神経衰弱になる位、熱心な奴ならイヨイヨ上等だ。 その結果「親は面白半分に吾々を作りし者也」と解決を付けた奴は取敢えずアメリカあたりの文学博士になる奴で、「故に吾々は親に対して責任無し」と結論する奴はソビエット直輸入の赤い法学博士の卵だろう。「[#ここから横組み]1×1=1[#ここで横組み終わり]」なるが如しと論ずる奴は多分の独逸工学博士を含んだ卵で、「親は自分の老後を養わせむために吾々を生みし者也」と解釈する奴は仏蘭西経済学博士の輸入卵と思えばいい。「その理由を発見する能わず」と叫ぶ奴はソックリそのままイギリスの哲学博士で、従って「結婚の生理的結果也」と感付いた奴が、最有力な日本の医学博士の雛ッ子になる訳だ。 そんな奴に「人間に喰付かれた犬は如何なる病気を感染するか」とか「猫の失恋ヒステリーの治療法如何」とかいったような問題と一緒に、数十匹の犬や猫を宛てがっておくと大抵、半年、乃至、三年ぐらいで解決して来る。「人間に喰付かれた犬は泥棒犬になる」とか「三味線に張って猫ジャ猫ジャを弾く」とかいう論文を提出して博士になる。 ナアニ、吾輩が論文を書いてやるんじゃないよ。その研究用の犬や猫を提供するのが吾輩の本職なんだ。イヤ、笑いごとじゃないよ。そこいらの大学や医学校なんか吾輩が居なくなったら、忽ち一切の研究が停止するんだから大したもんだろう。 その犬や猫をどこから仕入れて来るかって。アハハ。仕入れて来るといえば立派だが、実をいうと拾って来るんだ。往来の廃物を拾い集めて、博士製造の材料に提供する商売だから非常な国益だろう。むろん鑑札も免状も、税金も何も要らない。商売往来にも何も無い。天下御免の国益事業だ。 もちろんこの商売を公認させるには相当の骨を折っている。この商売を初めてから間もなく、警察へ引っぱられて調べられた事がある。 「イクラ無鑑札の犬でも、持主の承諾を経ないで掻っ浚いをするのは怪しからんじゃないか」 とか何とか、お説教じみた事を吐かしおったから吾輩、一杯景気で、逆襲を喰わせてやった。 「利いた風な事を云うな。日本の警察はまだまだズッと大きな罪悪を見逃がしているんだぞ。彼の活動写真屋を見ろ。あんな映画を一本作るために、映画会社が何人の男女優を絞め殺したり、八ツ切にしたりしているか知っているか。しかもその俳優たちは、みんな町から拾って来た良家の子女ばかりじゃないか。まして況んや彼の議会を見ろ。何百の議員の首を絞めたり、骨を抜いたり、缶詰にしたりして富国強兵の政策を決議させる。その議員というのは政党屋が、全国各地方から拾い上げて来た我利我利亡者ばかりじゃないか。吾輩が、町から拾って来た動物のクズを殺して、博士を作るくらいが何だ」 とか何とか煙に巻いて帰って来たが、妙なものでソレ以来スッカリ警察と心安くなってしまったもんだ。 見たまえ。この通りマントの袖の内側全部が袋になっている。これは吾輩が自身にボロ布を拾って来て縫付けたもので、このポケットは木綿の手織縞だ。こっちの大きいのは南洋更紗の風呂敷で、こっちのは縮緬だから二枚重ねて在る。これが吾輩独特のルンペン犬の移動アパートなんだ。 このアパート・マントを一着に及んで、これもこの通り天井に空気抜の付いた流行色の山高帽を冠って、片チンバのゴム長靴を穿いてブラリブラリと市中を横行していたら、いい加減時代後れの蘭法医師ぐらいには見えるだろう。ナニ、モット恐ろしい人間に見える。 フーム。天幕を質に置いたカリガリ博士。書斎を持たないファウストか。アハハ。ナカナカ君は見立てが巧いな。吾輩を魔法使いと見たところが感心だ。 いかにも吾輩が犬を拾う時の腕前は、たしかに魔法だね。到る処の往来にチョコチョコしている仔犬だの、前脚に顎を乗っけて眠っている犬なぞを、通っている人間が気付かない中にサッと引掴んで、電光石火の如くこのマントの内側の袋アパートへ掴み込むんだ。 知っているかも知れないが犬の首ッ玉を掴むには一つの秘伝があるんだ。これは熟練すると何でもないがね。犬の首ッ玉の耳の背後よりも少し下った処……八釜しく云うと七個在る頸骨の上から三つ目ぐらいの処をチョイト抓むと、ドンナ猛犬でも頭がジインとなって、この人にはトテモ敵わない。絶対服従といったような気分になるらしいね。眼を細くしてチョイと麻酔したような恰好で、気持よさそうに手足をダラリと垂れる。心安いブルドッグか何かを相手にして実験してみたまえ。殊に医学の実験用に使う犬だったら、そんなに大きな犬でなくて良いのだから訳はないよ。そこを抓むと気持がいいと見えて、啼きもどうもしないからね。 ところでこのアパートへ這入ると別に看板をかけている訳ではないが、長い間の老舗の臭いがするらしく、犬の奴が安心すると見えてワンとも云わないでジッとしている。仔犬なんかだと、別れたお母さんの臭いでもするんだろう。クンクン啼出す事もあるが決して出て行こうとしないから安心だ。電車に乗っても発覚しない事が実験済みなんだから平気なもんだよ。 そんな訳で町から町をブラブラして手に入れた犬を大学や医学校へ持って行くと、博士の卵が待ちかねていて、一匹八十銭から二円五十銭ぐらいで買ってくれる。平均すると衛生学部が一番高価くて、生理や解剖が一番安いようだ。これは衛生学部だと狂犬病の実験に供して、高価い予防注射液を作る資本にするから、割に合うので、生理や解剖だと切積った研究費で博士になろうと思っている筍連中が、単なる使い棄てに使うつもりだからだろう。勿論、学生上りだからといったって馬鹿には出来ない。相当、足元を見る奴が居るので油断が成らないが、非道い奴になると吾輩を乞食扱いにして値切る奴が居る。 「オイ、鬚野先生。三十銭に負けとき給え、ドウセ無料で拾って来たんだろう」 そんな奴には、よく犬コロをタタキ附けてやったもんだ。横面を引っ掻かれたり、眼鏡を飛ばされたりして泣面になって謝罪る奴も居た。 「篦棒めえ。無代で呉れてやるから無代で博士になれ。その代り開業してから診察料を取ったら承知しねえぞ」
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