はしがき
この一文は目下、埃及のカイロ市で外科病院を開業している芬蘭[#「芬蘭」はママ]生まれの独逸医学博士、仏蘭西文学博士オルクス・クラデル氏が筆者に送ってくれた論文?「戦争の裡面」中の、戦場描写の部分である。原文は同氏の手記に係る独逸語であるが、今まで世界のどこにも発表されたことのない、珍らしいものである。 当時、中欧最強の新興国として、現在の日本と同じように、全世界の砲門を睨み返していた彼のモノスゴイ独逸魂の、血潮したたる生々しい断面を、この一文によって読者諸君は眼のあたり見る事が出来るであろう。 オルクス・クラデル氏は、欧洲大戦終了後、一時長崎の某外科病院(日本人経営)に傭医員として、来ていたことがある。それが、或る軍事上の研究の使命を帯びていたものであることは、この論文中の他の部分に於て察知出来るのである。 筆者は嘗て鉄道事故のため負傷して、その外科病院に入院し、クラデル氏と知り合ったのである。氏に就いての印象は、遠慮のないところ、世にも不可思議な存在で、氏は自身に、「私は白人の中でも変り種です。学名をヒンドロ・ジュトロフィと呼ばれる一寸坊の一種です」と説明するように、背丈がグッと低く、十三、四歳の日本児童ぐらいにしか見えないところへ、頸部は普通の西洋人以上に巨大く発達しているために、どうかすると佝僂に見え易い。然しクラデル氏は、その精神に於ては、外貌とは全く反対な人物で、通例一般の片輪根性や、北欧の小国人一流の狡猾なところはミジンもなく、如何にも弱い、底の知れないほど人の好い高級文化人である。そして、勿論本職の外科手術については驚ろくべき手腕を持っていた。 さて最後に、彼が嘗て軍医として活躍したにもかかわらず、戦争の問題になると、徹頭徹尾戦慄と呪咀の心を表明していたことを書き添えておく。
一
……おお……悪魔。私は戦争を呪咀う。 戦争という言葉を聞いただけでも私は消化が悪くなる。 戦争とは生命のない物理と化学とが、何の目的もなしに荒れ狂い吼えまわる事である。 戦争とは蒼白い死体の行列が、何の意味もなく踊りまわり跳ねまわる中に、生きた赤々とした人間の大群が、やはり何の興味も、感激もなしにバタバタと薙ぎ倒おされ、千切られ、引裂かれ、腐敗させられ、屍毒化させられ、破傷風化させられて行くことである。 その劇薬化させられた感情の怪焔……毒薬化させられた道徳の異臭に触れよ。戦慄せよ。……一九一六年の一月の末。私が二十八歳の黎明……伯林市役所の傭医員を勤めていた私は、カイゼルの名によって直ちに軍医中尉を拝命して戦線に出でよ……との命令で、貨物列車――トラック――輜重車――食糧配給車という順序にリレーされながら一直線にヴェルダンの後方十基米の処に在る白樺の林の中に到着した。 その林というのは砲火に焼き埋められた大森林の残部で、そこにはヴェルダン要塞を攻囲している我が西部戦線、某軍団所属の衛生隊がキャムプを作っていて、夥しい衛生材料と、食糧なぞの巧みにカモフラージしたものが、離れ離れに山積して在った。 勿論、私は到着するがするまで、自分がどこに運ばれて行くものやら見当が附かなかった。市役所で渡された通過章に書いて在る訳のわからない符号や、数字によって、輸送指揮官に指令されるまにまに運ばれて来たので、そこがヴェルダンの後方の、死骸の大量蓄積場……なぞいうことは到着して後、暫くの間、夢にも知らずにいたのであった。ただ自分の居宿に宛てられた小さな天幕の外に立つと、直ぐ向うに見える地平線上に、敵か味方かわからないマグネシューム色の痛々しい光弾が、タラタラ、タラタラと入れ代り立代り撃ち上げられている。その青冷めたい光りに照し出される白樺の幹の、硝子じみた美しい輝き……その周囲に展開されている荒涼たる平地の起伏……それは村落も、小河も、池も、ベタ一面に撒布された死骸と一所に、隙間なく砲弾に耕され、焼き千切られている泥土と氷の荒野原……それが突然に大空から滴たり流れるマグネシューム光の下で、燐火の海のようにギラギラと眼界に浮かみ上っては又グウウ――ンと以前の闇黒の底に消え込んで行く凄愴とも、壮烈とも形容の出来ない光景を振り返って、身に沁み渡る寒気と一緒に戦慄し、茫然自失しているばかりであった。天幕の中に帰って制服のまま底冷えのする藁と毛布の中に埋まってからも、覚悟の前とはいいながら、自分は何という物凄い処に来たものであろう。いったい自分は何という処に、何しに来ているのであろう……といったような事をマンジリともせずに考えながら、あっちへ寝返り、こっちへ寝返りしているばかりであった。 しかし夜が明けると間もなく、程近いキャムプの中から起出して挨拶に来た私の部下の話で一切の合点が行ったように思った。 私の部下というのは、私とは正反対に風采の頗ぶる立派な、カイゼル髭をピンと跳ね上げた好男子の看護長で、その話ぶりは如何にも知ったか振りらしい気取った軍隊口調であった。 ――我が独逸軍は二月に入ると間もなくヴェルダンに向って最後の総攻撃を開始するらしい。目下新募集の軍隊と、新鋳の砲弾とを、続々と前線に輸送中である。そうして貴官……オルクス・クラデル中尉殿は、その来るべき総攻撃の際に於ける死傷者の始末を手伝うために、このキャムプに配属された、最終の一人に相違ないと思われる。 ――我が独逸軍の一切の輸送は必ず夜中に限られているようである。仏軍は、そうした我軍の輸送を妨げるために、昨夜も見た通り毎晩日が暮れかかると間もなくから、不規則な間隔をおいて、強力な光弾を打上げては、大空の暗黒の中に包まれた繋留気球に仕掛けた写真機で、独逸軍全線の後方を残る隈なく撮影しているらしい。僅かな行李の移動でも直ぐに発見されて、その方向に集中弾が飛んで来るので、輸送がナカナカ手間取っている。現に左手の二三基米の地平線上に、纔かに起伏している村落の廃墟には、数日前から二個大隊の工兵が、新しい大行李と一緒に停滞したまま動き得ないでいる状態である。 ――だからあの光弾の打上げられている方向がヴェルダンの要塞の位置で、愈々攻撃が始まったら、ここいらまでも砲弾が飛んで来ないとは限らない。 ――新しく募集した兵卒は戦争に慣れないから、死傷者が驚くべき数に達することは、今から十分に予想されている。云々。 コンナ話を聞かされている中に私は何となく横腹がブルブルと震え出して来た。否々決して寒さのためではなかった。五百米ばかり隔たった中央の大天幕の中に居る衛生隊司令官のワルデルゼイ軍医大佐の処へ挨拶に行って巨大な原油ストーブの傍に立ちながらもこのブルブルが続いていた。のみならずその司令官の六尺豊かの巨躯と、鬚だらけの獰猛な赤面を仰ぎながら、厳格、森儼を極めた新任の訓示を聞いている中にも、そのブルブルが一層烈しくなって、胸がムカムカして吐きそうな気持ちになって来たのには頗る閉口したものであったが、これは多分私が、戦地特有の神経病に早くも囚われかけていたせいであったろう。実際ソンナ一時的の神経障害が在り得ることを前以て知っていなければ、私はあの時にマラリヤと虎列剌が一所に来たと思って狼狽したかも知れないのであった。 しかしイザとなると私は、やはり神経障害的ではあったが、案外な勇気を振い起すことが出来た。零下十何度の殺人的寒気の中に汗がニジム程の元気さで腕一パイに立働く事が出来た。 その二月の何日であったか忘れたが、たしか総攻撃の始まる前日のことであった。私たちの居るキャムプまで巡視に来た衛生隊司令官のワルデルゼイ軍医大佐は、例の鬚だらけの獰猛な赤面を妙な恰好に笑い歪めながらコンナ予告をした。 「……クラデル博士。ちょっとこっちへ来て下さい。僕がコンナ話をした事は秘密にしておいてもらいたいですがね……ほかでもないですがね。大変に失礼な事を云うようじゃが、伯林に居られる時のような巧妙親切を極めた、君一流の手腕は、戦場では不必要と考えてもらいたい事です。こんな事を云うたら非常な不愉快を感じられるかも知れないが、それが戦場の慣わしと思って枉げて承服して頂きたいものです。その理由は遠からずわかるじゃろうが、イヨイヨとなったら、ほかの処の負傷はともかくも両脚の残っとる奴は構わんからドシドシ前線に送り返してもらわなくちゃ駄目ですなあ。戦線特有の神経障害で腰の抜けた奴は、手鍬か何かで容赦なく尻ベタをぶん殴ってみるんですなあ。それでも立たん奴は暫く氷った土の中へ放っておくことです。それ以上の念を入れる隙があったら、他の負傷者を手当てする事です。時と場合に依っては片目と右手だけ残っている奴でも戦線に並べなくちゃならん。ええですか。ことに今度のヴェルダン総攻撃は……まだいつ始まるかハッキリしないようですが……西部戦線、最後の荒療治ですからなあ。死んだ奴は魂だけでも塹壕に逐い返す覚悟でいないと間に合いませんぞ……ええですか……ハハハ……」 その時も私は妙に気持が重苦しくなって、胴震いが出て、吐気を催したものであったが……。 そうしてイヨイヨ総攻撃が始まった。
昨日までクローム色に晴れ渡っていた西の方の地平線が、一面に紅茶色の土煙に蔽われていることが、夜の明けるに連れてわかって来た。その下からふんだんに匐い上って来るブルンブルンブルンブルンという重苦しい、根強い、羽ばたきじみた地響を聞いていると、地球全体が一個の、巨大な甲虫に変化しているような感じがした。それに連れて西の空の紅茶色の雲が、見る見る中に分厚く、高層に、濃厚になって行くのであった。 その紅茶色の雲の中から併列して迸る仏軍の砲火の光りが太陽色にパッパッパッと飜って見える。空気と大地とが競争でその震動を、われわれの靴の底革の下へ、あとからあとから膨れ上らせて来る。それと同時に伝わって来る目にも見えず、耳にも聞えない無限の大霊の戦慄は、サーカスじみた驚嘆すべき低空飛行で、吾々の天幕を震撼して行く味方の飛行機すら打消し得ない。 その地殻のドン底から鬱積しては盛り上り、絶えては重なり合って来る轟音の層が作るリズムの継続は、ちょうど日本の東京のお祭りに奏せられる、あの悲しい、重々しい BAKA-BAYASHI のリズムに似ている……。
Ten Teretsuku Teretsukutsu Don Don……
……という風に……あの BAKA-BAYASHI の何億万倍か重々しくて物悲しい、宇宙一パイになる大きさの旋律が想像出来るであろうか……。 私は日本の東京に来て、はじめてあの BAKA-BAYASHI のリズムを聞いた時に、殆んど同時に、大勢の人ゴミ中でヴェルダン戦線の全神経の動揺を想起して戦慄した。あの時の通りの吐気が腸のドン底から湧き起って来るのをジッと我慢した。あの時から私の脊髄骨の空洞に沁み込んで消え残っている戦慄……血と、肉と、骨と、魂とを同時に粉砕し、嘲弄するところの鉄と、火と、コンクリートの BAKA-BAYASHI……地上最大の恐怖を描きあらわすところの最高度のノンセンスのオルケストラ……。 そのオルケストラの中から後送されて来る演奏済みの楽譜……死傷者の夥しさ。まだ日の暮れない中に半分、もしくは零になりかけている霊魂の呻吟が、私達の居る白樺の林の中から溢れ出して、私を無限の強迫観念の中に引包んでしまった。 中央の大キャムプと、その周囲を取巻く小キャムプは無論超満員で、溢れ出したものは遅く上って来た半欠けの月と零下二十度近い、霜の氷り付いた黒土原の上に、眼も遥かに投出されたままになっている。私も最初の中は数名の部下を指揮して、それぞれの手当に熱中していたが、終いには熱中のあまり助手と離れ離れになって、各自に何百人かの患者を受持って独断専行で片付けなければならない状態に陥った。否……ことによると私が手当てをした人数は何千人に上るかも知れない。あとからあとから無限の感じの中へ忘却して行ったのだから……。 戦後、我独逸軍の衛生隊の完備していたことは方々で耳にして来たものであるが、そんな話を聞く度毎に、私は身体が縮まる思いがした。全くこの時は非道かった。手を消毒する薬液は愚か、血を洗う水さえ取りに行く隙が無かったので、私の両手の指は真黒く乾固まった血の手袋のために、折曲りが利かなくなった。一つには非常な寒さのせいであったろう。兵士の横腹から出る生温い血が手の甲にドクドクと流れかかると、その傷口から臓腑の中へ、グッと両手を突込みたい衝動に馳られて仕様がない位であった。 初めて見る負傷兵もモノスゴかった。 片手や片足の無い者はチットモ珍らしくなかった。臓腑を横腹にブラ下げたまま発狂してゲラゲラ笑っている砲兵。右の顳から左の顳へ射抜かれて視神経を打切られたらしい、両眼をカッと見開いたまま生きていて「カアチャンカアチャン」と赤ん坊みたいな声で連呼している鬚だらけの歩兵曹長。下顎を削り飛ばされたまま眼をギョロギョロさして涙を流している輜重兵なぞ、われわれ外科医の智識から見ると、奇蹟としか思えない妖怪的な負傷兵の大群が、洪水のように戦線から逆流して来て、私の周囲に散らばり拡がって、めいめいそれぞれの苦痛を、隣同志、無関係にわめき立てる。又は歌を唄い、祈りを捧げ、故郷の親兄弟妻子と夢うつつに語り合う。ゴロゴロと咽喉を鳴らして息を引取る……伯林の酒場や、巴里の珈琲店や、倫敦の劇場と同じ地続きの平面上に在るとは思えない恐怖の世界……死人の世界よりもモット物すごい現実の悪夢世界……そんなものが在り得るならばあの時の光景がそうであったろう。 夜が深くなって来るに連れて……負傷兵が増加して来るに連れて……一層、仕事が困難になって来た。傷口を診察するタヨリになるのは蛍色の月の光りと、木の枝の三叉に結び付けて地に立てた懐中電燈の光りだけで、それすら電池が弱りかけているらしく光線がダンダンと赤茶気て来る。材料なんぞも殆んど欠乏してしまったので、私は独断で手近い天幕を切り裂いて繃帯にして、自分の身のまわりだけの負傷者を片付けて行った。戦争が烈しいために、万事の配給が困難に陥っているらしかった。
私がソンナ風に仕事に忙殺されている中に、白樺の林の奥の方から強力な携帯電燈の光りがギラリギラリと現われて、患者の間を匐いまわりながらダンダンと私の方へ近附いて来た。私は電池の切れかけている私の電燈に引較べて、その蓄電装置らしい冴え返った光芒を羨ましく思った。誰かこっちへ加勢に来るのではないかと期待しいしいチョイチョイその方向を見ていると、その光りの持主は思いがけない司令官のワルデルゼイ軍医大佐である事がわかった。 軍医大佐は足の踏む処も無く並び重なっている負傷兵の傷口を一々点検しているらしい恰好である。その傍には工兵らしい下士卒が入れ代り立代り近附いて来て、大佐が指さした負傷兵を手取り足取り、引立てながらどこかへ連れて行く様子である。 私は軍医大佐の熱心ぶりに感心してしまった。 昼間見た時の同大佐はヒンデンブルグ将軍を小型にしたような、イヤに傲岸、冷血な人間に見えた。今頃はズット後方の掩蔽部かキャムプの中で、どこかの配給車が持って来た葉巻でも吹かして納まり返っている事と思っていたが、まさかにこれ程の熱情を持って職務に精励していようとは思わなかった。 そうしたワルデルゼイ大佐の精励ぶりを見ると同時に私は、私の良心が、私の肺腔一パイに涙ぐましく張り切って来るのを感じた。そうしてイヨイヨ一生懸命になって、追い立てられるように、次から次へと負傷者の手当を急いでいたものであったが、間もなく私の間近に接近して来たワルデルゼイ軍医大佐は、私がタッタ今、腓を手当てしてやったばかりの将校候補生の繃帯を今一度解いて、念入りに検査し始めた。 それを見ると私は多少の不満を感じたものであった。 ……それ以上の手当は現在の状態では不可能です…… という答弁を、腹の中で用意しながら、掌の血糊をゴシゴシと揉み落しているうちに、果せる哉、軍医大佐の電燈がパッと私の方へ向けられた。 「……や。クラデル君ですか。ちょっとこっちへ来て下さい」 そう云う軍医大佐の語気には明らかに多少の毒気が含まれていた。しかし私は勇敢に軍医大佐の側に突立って敬礼した。 ワルデルゼイ軍医大佐は砲弾の穴の半分埋まっている斜面に寝かされている、まだウラ若い候補生の身体を電燈で指し示した。 「この小僧は眼が見えないと訴えているようですが真実ですか」 その候補生は鼻の下と腮に、黄金色の鬚が薄く、モジャモジャと生えかけている、女のような美少年であった。まだ兵卒の服を着ているところを見ると、戦線に出てから何か失策を仕出来したために進級が遅れたものらしい。顔から胸が惨酷たらしい鼻血と泥にまみれて、両手と、ズボンの破れから露出した膝小僧の皮が痛々しく擦り破れていたが、それでも店頭の蝋人形ソックリの青い大きな瞳を一パイに見開いて、鋼鉄色の大空を凝視していた。一心に私等の言葉を聞いているらしい赤ん坊のような表情であった。 その横顔を見ている中に私は少なからず心が動いた。私は生れ付きコンナ醜い恰好に出来ているために女性に愛せられる見込みもなく、男性にはイツモ軽蔑され勝ちで通って来たために、いつの間にか一種の片輪根性みたような性格に陥って来たものであろう。こうした美しい、若い男を見ると、いつも、理屈なしに親しくしてみたい……親切に世話をして遣りたいような盲目的な衝動に駈られて仕様がないのであった。 「ハイ。この候補生は前進の途中、後方から味方の弾丸に腓を射抜かれたのです。それで匐いながら後退して来る途中、眼の前の十数メートルの処で敵の曳火弾が炸裂したのだそうです。その時には奇蹟的に負傷はしなかったらしいですが、烈しい閃光に顔面を打たれた瞬間に視覚を失ってしまったらしいのです。明るいのと暗いのは判別出来ますが、そのほかの色はただ灰色の物体がモヤモヤと眼の前を動いているように思うだけで、銃の照準なぞは無論、出来ないと申しておりましたが……睫毛なぞも焼け縮れておりますようで……」 「ウム。それで貴官はドウ診断しましたかな」 「ハイ。多分戦場で陥り易い神経系統の一部の急性痲痺だろうと思いまして、出来るなら後退さして頂きたい考えでおります。時日が経過すれば自然と回復すると思いますから……視力の方が二頭腓脹筋の回復よりも遅れるかも知れませぬが……」 「ウム。成る程成る程」 と軍医大佐は頻りに首肯いていたが、その顔面筋肉には何ともいえない焦燥たしい憤懣の色が動揺するのを私は見逃さなかった。 大佐はそれから何か考え考え腰を曲めて、携帯電燈の射光を候補生の眼に向けた。私と同様に血塗れになった、拇指と食指で、真白に貧血している候補生の眼瞼を引っぱり開けた。繰返し繰返し電燈を点滅したり、候補生の上衣のボタンを引っくり返して、そこに縫い付けて在る姓名を読んだりしていたが、その中に突然、その候補生の窶れた、柔らかい横頬を平手で力一パイ……ピシャリッ……と喰らわせたのには驚いた。そうして今二つ三つ烈しい殴打を受けて、声も立て得ずに両手を顔に当てたまま、手足を縮め込んでいる候補生の軍服の襟首を右手でムズと掴みながら、 「立てッ……エエ。立てと云うに……立たんかッ……」 と大喝するのであった。 私は昨日の昼間のワルデルゼイ司令官の言葉を思い出した。それは、 ……死んだ奴は魂だけでも戦線へ逐い返せ! という宣言であったが、それ程の切羽つまった現在の戦況であるにしても、これは又、何という残酷な事をするのだろうと慄え上っていると、又も更に驚いた事には、その候補生が自分の膝を、泥と血だらけの両手に掴んで、美しい顔を歪めるだけ歪めて、絶大の苦痛を忍びながらヨタヨタと立上った事であった。 その悲惨そのものとも形容すべき候補生の不動の姿勢を、軍医大佐は怒気満面という態度で見下しながら宣告した。 「……ヨシ……俺に跟いて歩いて来い。骨が砕けていないから歩いて来られる筈だ。クラデル君……君も一緒に来てみたまえ。研究になるから……」 「……ハッ小官は今すこし負傷兵を片付けましてから……」 「まあいい。ほかの連中がどうにか片付けるじゃろう。……来てみたまえ。吾々軍医以外の独逸国民が誰も知らない戦争の裡面を見せて上げる。独逸軍の強い理由がわかる重大な秘密だ。君のような純情な軍医には一度、見せておく必要がある。……これは命令だ……」 「……ハッ……」 と答えて私は不動の姿勢を取った。 軍医大佐はそうした私の眼の前に、苦酸っぱいような、何ともいえない神秘的なような冷笑の幻影を残しながらパチンと携帯電燈の光りを消した。佩剣のをガチャリと背後に廻して、悠々と白樺の林の外へ歩き出した。 その背後から候補生が、絶大の苦痛に価する一歩一歩を引摺り始めた。夜目にも白々とした苦しそうな呼吸を、大地にハアハアと吐き落しながら……。たまらなくなった私が、何がなしにその背後から追附いて、その右腕を捉えた。自分の肩に引っかけて力を添えてやったが、私の背丈が低すぎるので、あまり力にならないらしかった。 「……ありがとう……御座います。クラデル様……」 候補生が大地に沁み入るような暗い、低い、痛々しい声で云った。白い水蒸気の息をホ――ッと月の光りの下に吐き棄てたがモウ泣いているらしかった。
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