それは天井の高い、五間四方ぐらいの部屋であった。幽雅な近代風のゴチック様式で、ゴブラン織の深紅の窓掛を絞った高い窓が、四方の壁にシンカンと並んでいた。 その窓と窓の間の壁面に、天井近くまで畳み上げられている夥しい棚という棚には、一面に、子供の人形が重なり合っているようである。和洋、男女、大小を問わず、裸体、半裸体、軽装、盛装の種類をつくして、世界中のあらゆる風俗を現わしているらしい抱き人形の一つ一つが皆、その大きく開いた眼で、あらぬ空間を眺めながら、この上もなく可愛らしい微笑を含んでいるようである。永遠に変らぬ空虚のイジラシサを競い合っているようである。 虎蔵は眼をパチパチさせた。瞼をゴシゴシとこすって瞳を定めた。 部屋の中央には土耳古更紗を蔽うた、巨大な丸卓子が置いてある。その上には、さながらに、それ等の人形たちが遊び戯れた遺跡であるかのように、色々な食器、豆のような玩具、花籠、小さな犬、猫、鼠、猿、小鼠のたぐいが、殆んど数限りなく、行儀のいい円陣や、方陣を作って並んでいる。その間に静止している巨大な甲虫、華麗な蝶々、実物大の鳩、雛子、木兎……。 又、その丸卓子の周囲には、路易王朝好みのお乳母車、華奢な籐椅子、花で飾った揺籠、カンガルー型のロッキングなぞが、メリー・ゴー・ラウンド式に排列されている……そんなもの一つ一つにも、それぞれ様々の微笑を含んだ人形が、ピエロ姿の行列を作ってブラ下がったり、振袖姿で枕を並べたり、海水着のまま、魚のようにビックリした瞳をして重なり合ったりしている。 その中央の高い、暗い、円天井から、淡紅色の絹布に包まれた海月型のシャンデリヤが酸漿のように吊り下っていたが、その絹地に柔らげられた、まぼろしのような光線が、部屋中の人形を、さながらに生きたお伽話のようにホノボノと、神秘めかしく照し出しているのであった。 虎蔵は、その光りを浴びたまま棒立ちになってしまった。鼻息さえもし得ないまま、そうした不可思議な光景を見まわしていた。 それは彼が夢にも予期していなかった光景であった。……否……彼が生れて初めて見る不可解な部屋であった。彼の頭脳では到底、理解出来そうにない人形ばかりの小宇宙……この上もなく美しい桃色の微笑の世界……その神秘と、平和にみちみちた永遠の空虚の中に、偶然に……真に偶然に迷い込んでいる彼自身の野獣ソックリの姿……。 彼は気もちが変テコになって来た。頭がガランドウになって、今にも眼がまわりそうに胸が悪くなって来た。 彼はヨロヨロと背後によろめいた……が……又も、ひとりでに立止った。そうして彼自身の浅猿しい姿を今更のように見まわしながら、何故ともわからない、長い長いふるえた溜息をしかけた。同時に、全身にビッショリと生汗を掻いているのに気が付いたが、そのうちに又、フト気が付いて、見るともなく丸卓子の向う側を見るとハッとした。頭の毛がザワザワと駈け出しかけて又止んだ。 丸卓子の向うの仄暗い右側には、黝ずんだ古代雛……又、左側には近代式の綺羅びやかな現代式のお姫様が、それぞれに赤い段々を作って飾り付けてある。その中央の特別に大きな、高い窓に近く、こればかりは本式らしい金モールと緋房を飾った紫緞子の寝台が置いてあって、女王様のお寝間じみた黄絹の帷帳が、やはり金モールと緋房ずくめの四角い天蓋から、滝の水のように流れ落ちている。その蔭に仄見えている白絹らしい掛布団から、半分ほど握り締めた左手の手首が覗いている。……それが、どうやら七八ツばかりの、生きた女の児の手首に見えるのであった。 その無心な可愛らしい手首を見ているうちに虎蔵はやっと吾に帰った。同時に、生汗に冷え切った全身がゾクゾクとして来た。……この部屋の全体が含んでいる不可思議な意味と、この部屋の主人公の正体が、同時にわかって来たような気がしたので……。
虎蔵は自分でも気付かないうちに身を屈めていた。床の上の華麗な露西亜絨氈の上に腹匍いになって、ソロソロとその寝台の脚下に忍び寄って行った。何故ともわからない焦燥を感じながら……。 ……それはこの部屋の女主人公と思われる緞子の寝台の主が、果して自分の推量通りに生きた女の児に相違ないか……それとも、やはり、ほかの人形と同様の飾り物に過ぎないかどうかを、是非とも一度たしかめてみたい……というような彼一流の無智な、盲目的な好奇心に、彼自身が囚われていたせいかも知れない。又は現在、極度に鋭敏になっている彼の嗅覚が、その寝台の方向からほのめいて来るチョコレートのような、牛乳のような、甘い甘い芳香に誘われたせいであったかも知れないが……。 彼は丸卓子の蔭を、寝台の一間ばかり手前まで匍って来ると、ソ――ッと顔を上げてみた。思ったよりも薄暗い、寝台の中に瞳を凝らした。 彼は今更のように固唾を嚥んだ。 それは夥しい、美しい黄金色の渦巻毛を、大きな白麻の西洋枕の上に横たえている西洋人の女の児であった。年頃はよくわからないが、恐らくこの部屋中のどの人形よりも端麗な、神々しい眼鼻立ちであったろう。額と鼻筋のすきとおった……眉の長い、睫の濃い、花びらのように頬を紅くした寝顔が、あどけなく開いた小さな唇から、キレイな乳歯をあらわしながら、こころもちこっち向きに傾いているのであった。 その枕元には萎れた秋草の花束と、二三冊の絵本と、明日のおめざらしい西洋菓子が二つ、白紙に包んで置いてあった。そうしてその寝台の裾の床の上には、少女よりも心持ち大きいかと思われる棕梠の毛製の熊が一匹、少女の眠りを守護るかのように、黒い、ビックリした瞳を見開きながら、寝台に倚りかかって坐っているのであった。 ……人形じゃねえぞ……これは……。 彼は息を殺して固くなった。 彼は脚下の熊とおなじように、両眼をマン丸く見開きながら、なおも一心に寝台の中を覗き込んだ。今にも眼の前の少女が大きな寝息をしそうに思われたので……そうしてパッチリと青い眼を見開いて、彼を見上げそうな気がしたので……。 部屋の中の何もかもが、彼の耳の中でシンカンと静まり返った。 少女の寝息とも……牛乳の香気とも……萎れた花の吐息ともつかぬ、なつかしい、甘ったるい匂いが、又もホノボノと黄絹の帷帳の中から迷い出して来た。
……突然……彼はブルブルと身震いをした。 この一箇月の間じゅう、彼の全身に渦巻き、みちみちて来たアラユル戦慄的なものが、その甘ったるい芳香の中で、一斉に喚び醒まされたのであった。その中からモウ一つ更に、極度の惨烈さにまで尖鋭化され、変態化され、猟奇化されて来た或るものが、トテモ抵抗出来そうにない、最後的の威力をもってモリモリと爆発しかけて来たのであった。 ……コンナ機会は二度とねえんだぞ……しかも相手は毛唐の娘じゃないか……構う事はねえ……やっつけろ……やっつけろ……。 と絶叫しながら……。 彼は今一度ブルブルと身震いをした。鮮やかな空色と、血紅色と、黒色の稜角を、花型に織り出した露西亜絨氈の一角に、泥足のままスックリと立ち上った。右手に持ったマキリを赤い光線に透かしてみると、眼と口を真白く見開いて、声のない高笑いを笑いながら、おもむろに仄暗い丸天井を仰ぎ見た。 それはさながらに鉄の檻を出た狂人の表情であった。 彼は何の躊躇もなく悠々と寝台に近寄って、薄い黄絹を引き捲くった。白いレエスに包まれている少女の、透きとおった首筋の向う側に、イキナリ右手のマキリを差し廻わしながら、左手でソロソロと緞子の羽根布団をめくった。同時にモウ一度、彼独特の物凄い笑いを、顔面に痙攣らせた。 「……エヘ……エヘ……声を立てる間はねえんだよ。ええかねお嬢さん。温柔しく夢を見ているんだよ……ウフウフ……」 それから返り血を避けるべく、羽根布団を引き上げながら、すこしばかり身を背向けた。……すると……そうした気持ちにふさわしくそこいら中がモウ一度、彼の耳の中でシンカンとなった。
……その一刹那であった。 少女の枕元に当る大きな硝子窓の向うを、何かしら青白いものが、一直線にスウーと横切って行った。 彼はハッとしてその方向を見た。少女の首筋からマキリを遠ざけながら首を伸ばした。 ……今まで気が付かなかったが、薄い黄絹の帷越しによく見ると、窓の外は一パイの星空であった。今の青白い直線は、その星の中の一つが飛び失せたものに相違なかった。それに連れて……やはり今まで気が付かなかった事であるが、どこか遠く遠くの海岸に打ち寄せるらしい深夜の潮の音が、微かに微かに硝子窓越しに聞えて来るのであった。それは、おおかた彼自身が、知らず知らずのうちに高い処へ来ていたせいであったろう……。 彼は緊張し切った態度のまま、その音に耳を澄ました。それから、やはりシッカリした身構えのうちに少女の寝顔と、右手のマキリを見比べた。 部屋の中に漾うている桃色の光りを白眼みまわした。 その光りが淀ませている薄赤い暗がりの四方八方から、彼に微笑みかけている、あらゆる愛くるしい瞳と、唇の一つ一つを念入りに眺めまわしているうちに、又もギックリと振り返って、窓の外の暗黒を凝視した。 ……その時に又一つ……。 ……ハッキリと星が飛んだ……。 ……銀色の尾を細長く引いて……。 彼は愕然となった。魘えたゴリラのように身構えをし直して、少女の顔を振り返った。 ……この深夜に……開放された部屋の中で……タッタ一人眠っている西洋人の娘……。 ……物騒な北海道の山の中で、可愛い娘にコンナ事をさせている毛唐の大富豪……。 ……これは人間の心か……。 ……神様の心か……。 そんなような超常識的な常識……犯罪者特有の低能な、ヒネクレた理智が、一時に彼の中に蘇ったのであった。白熱化した彼の慾情をみるみる氷点下に冷却し初めたのであった。云い知れぬ恐怖の旋風となって、彼の足の下から襲いかかったのであった。 ……俺は……俺は現在、何かしらスバラシイ陥穽の中に誘い込まれているのじゃないか……。 ……コンナ大邸宅の中にタッタ一つ灯されている赤い灯……。 ……締りのない扉……。 ……数限りない人形の部屋……。 ……その中にタッタ一人眠っている生きた人形のような美しい少女……。 ……思いも付かない、おそろしい西洋人の係蹄……???……。 彼の膝頭が我れ知らずガクガクと動いた。歯の根がカチカチと鳴り出した。ジリジリと後退りをしながら、薄い黄絹のカアテンを、腫れ物に触るようにして潜り出た。一足飛びに大卓子をめぐって部屋の外へ飛び出した。 ハヤテのように石の階段を馳け降りて、外廊下から芝生の上に飛び出した。と、思った瞬間に、何かしら人間らしいものから片足を抄い上げられたと思うと、モンドリ打って芝生の上にタタキ付けられた。 ……息が詰まったかと思う腰の痛さを、頭の中心まで泌み渡らせながら彼は、咄嗟に半身を起してマキリを構えた。眼の前、一間ばかり向うの闇の中に跼まっている白い物体に対って身構えた。 ……破滅……???……。 と心の中で魘えながら……。 しかし白いものは動かなかった。依然として外廊下の石柱の根元に跼まっているばかりでなく、その白い、フックリした固まりの各部分が、すこしずつユラユラと揺れ合っているのが、星明りに透かして見えるようである。それに連れて何ともいえない品のいい菊の花の芳香がスッキリと闇を透して、彼の周囲に慕い寄って来た。 彼はマキリを取落した。……三度、呆然となった。 何から何まで馬鹿にされ、オモチャにされつくしたまま、ミジメに投げ出されている彼自身を、ヒイヤリとした芝生の上に発見して、泣く事も、笑う事も出来ない気持ちになってしまった。極度にタタキ付けられた選手のように、スッカリ混乱してしまったまま……両脚を投げ出して、後手を突いたまま……腹立たしい菊の花の芳香を、いつまでもいつまでも呼吸していた。
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