二人は、それで安心して道行をきめ込み、一旦、山陰地方の乗合会社に身を潜めたが、二千円の金を費い果すと大胆にも、昨、昭和八年の夏、又もや東京へ舞い戻って来て、小梅に同棲し、姦夫の戸若は三徳材木店専属のトラックの運転手となっていた。 そこで、それとなく様子を聞いてみると、蟹口運転手は、それ以来スッカリ自棄気味となり、大酒を飲み習い、誰、彼の見境いなく喧嘩を吹っかけるようになっている。何故だかわからないが戸若という若造を見付けたら直ぐに知らしてくれ。ブチ殺してくれるからと云っている……という運転手仲間の噂話なので、戸若はモウすっかり震え上ってしまった。すこし旅費が出来たら直ぐに都落ちをするつもりでいた。 そのうちに今年の春から幾らかの貯金が出来たので、イヨイヨどこかへ飛ぶつもりになったが、そのお名残りといったような気持で、ツイこの間の三月の末コッソリ蟹口の家の様子を覗きに行ってみると、裏庭の野菜や菊畑、屋根の南瓜の蔓も枯れ枯れになって、ペンペン草が蓬々と生えている廃屋の中に、泥酔した蟹口がグーグー睡っていた。その瘠せ衰えた髯だらけの恩人の姿を見た時に戸若は……ああ……済まない事をした……と思った。それ以来、後悔の念が高まるばかりで、東京を離れるのさえ気が済まないような気がしていた。
そこへ昨夜、支配人から京浜国道の材木運搬を命ぜられて午後の十時から二回往復したが、最初は子安の近くを通るのが恐ろしくて仕様がなかった。もしや蟹口のトラックに行き合いはしないだろうかと思ってヒヤヒヤしいしい運転して行くところへ、向うから来たトラックがヘッド・ライトを消したから、こちらも直ぐに消したが、その消した瞬間に、蟹口の頑固な顎と、物凄く光る眼が、真正面に見えたのでゾッとしてスレ違った。 よもや気付かれはしまいと思ったが、思い出すたんびに頭の毛がザワザワして仕様がなかったので一旦、材木を積んで深川へ帰ってから、一杯酒を飲んで、モウ一度、往復するために、手拭で下顎を覆面して深夜の京浜国道を下った。 川崎の町あかりの中から見おぼえのある子安農場のトラックが出て来るのを見た時には、思わず緊張して鳥打帽を眉深く冠り直した。思い切って全速力を出した。ヘッド・ライトを消したまま猛然とスピードをかけて来るトラックの横をこちらはヘッド・ライトを消さないまま一気に駆け抜けようとしたが、その刹那に鬼のような形相に変った蟹口運転手が、思い切りハンドルを右に廻している姿がチラリと見えたと思う間もなく、轟然と衝突してしまった。こちらのトラックの方が新しくて頑固だったので、相手のヤワな車を引っかけて引ずり倒したまま二十米突ほど前進して停車したが、停車すると同時に相手のトラックのデッキに並んだ牛乳が大波のように舞い上って、そこいら中に滝のように降り注いだ事だけを夢のように記憶している。 今朝になって正気付いて、病院から警察へ連れて来られて、表のタタキに茣蓙を被せたまま置いてある、あの蟹口運転手のメチャメチャになった妖怪じみた死骸を見た瞬間に……壊れた額から飛出した二つの眼球が私を白眼んでいるのに気付いた時に私はモウ一度気が遠くなりかけました。 蟹口運転手は私という事に気付いていたに違いありません。私と刺違えるつもりで、あんな事をしたに違いないと思います。 私は何もかも白状します。どんな罪でも受けます。そうして蟹口さんの怨みを晴らしてもらわなければトテも恐ろしくてたまりません。 妻のツル子にもそう云って下さい。二人は同罪だから罪ほろぼしをしろと云って下さい。……云々というのが戸若運転手の告白であった。 流石に事に慣れた川崎署員たちも、こうした告白は珍らしかったらしい。戸若運転手が告白を終って頸垂れてしまってからも、四人の警官が互いに顔を見合わせてシインとしていた。しかしその中に巡査部長が、何かしら憂鬱そうな眼を据えながら戸若の繃帯頭を凝視した。 「ウムよく白状した。お前の後悔は認めてやるぞ」 戸若は又一つ頭を下げた。シクシクとシャクリ上げ初めた。 「私が悪う御座いました」 最前から手持無沙汰でいた交通巡査がロイド眼鏡をかけ直した。帳面をヒネリながら問うた。 「ウム。それはそれでいいとして、衝突の原因はお前がライトを消さなかったせいじゃない。蟹口が故意に衝突さしたと云うんだな」 「ヘイ。そうなんで……思い出してもゾッとします」 「フーム。しかし、そいつは何ともわからんな。イクラ怨みが在るにしても、そんな無茶をやるのは……」 「イイエ……」 戸若は昂奮して立上った。自分の告白の神聖さを侮辱されたように眼の色を変えて、口を尖んがらした。 「……そ……それに違いないんです。……でなけあコンナ事まで白状しやしません。ぶつかったトタンに私は……俺が悪かったッ……と怒鳴った位だったんです。ハタの奴には聞こえなかったかも知れませんけど……間違いありません」 と云ううちに額の傷が昂奮のために破れたらしい。繃帯の上に新しい血が真赤にニジミ出した。 交通巡査も二人の刑事も巡査部長と同様に憂鬱な顔になってしまった。相手の見幕の森厳さに圧倒されたかのように……。 「つい。まあええ。もちっと調べてみんとわからん」 交通巡査は幾分意地になったような語気で巡査部長に向って頭を下げた。 「ちょっと蟹口の助手をしていた山口猿夫という小僧の容態を見て来ます。口が利けたら審問してみたいですから……」 衝突現場附近の烏頭外科医院に入院していた乳搾少年、山口猿夫は左脚に巨大な石膏型をはめたまま意識を回復していた。枕頭には妹田農場の牧場主任と園芸主任が突立ってヒソヒソ話をしていた。 警官の姿を見た二人が別室に退いたアトで、交通巡査から委細の話を聞いた山口少年は、眼を光らして頭を左右に振った。 「違います。そんな事があるもんですか。僕は蟹口さんの近所に居ますし、いつも牛乳車に一所に乗って行くんで、よく知っています。そんな事があったかも知れませんが蟹口さんは一口もそんな話をしませんでした。……しかし……蟹口さんがこの頃スッカリ自棄になっていた事は事実です。自分の子供のように可愛がっていた野菜や植木にも水を遣らないで、お酒ばっかり飲んでいたんです。短気で喧嘩ばかりしていて、いつも困っていたんです。途中で降りて酒場で一杯引っかけて来ると一層気が荒くなって、運転が乱暴になっちゃってトテモ恐ろしかったんです。……この頃、×締りがズボラになったんで……御免なさい。蟹口さんが、そう云ったんですから……ゆるくなったんで礼儀も何も知らない土百姓みたいな運転手が、京浜国道をノサバリやがって仕様がねえ。こちらでチャンとヘッド・ライトを消してやっても挨拶も何もしねえで通り抜ける奴が多いんだ。××の奴等あ……御免なさい……そう云ったんですから……別嬪の乗っているエロ・ハイヤばかり××××××トラックなんか見向きもしねえからコンナ事になるんだ。今に見てろ。挨拶しねえ車に真正面からブッ付けてくれるから……って云うんです。僕、恐ろしかったんですけど、まさかに、そんな無茶な事をしやしめえと思ってたら今夜は特別に酔払っていたんでしょう。ホントウに遣っつけたんです。クソッタレ……って云ううちにハンドルを曲げちゃったんです……。 僕、ハッと思った拍子に夢中で外へ飛出したんですけど四十か五十ぐらい出していたもんですから飛び降りるなりタタキ付けられちゃったんです。相手の車ですか……見えるものですか。ライトが眩しくってトラックだかハイヤだかわかりゃしません。……ヘエーッ。おどろいたなあ。蟹口さん死んだんですか。無茶だなあ……」
●表記について
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