そんな次第で私はその晩とうとう睡眠薬を服まなければ睡られないような惨憺たる神経状態に陥ったが、後で聞いてみたら姉と妻も同様であったと言う。私から委細の話を聞いた二人は、夜が明けると直ぐに姫草ユリ子の可憐な肩の上に落ちかかるであろう恐ろしい運命が、如何に止むを得ない、同時に恐ろしいものであるかを想像しながら昂奮の余り、ロクロク睡らずに夜を明かしたそうである。松子はウトウトしたかと思うと高手小手に縛り上げられて病院を引摺り出される姫草ユリ子の姿をアリアリと見たりしてゾッとして眼が醒めたという。姉なぞは御丁寧にも、絞首台にブラ下っている彼女の死に顔までマザマザと見届けて、何度も何度も魘されながら松子にユリ起されたと言うから相当なものであろう。 それでも夜が明けてからの計画は百パーセントに都合よく運んだ。妻の松子が何喰わぬ顔で病院に来ると直ぐに、姫草看護婦をソッと薬局に呼び込んで、大粒のアレキサンドリアを彼女の手に握らせた態度はきわめて自然なものであった。さすがのユリ子も毛頭疑う様子もなく、衷心から嬉しそうにペコペコして私の処まで飛んで来てお礼を言ったくらいであったが、その時に私が平常の通りのニコニコ顔で鷹揚にうなずいた態度も、いかにも名優気取であったと言う。後で姉からさんざん冷やかされたものであった。 しかし彼女……姫草ユリ子が、十時の開診時間を気にしながら大急ぎで着物を着かえて、イソイソと病院の玄関を出て行く背後姿を見送った姉と、妻と、私の態度が、ほかの看護婦や患者の眼に付くくらい緊張していた。まるで高貴なお方のお出ましでも見送るかのように棒のように強直していたために、アトから何事ですかと皆から尋ねられたのは明らかに失態であった。況んや姉と妻は、セグリ出て来る涙を隠すべく、慌てて洗面所へ逃げ込んだと言うのだから、滑稽を通り越して何の事だかわからない。 姫草ユリ子はその儘帰って来なかった。 姉と妻と私は、その一日中、今更のように魘えた蒼白い顔を時々見交していたものであったが、その晩一晩置いて翌る朝の八時頃、隣家の田宮特高課長の処から、尋常一年生の坊ちゃんが、私を迎いに来てくれたから、大ビクビクで着物を着換えて行ってみると、田宮氏は一昨夜の通りの褞袍姿で、横浜港内を見晴らした二階の客室に待っていた。私の顔を見ると妙に赤面したニコニコ顔で、熱い紅茶なぞをすすめてくれたが、昨日よりもズット磊落な調子で、投げ出したように言うのであった。 「あれは赤ではありませんよ」 「ヘエ……」 と私は少々面喰って眼をパチパチさせながら坐り直した。 「折角のお骨折りでしたがね。取り調べてみると赤の痕跡もありませんよ。……尤も郷里は裕福というお話でしたが、電話と電報と両方で問い合わせたところによりますと、実家は裕福どころか、赤貧洗うが如き状態だそうです。何でも直ぐの兄に当る二十七、八になる一人息子が、家土蔵をなくするほどの道楽をした揚句、東京で一旗上げると言って飛び出した切り、行方を晦ましているそうで、年老った両親は誰も構い手がないままに、喰うや喰わずの状態でウロウロしているそうです。勿論あの女……何とか言いましたね……そうそうユリ子からも一文も来ないそうで、お話の奈良漬の一件や何かも彼女の虚構らしいのです。姫草ユリ子という名前も本名ではないので、両親の苗字は堀というのだそうです。慶応の病院へ入る時に自分の友人の妹の戸籍謄本を使って、年齢を誤魔化して入ったと言うのですがね。本当の名前はユミ子というのですが、その堀ユミ子が十九の年に、兄の跡を逐うて故郷を飛び出してからモウ六年になると言うのですから、今年十九という姫草の年齢も出鱈目でしょう。自分では二十三だと頑張っていましたがね。むろん女学校なんか出ていないと言う報告ですから、ドコまでインチキだか底の知れない女ですよアレは……」 「ヘエ。全然赤じゃないんですね」 「赤の連絡は絶対にありません。随分手厳しく調べたつもりですが」 「そうするとあの女は、つまり何ですか」 「それがですね。エヘン。それがです。つまるところあの女は一個の可哀そうな女に過ぎないのです。貴方がたの御親切衷心から感激しているのですね。一生を臼杵病院で暮したいと言っているのです。臼杵家の人達に疑われるくらいなら私、舌を噛んで死んでしまいますとオイオイ泣きながら言うのですからね」 「ヘエー。ほんとうですか」 「ほんとうですとも。ハハハ。けさ十時頃までに迎えに来て下さい。単に赤の嫌疑で引張ったのだが、その嫌疑が晴れたから釈放するのだ。気の毒だった……とだけ言い聞かせて、ほかの事は何も言わずに、お引き渡ししますから……臼杵先生も十分にお前を信用してお出でになるのだから、あんまり虚構を吐かないように……ぐらいの事は説諭して遣ってもいいです。とにかく可哀相な女ですから、末永く置いて遣って下さい」 「……ヘエエ。妙ですね。それじゃあの女は何の必要があって、あんな人騒がせな出鱈目を創作して、吾々に恥を掻かせたんでしょう。根も葉もない事を……」 「ええ。それはですね。その点も残らず取り調べてみましたが、要するにあの娘のつまらない性癖らしいのです。山出しの女中が自分の郷里の自慢をする程度のものらしいので、別に犯罪を構成するほどの問題じゃありません。それ以上はどうも個人の秘密に亙っておりますので取り調べかねるのですが。ハハハ。とにかく宝石を一つ御損かけてすみませんでした。どうか末永く可愛がって置いて遣って下さい。可哀相な女ですから……僕はこれから出勤しますから失礼します」 鈍感な私は、こうした田宮氏の態度から何事も読み出し得なかった。何の気も付かない阿呆みたいな恰好で追払われながら引き退って来た。そのままこの事を姉と妻に話して聞かせると、二人もまたいい気なもので凱歌を揚げて喜んだ。 「ソレ御覧なさい。言わない事じゃない」 「言わない事じゃないって、馬鹿……何とも言やしないじゃないか。最初から……」 「いいえ。私そう思ったのよ。姫草さんに限って赤なんかじゃないと思ったんですけど、貴方が余計な事をなさるもんだから……」 「何が余計な事だ。些くとも姫草が虚構吐きだった事がハッキリわかったじゃないか……」 「でもまあよかったわねえ。何でもなくて……タッタ今お姉様とお話していたのよ。姫草さんが万一無事に帰って来たら、暇を出そうか出すまいかってね。いろいろ話し合ってみた揚句、いくら何でも可哀相ですから、貴方にお願いして置いて頂こうじゃないのって……そう言っていたとこよ。……まあ。よかったわねえ。うちのマスコット……私たち二人で直ぐに迎えに行って来ますわ。ね……いいでしょう」 二人はそれから威勢よく自動車に乗って出かけた。私に朝飯を喰わせる事も忘れたまま……。 ユリ子は留置所の前の廊下で姉の胸に取り縋ったそうである。五つ六つの子供のように、 「もうしません、もうしません、もうしません」 と泣き叫んで身もだえするので二人ながら弱ったそうであるが、それほどに取り調べが峻烈だったかと思うと、姉も妻も暗涙を催したと言う。 それから三人一緒に自動車で帰って来たが、ユリ子の襟首からは昨日の朝のお化粧がアトカタもなく消え失せていたので、姉と妻とで湯に入れて遣ったり、下着を着かえさせたりして、まるで死んだ人間が生き返ったような騒ぎをした後に、やっと私と一緒に朝の食事にありつかせたが、ユリ子はただ、 「すみません、すみません」 と繰り返し繰り返し泣くばっかりで飯もロクロク咽喉に通らないようであった。 ところが彼女……姫草ユリ子……もしくは堀ユミ子の性格は、どこまで奇妙不可思議に出来上っているのであろう。 わざわざ出勤を遅らせた私が、玄関横の客間に彼女を坐らせていろいろ取り調べの模様を聞いてみると……どうであろう。その取り調べの内容なるものが実に意外にもビックリにも、お話にならないのであった。 スッカリ化の皮を剥がれてしまって、見る影もなく悄然となった彼女の、涙ながらの話によると、伊勢崎署に於ける警官諸君の、彼女に対する訊問ぶりは峻烈どころの騒ぎではなかった。聞いている姉と松子が座に堪えられなくなったほどに甘ったるい、言語道断なものであった状態を、彼女はシャクリ上げシャクリ上げしながら口惜しそうに説明し始めたのであった。巨大な鉄火鉢のカンカン起った署長室で、平服の田宮特高課長と差向いで話した時の室内の光景から、何度も何度も炭火の跳ねたところから、田宮課長の腕時計の音までも、真に迫って話すのであった。 しかし私はこの時に限ってチットモ驚かなかった。 私は、そんな風な話を平気で進めながら、次第次第に昂奮して、雄弁になって来る彼女の表情をジイット凝視ているうちに、彼女の眼付きの中に一種異様な美しい光が、次第次第に輝き現われて来るのを発見した。それは精神異常者の昂奮時によく見受けるところの純真以上に高潮した純真さ、妖美とも凄艶とも何とも形容の出来ない、色情感にみちみちた魅惑的な情欲の光であった。そうした彼女の眼の光を見守っているうちに、鈍感な私にも一切のウラオモテが次第次第に夜の明けるように首肯されて来た。彼女の不可思議な脳髄の作用によって描きあらわされて来た今日までの複雑混沌を極めた出来事のドン底から、実に平凡な、簡単明瞭な真実が、見え透いて来たのであった。 性急な私は彼女の話の最中に、便所に行く振りをして、ソッと茶の間に来た。そこで真赤になって苦笑している妻の松子に耳打ちして、病院に彼女と一緒に寝起きしている看護婦を大至急で呼び寄せて、ユリ子に関する或る秘密を問い訊してみた。 呼ばれて来たのは田舎から出て来たままの山内という看護婦であった。何処までも正直な忠実な、いつもオドオドキョロキョロしている種類の女であったが、彼女は私たち三人の前で、真赤な両手を膝の上にキチンと重ねながら、柔道選手か何ぞのように眼を据えて答えた。姫草に怨みでもあるかのように……。 「ハイ。姫草さんの月経来潮は正確で御座いました。毎月大抵、月の初めの四日か五日頃です。わたくし、いつも洗濯をさせられますので、よく存じております」 これを聞いた私は一も二もなく立ち上って、洋服に着かえた。何もかも放ったらかしたまま自動車を飛ばして、県の特高課に乗り込んで、出勤したばかりの田宮課長に面会した。遠慮も会釈も抜きにして述べ立てた。 「田宮さん。やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子と言う女は、卵巣性か、月経性かどちらかわかりませんが、とにかく生理的の憂鬱症[#ルビの「デブレッション」はママ]から来る一種の発作的精神異常者なのです。あの女が一身上の不安を感じたり、とんでもない虚栄心を起して、事実無根の事を喋舌りまわったりするのが、いつも月経前の二、三日の間に限られている理由もやっとわかりました。僕の日記を引っくり返してみれば一目瞭然です」 「ハハア。そうでしたか。実は私の方でも経験上、そんな事ではないか知らんと疑ってもみましたが、一向、要領を得ませんでしたので……しかしどうしてソンナ事実をお調べになりましたか」 「……ところでこれは、お互いに名誉に関する事ですから御腹蔵なくお話下さらんと困りますが、昨晩、お取り調べの際にあの女は、何か僕の事に就いて話はしませんでしたか」 さすがに物慣れた田宮氏も、この質問を聞いた時には真赤になってしまった。 「アハハハ。わかりましたか……貴方の処に帰ってから白状しましたか」 「イヤイヤ。そんな事はミジンも申しませんでしたが、その代りに貴方のお取り調べの御親切だった模様を喋舌りました。実に念入りな、真に迫った説明付きで……ですからこれは怪しいと思いますと、直ぐに今朝からのお話を思い出しまして、ジッとしておられなくなりましたから飛んで参りました。非道い奴です。あの女は……」 イヨイヨ真赤になった田宮氏は制服のまま棒立ちになってしまった。 「イヤ。よく御腹蔵なくお話下すった。それならばコチラからも御参考までにお話しますが、君は十月の……何日頃でしたか。午後になって箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察しに行かれましたか」 「ええ。行きました。石油会社の支配人を……ラルサンという老人です」 「その時にあの女を連れて行かれましたか」 「行くもんですか。一人で行ったのです」 「成る程。それでユリ子はお留守中、在院していたでしょうか」 「……サア……いたはずですが……連れて行かないのですから……」 「ところがユリ子は、その日の午後には病院にいなかったそうです。昨夜、君の病院の看護婦に電話で問合わせてみたのですが、何でも君が出かけられると間もなく横浜駅から自動電話がかかって、直ぐに身支度をして横浜駅に来いと命ぜられたそうですが……」 「ヘエ。驚きましたな。あの女は少々電話マニアの気味があるのです。よく電話を応用して虚構を吐きます。そんな電話が実際にかかっているように受け答えするらしいのです」 「とにかくソンナ訳でユリ子は、大急ぎでお化粧をして、盛装を凝らして病院を出て行ったそうです」 「プッ。馬鹿な……盛装の看護婦なんか連れて診察に行けるもんじゃありません」 「そうでしょう。私もその話を聞いた時に、少々おかしいと思いました。看護婦を連れて行く必要があるかないかは病院を出られる時からわかっているはずですからね」 「第一、そんな疑わしい連れ出し方はしませんよ。ハハハ」 「ハハハ。しかしその時のお話を随分詳しく伺いましたよ。まぼろしの谷とか何とか言う素晴らしい浴場がそのホテルの中に在るそうですがね。行った事はありませんが……」 「僕は聞いた事もありません。そのホテルでラルサンという毛唐と一緒に食事はしましたがね。まだいるはずですから聞いて御覧になればわかりますが、かなりの神経衰弱に中耳炎を起しておりましたから、鼓膜切解をして置きましたが……」 「そうですか……そのまぼろしの何とか言う湯の中の話なんかトテも素敵でしたよ。青黒い岩の間に浮いている二人の姿が、天井の鏡に映って、ちょうど桃色の金魚のように見えたって言いましたよ……ハハハハ……」 「馬鹿馬鹿しい。いつ行ったんだろう」 「一人で行くはずはないですがね」 「むろんですとも……呆れた奴だ」 「どうも怪しからんですね」 「怪しからんです……実は今朝、貴官から、いつまでも可愛がって置いて遣るように御訓戒を受けましたが、そんな風に人の名誉に拘わる事を吐きやがるようじゃ勘弁出来ません。これから直ぐにタタキ出してしまいますから、その事を御了解願いに参りましたのですが」 「イヤイヤ。赤面の到りです。謹んでお詫び致します。どうか直ぐに逐い出して下さい。怪しからん話です」 「怪しからんぐらいじゃありません。私の不注意からとんだ御迷惑を……」 「しかしとんでもない奴があれば在るものですな。初めてですよ。あんなのは……」 「そうですかねえ。あんなのは珍しいですかねえ。貴官方でも……」 「所謂、貴婦人とか何とか言う連中の中には、あの程度のものがザラにいるでしょうが、犯罪を構成しないから吾々の手にかからないのでしょうな」 「それともモット虚構が上手なのか……」 「それもありましょう。つまり一種の妄想狂とでも言うのでしょうな。自分の実家が巨万の富豪で、自分が天才的の看護婦で、絶世の美人で、どんな男でも自分の魅力に参らない者はない。いろんな地位あり名望ある人々から、直ぐにどうかされてしまう……と言う事を事実であるかのように妄想して、その妄想を他人に信じさせるのを何よりの楽しみにしている種類の女でしょうな。一昨夜のお話に出た、子供を生んだという事実なんかも、彼女自身の口から出たものとすれば事実じゃないかも知れませんね。事によると彼女はまだ処女かも知れませんぜ……ハッハッ……」 「アハハハハ。イヤ。非道い目に会いました。どうかよろしく……」 「さようなら……」 そう言って別れた帰りがけに私は、彼女の身元引受人になっている下谷の伯母の処へ電報を打った。世にも馬鹿馬鹿しい長たらしい夢から醒めたように思いながら……それでも彼女の伯母さんなる人物が、真実にいるのか知らんと疑いながら……。
彼女の伯母さんと言う髪結い職の婦人は、早くもその日の夕方にノコノコと私の自宅へ遣って来た。赤々と肥った四十恰好の、見るからに元気そうな櫛巻頭に小ザッパリとした木綿着物で、挨拶をする精力的な声が、近所近辺に鳴り響いた。 「……まああ……呆れた娘ですわねえ。ほんとに……いいえ。私はあの娘の伯母でも何でもないんですよ。これでもお江戸のまん中あたりで生まれたんですからね。へへへ……あたしが先立って、あの大学の耳鼻科に入って脳膜炎の手術をして頂いた時に、あの娘さんに親身も及ばぬくらい世話になったもんですからね。それが縁になってツイ転がり込まれちゃったんですの。伯母さん伯母さんて懐かれるもんですから、仕方なしに身元引受人になっているんですがね。……いいえ。それがねえ。あの娘がいつまでもいつまでも私の家にいると近所の若い者が五月蠅くて困るんですよ。あの娘はホントに何て言うんでしょうねえ。妙な娘で御座んしてね。私の家に来てから二、三日と経たないうちに近所の若い衆からワイワイ騒がれるんですからね。まるで魔法使いみたいなんですよ。ですから、早く何処かへ行って頂戴。引受人にでも何でもなったげるからってね。そう言って追い出したんですけど……」 そんな事をペラペラ喋舌り立てる片手間に、彼女は足袋の塵を払い払い台所口からサッサと茶の間に上り込んで来た。そこで彼女は旧式の小さな煙草容器を出して、細い銀煙管を構えながら一段と声を落して眼を丸くした。私がすすめた煙草盆に一礼しながら……大変な身元引受人が出て来たのに驚いている私等三人の顔を交る交る見比べた。 「その若い衆で思い出したんですけどね。あの娘は何でもこの間っから、東京中の新聞に大きく出た『謎の女』ってね……御存じでしょう。あの本人らしいんですよ。コレくらいの悪戯なら妾だって出来るわ……ってね。あの娘が若い衆にオダテられてウッカリ喋舌ったって言うんですの。それからミンナが面白半分にわいわい言って、いろいろ問い訊してみると、どうも本人らしいので皆、気味が悪くなったんですって。あの娘が出て行ったアトで私に告口した者がいるんですよ。……ですからそう言われると私も気味が悪くなっちゃいましてね。あの娘が仕事を探しに行った留守に、預けて行った手廻りの包みの中を調べてみたら、どうでしょう。新しい小さな紙挾みの中に、あの『謎の女』の新聞記事が、幾通りも幾通りも切り抜いて仕舞って在るじゃあありませんか……いいえ。ほかの記事は一つもないんですよ。わたくしゾッとしちゃいましてね。今にドンナ尻を持ち込まれるかと思ってビクビクしていたんですよ。でもまあソレぐらいの事ですんでよござんした。ええ、ええ、引き取って参りますとも……エエ、エエ、なるたけ眼に立たないように呼び出してソッと連れて参ります。モウモウあんな風来坊の宿請は致しません。マゴマゴすると身代限りをしてしまいます。……兄貴なんかいるもんですか。みんな嘘ッ八ですよ。……お宅様も災難で御座んしたわねえ。いくらかお金を遣って故郷へ帰したら後生の悪い事も御座んすまいし、怨まれる気遣いも御座んすまい。どうもお気の毒様で御座んした。一人で喋舌りまして相すみません。とんだお邪魔を致しまして……ハイ。さようなら……」 彼女は約束通り人知れずユリ子を呼び出して連れて行ったらしい。姫草ユリ子はその夕方から私達には勿論のこと、一緒にいる看護婦たちにも気付かれないまま姿を消してしまった。そうして冒頭に書いた彼女の遺書以外に、彼女から何の音沙汰もなく、病院の方も以前の通りの繁昌を続けている。
それでも彼女の名前を当てにして病院に尋ねて来る患者は、まだなかなか尽きない。私の病院は彼女のために存在していたのじゃないか知らんと疑われるくらいである。 一方にその後、警官や刑事諸君が遊びに来ての話によると、彼女は向家の蕎麦屋にいる活弁上りの出前持を使って電話をかけさせておったものだそうで、白鷹助教授に化けて東京から電話をかけたのもその弁公だったそうである。文句は彼女がスッカリ便箋に書いて、弁公を病院の地下室に呼び込んで、何度も何度も練習させたものだそうでまた、白鷹氏の手紙も、彼女が文案をして県庁前の代書人に書かせて投凾したものだと言う事が、彼女の白状によって判明していたと言うが、そんな話を聞けば聞くほど、彼女の虚構の創作能力と、その舞台監督的な能力が、尋常一様のものでなかった。虚構の構成に関する、あらゆる専門的……もしくは病的な知識と趣味とを彼女は持っていた。如何なる悪党、または如何なる芸術家も及ばない天才的な、自由自在な、可憐な、同時に斃れて止まぬ意気組を以て、冷厳、酷烈な現実と闘い抜いて来たか。K大病院、警視庁、神奈川県警察部、臼杵病院を手玉に取って来たか。次から次へと騒動を起させながら音も香もなくトロトロと消え失せて行った腕前の如何に超人的なものであるかを想像させられて、私はいよいよ驚愕、長嘆させられてしまった。 それから今一つ重要な事は、それから後、いろいろと病院の内部を調査しているうちに、小型の注射器とモルヒネの瓶が一個、紛失しているのを発見した事である。しかも彼女……姫草ユリ子がそれを盗んで行く現場を、前に言った山内という山出し看護婦が見たのは、ズット以前の九月の初め頃の事だったそうであるが、その時に姫草が振り返って、
「喋舌ったら承知しないよ」 と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました…… ……姫草さんのような気味の悪い、怖ろしい人はありませんでした。いつも詰まらない詰まらない、死にたい死にたいと言っておられましたので、私は恐ろしくて恐ろしくて、姫草さんが夜中に御不浄に行かれる時なぞ、後からソーッと跟いて行った事もありました。……その癖、姫草さんはトテモ横暴で、汚れ物や何かもスッカリ私に洗濯おさせになりますし、向家のお蕎麦屋の若い人を呼ばれる時にも妾をお使いに遣られます。そうして「妾(姫草)の秘密がすこしでも臼杵先生にわかったら、妾は貴女(山内)を殺して自殺するよりほかに道がないんですからそのつもりでいらっしゃい。この病院を一歩外へ出たら妾はモウ破滅なんだから」と姫草さんは繰り返し繰り返し言っておりました。ですから私は何が何だかわからないまま姫草さんの言う通りになっておりました……
と山内看護婦が眼をマン丸にして、白状した事であった。 私はかの姫草が、その虚構の一つ一つに全生命を賭けていた事を、この時に初めて知った。彼女の虚構が露見したら、すぐにもこの世を果敢なみて自殺でもしなければいられないくらい、突き詰めた心理の窮況に陥りつつ日を送り、夜を明かして来たのであろう。しかも、そうした冒険的な緊張味の中に彼女は言い知れぬ神秘的な生き甲斐を感じつつ生きて来たものであろう。 彼女は殺人、万引、窃盗のいずれにも興味を持たなかった。ただ虚構を吐く事にばかり無限の……生命がけの興味を感ずる天才娘であった。 彼女は貞操の堕落にも多少の興味を持っていたらしい。しかし、それも具体的な堕落でなくて、虚構の堕落ではなかったか。現実的な不道徳よりも、想像の中の不倫、淫蕩の方が遙かに彼女の昂奮、満足に価してはいなかったか。彼女は肉体的には私達第三者が想像するよりも、遙かに清浄な生涯を送ったものではなかったかと想像し得る理由がある。 彼女ほどの虚構吐きの名人がK大以来一度も変名を用いなかった心理も、ここまで考えて来ると想像が付いて来る。それは姫草ユリ子なる名称が、彼女の清らかな、可憐な姿の感じに打って付けである事を、彼女が自覚していたばかりでない。そうした彼女の気持の清浄無垢さを誇りたい彼女の心の奥の何ものかが、こうした名前に言い知れぬ執着を感じていたせいでは、あるまいか。
白鷹兄足下 姫草ユリ子に関する小生の報告は以上で終りです。 宇東三五郎は依然として彼女を、きわめて巧妙な地下運動者の一人である。彼女は表面上、単純な虚構吐き女を装いながら、思う存分の仕事を為し遂げて、その恐るべき地下運動の一端さえも感付かせないまま、凱歌を上げて立ち去った稀代の天才少女である。その伯母さんなる中年婦人も、彼女と一緒に働いている有力な地下運動者の一人で、彼女の仕事に一段落を付けるべく、サクラとなって彼女を救い出しに来たものかも知れない、とさえ疑っているようであります。 また、田宮特高課長は彼女を一種特別の才能を備えた色魔にほかならぬ。臼杵病院の付近の若い者で、彼女の名前を知らない者が一人もない事実が、あとからあとから判明して来るのを見てもわかる。だから貴下も小生も、彼女の怪手腕に翻弄されながら、彼女に同情しつつ在る最も愚かな犠牲者である……と言った風に考えているらしい事が、時折、遊びに来る刑事諸君の口吻から察しられるのですが、しかしこれは余りに想像に過ぎていると思います。換言すれば彼女に敬意を払い過ぎた観察とでも申しましょうか。 貴下と御同様に……と申しては失礼かも知れませぬが、小生がソンナ事実を信じ得る理由を発見し得ませぬ理由を、貴下は最早十分に御首肯下さる事でしょう。 小生は小生の姉、妻と共に告白します。小生等は彼女を爪の垢ほども憎んでおりません。 何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。 彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。 しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。 ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。 彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。 ただそれだけです。
この事を御報告申し上げて、御安心を願いたいためにこの手紙を書きました。
A・Cのスプレーで睡魔を防ぎながらヤットここまで書いて参りましたが、もう夜が白けかかって脳味噌がトロトロになりましたから擱筆します。 彼女が死んだ後までも小生等を抱き込んで行こうとした虚構の流転も、それから貴下に対する小生の重大な責任もこの一文と共に完全に……何でもなく……アトカタもなく終焉を告げて行く事になります。 さようなら。 彼女のために祈って下さい。
殺人リレー
第一の手紙
山下智恵子様 みもとに ミナト・バスにて 友成トミ子より
お手紙ありがとうよ。 女車掌になりたいって言う貴女の気もち、よくわかりましたわ。 百姓の生活はつまらない。 青空や雲を見てタメ息なんかしてはいけない。東京の方へ行く赤、青、白の筋の付いた汽車を見送ってボンヤリなんかしていたら、なおさらいけない。汗でも涙でも、うつむいて土の中に落して行かなければ、百姓仲間の裏切者みたいに両親や兄弟から睨まれる。土から生まれて、土まみれのボロを着て、真黒い、醜い土くれのようなお婆さんになって、土の中に帰るだけ……。 ほんとうだわね。同情しますわ。 ですけども女車掌になんか成っちゃ駄目よ。ほかの仕事はあたし知りませんけど、女車掌だけはホントウにダメなのよ。お百姓なんかよりもモットモットつまらない、そうしてモットモット恐ろしい、イヤな仕事なのよ。 女車掌の運命なんてものは、往来に散らかっている紙キレよりもモットモット安っぽいものなのよ。女車掌になってみると、すぐにわかるわ。 早い話が、お百姓の娘でいると、お婿さんは純真な村の青年の中から御両親が選んで下さるでしょ。都合よく行くと好きな人とも一緒になれるでしょう。 ですけど女車掌になると、そんな幸福を最初からアキラメていなければならないのです。会社の重役さんとか、役員さんとか、自動車係りの巡査さんの言う事は、どんなにイヤな事でもおとなしく聞いて置かないと、直ぐに首になるのです。何とかカントかナンクセを付けて追い出されてしまうのです。私みたいに身よりタヨリのない孤児の女はなおさら、そうなのです。ですから賢い人はなるたけお白粉を塗らないようにして給料の上らないのは覚悟の前で、眼に立たないように、影にまわってばっかり働いているのです。その馬鹿馬鹿しい息苦しさったらないのですよ。 そうして、そればっかりじゃないのよ。 あたし御存じの通り親も兄弟もない孤児ですから、女給にでも交換手にでも何でもなれるんでしたけど、女運転手が勇カンでスタイルがいいと思って、そのお稽古のつもりで女車掌になったんですけど……望み通りに運転手になって、お金を儲けたって、それから先は何の目的もないんですからねえ。孝行をする親も、可愛がる弟もないんですからねえ。つまんないわ。毎日毎日、何の目的も楽しみもないカラッポの世の中を、切れるような風に吹かれたり、ゴミダラケの太陽に焼かれたりして、生命がけで駈けずりまわるようなもんよ。酔ったお客にヒヤカサレたり、コワイ巡査に手を握られたり、キザな運転手に突っつかれたりするたんびに、心の底の底まで淋しくて、悲しくて、つまらなくなる商売よ。ウント速力を出した時、何かに行き当ってメチャメチャになってくれるといいと、ソンナ事ばっかし考えさせられる商売よ。 ごめんなさいね。貴女のおためを思えばこそホントの事を言うんですから、怒らないで頂戴ね。そればっかしじゃないのよ。 モットモット恐ろしい事があるのよ。 この先に入れといた月川艶子さんのお手紙を読んでちょうだい。文句をソックリその通りに写して置きましたから。 この手紙は妾の大事な手紙です。恐ろしい殺人事件の秘密のショウコになるかも知れない手紙ですから、このまんま貴女に上げるわけに行かないのです。そのわけもお読みになればわかるわ。 月川ツヤ子さんは妾の小学校の同級生なの。お父さんと一緒に浜松のベンキョウ・バス会社で、あたしと同じに女車掌をつとめている人よ。今年十九。身体は小さいけど、とてもシャンなの。妾と違って気の弱い親切な人。あたしの昔からの親友。字もモット上手なんですけど。
月川ツヤ子さんの手紙[#「月川ツヤ子さんの手紙」の両側に傍線]
友成トミ子さん ごぶさたしました。お変りありませんか。 トツゼン変な事を書いてすみませんけど、私このごろある人に殺されそうな気がするのです。 このごろ私のいる勉強乗合自動車会社に、新高って言う新しい運転手さんが来ましたの。それはナポレオンによく似た冷たい顔をした背の高い人です。運転がトテモ上手で、スタイルがよくて、骨身を惜しまず働くのでグングン昇給して行く人です。 その人が来てから三か月目に、私をお嫁にくれって、私のお父さんに申し込みました。二週間ばかり前の事です。 会社の工場に勤めている私のお父さんは、気が進まないけど、新高さんを可愛がっている会社の専務取締役の人が仲に立っているのでイヤとは言えないのだが、お前はドウかって尋ねられた時に、妾はすぐに承知してしまいました。新高さんなら前から嫌いじゃなかったんですからね。 ごめんなさいね。あなたに御相談しないで承知してしまったこと。 でも妾、最初ビックリしましたわ。どうして新高さんが、妾のような女を貰う気になったのだろうと思いましてね。 新高という人はシンカラ無口の人らしいのです。待合室に来ても、ほかの運転手のように女車掌に甘ったるい事を言ったり、妙な眼付きをした事なんか一度もないのです。並んで腰かけている私たちを見向きもしないで、スパリスパリ煙草ばかり吹かしているのです。 そうかと思うとダシヌケに、ヤンチャを言っているお客さんの子供を抱き上げて、頬擦りをしてキャッキャと笑わせたり、十銭で三つぐらいの一番高価いお蜜柑を一円ばかりも買って来て、黙って私たちにバラ撒いたままプイッと外へ出て行ってしまったりしてトテモ気まぐれな人なのです。 そうかと思うとまた運転台で、バットを吸い吸いモノスゴイ速力を出しながら、ステキに朗らかな澄み切った声で、 エーエ。二度とオー惚れエーまいイ運転手のオ――畜生めエ―― 敷き逃げエ――したア――ままア――知らぬウ――顔オ―― なんて歌って、満員のお客をゲラゲラ笑わしたりするのです。その癖、遊びに行った話はチットモ聞きません。いつもお金をポケットの中でジャラジャラ言わせているのですよ。ですから会社の重役さんがスッカリ信用してしまったらしいのです。 私も男らしい固い人と思い込んで、何もかも言うなりになってしまったんです。そうして正式に結婚式を挙げるばかりになっていたのです。 そうしたらね。きょう東京の青バスにいる妾の親友の松浦ミネ子さんからダシヌケにお手紙が来たのです。それがトテモびっくりする事だったのです。 「貴女の会社に新高竜夫って言う運転手が来たらダンゼン御用心なさい。 新高竜夫って言う人は東京中の運転手の中でも一番男ぶりのいい、一番恐ろしい評判の悪い人です。 新高って言う人は青バスにいるうちに幾人も幾人も女車掌を引っかけて内縁を結んで、その人に倦きると片端から殺して、何処かへ棄てて来るらしいんですって……。けれどもその遣り方が上手なので、まだ一度も疑われた事のない不思議な不思議な怖い怖い人なのです。こんな噂が立っているのは、あたし達、女車掌の仲間だけらしいのです。 それでもこの頃になって、警視庁の眼が、だんだん強く新高さんの近まわりに光り出したので、新高さんはコッソリ青バスをやめて、何処かへ行ってしまったのです。 どこか田舎のバスへ落ちて行ったろうって言う噂ですから、貴女の会社へ来るような事でもあったらゼッタイに御用心なさい。 よけいな事かも知れませんけど、心配ですから、ちょっとお知らせします」 と言ったような意味の事が鉛筆で走り書きにしてある。そんな手紙が来たのです。 妾ビックリしてしまいましたわ。 ですけども私、馬鹿正直なもんですから、この手紙をお父さんに見せないで、イキナリ新高さんに見せて遣ったのです。だって私モウ新高さんと関係が出来てしまったんですから、そうするのが当り前じゃないでしょうか。 新高さんは青い顔をしてその手紙を読んでしまいました。そうしてクシャクシャに丸めて、火鉢に投げ込んで焼いてしまいました。 「馬鹿だな……お前は……コンナ事を人にシャベッたら承知しないぞ」 と言って舌なめずりをしながら、ジロリと私を睨んだ新高さんの顔付きの恐ろしかったこと。顔の肉の下から骸骨がムキ出しに、ギョロッと出て来たかと思ったくらいスゴかったわよ。芝居でも活動でもアンナ怖いスゴい顔は見た事なかったわ。 私はその時にシンカラふるえ上がってしまって、ミネ子さんのお手紙に書いてある事がウソか本当か尋ねる事が出来なくなりました。そうして新高さんの顔を見て涙をポロポロ流していたら、新高さんはニッコリ笑って私の肩をタタキました。 「アハハ。お前を殺そうてんじゃないよ。コンナ噂の手紙なんかホントにする奴があるもんか。馬鹿だな。お前は……」 と優しく背中を撫でてくれたのです。その時に妾は何だか新高さんに殺されそうな感じがしてならなかったのですよ。でも新高さんなら殺されてもいいような気もちになったもんですから、そのまんま黙っているのです。 この事はお父さんにも誰にも言わないつもりですけど、トミ子さんにだけ書いときますわ。 ね。私の事を忘れないでね。 私と新高さんとで楽しい家庭を持っても笑わないでね。心から祝福してね。さよなら。
浜松勉強バスにて ツヤ子より これがツヤ子さんから来た最後の手紙だったのよ。 ね。智恵子さん。この手紙を書いたツヤ子さんは、それから一週間も立たないうちに死んじゃったのよ。そうして博多でお葬式があったのよ。 ツヤ子さんの遺骨を持ってお帰りになったお父さんのお話を聞いたら、ツヤ子さんはバス代用の新フォードに新高さんと一緒に乗って行くうちに、お客が満員になったので左側のステップに立っていなすったんですって。そうしたら暗闇の中で向うから来たトラックがライトを消さなかったので、新高さんのハンドルが急に左に寄り過ぎて、ツヤ子さんの身体が電柱にブツカッたって言うのよ。左の肩と、腕と、アバラの骨がグザグザになっていたんですってさあ。 ドオオンて大きな音がしたって言う乗合のお客さんの話だったんですってさあ。ツヤ子さんのお父さんは「ツヤ子の運が悪いのです。あんな商売をさせたのが悪かったのです。トラックの番号は新高運転手が見といたそうですが、訴えても問題になりませんし、誰を怨むところもありません。タカの知れた女の子一匹です。広い世間の眼から見たら虫ケラ一匹のねうちも御座いますまい。それでもお客さんの生命に代ったのですから、私ももうトックに諦めております。会社からはその月の給料のほかに十円くれました。助かったお客様なんか見向きもしませんが、安いもんですなあ。よその人を敷いたのなら三百円ぐらい出しますが、葬式代にも足りません。もっとも、それぐらいに安く見積もらなきゃあ、若い人間をアンナに大勢、あぶない仕事には使われますまい」と言うていなさったわ。 怖いわねえ。妾黄色いバラの花をドッサリ仏様に上げたわ。 デモこの話を聞いた時に妾もうツクヅク女車掌がイヤになってしまったのよ。雲雀の鳴く田圃で、お父さんやお母さんのお手伝いをしていなさる智恵子さんが浦山しくなったわ。 わたしの言っている意味がおわかりになって? 女車掌というものがドンナに嫌らしい、淋しい、恐ろしい、ツマラナイ運命を持っているものかおわかりになって? 呉々も女車掌なんて止して頂戴。ね。 サヨナラ。お身体をお大切にね。
第二の手紙
智恵子さん。大変よ。 この前のお手紙に書いた新高運転手が来たのよ。妾たちのいるミナト・バス会社へ就職して来たの。そうして妾にプロポーズしたのよ。今度は私が殺される番よ。 でも心配しないで頂戴。妾シッカリしているんですから。ナカナカ殺されやしないから……。 新高運転手は東京の青バスが思わしくないから、勝手に暇を貰ってこっちへ来たって言うのよ。もうウソを言っているのよ。 でもツヤ子さんを殺した新高運転手に違いないのよ。ナポレオンみたいな男らしい冷めたい顔をして黙りこくってセッセと働いているの。古いチューブと針金でフェンダーを作るのがトテモ上手よ。そうかと思うと上等のバナナを妾たちに配ったり、チューブを切り抜いた魚だのお馬だのをお客さんの赤チャンに遣ったりしてトテモ気マグレなのよ。みんな新高さん新高さんってチヤホヤしているんですけど、妾ソレと気が付いた時にゾッとしちゃったわ。 それからツヤ子さんの仇敵と思って、いつもジロジロ様子を見ていてやったわ。また、誰か殺しに来たに違いないと思って……。 そうしたらね、妾がソンナ眼で見ているのを新高さんは何かしら感ちがいしたらしいの。博多発十一時の折尾行きの最終発を待合室で待っているうちに、お客が一人もいないので、いいチャンスと思ったのでしょう。新高さんは黄色いバラの花を一本持って入って来て、妾の手に握らせたの。妾ギクンとしちゃったわ。だってバラの花は死んだツヤ子さんの一番好きな花だったんですもの。 妾が何かしら胸が一パイになりながら、ありがとうって言ったら、 「トミチャン。今夜、折尾の僕の下宿に来ないか」 ってダシヌケに言うじゃないの。つめたい真面目な顔をしてね。女を口説くような眼付きじゃなかったわ。英雄的な男らしい眼付きだったわ。 その眼付きを見たトタンに妾は決心しちゃったわ。喜び勇んで、 「ええ。行ってもいい」 って言っちゃったわ。でもずいぶん息苦しかったわ。 智恵子さん、ビックリしちゃ嫌よ。妾スッカリ新高さんが好きになっちゃったのよ。これこそホントに生命がけの恋よ。そうして、それと一緒にドウかしてツヤ子さんの仇敵を取って遣りたくなったのよ。新高さんを取っちめて、ヒイヒイあやまらせた揚句に、自殺させるかドウカしたら、どんなにか愉快だろうと思ってしまったのよ。 コンナ風に文句に書いてみると、妾の言う事はムジュンしているでしょう。けれどもその時の気もちは、チットモムジュンしていなかったのよ。あの時ぐらい妾の胸が大きな希望で一パイになった事はなかったのよ。行く末に何の希望もないカラッポの妾の胸が、大きな、生き生きした幸福で一パイになったように思ったわ。 妾は文字通りに喜び勇んで、新高さんの下宿に行ったの。そうして一から十まで新高さんの言うなりになって遣ったの。ちっとも恐ろしくなかったわ。新高さんもモウすっかり欺されて夢中になっていなすったわ。 ソウ……妾、無茶かも知れないわ。でも無茶でもいいわ。今に見ていらっしゃい。妾の冒険が成功するか、しないか。 そう思う時、妾の胸がドキドキするもので一パイになってしまうのよ。妾は今、妾の人生が破裂しそうなくらい張り切っているのよ。 誰が何と言ったって妾は、この冒険に向ってマイ進するわ。
サヨナラ
第三の手紙
智恵子さん。 女なんて弱いものね。 妾、新高さんにスッカリ征服されちゃったの。この前のお手紙に書いたような冒険心が、いつの間にか弱って来たらしいの。 新高さんも毎日毎日妾を可愛がるのが楽しみになって来たらしいの。世帯の事だの、まだ生まれもしない赤ん坊の事ばかり妾に話すの……妾はソンナ時に黙っているんですけど、これから先ドレぐらい続くかわからない長い長い新高さんとの同棲生活のコースが、希望も何もない灰色にズーッと続いているのが見えて来たの。昔の通りの平凡なトミ子の心に……それがただ人妻となっただけのトミ子の心に帰りそうになって来たの。妾が大切に大切に隠していたツヤ子さんの手紙を焼いてしまおうかと思った事が何度あるかわからないの。 新高さんを殺す気なんか爪の垢ほどもなくなっちゃったのよ。智恵子さんに笑われても仕方がないわ。 いったいこれはどうした事なんでしょう。妾の一生はこのまんまで平々ボンボンのままおしまいになるのでしょうか。新高さんと一緒になった最初の時のアノ張千切れるようなモノスゴイ希望はいったい何処へ行ってしまったのでしょう。 妾はコンナつもりで結婚したはずじゃなかったのよ。妾はこのまんまパンクしたタイヤみたいになって、何処までも何処までも転がって行かなければならないのでしょうか。 店の先にブラ下がっている派手なメリンスのキレが眼に付いて眼に付いて仕様がなくなったのよ。赤ん坊の着物にはドンナのがいいかと思ってね。 どうぞどうぞ笑って頂戴。人生なんてコンナものかも知れないわ。
第四の手紙
大変な事が起ったのよ。智恵子さん。あたし、死くなったツヤ子さんとおんなじお手紙を貴女に書くわ。 あたし近いうちに殺されそうなの。 新高さんが妾のバスケットの中からツヤ子さんの手紙を発見したらしいのよ。新高さんはソンナ事をオクビにも出さないんですけどね。何だか心の底にヨソヨソしい処が出来て来たようなの。そのクセ妾を可愛がる事は前よりもズット強くなったから変じゃないの。おれ達は幸福だ、幸福だってこの頃、急に言い出したからおかしいじゃないの。何かわけがあると思わずにはいられないのよ。まだ一緒になってから一週間も経たないのにさあ。 そればっかりじゃないの。きのうコンナ事があったの。夜の九時の折尾行きに乗って行く途中の事なのよ。 妾たちのミナト・バスでもバス代りに一九三二年型のシボレーのオープンを使っているの。そのシボレーの折尾行きが例の通り満員しちゃったので、妾がステップに立って、新高さんが運転して行くうちに、妾はフッと気が付いて、筥崎の踏切を出ると直ぐにダンマリで後部のスペヤタイヤの横にまわって、荷物を乗せるデッキの上に立っていたの。 夜の九時頃よ。小雨が降って真暗だったわ。 そうしたら多々羅の村中の狭い処で、向うからバスが来たと思うと、急にスピードをかけた新高さんが、ハンドルをものすごくグーッと左に取って、道傍の電柱にスレスレに走り抜けて行ったの。万一妾がモトの通り前の左側のステップに立っていたらキット払い落されてぐたぐたにタタキ付けられたに違いないのよ。 妾ゾオッとしちゃったわ。ツヤ子さんの手紙を見られた事が、その時にハッキリとわかったのよ。わかり過ぎて髪の毛一本一本が逆立ちしたくらいだったわ。 そうしたら新高さんはまた、間もなく松崎の広い下り坂で、鉄砲玉のようなスピードになった時、向うから来た自転車を除けるふりをしいしいギューッと左に取って、車体の左側を、あぶなく松の樹にコスリ付けながら飛ばして行ったの。その時に妾はまたハッキリと新高さんが妾を殺そうとしている事を感じたのよ。 けれども、ちっとも手応えがない上に、妾がウンともスンとも言わないもんですから、新高さんは不思議に思ったらしいの。香椎の踏切の前に来ると運転台から、 「オーイ。トミちゃん」 と呼ぶじゃないの。 「ハアイ」 て妾、後部から出来るだけ朗らかな声で返事して遣ったら直ぐに、 「……馬鹿ア……前へ来ないかア……汽車を見てくれい。十時一分の上りが来る頃だあ」 て言い言いスピードを落したの。妾はモウ一度朗らかに、 「ハアイ」 って返事しいしい前の踏切に馳け出して、 「汽車オーライ」 って両手を上げたの。あそこは家の蔭から急に鉄道踏切に乗り上げるばっかりじゃない。午後八時過は踏切番がいないので、慣れないトラックが二、三度引っかけられた事のあるトテモあぶない処なのよ。新高さんはチャント汽車の時間表を知っていて、御自慢のナルダンの腕時計[#「ナルダンの腕時計」はママ]を見い見い運転して来て、大丈夫と思ったら、妾が「オーライ」と車の中から言っただけで一気に突き抜ける処なのよ。それにこの時に限って御念入りにスピードを落して妾を呼ぶんですから妾、おかしくなっちゃったわ。 香椎でお客が三人降りたので、妾はビッショリ濡れたまままた、運転台に新高さんと並んで坐ったのよ。けども新高さんは別に何も言わなかったわ。ただ、 「寒かったろう」 とタッタ一言、低い声で言った切りステキなスピードを出して、香椎から一時間足らずのうちに折尾に着いたの。そうして二人してボデーを洗う間、一言も言わないまんまで家へ帰って、やはり黙りこくって二人でお酒を飲む間じゅう、睨み合いみたいになっていたの。新高さんは、いつも無口なんですけど、この時ばっかりは特別に、何ともカンとも言えない変な工合だったのよ。 そうしたら新高さんがイヨイヨ寝る段になったら、お酒がまわったせいもあるでしょう。ダシヌケにいろんな冗談を言い出したの。それは無口の新高さんに全く似合わない冗談だったの。下は乞食から、一番上は将軍様までいろんな階級の人のラブシーンを、新派や歌舞伎のいろんな俳優の声色を使ってやったりするの。それは上手で面白かってよ。新高さんにあんな芸当があるとは思わなかったわ。ですから妾も思わず釣込まれて、腹を抱えて笑ってしまったのよ。 けれども、それがまた、今朝になってみたら、何もかも空っぽになったような気がするの。人間の気持って妙なものね。こうして一日、仕事を休まして貰って、まだ降っている嵐模様の雨越しに、向家の屋根のペンペン草だの、ずっと向うに並んで揺れているポプラの並木だの、下り列車から吹き散って行く黒い烟だのを見ていると、それがみんな妾の運命みたいに思われて来て、考えても考えても考え切れない、淋しい淋しい気持になって来るの。 すぐ眼の下のトタンの屋根をバタバタとたたいて行く雨の音を聞いていると、ツイ眼の中に熱い涙が一パイ溜まって、死ぬほどつまらない、張合いのない気持になってしまうの。こんな情ない、悲しい妾の気持は智恵子さんに訴えるほかないわ。何とかしなければならないと思いながら、どうにもならないじゃないの。 妾、タッタ今、死んだツヤ子さんの形見の手紙を焼いたばかりのところなの。ツヤ子さんのアノ恐ろしい手紙を焼きたいばっかりに今日一日休まして貰ったようなもんよ。 何もかも運命よ。 運命にまかせるよりほかに仕方がないわ。神様なんてこの世にないんですから。 智恵子さん。ミジメなトミ子のために泣いてちょうだい。
第五の手紙
智恵子さんありがとうよ。 妾がコンスイしているうちに、お見舞に来て下すったんですってね。綺麗な花を沢山にありがとう。まだ妾の枕元に咲きほこっていますわ。感謝しますわ。 あたし、あれから一週間というもの何も知らなかったのよ。高い熱のためにウンウン言っていたんですって。頭のマン中の骨が割れて、それが悪くなりかけて出た熱なんですって。七針とか縫ったのをまたほどいて、洗い直したんですって。 どうして助かったんだか妾にもハッキリわからないのよ。でもこの頃になって、一人で起きたり坐ったり出来るようになったら、すこしずつ思い出して来たようよ。 何でもこの前に貴女にお手紙書いてから間もなくの事よ。いつもの通り新高さんと妾のバッテリでシボレーに乗って、博多から折尾へ行く途中十時半チョット前と思う頃、香椎の踏切にかかったの。ヒドイ吹き降りで一人もお客のない晩だったわ。二百二十日か二十一日の晩でしたからね。 踏切にかかる少し前で、左側の松と百姓家の間から上り列車の長い長いアカリがグングン走って来るのが見えたんですけど、妾は平気で、 「……汽車アオーラアーイ」 って長く引っぱって叫んだようよ。 なぜソンナに恐ろしい嘘言をついたのか、その時の気持がどうしてもわからないんですけど、真暗な雨風の中をすごいスピードで走る自動車の中で、すっかり憂鬱になっていた妾が、新高さんと一緒に死んだ方がいいような気持になっていたせいでしょう。 その列車は熊本とか鹿児島とかから出た臨時列車で、満州に行く団体の人を一パイに乗せていたんですって。ちょうど博多発、上り十時一分の終列車が通り過ぎたばかりの処でしたから、十一時の下り列車ばかりを用心していた新高さんは、妾の言う事を本当にしたんでしょう。思い切りスピードを出して踏切を突切って国道沿いに右手へ急カーブを切ろうとしたの。そのテイルのデッキに列車のライフ・ガードが引っかかって、逆トンボ返りにハネ飛ばされて、タイヤを上にして堤の下へ落ちていたって言う話よ。 新高さんは、厚い硝子の破片が脇腹の中へ刺さってモグリ込んだために、手当てが間に合わなかったんですって。列車の後部車掌の加古川さんて言う人が馳け付けて来て、背後から抱き起した時に、ウッスリ眼を開いて、息苦しい声で、 「シマッタ。ヤラレタ……ツヤ子の怨みだ……畜生……ツヤ子だ、ツヤ子だ、ツヤ子だ」 って言った切りコトキレたって言う話よ。その後部車掌の加古川さんがワザワザ妾を見舞いに来て話して下すったの。 そのお話を聞いた時に、妾は思わずニッコリ笑っちゃったわ。身体中の血がスウーと暖かくなって、今にもかけ出せそうな元気で一パイになってしまったわ。新高さんはツヤ子さんの仇敵を妾に取られた事をハッキリとわかって死んだんですからね。 そう思うと妾は、涙がアトカラアトカラ流れて困っちゃったわ。何も知らない加古川さんと看護婦さんが、スッカリ同情しちゃってね。いろいろ慰めて下すったんですけど何もなりゃしないわ。妾は神様に感謝して喜んで泣いているのに、悲しんではいけない、身体に障る障るって言うんですもの。妾その時にツクヅク思ったわ。女なんて滅多に慰めて遣るもんじゃないって。何を泣いているか知れたもんじゃないんですからね。 その車掌さんと看護婦さんの話を聞くと、妾はメチャメチャになったボデーの下に伏せられて、顔をシッカリと両手で隠して、手足をマン丸く縮めていたので、みんな感心したって言う話よ。キット衝突する前から、そうしていたのでしょう。 昨日臨床訊問て言うのがあったのよ。警察だの裁判所の人らしいイカツイ顔をした人が五、六人妾の寝台の廻りを取り巻いていろんな事を質問するの。ずいぶん怖かったわ。 妾が大きな声でストップって言ったけど新高さんが構わずに踏切を突切ったって言ったら、皆うなずいていたわ。新高さんのイツモの運転ぶりを知っていたのでしょう。香椎の踏切には自動信号機が是非とも必要だなんて話合っていたわ。 新高さんと内縁関係があるという話だが、ホントウかって鬚の生えた人が聞いたから、妾、ありますって言ってやったの。顔も何も赤くならなかったと思うわ。皆顔を見合わせて笑っていたようよ。そうしたら四十ぐらいの刑事巡査らしい、色の黒い骸骨みたいな男が、凹んだ眼を大きくギョロギョロさせながら、 「夫婦心中じゃないか」 って言ったの。そうして白い歯をむき出して笑ったから妾ギョットしちゃったわ。でも妾、頑固に頭を振ったもんだから、間もなくみんな帰って行ったわよ。 刑事なんて案外アタマのいいものね。その刑事の顔を思い出してもドキンとするわ。 妾、神様に感謝しているのよ。ヤケクソの妾が一緒に死ぬつもりでオーライって言ったのに、新高だけ殺して、妾だけ助けて下すったんですもの。 あたし頭の怪我がなおったらまた、ミナト・バスへ出て女車掌をつとめるわ。そうして今度こそ一生止めないわ。そうして女運転手になるわ。日本一の女運転手に……。妾これは神様の命令だと思っているの。 結婚なんか一生しないわ。妾は最早、女の一生の分ぐらい何もかもわかっちゃったんですからね。新高さんが生き返って来ない限り、ほかの男の人には用はないつもりよ。 新高さんの事がその時の新聞に大きく出ていたわ。「恐るべき色魔の殺人リレー」って言う標題でね。死んだ新高運転手は、東京の青バスを出てから後ズットお尋ね者になっていた女殺しの嫌疑者だった事が、死んだアトからわかったんですって。そうして新高は東京でも一度トラックと正面衝突をして、コチラの女の助手が即死したのに、自分だけ不思議に助かった事があるが、その時の説明のし方がよかったお蔭で無事に放免された経験の持ち主である。だから今度もホントウは内縁関係の女車掌と一緒に自動車を汽車に轢かして、自分だけ飛び降りるつもりだったかも知れないって書いてあったわ。智恵子さんも多分、お読みになったでしょう。 アレみんなウソよ。新聞社と警察の作り事よ。妾に同情し過ぎているのよ。会社でも大層、妾の身の上に同情しているそうよ。おかしいわね。 でも妾、平気よ。世の中ってソンナもんよ。神様の裁判だけが正しいのよ。 ですから、あたし智恵子さんだけにホントの事をお知らせするわ。 これから後ドンナ事があっても女車掌なんかになっちゃ駄目よ。 妾みたいな女になっちゃダメよ。
第六の手紙
智恵子さん。貴女に最後のお手紙を上げますわ。 あたしこのお手紙を出した後で、何処かへ行って自殺しますの。死骸は誰にも見せないようにしたいのですから、どうぞ探さないで下さい。 すみませんけど新高さんと妾の写真も、着物も、貯金の帳面も、印形も、世帯道具や何やかやも、みんな一纏めにして、貴女のアテ名で送り出して置きました。 どうぞ貧しい人達に分けて上げて下さい。 小学校に寄付して下すってもいいわ。小さなオルガンぐらい買うだけあるでしょう。 あの色の黒い骸骨みたいな刑事さんの言葉はやっぱりホントウだったのです。今やっとわかりました。 妾は新高さんと夫婦心中をしてみたかったのです。そうして出来るなら自分だけ生き残ってみたかったのです。 そうして、それがその通りになったのです。 ですから妾はホントウを言うと夫殺しだったのです。けれども新高はツヤ子さんの怨みの一念に取り殺されたと思って死んだのでしょう。妾のシワザとは夢にも思わないままだったのでしょう。新高はやっぱり妾を心から愛していたのでしょう。 そう気が付いた妾はモウいても立ってもいられません。 そればかりじゃないのです。妾のお腹に新高の赤ちゃんが出来ていたのです。それがこの頃になって、新高さんの事を思い出すタンビに心臓の下の方でビクリビクリと躍り出すのです。この児が生まれたら妾どうしましょう。 妾は、妾と一緒に呪咀われたこの児も殺してしまいます。 妾は夫殺しの吾児殺しです。 貴女にだけ白状して死にますわ。許して下さい。ミジメなトミ子の一生涯のお願いです。 女車掌なんかになってはいけません。――さよなら――
火星の女
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