「見やがれ。コン畜生。死ばるんなら手際よくクタバレ」 といった調子である。残酷なようであるが、限られた人数で限られた時間に仕事をしなければ、機関長の沽券にかかわるんだから止むを得ない。所謂、近代文明って奴の裡面には到る処にこうした恐ろしい地獄が転がっているんだ。勿論、俺自身が、その中からタタキ上げて来たんだから部下に文句は云わさないがね……。 その俺が横浜桟橋のショボショボ雨の中に突立って、積込む石炭を一々検査していると汗と炭粉で菜葉服を真黒にした二等機関士のチャプリン髭が、喘ぎ喘ぎ駈け降りて来て「トテモ手が足りません。何とかして下さい」と云うんだ。 「馬鹿。そう右から左へ人が雇えるか」 と一喝すると「それでもデッキの方で誰か一人でもいいんですから」と泣きそうな顔をする。 「馬鹿ッ。デッキの方だって相当忙がしいんだ。殴られるぞ」 「……でも船長室のボーイが遊んでいます」 「あんな奴が何の役に立つんだ」 「……でも、みんなそう云っているんです。この際、紅茶のお盆なんか持ってブラブラしている奴はタタキ殺しちまえって……」 「君から船長にそう云い給え」 「ドウモ……そいつが苦手なんで」 「よし。俺が云ってやろう」 忙がしいのでイライラしていた俺は、二等運転手の話が五月蠅かったんだろう。そのまま一気にタラップを馳上って、船長室に飛込んだ。船長は相も変らず渋紙色の無表情な顔をして、湯気の立つ紅茶を啜っていた。傍の鉛張りの実験台の上で、問題の伊那少年が銀のナイフでホットケーキを切っていた。 俺は菜葉服のポケットに両手を突込んだまま小僧の無邪気な、ういういしい横顔をジロリと見た。 「この小僧を借してくれませんか」 伊那少年の横顔からサッと血の気が失せた。魘えたように眼を丸くして俺と船長の顔を見比べた。ホットケーキを切りかけた白い指が、ワナワナと震えた。……船長も内心愕然としたらしい。飲みさしの紅茶を静かに下に置いた。すぐに云った。 「どうするんだ」 「石炭運びの手が足りないって云うんです。みんなブツブツ云っているらしいんです……済みませんが……」 「臨時は雇えないのか」 「急には雇えません。二十四時間以内の積込みですからね。明日の間になら合うかも知れませんが……皆モウ……ヘトヘトなんで……」 船長の額に深い竪皺が這入った。コメカミがピクリピクリと動いた。当惑した時の緊張した表情だ。こうした場合の、そうした船員の気持が、わかり過ぎる位わかっているんだからね。 それから船長は白いハンカチで唇のまわりを叮寧に拭いた。ソロソロと立ち上って伊那少年を見下した。伊那少年も唇を真白にして、涙ぐんだ瞳を一パイに見開いて船長の顔を見上げたもんだ。 その時の船長の云うに云われぬ悲痛な、同時に冷え切った鋼鉄のような表情ばかりは、今でも眼の底にコビリ付いているがね。 船長はコメカミをピクピクさせながら大きく二度ばかり眼をしばたたいた。俺の顔をジッと見て念を押すように云った。 「大丈夫だろうな」 俺は無言のまま無造作にうなずいた。 俺と一所に静かに、二三度うなずいた船長は伊那少年を顧みて、硝子のような眼球をギラリと光らした。決然とした低い声で云った。 「……ヨシッ……行けッ……」 「ウワア――アッ……」 と伊那少年は悲鳴を揚げながら船長室を飛出したが……その形容の出来ない恐怖の叫び、悲痛の響、絶体絶命の声が俺は、今でも思い出すたんびにゾッとする。伊那少年は石炭運びの恐ろしさを知っていたのだ。否、ソレ以上の恐ろしい運命が、石炭運びの仕事の中に入れ交っているのを予感していたのだね。 しかし伊那少年は逃れ得なかった。船長室の外には、俺のアトから様子を見に来た向う疵の兼が立っていた。大手を拡げて伊那少年を抱きすくめてしまったもんだ。 「ギャア――。ウワアッ。助けて助けて……カンニンして下サアイ。僕はこの船を降りますから……どうぞどうぞ……助けてエ助けてエッ……」 「アハハハ。どうもしねえだよ。仕事を手伝いせえすれあ、ええんだ」 「許して……許して下さあい。僕……僕は……お母さんが……姉さんが家に居るんですから……」 伊那少年は濡れたデッキに押え付けられたまま、手足をバタバタさして泣き叫んだ。 「ウハハハハ。何を吐かすんだ小僧。心配しるなって事……俺が引受けるんだ。この兼が受合うたら、指一本指さしゃしねえかんな。……云う事を聴かねえとコレだぞ」 兼は横に在った露西亜製の大スコップを引寄せた。そうして手を合わせて拝んでいる少年を片手で宙に吊した。小雨の中で金モール服がキリキリと廻転した。 「致します致します。何でも致します。……すぐに……すぐに船から下して下さい。殺さないで下さい」 「知ってやがったか。ワハハハハハハハ」 兼は大口を開いて笑いながら私たちを見まわした。船長も二等運転手も、多分俺の顔も石のように剛ばっていた。あんまり兼の笑い顔が恐ろしかったので……額の向疵までが左右に開いて笑ったように見えたので……。 「……サ柔順しく働らけ。誰も手前の事なんか云ってる奴は居ねえんだからな。ハハハ」 小雨の中に肩をすぼめて艙口を降りて行く伊那少年の背後姿は、世にもイジラシイ憐れなものであった。 そうして俺達はソレッキリ伊那少年の姿を見なかったのだ。 犬吠埼から金華山沖の燈台を離れると、北海名物の霧がグングン深くなって行く。汽笛を矢鱈に吹くので汽鑵の圧力計がナカナカ上らない。速力も半減で、能率の不経済な事夥しい。 一等運転手と船長と、俺とが、食堂でウイスキー入りの紅茶を飲みながらコンナ話をした。 「今度は霧が早く来たようだね」 「すぐ近くに氷山がプカプカやっているんじゃねえかな。霧が恐ろしく濃いようだが……」 「そういえば少し寒過ぎるようだ。コンナ時にはウイスキー紅茶に限るて……」 「紅茶で思い出したがアノS・O・Sの伊那一郎は船長が降したんですか」 船長は木像のように表情を剛ばらせた。無言のまま頭を軽く左右に振った。 「おかしいな。横浜以来姿が見えませんぜ」 「ムフムフ。何も云やせん。あの時、君に貸してやった切りだ」 「ジョジョ冗談じゃない。僕に責任なんか無いですよ。デッキの兼に渡した切り知りませんが、貴方も見ていたでしょう」 「殺ったんじゃねえかな……兼が」 と云ううちに一等運転手が自分でサッと青い顔になった。 「……まさか。本人も降りると云ってたんだからな……無茶な事はしまいよ」 「しかし降りるなら降りるで挨拶ぐらいして行きそうなもんだがねえ」 「ムフムフ。まだ船の中に居るかも知れん……どこかに隠れて……」 と船長が云って冷笑した。例の通り渋紙の片隅へ皺を寄せて……硝子球をギョロリと光らして……。俺は何かしらゾッとした。そのまま紅茶をグッと飲んで立上った。 こうした俺たちの会話は、どこから洩れたか判然らないが忽ち船の中へパッと拡がった。 「捜し出せ捜し出せ。見当り次第海にブチ込め。ロクな野郎じゃねえ」 と騒ぎまわる連中も居たが、そんな事ではいつでも先に立つ例の向う疵の兼が、この時に限って妙に落付いて、 「居るもんけえ。飲まず食わずでコンナ船の中へ居れるもんじゃねえちたら。逃げたんだよ」 と皆を制したのでソレッキリ探そうとする者もなかった。しかし、それでも伊那少年の行方は妙に皆の気にかかってしまったらしく、狭い廊下や、デッキの片隅を行く船員の眼はともすると暗い処を覗きまわって行くようであった。 船を包む霧は益々深く暗くなって来た。 モウ横浜を出てから十六日目だから、大圏コースで三千哩近くは来ている。ソロソロ舵をE・S・Eに取らなければ……とか何とか船長と運転手が話し合っているが、俺はどうも、そんなに進んでいるような気がしなかった。しかもその割りに石炭の減りようが烈しいように思った。これは要するに俺の腹加減で永年の経験から来た微妙な感じに過ぎないのだが、それでも用心のために警笛を吹く度数を半分から三分の一に減らしてもらった。同時に一時間八浬の経済速度の半運転を、モウ一つ半分に落したものだから、七千噸の巨体が蟻の匍うようにしか進まなかった。 「オイ。どこいらだろうな」 「そうさなあ。どこいらかなあ」 といったような会話がよく甲板の隅々で聞こえた。むろん片手を伸ばすと指の先がボーッと見える位ヒドイ霧だから話している奴の正体はわからない。 「汽笛を鳴らすと矢鱈にモノスゴイが、鳴らさないと又ヤタラに淋しいもんだなあ」 「アリュウシャン群島に近いだろうな」 「サア……わからねえ。太陽も星もねえんだかんな。六分儀なんかまるで役に立たねえそうだ」 「どこいらだろうな」 「……サア……どこいらだろうな」 コンナ会話が交換されているところへ、老人の主厨が飼っている斑のフォックステリヤが、甲板に馳け上って来ると突然に船首の方を向いてピッタリと立停まった。クフンクフンと空中を嗅ぎ出した。同時にワンワンワンワンと火の附くように吠え初めた。 「オイ。陸だ陸だッ」 とアトから跟いて来た主厨の禿頭が叫ぶ。成る程、波の形が変化して、眼の前にボーッと島の影が接近している。 「ウワッ……陸だッ……大変だッ」 「後退……ゴスタン……陸だ陸だッ」 「大変だ大変だ。ぶつかるぞッ……」 ワアワアワアワアと蜂の巣を突いたような騒ぎの中に、船は忽ちゴースタンして七千噸の惰力をヤット喰止めながら沖へ離れた。船首にグングンのしかかって来る断崖絶壁の姿を間一髪の瀬戸際まで見せ付けられた連中の額には皆生汗が滲んだ。 「あぶねえあぶねえ。冗談じゃねえ。汽笛を鳴らさねえもんだから反響がわからねえんだ。だから陸に近いのが知れなかったんだ」 「機関長の奴ヤタラにスチームを惜しみやがるもんだからな……テキメンだ」 「今の島はどこだったろう」 「セント・ジョジじゃねえかな」 「……手前……行ったことあんのか」 「ウン。飛行機を拾いに行った事がある」 「何だ何だセント・ジョジだって……」 「ウン。間違えねえと思う。波打際の恰好に見おぼえがあるんだ」 「篦棒めえ。セント・ジョジったらアリュウシャン群島の奥じゃねえか」 「ウン。船が霧ん中でアリュウシャンを突ん抜けて白令海へ這入っちゃったんだ」 「間抜けめえ。船長がソンナ半間な処へ船を遣るもんけえ」 「駄目だよ。船長にはもうケチが附いてんだよ。S・O・S小僧に祟られてんだ」 「でも小僧はモウ居ねえってんじゃねえか」 「居るともよ。船長がどこかに隠してやがるんだ。夜中に船長室を覗いたらシッカリ抱き合って寝てたっていうぜ」 「ゲエッ。ホントウけえ」 「……真実だよ……まだ驚く話があるんだ。主厨の話だがね、あのS・O・S小僧ってな女だっていうぜ。……おめえ川島芳子ッてえ女知らねえか」 「知らねえね。○○女優だろう」 「ウン……あんな女だっていうぜ。毛唐の船長なんか、よくそんな女をボーイに仕立てて飼ってるって話だぜ。寝台の下の箱に入れとくんだそうだ。自分の喰物を領けてね」 「フウン。そういえば理窟がわかるような気もする。女ならS・O・Sに違えねえ」 「だからよ。この船の船霊様ア、もうトックの昔に腐っちゃってるんだ」 「ああ嫌だ嫌だ。俺アゾオッとしちゃった」 「だからよ。船員は小僧を見付次第タタキ殺して船霊様を浄めるって云ってんだ。汽鑵へブチ込めやあ五分間で灰も残らねえってんだ」 「おやじの量見が知れねえな」 「ナアニヨ。S・O・Sなんて迷信だって機関長に云ってんだそうだ。俺の計算に、迷信が這入ってると思うかって機関長に喰ってかかったんだそうだ」 「機関長は何と云った」 「ヘエエッて引き退って来たんだそうだ」 「ダラシがねえな。みんなと一所に船を降りちまうぞって威かしゃあいいのに」 「駄目だよ。ウチの船長は会社の宝物だからな。チットぐれえの気紛なら会社の方で大目に見るにきまっている。船員だって船長が桟橋に立って片手を揚げれや百や二百は集まって来るんだ」 「それあそうかも知れねえ」 「だからよ。晩香坡に着いてっからS・O・Sの女郎をヒョッコリ甲板に立たせて、ドンナもんだい。無事に着いたじゃねえかってんで、コチトラを初め、今まで怖がっていた毛唐連中をギャフンと喰らわせようって心算じゃねえかよ」 「フウン。タチがよくねえな。事によりけりだ。コチトラ生命がけじゃねえか」 「まったくだよ。船長はソンナ事が好きなんだからな」 「機関長も船長にはペコペコだからな」 「ウムウム。この塩梅じゃどこへ持ってかれるかわからねえ」 「まったくだ。計算にケチが付かねえでも、アタマにケチが付けあ、仕事に狂いが来るのあ、おんなじ事じゃねえかな」 「そうだともよ。スンデの事にタッタ今だって、S・O・Sだったじぇねえか」 「ああ。いやだいやだ……ペッペッ……」 コンナ会話を主檣の蔭で聞いた俺は、何ともいえない腐った気持になって、霧の中を機関室へ降りて行った。……これが迷信というものだかどうだか知らないが、自分の頭の中まで濃霧に鎖されたような気になって……。
それから三日ばかりした真夜中から、波濤の音が急に違って来たので眼が醒めた。アラスカ沿岸を洗う暖流に乗り込んだのだ……と思ったのでホッとして万年寝床の中に起上った。 同時に船橋から電話が来て、すぐに半運転を全運転に切りかえる。霧笛をやめる。探照燈を消す。機関室は生き上ったように陽気になった。一等運転手の声が電話口に響いた。 「石炭はドウダイ」 「桑港まで請け合うよ。霧は晴れたんかい」 「まだだよ。海路は見通しだが空一面に残ってるもんだから天測が出来ねえ」 「位置も方角もわからねえんだな」 「わからねえがモウ大丈夫だよ。サッキ女帝星座が、ちょうどそこいらと思う近処へウッスリ見えたからな。すぐに曇ったようだが、モウこっちのもんだよ」 「アハハハ。S・O・Sはどうしたい」 「どっかへフッ飛んじゃったい。船長は晩香坡から鮭と蟹を積んで桑港から布哇へ廻わって帰るんだってニコニコしてるぜ」 「安心したア。お休みい……」 「布哇でクリスマスだよオオ――だ……」 「勝手にしやがれエエ……エ……だ……」 「アハアハアハアハアハ……」 ところがこうした愉快な会話が、霧が晴れると同時にグングン裏切られて行ったから不思議であった。 夜が明けて、霧が晴れてから、久し振りに輝き出した太陽の下を見ると、船はたしかに計算より遅れている。しかも航路をズッと北に取り過ぎて、晩香坡とは全然方角違いのアドミラルチー湾に深入りして雪を被った聖エリアスの岩山と、フェア・ウェザー山の中間にガッチリと船首を固定さしているのには呆れ返った。……船長と運転手の計算も、又は俺の腹加減までもが、ガラリと外れてしまっていたのだ。 そればかりではない。 船に乗ってアラスカ近海へ廻わった経験のある人間でなければ、あの近海の波の大きさと、恐ろしさはチョット見当が付きかねるだろう。こんな処でイクラ法螺を吹いても、あの波濤のスバラシサばっかりは説明が出来ないと思うが、何もかも無い。これが波かと思う紺青色の大山脈が、海抜五千米突の聖エリアス山脈を打ち越す勢いで、青い青い澄み切った空の下を涯てしもなく重なり合いながら押し寄せて来る。アラスカ丸は七千噸だから荷物船では第一級の大型だったが、たとい七千噸が七万噸でもあの波に引っかかったら木っ葉も同然だ。
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