私は嬉しい。「あやかしの鼓」の由来を書いていい時機が来たから…… 「あやかし」という名前はこの鼓の胴が世の常の桜や躑躅と異って「綾になった木目を持つ赤樫」で出来ているところからもじったものらしい。同時にこの名称は能楽でいう「妖怪」という意味にも通っている。 この鼓はまったく鼓の中の妖怪である。皮も胴もかなり新らしいもののように見えて実は百年ばかり前に出来たものらしいが、これをしかけて打ってみると、ほかの鼓の、あのポンポンという明るい音とはまるで違った、陰気な、余韻の無い……ポ……ポ……ポ……という音を立てる。 この音は今日迄の間に私が知っているだけで六、七人の生命を呪った。しかもその中の四人は大正の時代にいた人間であった。皆この鼓の音を聞いたために死を早めたのである。 これは今の世の中では信ぜられぬことであろう。それ等の呪われた人々の中で、最近に問題になった三人の変死の模様を取り調べた人々が、その犯人を私――音丸久弥と認めたのは無理もないことである。私はその最後の一人として生き残っているのだから……。 私はお願いする。私が死んだ後にどなたでもよろしいからこの遺書を世間に発表していただきたい。当世の学問をした人は或は笑われるかも知れぬが、しかし……。 楽器というものの音が、どんなに深く人の心を捉えるものであるかということを、本当に理解しておられる人は私の言葉を信じて下さるであろう。 そう思うと私は胸が一パイになる。
今から百年ばかり前のこと京都に音丸久能という人がいた。 この人はもとさる尊とい身分の人の妾腹の子だという事であるが、生れ付き鼓をいじることが好きで若いうちから皮屋へ行っていろいろな皮をあつらえ、また材木屋から様々の木を漁って来て鼓を作るのを楽しみにしていた。そのために親からは疎んぜられ、世間からは蔑すまれたが、本人はすこしも意としなかった。その後さる町家から妻を迎えてからは、とうとうこれを本職のようにして上つ方に出入りをはじめ、自ら鼓の音に因んだ音丸という苗字を名宣るようになった。 久能の出入り先で今大路という堂上方の家に綾姫という小鼓に堪能な美人がいた。この姫君はよほどいたずらな性質で色々な男に関係したらしく、その時既に隠し子まであったというが、久能は妻子ある身でありながら、いつとなくこの姫君に思いを焦がすようになった揚句、ある時鼓の事に因せて人知れず云い寄った。 綾姫は久能にも色よい返事をしたのであった。しかしそれとてもほんの一時のなぐさみであったらしく、間もなく同じ堂上方で、これも小鼓の上手ときこえた鶴原卿というのへ嫁づくこととなった。 これを聞いた久能は何とも云わなかった。そうしてお輿入れの時にお道具の中に数えて下さいといって自作の鼓を一個さし上げた。 これが後の「あやかしの鼓」であった。 鶴原家に不吉なことが起ったのもそれからのことであった。 綾姫は鶴原家に嫁づいて後その鼓を取り出して打って見ると、尋常と違った音色が出たので皆驚いた。それは恐ろしく陰気な、けれども静かな美くしい音であった。 綾姫はその後何と思ったか、一室に閉じこもってこの鼓を夜となく昼となく打っていた。そうして或る朝何の故ともなく自害をして世を早めた。するとそれを苦に病んだものかどうかわからぬが、鶴原卿もその後病気勝ちになって、或る年関東へお使者に行った帰り途に浜松とかまで来ると血を吐いて落命した。今でいう結核か何かであったろう。その跡目は卿の弟が継いだそうである。 しかしその鼓を作った久能も無事では済まなかった。久能はあとでこの鼓をさし上げたことを心から苦にして、或る時鶴原卿の邸内へ忍び入ってこの鼓を取り返そうとすると、生憎その頃召し抱えられた左近という若侍に見付けられて肩先を斬られた。そのまま久能は鼓を取り得ずに逃げ帰って間もなく息を引き取ったが、その末期にこんなことを云った。
「私は私があの方に見すてられて空虚となった心持ちをあの鼓の音にあらわしたのだ。だから生き生きとした音を出させようとして作った普通の鼓とは音色が違う筈である。私はこれを私の思うた人に打たせて『生きながら死んでいる私』の心持ちを思い遣ってもらおうと思ったのだ。ちっとも怨んだ心持ちはなかった。その証拠にはあの鼓の胴を見よ。あれは宝の木といわれた綾模様の木目を持つ赤樫の古材で、日本中に私の鑿しか受け付けない木だ。その上に外側の蒔絵まで宝づくしにしておいた。あれはお公卿様というものが貧乏なものだから、せめてあの方の嫁かれた家だけでも、お勝手許の御都合がよいようにと祈る心からであった。それがあんなことになろうとは夢にも思い設けなんだ。誰でもよい。私が死に際のお願いにあの鼓を取り返して下さらんか。そうして又と役に立たんように打ち潰して下さらんか。どうぞどうぞ頼みます」
これが久能の遺言となったが、誰も鶴原家に鼓を取り返しに行く者なぞなかった。それどころでなく変死であったので、ごく秘密で久能の死骸を葬った。
しかしこの遺言はいつとなく噂となって世間に広まり、果は鶴原家の耳にも入るようになった。鶴原家ではそれからその鼓をソックリ箱に蔵めて、土蔵の奥に秘めて虫干しの時にも出さないようにした。それと一緒に誰云うとなく「あやかしの鼓」という名が附いて、その箱の蓋を開いただけでも怪しいことがある……その代りこの鼓を持ち伝えてさえおれば家の中に金が湧くと言い伝えられた。そのおかげかどうかわからぬが、その後の鶴原家には別に変ったこともなく却ってだんだんと勝手向きもよくなって維新後は子爵を授けられたが、大正の初めになると京都を引き上げて東京の東中野に宏大な邸を構えた。 これと反対に綾姫の里方の今大路家はあまり仕合せがよくなかった。綾姫が鶴原家に嫁づいたたあとで、血統が絶えそうになったが綾姫の隠し子があったのを探し出して表向きを都合よくして、やっと跡目を立てたような始末であった。しかしその後しだいに零落してしまって維新後はどうなったか、わからなくなっているという。 こうして「あやかしの鼓」に関係のある二軒の家が一軒は栄え一軒は落ちぶれている一方に、音丸久能の子の久伯と、その子の久意は久能のあとを継いで鼓いじりを商売にしてどうにか暮らしているにはいた。けれども二人とも久能の遺言を本気に受けて鶴原家からアヤカシの鼓を引き取ろうというようなことはしなかった。 この久能の孫の久意が私の父であった。 私の父は京都にいる時分から鼓の修繕や仲買い見たようなことをやっていた。けれども手職が出来たらしい割りにお客の取り付きがわるく、最初に生れた男の子の久禄というのは生涯音信不通で、六ツの年に他家へ遣るという有り様であった。これを東京の九段におられる能小鼓の名人で高林弥九郎という人が見かねて東京に呼び寄せ、牛込の筑土八幡の近くに小さな家を借りて住まわせて下すったので父はやっと息を吐いたという事である。 しかし明治三十六年になって母が私を生み残して死ぬと、どうしたものか父は仕事を怠け初めて貸本ばかり読むようになった。それから大正三年の夏に脊髄病に罹って大正五年の秋まで足かけ三年の間私に介抱されたあげく肺炎で死んだ。その時が五十五であった。 その死ぬすこし前のことであった。 私が復習を済ましてから九段の老先生から借りて来た「近世説美少年録」という本を読んできかせようとすると父は、 「ちょっと待て、今日はおれが面白い話をしてきかせる」 と云いながらポツポツと話し出した。それが「アヤカシの鼓」の由来で私にとっては全く初耳の話であった。 ……ところで…… と父は白湯を一パイ飲んで話し続けた。 「……実はおれもこの話をあまり本気にしなかった。名高い職人にはよくそんな因縁ばなしがくっついているものだから……東京に来ても鶴原家がどこにあるやら気も付かず、また考えもしなかった。 すると今から三年ばかり前の春のこと、朝早くおれが表を掃いていると二十歳ばかりの若い美しいはいからさんが来て、この鼓の調子を出してくれと云いながら綺麗な皮と胴を出した。おれは何気なく受け取って見ると驚いた。胴の模様は宝づくしで材木は美事な赤樫だ。話にきいた『あやかしの鼓』に違いないのだ。そのはいからさんはその時こんなことを云った。 『私は中野の鶴原家のもので九段の高林先生の処でお稽古を願っているものだが、この鼓がうちにあったから出して打って見たんだけど、どうしても音が出ない。何でもよっぽどいい鼓だと云い伝えられているのだから、音が出ない筈はないと思うのだけど』 と云うんだ。おれは試しに、 『ヘエ。その云い伝えとはどんなことで……』 と引っかけて見たが奥さんはまだ鶴原家に来て間もないせいか、詳しいことは知らないらしかった。只、 『赤ん坊のような名前だったと思います』 と云ったのでおれはいよいよそれに違いないと思った。おれはその鼓を一先ず預ることにして別嬪さんをかえした。そのあとですぐに仕かけて打って見ると……おれは顫え上った。これは只の鼓じゃない。祖父さんの久能の遺言は本当であった。鶴原家に祟るというのも嘘じゃないと思った。 とはいうものの鶴原家がこの鼓を売るわけはないし、どんなに考えてもこっちのものにする工夫が附かなかったので、おれはそのあくる日中野の鶴原家に鼓を持って行って奥さんに会ってこんな嘘を吐いた。 『この鼓はどうもお役に立ちそうに思えませぬ。第一長い事打たずにお仕舞いおきになっておりましたので皮が駄目になっております。胴もお見かけはまことに結構に出来ておりますが、材が樫で御座いますからちょっと音が出かねます。多分これは昔の御縁組みの時のお飾り道具にお用い遊ばしたものと存じますが……その証拠には手擦があまり御座いませんので……お模様も宝づくしで御座いますから……』 これは家業の一番六かしいところで、こっちの名を捨ててお向う様のおためを思わねばならぬ時のほか、滅多に吐いてはならぬ嘘なのだ。ところが若い奥さんはサモ満足そうにうなずいたよ。 『妾もおおかた、そんな事だろうと思ったヨ。妾の手がわるいのかと思っていたけど、それを聞いて安心しました。じゃ大切にして仕舞っておきましょう』 って云って笑ってね。十円札を一枚、無理に包んでくれたよ。それから間もなく俺は脊髄にかかって仕事が出来なくなったし、その奥さんも別に仕事を持って来なかった。 けれども俺は何となく気になるから、その後九段へ伺うたんびに内弟子の連中から鶴原家の様子を聞き集めて見ると……どうだ……。 鶴原の子爵様というのは元来、お家柄自慢の気の小さい人で、なかなかお嫁さんが定まらないために三十まで独身でいた位だったそうだが、その前の年の暮にチョットした用事で大阪へ行くと、世間でいう魔がさしたとでもいうのだろう。どこで見初めたものか今の奥さんに思い付かれて夢中になったらしく、とうとう子爵家へ引っぱり込んでしまった。するとその奥さんの素性がわからないというので、親類一統から義絶された揚げ句、京都におれなくなって、東京の中野に移転して来たものだった。 ところでそれはまあいいとしてその奥さんは、名前をたしかツル子さんといったっけが……東京へ越して来て鼓のお稽古を初めると間もなく、子爵様の留守の間に、お附きの女中が青くなって止めるのもきかないで『あやかしの鼓』を出して打って見たものだ。それをあとから子爵様が聞いてヒドク叱ったそうだが、それを気に病んだものか子爵様は間もなく疳が昂ぶり出して座敷牢みたようなものの中へ入れられてしまった。それからツル子夫人は中野の邸を売り払って麻布の笄町に病室を兼ねた小さな家を建てて住んだものだが、そうして病人の介抱をしいしい若先生のところへお稽古に来ているうちに子爵様はとうとう糸のように痩せ細って、今年の春亡くなってしまった。 そうすると鶴原の未亡人は、そのあとへ、自分の甥とかに当る若い男を連れて来て跡目にしようとしたが、鶴原の親類はみんなこの仕打ちを憤ってしまって、お上に願って華族の名前を除くといって騒いでいる。おまけに若未亡のツル子さんについても、よくない噂ばかり……ドッチにしても鶴原家のあとは断絶たと同様になってしまった。 おれは誰にも云わないが、これはあの『あやかしの鼓』のせいだと思う。そうして、それにつけておれはこの頃から決心をした。お前は俺の子だけあって鼓のいじり方がもうとっくにわかっている。今にきっと打てるようになると思う。 けれども俺はお前に云っておく。お前はこれから後、忘れても鼓をいじってはいけないぞ。これは俺の御幣担ぎじゃない。鼓をいじると自然いい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはキットあの鼓に心を惹かされるようになるから云うんだ。あのアヤカシの鼓は鼓作りの奥儀をあらわしたものだからナ……。 そうなったらお前は運の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。狂人になるか変人になるかどっちかだ。 お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。 おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。 いいか……忘れるな……」
私はお伽噺でも聞くような気になってこの話を聞いていた。しかし別段鼓打ちになろうなぞとは思わなかったから、温柔しくうなずいてばかりいた。 父は安心したらしかった。
その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。 老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。 若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが老先生と反対にデップリと肥った気の優しい人で、鼓の音ジメのよかった事、東京や京阪で催しのある毎に一流の芸者がわざわざ聞きに来た位であったという。家出された時が二十歳であったが着のみ着のままで遺書なぞもなく、また前後に心当りになるような気配もなかったので探す方では途方に暮れた。一方に気の早い内弟子はもう後釜をねらって暗闘を初めているらしい事なぞをおしゃべりの女中からきいた。 「あなたが大方あと継ぎにおなりになるんでショ」なぞとその女中は云った。 しかし老先生は私に鼓打ちになれなぞとは一口も云われなかった。只無暗に可愛がって下さるばかりであった。 けれども家が家だけに鼓の音は朝から晩まで引っ切りなしにきこえた。そのポンポンポンポンという音をウンザリする程きかされているうちに私の耳は子供ながら肥えて来た。初めいい音だと思ったのがだんだんつまらなく思われるようになった。内弟子の中で一番上手だという者の鼓の音〆はほかの誰のよりもまん丸くて、キレイで、品がよかったがそれでも私は只美しいとしか感じなかった。もうすこし気高い……神様のように静かな……または幽霊の声のように気味のわるい鼓の音はないものか知らん……などと空想した。 私は老先生の鼓が聞きたくてたまらなくなった。 しかし老先生が打たれる時は舞台か出稽古の時ばかりで、うちでは滅多に鼓を持たれなかった。一方に私も学校へ通っていたので、高林家へ来て暫くの間は一度も老先生の鼓をきくことが出来なかった。只一度正月のお稽古初めの時に吉例の何とかいうものを打たれたそうであるが、その時は生憎お客様のお使いをしていたために聞き損ねた。
こうして一夜明けた十六の年の春、高等二年の卒業免状を持って九段に帰ると、私はすぐ裏二階の老先生の処へ持って行ってお眼にかけた。すると向うむきになって朱筆で何か書いておられた老先生はふり返ってニッコリしながら、 「ウム。よしよし」 とおっしゃって茶托に干菓子を山盛りにして下さった。それをポツポツ喰べている私の顔を老先生はニコニコして見ておられたが、やがて床の間の横の袋戸から古ぼけた鼓を一梃出して打ち初められた。 そのゝゝゝ○○○という音をきいた時、私はその気高さに打たれて髪の毛がゾーッとした。何だか優しいお母さんに静かに云い聞かされているような気もちになって胸が一パイになった。 「どうだ鼓を習わないか」 と老先生は真白な義歯を見せて笑われた。 「ハイ、教えて下さい」 と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で『三ツ地』や『続け』の手を習った。 けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、間や呼吸なぞもなっていないといって内弟子からいつも叱られた。 「大飯を喰うから頭が半間になるんだ。おさんどん見たいに頬ペタばかり赤くしやがって……」 なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。――鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう――なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。 その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、極く内輪でお菓子とお茶ばかりの御法事が老先生のお室であった。その席上で老先生の親類らしい胡麻塩のおやじが、 「早く御養子でもなすっては……」 と云ったら並んでいる内弟子の三、四人が一時に私の方を見た。老先生は苦笑いをされた。 「サア、靖(若先生)のあとは、ちょっとありませんね。ドングリばかりで……」 とみんなの顔を一渡り見られた。内弟子はみんな真赤になった。 私はこの時急に若先生に会って見たくなった。――きっとどこかに生きておられるに違いない。そうして鼓を打っておられるような気がする。その音がききたいな――と夢のようなことを考えながら、老先生のうしろにある仏壇のお燈明の間に白く光っている若先生のお位牌を見ていると、不意に、 「その久弥さんはどうです」 と胡麻塩おやじが又出しゃばって云ったので私は胸がドキンとした。 「イヤ。これはいわば『鼓の唖』でね……調子がちっとも出ないたちです。生涯鳴らないかも知れません。こんなのは昔から滅多にいないものですがね」と云いながら私の頭を撫でられた。私もとうとう真赤になった。 「その児はものになりましょうか」 と内弟子の中の兄さん株が云った。吹き出したものもあった。 「物になった時は名人だよ」 と老先生は落ち付いて云われた。みんなポカンとした顔になった。
みんなが裏二階を降りると老先生は私に取っときの洋羮を出して下さった。そうして長い煙管で刻煙草を吸いながらこんなことを云われた。 「お前はなぜ鼓の調子を出さないのだえ。いい音が出せるのに調子紙を貼ったり剥がしたりして音色を消しているが、どうしてお前はあんなことをするのだえ」 私はおめず臆せず答えた。 「僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです」 「フーン」 と老先生はすこし御機嫌がわるいらしく、白い煙を一服黒い天井の方へ吹き出された。 「じゃどんな音色が好きなんだ」 「どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです」 「……フーム……おれの鼓はどうだえ」 「好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです」 老先生は又天井を向いてプーッと煙を吹きながら、目をショボショボと閉じたり明けたりされた。 「先生」と私はいくらか調子に乗って云った。 「鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか」 「飛んでもない」 と老先生は私の顔を見られた。私はこの時ほど厳重な老先生の顔を見たことがなかった。私はうなだれて黙り込んだ。 「あの鼓を出すとあの家に不吉なことがあるというじゃないか。たとい嘘にしろ他人の家に災難があるようなことを望むものじゃないぞ。いいか。気に入った鼓がなければ生涯舞台に出ないまでのことだ」 私は生れて初めて老先生にこんなに叱られて真青になった。けれども心から恐れ入ってはいなかった。 「あやかしの鼓」が私のあこがれの的となったのはこの時からであった。
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