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舞姫(まいひめ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-7 10:10:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 明治廿一年の冬は來にけり。表街の人道にてこそ沙をも蒔け、すき[#「金+挿のつくり」、10-上-12]をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹※(「土へん+可」、第3水準1-15-40)かんかの處は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北歐羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞臺にて卒倒しつとて、人に扶けられて歸り來しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、惡阻つはりといふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覺束なきは我身の行末なるに、若し眞なりせばいかにせまし。
 今朝は日曜なれば家に在れど、心は樂しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小き鐵爐の畔に椅子さし寄せて言葉すくなし。この時戸口に人の聲して、程なく庖厨にありしエリスが母は、郵便の書状を持て來て余にわたしつ。見れば見覺えある相澤が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。訝りつゝもひらきて讀めば、とみの事にて預め知らするに由なかりしが、昨夜こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも來たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾く來よ。汝が名譽を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。讀み畢りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。惡しき便にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に關する書状と思ひしならん。「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相澤が、大臣と倶にこゝに來てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」
 かはゆき獨り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が爲めに手づから結びつ。
「これにて見苦しとは誰れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共に行かまほしきを。」少し容をあらためて。「否、かく衣をあらため玉ふを見れば、何となくわが豐太郎の君とは見えず。」又た少し考へて。「縱令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母ののたまふ如くならずとも。」
「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社會などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか經ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」は、輪下にきしる雪道を※(「窗/心」、第3水準1-89-54)の下まで來ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して樓を下りつ。彼は凍れる※(「窗/心」、第3水準1-89-54)を明け、亂れし髮を朔風に吹かせて余が乘りし車を見送りぬ。
 余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者かどもりに祕書官相澤が室の番號を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を登り、中央の柱に「プリユツシユ」を被へる「ゾフア」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばこゝにて脱ぎ、わたどのをつたひて室の前まで往きしが、余は少し※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)ちちゆしたり。同じく大學に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相澤が、けふはいかなる面もちして出迎ふらん。室に入りて相對して見れば、形こそ舊に比ぶれば肥えて逞ましくなりたれ、依然たる快活の氣象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにも遑あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは獨逸語にて記せる文書の急を要するを飜譯せよとの事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相澤は跡より來て余と午餐を共にせんといひぬ。
 食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路は概ね平滑なりしに、轗軻數奇かんかさくきなるは我身の上なりければなり。
 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡※(二の字点、1-2-22)驚きしが、なか/\に余をめんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢りし時、彼は色を正して諫むるやう、この一段のことはと生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、學識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活なりはひをなすべき。今は天方伯も唯だ獨逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦伯が當時の免官の理由を知れるが故に、強て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との關係は、縱令彼に誠ありとも、縱令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して斷てと。是れそのことのおほむねなりき。
 大洋に舵を失ひしふな人が、遙なる山を望む如きは、相澤が余に示したる前途の方鍼ほうしんなり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に滿足を與へんも定かならず。貧きが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、しばらく友の言に從ひて、この情縁を斷たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵かうていすれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり。
 別れて出づれば風面を撲てり。二重の玻璃※(「窗/心」、第3水準1-89-54)ガラスまどきびしく鎖して、大いなる陶爐に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、はだへ粟立つと共に、余は心の中に一種の寒さを覺えき。
 飜譯は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比ちかごろ故郷にてありしことなどを擧げて余が意見を問ひ、折に觸れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。
 一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦、魯西亞ロシアに向ひて出發すべし。隨ひて來べきか、」と問ふ。余は數日間、かの公務に遑なき相澤を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に從はざらむ。」余は我耻を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、其答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、其爲し難きに心づきても、強て當時の心虚なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屡※(二の字点、1-2-22)なり。
 この日は飜譯のしろに、旅費さへ添へて賜はりしを持て歸りて、飜譯の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亞より歸り來んまでのつひえをば支へつべし。彼は醫者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく嚴しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を惱ますとも見えず。僞りなき我心を厚く信じたれば。
 鐵路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き禮服、新に買求めたるゴタ板の魯廷ろていの貴族譜、二三種の辭書などを、小「カバン」に入れたるのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に殘らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護うしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出しやりつ。余は旅裝整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
 魯國行につきては、何事をか敍すべき。わが舌人たる任務は忽地に余を拉し去りて、青雲の上に墮したり。余が大臣の一行に隨ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を圍繞ゐねうせしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾、ことさらに黄蝋の燭を幾つ共なく點したるに、幾星の勳章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤のたくみを盡したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間佛蘭西語を最も圓滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を辨ずるものもまた多くは余なりき。
 この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく獨りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次の朝目醒めし時は、猶獨り跡に殘りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計たつきに苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一のふみあらましなり。
 又程經てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深きそこひをば今ぞ知りぬる。君は故里に頼もしきやからなしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは止まじ。それも※(「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1-84-56)かなはで東に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何處よりか得ん。いかなる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。袂を分つはたゞ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縱令いかなることありとも、我をばゆめな棄て玉ひそ。母とはいたく爭ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管ひたすら君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。
 嗚呼、余はこの書を見て始めて我地位を明視し得たり。耻かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決斷ありと自ら心に誇りしが、此決斷は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との關係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
 大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが盡したる職分をのみ見き。余はこれに未來の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし。先に友の勸めしときは、大臣の信用は屋上の禽の如くなりしが、今は稍※(二の字点、1-2-22)これを得たるかと思はるゝに、相澤がこの頃の言葉の端に、本國に歸りて後も倶にかくてあらば云々といひしは、大臣のかく宣ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が輕卒にも彼に向ひてエリスとの關係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
 嗚呼、獨逸に來し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の絲は解くに由なし。さきにこれを繰つりしは、我某省の官長にて、今はこの絲、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行と倶にベルリンに歸りしは、恰も是れ新年のあしたなりき。停車場に別を告げて、我家をさして車を驅りつ。こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、萬戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角かどある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐まりぬ。この時※(「窗/心」、第3水準1-89-54)を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁に「カバン」持たせてきざはしを登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一聲叫びて我頸を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭の内にて云ひしが聞えず。
「善くぞ歸り來玉ひし。歸り來玉はずば我命は絶えなんを。」
 我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と榮達を求むる心とは、時として愛情を壓せんとせしが、唯だ此一刹那、低徊※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)ちちゆの思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
「幾階か持ちて行くべき。」とどらの如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
 戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を勞ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などをうづたかく積み上げたれば。
 エリスは打笑みつゝこれを指して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓むつきなりき。「わが心の樂しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子ひとみをや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙滿ちたり。
 二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢てとぶらはず、家にのみ籠り居しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亞行の勞を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が學問こそわが測り知る所ならね、語學のみにて世の用には足りなむ、滯留の餘りに久しければ、樣々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居たりと宣ふ。其氣色辭むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相澤の言を僞なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承はり侍り」と應へたるは。
 黒がねのぬかはありとも、歸りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯亂は、譬へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獸苑の傍に出でたり。倒るゝ如くに路の邊のこしかけに倚りて、灼くが如く熱し、つちにて打たるゝ如く響く頭を榻背たふはいに持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覺えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇、外套の肩には一寸許も積りたりき。
 最早十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鐵道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔の瓦斯燈は寂しき光を放ちたり。立ち上らんとするに足の凍えたれば、兩手にて擦りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。
 足の運びの捗らねば、クロステル街まで來しときは、半夜をや過ぎたりけん。こゝ迄來し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覺えず。我腦中には唯※(二の字点、1-2-22)我はゆるすべからぬ罪人なりと思ふ心のみ滿ち/\たりき。
 四階の屋根裏には、エリスはまだねずと覺ぼしく、烱然けいぜんたる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、たちまち掩はれ、乍ちまた顯れて、風に弄ばるゝに似たり。戸口に入りしより疲を覺えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふ如くに梯を登りつ。庖厨くりやを過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」
 驚きしも宜なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髮はおどろと亂れて、幾度か道にてつまづき倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)よごれ、處々は裂けたれば。
 余は答へんとすれど聲出でず、膝の頻りに戰かれて立つに堪へねば、椅子を握まんとせしまでは覺えしが、その儘に地に倒れぬ。
 人事を知る程になりしは數週の後なりき。熱劇しくて譫語うはことのみ言ひしを、エリスがねもごろにみとる程に、或日相澤は尋ね來て、余がかれに隱したる顛末をつばらに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕ひ置きしなり。余は始めて病牀に侍するエリスを見て、その變りたる姿に驚きぬ。彼はこの數週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。相澤の助にて日々の生計には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。
 後に聞けば彼は相澤に逢ひしとき、余が相澤に與へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豐太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場にたふれぬ。相澤は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髮をむしり、蒲團を噛みなどし、また遽に心づきたる樣にて物を探りもとめたり。母の取りて與ふるものをば悉く抛ちしが、机の上なりし襁褓を與へたるとき、探りみて顏に押しあて、涙を流して泣きぬ。
 これよりは騷ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廢して、そのおろかなること赤兒の如くなり。醫に見せしに、過劇なる心勞にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聽かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞをり/\思ひ出したるやうに「藥を、藥を」といふのみ。
 余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行ちすぢの涙を濺ぎしは幾度ぞ。大臣に隨ひて歸東の途に上ぼりしときは、相澤とはかりてエリスが母に微かなる生計を營むに足るほどの資本を與へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
 嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。

(明治二十三年一月「國民之友」第六卷六十九號附録)





底本:「日本現代文學全集 7 森鴎外集」講談社
   1962(昭和37)年1月19日初版第1刷
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
入力:青空文庫
1997年10月8日公開
2004年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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    「金+挿のつくり」    10-上-12

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