度度噂のあつた事が、いよ/\実行せられると聞いた時、市中の人民は次第に興奮して来た。これまで毎年ロオデンシヤイド市に来る曲馬師の組は、普通の天幕の中で興行したのだが、それはもう
一月一日の場所開きには、二興行ある。一つは午後三時に始まるので、今一つは午後七時に始まるのである。札はどちらも
午後興行の大入と云つたら無い。大きな建物が殆どきい/\鳴つてゐる。織屋や鉱山稼の人達が女房子供を連れて来てすわり込んでゐる。休日にもまだ炭の
曲馬組の
曲馬組の人達は暇のない働きをしてゐるので、晩の興行の客がどの位場外に詰め寄せて来たか、平生ひつそりしてゐる、マリアの辻にどんな前景気が見えて来たか、知らずにゐる。ロオデンシヤイド市の警察は人数も余り多くない。それに余り智慧もない。そこで大変な惨状を呈しさうな模様の見えてゐるのに、それを予防しようともしなかつた。
カスペリイニイの曲馬場は正面の入口が頗広い。併しその広い入口一つしか無い。入口が即ち出口である。さて午後興行に這入つた客が太平無事を楽んでゐるうちに、晩の興行に這入らうとする客が、なるたけ入口に近く地歩を占めようとして、次第次第に
元日は馬鹿に寒かつた。毛皮外套を
やつとの事で電燈がぱつと附いた。昼の興行が済んだのである。
入口に構へてゐた警部が呼んだ。「さあ/\皆さん。少しあとへお引なさい。両側へお寄なさい。道をあけて、中にゐる連中を出して遣らなくては。」皆さんと敬つて置いて、出して遣ると
そのうち場内のものが
「皆さん。お引なさい。道をおあけなさい。」警部がいくら呼んでも駄目である。もう警部自身が群集の中で揉まれてゐる。巡査が数人それを救ひ出さうとして寄つて来たが、それもすぐに群集の中で揉まれることになつた。
もう外へ出ることも出来なければ、内へ這入ることも出来ない。双方共
「おい。そつちの奴等が避けて入れれば好いのだ。」
「なに。奴等だと。黙りやあがれ。お上品振りやあがつて。うぬ等は這入らなくても好いのだ。」
こんな風に第一線で
「これはこれは。お客様方。」かう云つて出て来たのは、赤い燕尾服を被て、手に鞭を持つた頭のカスペリイニイである。仲裁は功を奏せない。血が流れる。失敗だ。初日の大当を、お客様が
高等騎術を見せることになつてゐる女房ユリアが出て来た。「マツテオさん。鞭でぶつてお遣りよ。相手になられるならなつて見るが好い。乳つ臭い人達だわ。」
「押すのをよさないと、白熊を放すぞ。」
口笛を吹く。鬨を上げる。やじ馬が勢を得て来た。どうもしやうがない。もう曲馬組の人達が群集の中で揉まれてゐる。
「親方。防火栓をお抜かせなさい。」突然かう叫んだのは、音楽のわかる道化方トロツテルである。場内では人を涙の出るほど笑はせるのだが、今出て来たのを見れば、あはれな、かたはの小男である。拳骨を振つて囲を衝いて、
途方にくれてゐたカスペリイニイが此天才の助言を成程と思つた。警察も理性も功を奏せないとなれば、もう暴力より外あるまい。世間を馬鹿にし切つた道化方でなくては、こんな智慧は出ない。カスペリイニイは同意の手真似をして頷いた。
トロツテルは又拳骨を振つて囲を衝いて、火消番の立つてゐる所へ往つた。救のある所へ往つた。
そこでどうなつたか。気の毒千万なのはロオデンシヤイド市民と元日のおなぐさみとである。天罰の下るやうに、曲馬場の中から
防火栓は奇功を奏した。晩のお客は問題の最簡単なる解決を得た。お客は
但しいやと云ふ程洗礼を受けぬものは一人も無い。皆寒がつて歯をがちがち云はせてゐる。併し命には別状は無い。
頭カスペリイニイは天才の道化方に抱き付いて、給料を増す約束をした。これは次いで起る裁判事件を前知したら、控へたのかも知れない。新年早々数十件の損害要償の訴訟が起つて、水でいたんだ晴着の代を出させられたからである。其判決の理由にはかう云つてあつた。災難の原因は看客の理性の不足でもない。警察の不備でもない。曲馬場の入口を一つしか設けなかつたのが
頭はいやな顔もせずに償金を払つた。それはロオデンシヤイドの曲馬場は今後もきつと大入だと云ふことを知つてゐたからである。それが何よりの事だからである。