「長く待たせて」 ドイツ語である。ぞんざいなことばと不吊合いに、傘を左の手に持ちかえて、おうように手袋に包んだ右の手の指さきをさしのべた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思いながら、丁寧にその指さきをつまんだ。そして給仕にこういった。 「食事のいいときはそういってくれ」 給仕は引っ込んだ。 女は傘を無造作にソファの上に投げて、さも疲れたようにソファへ腰を落して、卓に両肘をついて、だまって渡辺の顔を見ている。渡辺は卓のそばへ椅子を引き寄せてすわった。しばらくして女がいった。 「たいそう寂しいうちね」 「普請中なのだ。さっきまで恐ろしい音をさせていたのだ」 「そう。なんだか気が落ち着かないようなところね。どうせいつだって気の落ち着くような身の上ではないのだけど」 「いったいいつどうして来たのだ」 「おとつい来て、きのうあなたにお目にかかったのだわ」 「どうして来たのだ」 「去年の暮からウラヂオストックにいたの」 「それじゃあ、あのホテルの中にある舞台でやっていたのか」 「そうなの」 「まさか一人じゃああるまい。組合か」 「組合じゃないが、一人でもないの。あなたもご承知の人が一しょなの」少しためらって。「コジンスキイが一しょなの」 「あのポラックかい。それじゃあお前はコジンスカアなのだな」 「いやだわ。わたしが歌って、コジンスキイが伴奏をするだけだわ」 「それだけではあるまい」 「そりゃあ、二人きりで旅をするのですもの。まるっきりなしというわけにはいきませんわ」 「知れたことさ。そこで東京へも連れて来ているのかい」 「ええ。一しょに愛宕山に泊まっているの」 「よく放して出すなあ」 「伴奏させるのは歌だけなの」Begleiten ということばを使ったのである。伴奏ともなれば同行ともなる。「銀座であなたにお目にかかったといったら、是非お目にかかりたいというの」 「まっぴらだ」 「大丈夫よ。まだお金はたくさんあるのだから」 「たくさんあったって、使えばなくなるだろう。これからどうするのだ」 「アメリカへ行くの。日本は駄目だって、ウラヂオで聞いて来たのだから、あてにはしなくってよ」 「それがいい。ロシアの次はアメリカがよかろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」 「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」 「うむ。官吏だ」 「お行儀がよくって」 「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」 「ありがたいわ」さっきから幾つかのボタンをはずしていた手袋をぬいで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目にその手をしっかり握った。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにいて、暈のできたために一倍大きくなったような目が、じっと渡辺の顔に注がれた。 「キスをして上げてもよくって」 渡辺はわざとらしく顔をしかめた。「ここは日本だ」 たたかずに戸をあけて、給仕が出て来た。 「お食事がよろしゅうございます」 「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺はたって、女を食卓のある室へ案内した。ちょうど電燈がぱっとついた。 女はあたりを見廻して、食卓の向う側にすわりながら、「シャンブル・セパレエ」と笑談のような調子でいって、渡辺がどんな顔をするかと思うらしく、背伸びをしてのぞいてみた。盛花の籠が邪魔になるのである。 「偶然似ているのだ」渡辺は平気で答えた。 シェリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附ききりである。渡辺は「給仕のにぎやかなのをご覧」と附け加えた。 「あまり気がきかないようね。愛宕山もやっぱりそうだわ」肘を張るようにして、メロンの肉をはがして食べながらいう。 「愛宕山では邪魔だろう」 「まるで見当違いだわ。それはそうと、メロンはおいしいことね」 「いまにアメリカへ行くと、毎朝きまって食べさせられるのだ」 二人はなんの意味もない話をして食事をしている。とうとうサラドの附いたものが出て、杯にはシャンパニエが注がれた。 女が突然「あなた少しも妬んではくださらないのね」といった。チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。女は笑談のようにいおうと心に思ったのが、はからずも真面目に声に出たので、くやしいような心持がした。 渡辺はすわったままに、シャンパニエの杯を盛花より高くあげて、はっきりした声でいった。 “Kosinski soll leben !” 凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯をあげた女の手は、人には知れぬほど顫っていた。
× × ×
まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面を包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
明治四十三年六月
底本:「日本の文学 2 森鴎外(一)」中央公論社 1966(昭和41)年1月5日初版発行 1972(昭和47)年3月25日19版発行 初出:「三田文学」 1910(明治43)年6月 入力:土屋隆 校正:小林繁雄 2005年10月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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