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普請中(ふしんちゅう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-7 10:03:25 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「長く待たせて」
 ドイツ語である。ぞんざいなことばと不吊合ふつりあいに、傘を左の手に持ちかえて、おうように手袋に包んだ右の手の指さきをさしのべた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思いながら、丁寧にその指さきをつまんだ。そして給仕にこういった。
「食事のいいときはそういってくれ」
 給仕は引っ込んだ。
 女は傘を無造作にソファの上に投げて、さも疲れたようにソファへ腰を落して、卓に両肘りょうひじをついて、だまって渡辺の顔を見ている。渡辺は卓のそばへ椅子を引き寄せてすわった。しばらくして女がいった。
「たいそう寂しいうちね」
「普請中なのだ。さっきまで恐ろしい音をさせていたのだ」
「そう。なんだか気が落ち着かないようなところね。どうせいつだって気の落ち着くような身の上ではないのだけど」
「いったいいつどうして来たのだ」
「おとつい来て、きのうあなたにお目にかかったのだわ」
「どうして来たのだ」
「去年の暮からウラヂオストックにいたの」
「それじゃあ、あのホテルの中にある舞台でやっていたのか」
「そうなの」
「まさか一人じゃああるまい。組合か」
「組合じゃないが、一人でもないの。あなたもご承知の人が一しょなの」少しためらって。「コジンスキイが一しょなの」
「あのポラックかい。それじゃあお前はコジンスカアなのだな」
「いやだわ。わたしが歌って、コジンスキイが伴奏をするだけだわ」
「それだけではあるまい」
「そりゃあ、二人きりで旅をするのですもの。まるっきりなしというわけにはいきませんわ」
「知れたことさ。そこで東京へも連れて来ているのかい」
「ええ。一しょに愛宕山あたごやまに泊まっているの」
「よく放して出すなあ」
「伴奏させるのは歌だけなの」Begleitenベグライテン ということばを使ったのである。伴奏ともなれば同行ともなる。「銀座であなたにお目にかかったといったら、是非お目にかかりたいというの」
「まっぴらだ」
「大丈夫よ。まだお金はたくさんあるのだから」
「たくさんあったって、使えばなくなるだろう。これからどうするのだ」
「アメリカへ行くの。日本は駄目だめだって、ウラヂオで聞いて来たのだから、あてにはしなくってよ」
「それがいい。ロシアの次はアメリカがよかろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」
「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」
「うむ。官吏だ」
「お行儀がよくって」
「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」
「ありがたいわ」さっきから幾つかのボタンをはずしていた手袋をぬいで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目まじめにその手をしっかり握った。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにいて、くまのできたために一倍大きくなったような目が、じっと渡辺の顔に注がれた。
「キスをして上げてもよくって」
 渡辺はわざとらしく顔をしかめた。「ここは日本だ」
 たたかずに戸をあけて、給仕が出て来た。
「お食事がよろしゅうございます」
「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺はたって、女を食卓のある室へ案内した。ちょうど電燈がぱっとついた。
 女はあたりを見廻して、食卓の向う側にすわりながら、「シャンブル・セパレエ」と笑談じょうだんのような調子でいって、渡辺がどんな顔をするかと思うらしく、背伸びをしてのぞいてみた。盛花もりばなの籠が邪魔になるのである。
「偶然似ているのだ」渡辺は平気で答えた。
 シェリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附ききりである。渡辺は「給仕のにぎやかなのをご覧」と附け加えた。
「あまり気がきかないようね。愛宕山もやっぱりそうだわ」ひじを張るようにして、メロンの肉をはがして食べながらいう。
「愛宕山では邪魔だろう」
「まるで見当違いだわ。それはそうと、メロンはおいしいことね」
「いまにアメリカへ行くと、毎朝きまって食べさせられるのだ」
 二人はなんの意味もない話をして食事をしている。とうとうサラドの附いたものが出て、杯にはシャンパニエが注がれた。
 女が突然「あなた少しもねたんではくださらないのね」といった。チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。女は笑談のようにいおうと心に思ったのが、はからずも真面目に声に出たので、くやしいような心持がした。
 渡辺はすわったままに、シャンパニエの杯を盛花より高くあげて、はっきりした声でいった。
Kosinskiコジンスキイ sollゾル lebenレエベン !”
 凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯をあげた女の手は、人には知れぬほどふるっていた。

     ×    ×    ×

 まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深くおもてを包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。

明治四十三年六月





底本:「日本の文学 2 森鴎外(一)」中央公論社
   1966(昭和41)年1月5日初版発行
   1972(昭和47)年3月25日19版発行
初出:「三田文学」
   1910(明治43)年6月
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2005年10月5日作成
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