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復讐(ふくしゅう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-7 10:02:30 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     二

 己は礼を言つて、すぐに出立しようとした。まだノレツタまで往つて泊られる丈の日足は十分あつたのだ。ところが意外にも主人は己をめて一晩泊らせようと云つた。己はとう/\主人の意に任せることにして、それから二人で庭を歩いた。主人は己にまだ見なかつた所々を案内して見せた。主人の花紋のある長い上衣の褄が、砂の上を曳いてゐる。そして手には長い杖を衝いてゐて、折々その握りの処を歯でむ癖がある。
 バルヂピエロはまだ杖に縋つて歩くやうな体では無い。綺麗に剃つた頬に刈株のやうな白い髯の尖が出掛かつてはゐるが、体は丈夫でしつかりしてゐる。己達は緑の木立に囲まれた立像の前に足を駐めた。主人はその裸体を褒めたが、其ことばは此人が形の美を解してゐると云ふことを証する詞であつた。その外主人は杖の握りに附いてゐる森のニンフをも褒めたが、その褒めかたに己は殊に感服した。そのニンフの彫物ほりものは、主人の太い、荒々しい手で握つてゐる杖のかしらに附いてゐて、指の間からはそれを鋳た黄金わうごんがきら附いてゐるのである。
 そのうち食事の時刻になつた。おごりを極めた食事で、随分時間が長く掛かつた。己達の食卓に就いたのは、周囲の壁に鏡を為込しこんだ円形の大広間であつた。給仕は黒ん坊で、黙つて音もさせずに出たり這入つたりする。その影が鏡にうつつて、不思議に大勢に見えるので、己はなんだか物に魅せられたやうな心持がした。黒ん坊は※(「糸+求」、第4水準2-84-28)ちゞれた毛の上に黄絹きぎぬの帽をかぶつてゐる。帽の上には鷺の羽がゆら/\と動いてゐる。耳には黄金の環が嵌めてある。黒い手で注いでくれるのは、己の大好なジエンツアノの葡萄酒だ。己はそれを飲めば飲む程機嫌が好くなつたが、主人の顔は見る見る陰気になつた。己に盛んに飲食させながら、主人は杯にも皿にも手を着けずにゐる。併し此場合に己の食機しよくきふるつたのは、矢張模範として好い事かと思ふ。無論旅をして腹を空かしてゐるので、不断より盛んに飲食したには違ひない。併しそればかりでは無い。一体世間を広く渡つた人の言つてゐる事が※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)でないなら、己は今にもどんな事に出逢ふかも知れず、又その出逢ふかも知れぬ事が千差万別なのだから、己はしつかり腹を拵へて掛かるべき身の上ではあるまいか。兎に角己はいつに無い上機嫌になつて来た。己は酒にのぼせて、顔がすこやかな濃いくれなゐに染まつた。それを主人は妬ましげに見てゐるらしい。心身共に丈夫な主人の事だから、誰をも妬むには及ばぬ筈なのに。
 主人は岩畳なには相違ない。併し明るいともしびの下でつく/″\見てゐると、どうも顔に疲労の痕が現れてゐるやうに思はれた。庭を余り久しく散歩した為めか、それとも外に原因があるのか。此人は見掛けが丈夫らしくても、どこか悪い処があるのだらうか。バルヂピエロの年齢はもう性命を維持して行く丈の力しか無くなる頃になつてゐる。あれでも若し将来に於いて自分にふさはしい限の事をしてゐたら、まだ長く体を保つて行かれるだらう。然るにこのバルヂピエロはもう若いもので無いと諦念あきらめを附けることの出来ない人として、世間の人に知られてゐる。此人は今も機会があつたら若いものの真似をしようとしてゐる。自分では控目にしてゐるのかも知れぬが、それでもその冒険が度を過ぎてゐるらしい。
 いろ/\話をしてゐるうちに、己がかうではあるまいかと思ひ遣つたやうな事を、主人が公然打ち明けて訴へ出した。己を為合しあはせだと云つて褒めて、それを自分の老衰に較べた。その口吻こうふんが特別に不満らしかつた。己は気を着けて聞いてはゐない。己の考では、それはどうせ人間の一度は出逢ふ運命で、人間は早晩さうなると云ふことを知つて、さうならぬうちに早く出来る丈の快楽を極めるが好いのだ。そこで己は話をしながらも盛んにジエンツアノの葡萄酒を飲み続けて、肴には果物を食つた。その果物は黒ん坊が銀の針金で編んだ籠に盛つて持つて来たのだ。己は果物の旨いのを機会として、主人に馳走の礼を言つた。主人がこれに答へた辞令は頗る巧なものだつた。余り思ひ設けぬ来訪に逢つたので、心に思ふ程の馳走をすることが出来ない。只庭を見せて食事を一しよにする位の事で堪忍して貰はんではならない。その食事も面白い相客を呼び集める余裕は無いから、自分のやうな不機嫌な老人を相手にして我慢して貰はんではならない。せめて音楽でもあると好いのだが、それも無いと云ふのだつた。己はかう云ふ返事をした。相客や音楽は決して欲しくは無い。先輩たる主人と差向ひで静に食事をするのが愉快だ。只主人の清閑を妨げるのでは無いかと云ふ事丈が気に懸かる。勿論かう云ふ機会に聞く有益な話が、どれ丈自分の為めになると云ふことは知つてゐると云つた。主人は項垂うなだれて聞いてゐたが、己の詞が尽きると頭を挙げた。そしてかう云つた。お前の礼儀を厚うした返事を聞いて満足に思ふ。お前も今さう云つてゐる瞬間には、その通りに感じてゐるかも知れない。併しも少しするとお前の考が変るだらう。それはお前が一人で敷布団と被布団きぶとんとの間に潜り込む時だ。若いものにはさう云ふ事は向くまい。殊に女に可哀かはいがられる若いものにはと、主人は云つた。
 女と云ふ詞を聞くと同時に、なぜだか自分にも分からぬが、さつき見て気になつた、鎖してある窓の事が思ひ出された。己は主人の顔を見た。今此座敷にゐるものは主人と己との二人切りで、給仕の黒ん坊はゐなくなつてゐる。己には天井から吊り下げてある大燭台がぶら/\と揺れてゐるやうな気がする。そして其影が壁の鏡にうつつて幾千の燭火ともしびになつて見える。己はもうジエンツアノの葡萄酒を随分飲んでゐる。そして今主人の何か言ふのに耳を傾けながら、ピエンツアの無花果いちぢくの一つを取つて皮をむいてゐる。己はその汁の多い、赤い肉がひどく好きなのだ。
 主人の詞が己の耳には妙に聞える。なんだか己の前にゐる主人の口から出るのではなくて、遠い所から聞えて来るやうだ。周囲の壁に嵌めてある許多あまたの鏡から反射してゐる大勢の主人が物を言つてゐるやうにも思はれる。それにその詞の中で己に提供してゐる事柄には、己は随分驚かされた。もつとも当時の己の意識は此驚きをもはつきり領略してはゐなかつたが、兎に角己は驚いてゐたには違ひ無い。なぜと云ふに己は突然かう云ふことを聴き取つたのだ。己は只即坐に立ち上がつて、さつき気にした、あの窓の鎖してある部屋に往けば好い。そこには寝台の上に眠つてゐる女があると云ふのだ。それに就いて己は誓言せいごんをさせられた。それはその女が何者だとか、どこから来たのだとか云ふことを、決して探らうとしてはならぬと云ふのだ。それから己はかう云ふことを先づ以て教へられた。その女は必ず多少抗抵を試みるだらう。併し主人は己をそれに打ち勝つ丈の男と見込んで頼むと云ふのだ。いかにも己にはその位の気力はある。
 己は急劇な猛烈な欲望の発作を感じた。己は立ち上がつた。それと同時に周囲の鏡にうつつてゐる大勢のバルヂピエロが一斉に立ち上がつた。そしてそのうちの一人が己の手を取つて、鏡の広間を出た。
 広間を出て見れば、寂しい別荘はどこも皆真つ暗だつた。主人は己をいて、はしごを一つ登つた。その着てゐる長い上衣の裾が、大理石の階段の上を曳いて、微かな、鈍い音をさせる。己の靴の踵がその階段を踏んで反響を起す。幾度いくたびも廊下の角を曲がつた末に、主人と己とは一つの扉の前に立ち留まつた。鍵のから/\鳴るのが聞えた。続いて鍵で錠を開けた。油の引いてあるくるるが滑かに廻つて、扉がしづかに開いた。主人は己の肩を衝いて、己を室内へ推し遣つた。
 己はひとり闇の中に立つてゐた。深い沈黙が身辺を繞つてゐる。己は耳を澄まして聞いた。微かな、規則正しい息遣ひが聞えるやうだ。室内は只なんとなく暖く、そして匂のある闇であつた。
 此夜は奇怪な、名状すべからざる夜であつた。
 己はこの室内で、不思議なことに遭遇して、そのうちにどれだけ時間が立つたか知らない。
 やう/\己は起つて戸口に往つた。そして肩で扉を押し開けようとした。併し扉は開かない。誰か外から力を極めて開けるのを妨げてゐるやうだつた。そのひまに衣服のさわつく音がして、続いて廊下を歩み去る軽い足音がした。
 己は又扉を押した。戸は開いた。己は二三歩出て、又跡へ引き返さうとした。暁の薄明かりと共に再び室内へ帰らうと思つたのだ。併し己は前の誓言を思ひ出して、急ぎ足にそこを立ち退いた。
 廊下が尽きて梯になる。梯の下の前房には人影が無い。己は柱列のある所に出た。朝の空気には柑子の香が籠つてゐる。
 己の馬車には馬が附けて中庭に待たせてある。己は車に乗つた。そして車が動き出すと共に、己はぐつすり寐入つた。
 バルヂピエロの別荘での不思議な遭遇は、己を夢のやうな状態に陥いらせた。旅の慰みが次第に此夢を醒した時、己は其顛末を考へて見て、どうした事か分からぬやうに思つた。又それをどうして分からせようと云ふ手段も、己には見出されない。一体あの沈黙した未知の女は誰だつたか。それに対してバルヂピエロの取つた手段にはどう云ふ意味があつたのか。主人があの女を憎んで己を復讐の器械に使つたのだらうか。それとも主人はわざと只周囲の状況を秘密らしくして、己にする饗応に味を加へたまでの事か。
 己はミラノへ来た。滞留が長引いた。己は上流の人達と一しよに遊び暮らした。己を優待してくれた女は大勢ある。その中で己を一箇月以上楽ませてくれたのが一人ある。其女は己に自分の内で逢つたり、芝居で逢つたり、又己と一しよに公園を散歩したりした。夜燭火ともしびの下で逢ふ時は、其女は顔をも体をも己に隠さなかつた。そのうちにバルヂピエロの別荘にゐた未知の女の俤は、己の記憶の中で次第に朧気になつて、己がフランスへ旅立つ頃には、とう/\痕なく消えてしまつた。
 パリイと云ふ美しい都会の遊興は、その多寡を以て論じても、その精粗を以て論じても、全く人の意表に出てゐる。己はあらゆる遊興に身を委ねて、月日の過ぎるのを忘れてゐた。舞踏があり、合奏会があり、演劇があるが、そればかりでは無い。バルヂピエロの紹介状が用に立つて、己は種々しゆ/″\の立派な人達に交際することが出来た。己は昏迷のうちに日を送つて、ヱネチアの事やそこの友達の事を忘れてしまつた。併しそれは己ばかりのとがでは無い。ロレンツオや、君も外の友達も己を忘れてゐたやうだ。そんな風で殆ど一年ばかり立つた。
 己はペロンワルと云ふ女を情人にしてゐた。体の小さい、動作の活溌な、舞踏の上手な女であつた。己は此女とロンドンへ往つた。これは女のためには職業上の旅行で、己はその道中の慰みに連れて行かれたのだ。ところがロンドンでロオド・ブロツクボオルと云ふ大檀那だいだんなが段々不遠慮に此女に近づいて来て、女は又ロオドと己との共有物になりたさうな素振をして来た。そこで己はペロンワルと切れた。
 パリイに帰つて見ると、イタリアから己に宛てた大きい封書が届いてゐた。中にはバルヂピエロの長い手紙があつた。種々いろ/\な事が書いてある。ジエンツアノの葡萄酒やピエンツアの無花果の事がある。それから例の不思議な事件の其後の成行がある。あの事件はそつちのためには不愉快では無かつただらうが、そつちを或る葛藤かつとうの中に引き入れたのは気の毒だと云つてある。兎に角客にあんな事をさせる主人は無い筈だから、主人を変に思つただらうと云つてある。今其手紙の一部を読んで聞かせよう。
「あゝ、我が愛する甥よ。御身もいつかは老のあはれを知ることだらう。御身が顔を見なかつたあの娘を、その住んでゐた土地から、非常な用心をして秘密に奪つて来させた時、己は自分の老衰を好くも顧慮してゐなかつた。御身が来るまでにあれはもう二週間ばかり己の所にゐた。それに己はまだ一度もあれを遇すべき道を以てあれを遇することが出来なかつた。御身にも気が附いたらしかつた己の不機嫌はそれゆゑであつた。それに御身の若い盛んな容貌はいよ/\己の心を激させた。あゝ。己は御身の青春をどれ丈かねたましく思つただらう。此思を機縁として、己のあの晩の処置は生れて来たのだ。己はあの鏡の間で御身と対坐した時、あの美しい囚人のゐる密室を、御身がために開かうと決心した。己はあの女に、あいつの運命が全く我手に委ねられてあると云ふことを、此処置で見せ附けて遣る積りであつた。それと今一つの己の予期した事がある。それはあの女が御身に身を委せたと知つたら、己の恋が褪めるだらうと云ふことであつた。己の既往の経験によれば、己は自分の好いてゐる女が別の男に身を委せたと知ると、己の恋は大抵褪めた。畢竟ひつきやう情人の不実を知ると云ふことは、恋を滅す最好の毒である。そして御身は苦もなく己がために此毒を作つてくれるだらうと、己は予期したのだ。
 己が御身の肩を押して、御身をあの暗室にらせたのはかう云ふわけであつた。然るになんと云ふ物数奇か知らぬが、己はふとあの暗室の戸口に忍び寄つて、扉に耳を附けて偸聴たちぎきをする気になつた。御身等二人の格闘、あの女の降服、呻吟が己の耳に入つた。戦は反復せられる。暗中の鈍い音響が聞える。あゝ、此時己は意外の事を感じた。形容すべからざる嫉妬の念が、老衰した己の筋肉の間を狂奔して、その拘攣こうれんしてゐた生活力を鞭うち起たしめた。己はたつを排して闖入しようとしたことが二十たびにも及んだだらう。さて最後に御身が戸を開けて出た時、己は却つて廊下伝ひに逃げ去つた。なぜかと云ふにあの時御身の顔を見たら、己には御身を殺さずに置くことが出来なかつたからだ。己は自分の徳としなくてはならぬ御身を殺すに忍びなかつたのだ。実に嫉妬の効果には驚くべきものがある。己の嫉妬は己の気力を恢復せしめた。己はあの時に再生した其気力を使役してゐる。
 あの女は漸く自分の境遇に安んずる態度を示して来た。そこで己は女を密室から出した。鏡の間の壁に嵌めた無数の鏡は、女の艶姿えんし嬌態けうたいを千万倍にして映じ出だした。庭園には女の軽々とした歩みの反響がし始めた。己が晩年にち得た、これ程の楽しい月日は、総て是れ御身の賜ものだ。己は折々女と一しよにあの岩窟いはむろることがある。其時は女の若やかな涼しい声が、あの岩の隙間から石盤の中に流れ落ちる水の音にも優つて聞える。己は幸福の身となつた。女は己に略奪せられたことをも、過度の用心のために己に拘禁せられてゐたことをも、最早遺恨とはしないらしかつた。今の新生活が女には気に入るらしかつた。女は此間に己の心を左右する無制限の威力を得た。己はとう/\御身の名を白状した。女は今御身が誰だと云ふことを知つてゐる。そして己を憎むと同じやうに、御身をも憎んでゐる。
 女は毎晩己にジエンツアノの葡萄酒一杯を薦める。黒ずんだ、ふくよかな瓶をほそい指でもたげて酌をする姿はいかにも美しい。酒は青み掛かつた軽い古風な杯に流れ入る。唇に触れて冷やかさを覚えさせる此杯を、己は楽んで口にふくむ。併し己は此酒には丁寧に毒が調合してあることを知つてゐる。女は毎目手づから暗赤色あんせきしよく薬汁やくじふを、酒の色の変ぜぬ程注ぎ込んで置く。己は次第に身に薬の功験を感じて来る。己の血は次第に脈絡の中に凝滞して来る。なぜ己は甘んじて其杯を乾すかと云ふに、己の命にはもう強ひて保存する程の価値がないからだ。ひとしく尽きる命数を、よしやちとばかり早めたと云つて、何事かあらう。可哀かはいい娘が復讐の旨味しみめるのを妨げなくても好いではないか。己は毎晩その恐ろしい杯を、微笑を含んで飲み干してゐる。
 併し、我が愛する甥よ。御身はまだ若い。己は御身に警告せずしてむに忍びない。己の次は御身だ。危険が御身に及ぶと云ふことは、この珍らしい娘の目の中で己が読んだ。己が此危険を御身に予告するのは、己が嘗て御身に禍を遺した罪をあがな所以ゆゐんである。
 此予測は或は御身が思ふ程いとふべき事では無いかも知れない。今からは目に視えぬ脅迫が御身の頭上に垂れ懸かつてゐる。併し今から後御身が一切の受用に臨んで、一層身を入れて一層熱烈にこれをけるのは、此脅迫の賜ものであらう。青年は兎角何事をも明日に譲つて恬然てんぜんとしてゐたがる。御身のこれまでの快楽には必要なとげが無かつた。己は其刺を御身におくるのだ。御身は己に感謝しても好からう。さらばよ。我指はもう拘攣して来た。老いたるバルヂピエロは恐らくは今晩最終の一杯を傾けたのだらう。」



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