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追儺(ついな)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-7 9:54:14 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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悪魔に毛を一本渡すと、霊魂まで持つて往かずには置かないと云ふ、西洋の諺がある。 あいつは何も書かない奴だといふ善意の折紙でも、何も書けない奴だといふ悪意の折紙でも好い。それを持つてゐる間は無事平穏である。そして此二つの折紙の価値は大して違つてはゐないものである。ところがどうかした拍子に何か書く。譬へば人生意気に感ずといふやうな、おめでたい、子供らしい、頗る sentimental なわけで書く。さあ、書くさうだなと云ふと、こゝからも、かしこからも書けと迫られる。どうして何を書いたら好からうか。役所から帰つて来た時にはへと/\になつてゐる。人は晩酌でもして愉快に翌朝まで寐るのであらう。それを僕はランプを細くして置いて、直ぐ起きる覚悟をして一寸寐る。十二時に目を醒ます。頭が少し回復してゐる。それから二時まで起きてゐて書く。 昼の思想と夜の思想とは違ふ。何か昼の中解決し兼た問題があつて、それを夜なかに旨く解決した積で、翌朝になつて考へて見ると、解決にも何にもなつてゐないことが折々ある。夜の思想には少し当にならぬ処がある。 詩人には Balzac のやうに、夜物を作つた人もある。宵に寐かして置いた Lassailly が午前一時になると喚び起される。Balzac はかう云つたさうだ。君はまだ夜[#「夜」は底本では「外」]寐る悪癖が已まないな。夜は そのかういふものをかういふ風に書くべきであるといふ教は、昨今の新発明でゝもあるやうに説いて聞せられるのである。随つてあいつは十年前と書振が変らないといふのは、殆ど死刑の宣告になる。果してそんなものであらうか。Stendhal は千八百四十二年に死んでゐる。あの男の書いたものなどは、今の人がかういふものをかういふ風に書けといふ要求を、理想的に満足させてゐはしないかとさへ思はれる。凡て世の中の物は変ずるといふ側から見れば、刹那々々に変じて已まない。併し変じないといふ側から見れば、万古不易である。此頃囚はれた、放たれたといふ語が流行するが、一体小説はかういふものをかういふ風に書くべきであるといふのは、ひどく囚はれた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以て、小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだといふ断案を下す。 Carneval の祭のやうに、毎年選んだ王様を担いで廻つて、祭が過ぎれば棄てゝ顧みないのが、真の文学発展の歴史であらうか。去年の王様は誰であつたか。今年の王様は誰であるか。それを考へて見たら、泣きたい人は確に泣くことの出来る処があるが、同時に笑ひたい人は確に笑ふことの出来る処がありはすまいか。 これは高慢らしい事を書いた。こんな事を書く筈ではなかつた。併し儘よ。一旦書いたものだから消さずに置かう。 Strindberg に死人の踊といふ脚本がある。主人公の Edgar といふ男は、幕が開くといきなり心臓病の発作で死んだやうになる。妻が喜ぶ。最後に幕になる前に、二度目の発作で本当に死ぬる。初に死んでから後に、Edgar は名聞を求める。利欲に耽る。それが本当に死ぬまで已まない。それが死者の踊である。僕に物を書けといふのは、死者に踊れと云ふやうなものではあるまいか。 僕はふと思ひ出した事があつて、明けて置いた初の一行に「新喜楽」と書いた。そしてこれは広告した時、引力のありさうな題号だと思つた。此頃物を書いて人の注意を惹かうといふには、少し scandal の気味を帯びてゐなくてはだめなやうだ。併し雑誌の体面といふものがある。僕はさう思つて、新喜楽の三字に棒を引いて、傍へ「追儺」と書いた。これなら少くも真面目に見える。僕は豆打の話をしようと思ふ。そして其豆打は築地の新喜楽での出来事なのである。そして僕が此話をすることの出来るのは M. F 君のお蔭である。僕は追儺と書いた左傍に、「M. F 君に献ず」と書かうかと思つた。書籍に dedicate するといふことがある以上は、雑誌の中に書いたものにもそれがあつても好くはあるまいか。「翻訳の権利を保留す」、「転載を禁ず」なぞは、雑誌にも随分あるではないか。併し謹厳といふ字を僕の形容に使ふことに極めてゐる新聞記者諸君が狼狽しては気の毒だと思つて止めた。M. F 君は劇談会で二三度出会つた人である。二月三日の午後六時に、僕を新喜楽へ案内した。活版の案内状に、何某も呼んであるから来いといふ書添がしてあつた。所謂何某が女性の名や何ぞでないことは、僕を呼ぶのであるから言ふことを待たない。役所は四時に引ける。卓の上に出してある取扱中の書類を、非常持出の箪笥にしまつて鍵を掛ける。帽を被る。刀を吊る。雨覆を著る。いつもと違つて、何となく気が引き立つてゐる。いつもでも内へ素直に帰られる日は少い。宴会は沢山ある。二箇所を断つて一箇所に往くといふやうな日もある。併しいつも往く所は とう/\新喜楽を見付けた。堀ばたの通に出る角の家であつた。格子戸の前で時計を見る。馬鹿に早い。まだ四時三十分だから、約束の時間までは、一時間半もある。格子戸をはいる。中は叩きで、綺麗に洗つてある。泥靴の痕が附く。嫌な心持がする。早過ぎることわりを言つて上ると、二階へ案内せられる。東と南とを押し開いた、縁側なしの広間である。西が床の間で、北が勝手からの上り口に通ずる。時刻になるまで気長に待つ積で、東南の隅に胡坐をかいた。家が新しい。畳が新しい。畳に焼焦しが一つないのは、此家に来る客は特別に行儀が好いのか知らんなぞと思ふ。兎に角心持が好い。女中が茶と菓子を運んで来る。笑つたり余計な事を言つたりせずに下つて行くのが気に入る。著ものも沈黙の色であつた。茶を飲んでしまふ。菓子を食つてしまふ。持つてゐた本を Nietzsche に芸術の夕映といふ文がある。人が老年になつてから、若かつた時の事を思つて、記念日の祝をするやうに、芸術の最も深く感ぜられるのは、死の魔力がそれを籠絡してしまつた時にある。南伊太利には一年に一度希臘の祭をする民がある。我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも知れぬ。日は既に没した。我等の生活の天は、最早見えなくなつた日の余光に照らされてゐるといふのだ。芸術ばかりではない。宗教も道徳も何もかも同じ事である。 暫くして M. F 君が来た。いつもの背広を著て来て、右の平手を背後に衝いて、体を斜にして雑談をする。どうしても人魚を食つた嫌疑を免れない人である。僕は豆打の話をした。「さうか。それは面白い。みんなが来てからもう一遍遣らして遣る。」 それからみんなが来た。いづれも福々しい人達であつた。選抜の芸者が客の数より多い程押し込んできた。 二度目の豆打は余り注意を惹かずにしまつた。 話はこれ丈である。批評家に衒学の悪口といふのを浚ふ機会を与へる為めに、少し書き加へる。 追儺は昔から有つたが、豆打は鎌倉より後の事であらう。面白いのは羅馬に似寄つた風俗のあつた事である。羅馬人は死霊を lemur と云つて、それを追ひ退ける祭を、五月頃真夜なかにした。その式に黒豆を背後へ投げる事があつた。我国の豆打も初は背後へ打つたのだが、後に前へ打つことになつたさうだ。 (明治四十二年五月) 底本:「ザ・鴎外 ―森鴎外全小説全一冊―」第三書館 1985(昭和60)年5月1日初版発行 1992(昭和67)年8月20日第2刷発行 初出:「東亜之光」 1909(明治42)年5月 入力:村上聡 校正:野口英司 1998年5月11日公開 2005年4月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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