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椙原品(すぎのはらしな)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-7 9:46:22 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

     一

 私が大礼たいれいに参列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某社の雑誌が来たので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙台に高尾たかを後裔こうえいがゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは伝説の誤であつて、しかもそれが誤だと云ふことは、大槻文彦おほつきふみひこさんがあらゆる方面から遺憾なく立証してゐる。どうして今になつてこんな誤が事新しく書かれただらうと云ふことを思つて見ると、そこには大いに考へて見て好い道理が存じてゐるのである。
 誰でも著述に従事してゐるものは思ふことであるが、著述がどれだけ人に読まれるかは問題である。著述が世におほやけにせられると、そこには人がそれを読み得ると云ふポツシビリテエが生ずる。しかし実にそれを読む人は少数である。一般の人に読者が少いばかりではない。読書家と称して好い人だつて、其読書力には際限がある。沢山たくさん出る書籍をこと/″\く読むわけには行かない。そこで某雑誌に書いたやうな、歴史に趣味を有する人でも、切角せつかくの大槻さんの発表に心附かずにゐることになるのである。
 某雑誌の記事は奥州話あうしうばなしと云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙台の工藤平助くどうへいすけと云ふ人のむすめで、只野伊賀たゞのいがと云ふ人の妻になつた文子あやこと云ふものゝ著述で、文子は滝沢馬琴にられてゐたので、多少名高くなつてゐる。しかし奥州話は大槻さんも知つてゐて、弁妄べんまうの筆をつてゐるのである。
 文子の説によれば、伊達綱宗だてつなむねは新吉原の娼妓しやうぎ高尾を身受みうけして、仙台に連れて帰つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は荒町あらまち仏眼寺ぶつげんじにある、其子孫が椙原氏すぎのはらうぢだと云ふことになつてゐる。
 これはおほいあやまつてゐる。伊達綱宗は万治まんぢ元年に歿した父忠宗たゞむねあとを継いだ。えて三年二月ついたちに小石川の堀浚ほりざらへを幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。筋違橋すぢかへばし即ち今の万世橋まんせいばしから牛込土橋うしごめどばしまでの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺きちじやうじの裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今駒込こまごめにある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往来ゆききの間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは当時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひされ、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗をおとしれようとしてゐた人達の手伝があつたものと見える。綱宗は不行迹ふぎやうせきかどもつて、七月十三日にに逼塞ひつそくを命ぜられて、芝浜しばはまの屋敷から品川にうつつた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程まんなかほどであつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子亀千代かめちよが家督した。此時綱宗は二十歳、亀千代はわづかに二歳であつた。堀浚は矢張やはり伊達家で継続することになつたので、翌年工事ををはつた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰のもとへ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家のかをると云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反証には、当時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事実がある。綱宗の通ふべき高尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居ちつきよして以来、仙台へは往かずに、天和てんな三年に四十四歳で剃髪ていはつして嘉心かしんと号し、正徳しやうとく元年六月六日に七十二歳で歿した。綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙台へ連れて行かれるはずがない。
 文子は綱宗が高尾を身受して舟に載せて出て、三股みつまたで斬つたと云ふ俗説を反駁はんぱくするつもりで、高尾が仙台へ連れて行かれて、子孫を彼地かのちに残したと書いたのだが、それは誤を以て誤に代へたのである。

      二

 然らば奥州話にある仏眼寺の墓のぬし何人なんぴとかと云ふに、これは綱宗のせふしなと云ふ女で、初から椙原氏すぎのはらうぢであつたから、子孫も椙原氏を称したのである。品は吉原にゐた女でもなければ、高尾でもない。
 品は一体どんな女であつたか。私は品川に於ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、余程久しい間、其結構を工夫してゐた。綱宗は凡庸人ではない。和歌をくし、筆札ひつさつを善くし、絵画を善くした。十九歳で家督をして、六十二万石の大名たることわづかに二年。二十一歳の時、叔父伊達兵部少輔宗勝だてひやうぶせういうむねかつを中心としたイントリイグに陥いつて蟄居ちつきよの身となつた。それから四十四歳で落飾らくしよくするまで、一子亀千代の綱村つなむらにだに面会することが出来なかつた。亀千代は寛文九年に十一歳で総次郎綱基そうじらうつなもととなり、えて十一年、兵部宗勝の嫡子東市正宗興いちのかみむねおきの表面上の外舅ぐわいきうとなり、宗勝を贔屓ひいきした酒井雅楽頭忠清さかゐうたのかみたゞきよやしきでの原田甲斐はらだかひ刃傷にんじやう事件があつて、まさに失はんとした本領を安堵あんどし、延宝五年に十九歳で綱村と名告なのつたのである。暗中の仇敵きうてきたる宗勝は、父子の対面に先だつこと四年、延宝七年に亡くなつてゐた。綱宗はこれより前も、これから後老年に至るまでも、幽閉の身の上でゐて、その銷遣せうけんのすさびに残した書画には、往々知過必改ちくわひつかいと云ふ印を用ゐた。綱宗の芸能は書画や和歌ばかりではない。蒔絵まきゑを造り、陶器を作り、又刀剣をもきたへた。私は此人が政治の上に発揮することの出来なかつた精力を、芸術の方面に傾注したのを面白く思ふ。面白いのはこゝにとゞまらない。綱宗は籠居ろうきよのために意気をくじかれずにゐた。品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかつた硝子板がらすいた四百余枚をめさせたが、その大きいのは一枚七十両で買つたと云ふことである。その豪邁がうまいの気象がおもられるではないか。かう云ふ人物の綱宗に仕へて、其晩年に至るまで愛せられてゐた品と云ふ女も、恐らくは尋常の女ではなかつただらう。
 綱宗には表立つた正室と云ふものがなかつた。そのそばにかしづいてゐた主な女は、亀千代を生んだ三沢初子みさははつこと品との二人で、初子は寛永十七年生れで綱宗と同年、品は十六年生れで綱宗より一つ年上であつたらしい。二人の中で初子は家柄が好いのと後見があつたのとで、綱宗はそれをれる時正式の婚礼をした。只幕府への届が妻になつてゐなかつただけである。これは綱宗が家督する三年前で、綱宗も初子も十六歳の時であつた。それから四年目の万治二年三月八日に亀千代が生れた。堀浚ほりざらへの命が伊達家に下つた一年前である。品は初子が亀千代を生んだ年に二十一歳で浜屋敷に仕へることになつて、すぐに綱宗の枕席ちんせきしたらしい。あるひは初子の産前産後の時期にちようを受けはじめたのではなからうか。

      三

 品にさきだつて綱宗に仕へた初子は、其世系せいけいが立派である。六孫王経基つねもとの四子陸奥守満快むつのかみまんくわいの八世の孫飯島三郎広忠ひろたゞ出雲いづもの三沢を領して、其曾孫が三沢六郎為長ためなが名告なのつた。為長の十世の孫左京亮為虎さきやうのすけためとらが初め尼子義久あまこよしひさに、後毛利輝元もうりてるもとに属して、長門ながとの府中に移つた。為虎の長男頼母助為基たのものすけためもとが父と争つて近江にはしつた。為基に男女の子があつて、兄権佐清長ごんのすけきよなが美濃大垣みのおほがきの城主氏家広定うぢいへひろさだの養子になつてゐるうちに、関が原の役に際会して養父と共に細川忠興ほそかはたゞおきに預けられ、妹紀伊きいは忠興の世話で、幕府の奥に仕へ、家康の養女振姫ふりひめの侍女になつた。紀伊が奥勤おくづとめをしてゐると、元和げんな三年に振姫が伊達忠宗だてたゞむねしたので、紀伊も輿入こしいれの供をした。此間に紀伊の兄清長は流浪して、因幡いなば鳥取に往つてゐて、朽木宣綱くつきのぶつなむすめの腹に初子が出来た。初子は叔母紀伊に引き取られて、伊達家の奥へ来た。
 振姫は実は池田輝政いけだてるまさの子で、家康の二女督姫かうひめが生んだのである。それを家康が養女にして忠宗に嫁せしめた。綱宗は忠宗の側室貝姫かひひめの腹に出来たのを振姫が養ひ取つて、嫡出の子として届けたのである。貝姫は櫛笥左中将隆致くしげさちゆうじやうたかむねの女で、後西院ごさいゐん天皇の生母御匣局みくしげのつぼねの妹である。
 忠宗は世を去る三年前に、紀伊の連れてゐる初子の美しくて賢いのに目を附けて、子綱宗のせふにしようと云ふことを、紀伊に話した。しかし紀伊は自分達の家世を語つて、めひを妾にすることを辞退した。そこで綱宗と初子とは、明暦元年の正月に浜屋敷で婚礼をしたのである。
 初子の美しかつたことは、其木像を見ても想像せられる。短冊や、消息、自ら書写した法華経ほけきやうを見るに、能書である。和歌をも解してゐた。かたちが美しくて心の優しい女であつたらしい。それゆゑ忠宗が婚礼をさせてまで、妻の侍女の姪を子綱宗の配偶にしたのであらう。
 此初子が嫡男まで生んでゐる所へ、側から入つて来た品が、綱宗の寵を得たには、両性問題は容易たやすく理を以てすゐすべからざるものだとは云ひながら、品の人物に何か特別なアトラクシヨンがなくては※(「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1-84-56)かなはぬやうである。それゆゑ私は、単に品が高尾でないと云ふ事実、即ちうの昔に大槻さんが遺憾なく立証してゐる事実を、再び書いて世間に出さうと云ふためばかりでなく、椙原品すぎのはらしなと云ふ女を一の問題としてこゝに提供したのである。

      四

 品の家世はどうであるか。播磨はりまの赤松家の一族に、椙原伊賀守賢盛すぎのはらいがのかみかたもりと云ふ人があつた。後に薙髪ちはつして宗伊そういと云つた人である。それが椙原を名告なのつたのは、住んでゐた播磨の土地の名に本づいたのである。賢盛の後裔に新左衛門守範しんざゑもんもりのりと云ふ人があつた。守範は赤松氏のほろびた時に浪人になつて江戸に出て、明暦三年の大火に怪我をして死んださうである。赤松氏の亡びた時とは、恐らくは赤松則房あかまつのりふさ阿波あはで一万石をんでゐて、関が原の役に大阪にくみし、戦場を逃れて人に殺された時をつたものであらうか。しさうなら、仮に当時守範は十五歳の少年であつたとしても、品の生まれる年には、五十三歳になつてゐる筈である。かく品は守範が流浪した後、年が寄つてから出来たむすめであらう。品を生んだ守範の妻が、麻布あざぶ盛泰寺せいたいじ日道にちだうと云ふ日蓮宗の僧の女であつたと云ふ所から考へても、守範は江戸の浪人でゐて、妻をめとつたものと思はれる。守範には二人の子があつて、姉が品で、弟を梅之助うめのすけと云つたが、此梅之助は夭折えうせつした。そこで守範の死んだ時には、十九歳になる品が一人残つて、盛泰寺に引き取られた。
 それから中一年置いて、万治二年に品は浜屋敷の女中に抱へられて、間もなく妾になつたらしい。妾になつてから綱宗が品を厚く寵遇したと云ふことは、偶然伝へられてゐる一の事実で察せられる。それは万治三年に綱宗が罪をて、品川の屋敷にうつつた時、品は附いて往つて、綱宗に請うて一日のいとまを得て、日道を始、親戚故旧を会して馳走ちそうし、なが訣別けつべつをしたと云ふ事実である。これは一切の係累を絶つて、不幸なる綱宗に一身を捧げようと云ふ趣意であつた。綱宗もそれを喜んで、品に雪薄ゆきすゝきの紋をつたさうである。

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