切腹の場所と定められたのは妙国寺(みょうこくじ)である。山門には菊御紋の幕を張り、寺内には総て細川、浅野両家の紋を染めた幕を引き繞(めぐ)らし、切腹の場所は山内家の紋を染めた幕で囲んである。門内に張った天幕の内には、新しい筵(むしろ)が敷き詰めてある。 行列が妙国寺門前に着くと、駕籠を門内天幕の中に舁き入れて、筵の上に立て並べた。次いで両藩士が案内して、駕籠は内庭へ舁き入れられ、本堂の縁に横付にせられた。 二十人は駕籠を出て、本堂に居並んだ。座の周囲(まわり)には、両藩の士卒が数百人詰めていて、二十人の中一人が座を起てば、四人が取り巻いて行く。二十人は皆平常のように談笑して、時刻の来るのを待っていた。 この時両藩の士の中に筆紙墨(ひっしぼく)を用意していたものがある。それが二十人の首席にいる箕浦の前に来て、後日の記念に何か一筆願いたいといった。 元六番歩兵隊長箕浦猪之吉は、源姓(みなもとせい)、名は元章(げんしょう)、仙山(せんざん)と号している。土佐国土佐郡潮江(うしおえ)村に住んで五人扶持、十五石を受ける扈従格(こじゅうかく)の家に、弘化元年十一月十一日に生れた。当年二十五歳である。祖父忠平、父を万次郎と云う。母は依田氏、名は梅である。安政四年に江戸に遊学し、万延元年には江戸で容堂侯の侍読になり、同じ年に帰国して文館の助教に任ぜられた。次いで容堂侯の扈従を勤めて、七八年経過し、馬廻格(うままわりかく)に進んだ。それが藩の歩兵小隊司令を命ぜられたのは、慶応三年十一月で、僅(わず)か三箇月勤めているうちに、堺の事件が起った。そういう履歴の人だから、箕浦は詩歌の嗜(たしみ)もあり、書は草書を立派に書いた。 文房具を前に置かれた時、箕浦は、 「甚だ見苦しゅうはございまするが」と挨拶して、腹稾(ふっこう)[#底本では「稾」の「禾」の部分が「木」、昭和60年5月20日36刷改版から「稾」をそのまま使用しているため、このまま「稾」を採用]の七絶を書いた。 「除却妖氛答国恩(ようふんをじょきゃくしこくおんにこたう)。決然豈可省人言(けつぜんあにじんげんをせいすべけんや)。唯教大義伝千載(ただたいぎをしてせんざいにつたえしむ)。一死元来不足論(いっしがんらいろんずるにたらず)」攘夷はまだこの男の本領であったのである。 二十人が暫(しばら)く待っていると、細川藩士がまだなかなか時刻が来そうにないと云った。そこで寺内を見物しようと云うことになった。庭へ出て見ると、寺の内外は非常な雑沓(ざっとう)である。堺の市中は勿論、大阪、住吉、河内在等から見物人が入り込んで、いかに制しても立ち去らない。鐘撞堂(かねつきどう)には寺の僧侶が数人登って、この群集を見ている。八番隊の垣内がそれに目を着けて、つと堂の上に登って、僧侶に言った。 「坊様達、少し退(の)いて下されい。拙者は今日切腹して相果てる一人じゃ。我々の中間(なかま)には辞世の詩歌などを作るものもあるが、さような巧者な事は拙者には出来ぬ。就いてはこの世の暇乞に、その大鐘を撞いて見たい。どりゃ」と云いさま腕まくりをして撞木(しゅもく)を掴んだ。僧侶は驚いて左右から取り縋(すが)った。 「まあまあ、お待ち下さりませ。この混雑の中で鐘が鳴ってはどんな騒動になろうも知れません。どうぞそれだけは御免下さりませ」 「いや、国家のために忠死する武士の記念じゃ。留めるな」 垣内と僧侶とは揉(も)み合っている。それを見て垣内の所へ、中間の二三人が駆け附けた。 「大切な事を目前に控えていながら、それは余り大人気ない。鐘を鳴らして人を驚かしてなんになる。好く考えて見給え」と云って留めた。 「そうか。つい興に乗じて無益の争をした。罷(や)める罷める」と垣内は云って、撞木から手を引いた。垣内を留めた中間の一人が懐(ふところ)を探って、 「ここに少し金がある、もはや用のない物じゃ、死んだ跡にお世話になるお前様方に献じましょう」と云って、僧侶に金をわたした。垣内と僧侶との争論を聞き付けて、次第に集って来た中間が、 「ここにもある」 「ここにも」と云いながら、持っていただけの金銭を出して、皆僧侶の前に置いた。中には、 「拙者は冥福(みょうふく)を願うのではないが」と、条件を附けて置くものもあった。僧侶は金を受けて鐘撞堂を下った。 人々は鐘撞堂を降りて、 「さあ、これから切腹の場所を拝見して置こうか」と、幔幕(まんまく)で囲んだ中へ這入り掛けた。細川藩の番士が、 「それはお越(こし)にならぬ方が宜しゅうございましょう」と云って留めた。 「いや、御心配御無用、決して御迷惑は掛けません」と言い放って、一同幕の中に這入った。 場所は本堂の前の広庭である。山内家の紋を染めた幕を引き廻した中に、四本の竹竿(たけざお)を竪(た)てて、上に苫(とま)が葺(ふ)いてある。地面には荒筵(あらむしろ)二枚の上に、新しい畳二枚を裏がえしに敷き、それを白木綿で覆(おお)い、更に毛氈(もうせん)一枚を襲(かさ)ねてある。傍に毛氈が畳んだままに積み上げてあるのは、一人々々取り替えるためであろう。入口の側に卓(つくえ)があって、大小が幾組も載せてある。近づいて見れば、長堀の邸(やしき)で取り上げられた大小である。 人々は切腹の場所を出て、序(ついで)に宝珠院(ほうじゅいん)の墓穴も見て置こうと、揃って出掛けた。ここには二列に穴が掘ってある。穴の前には高さ六尺余の大瓶(おおがめ)が並べてある。しかもそれには一々名が書いて貼(は)ってある。それを読んで行くうちに、横田が土居に言った。 「君と僕とは生前にも寝食を倶(とも)にしていたが、見れば瓶(かめ)も並べてある。死んでからも隣同士話が出来そうじゃ」と云った。 土居は忽ち身を跳(おど)らせて瓶の中に這入って叫んだ。 「横田君々々々。なかなか好い工合じゃ」 竹内が云った。 「気の早い男じゃ。そう急がんでも、じきに人が入れてくれる。早く出て来い」 土居は瓶から出ようとするが、這入る時とは違って、瓶の縁は高し、内面はすべるので、なかなか出られない。横田と竹内とで、瓶を横に倒して土居を出した。 二十人は本堂に帰った。そこには細川、浅野両藩で用意した酒肴(しゅこう)が置き並べてある。給仕には町から手伝人が数十人来ている。一同挨拶して杯を挙げた。前に箕浦に詩を貰った人を羨(うらや)んで、両藩の士卒が争って詩歌を求め、或は記念として身に附いた品を所望する。人々はかわるがわる筆を把(と)った。又記念に遣る物がないので、襟(えり)や袖(そで)を切り取った。
切腹はいよいよ午(うま)の刻からと定められた。 幕の内へは先ず介錯人(かいしゃくにん)が詰めた。これは前晩大阪長堀の藩邸で、警固の士卒が二十人のものに馳走をした時、各相談して取り極(き)めたのである。介錯人の姓名は、元六番隊の方で箕浦のが馬淵(まぶち)〔馬場〕桃太郎[#24刷時点では「〔場〕桃太郎」だが、63刷時点では「〔馬場〕桃太郎」に修正されている]、池上のが北川礼平、杉本のが池七助、勝賀瀬のが吉村材吉、山本のが森常馬、森本のが野口喜久馬、北代のが武市助吾、稲田のが江原源之助、柳瀬のが近藤茂之助、橋詰のが山田安之助、岡崎のが土方要五郎、川谷のが竹本謙之助、元八番隊の方で、西村のが小坂乾、大石のが落合源六、竹内のが楠瀬柳平、横田のが松田八平次、土居のが池七助、垣内のが公文左平、金田のが谷川新次、武内のが北森貫之助である。中で池七助は杉本と土居との二人を介錯する筈である。いずれも刀の下緒(さげお)を襷(たすき)にして、切腹の座の背後(うしろ)に控えた。 幕の外には別に駕籠が二十挺据えてある。これは死骸を載せて宝珠院に運ぶためである。埋葬の前に、死骸は駕籠から大瓶に移されることになっている。 臨検の席には外国事務総裁山階宮(やましなのみや)を始として、外国事務係伊達少将、同東久世少将、細川、浅野両藩の重役等が、南から北へ向いて床几(しょうぎ)に掛かる。土佐藩の深尾は北から東南に向いてすわる。大目附小南以下目附等は西北から東に向いて並ぶ。フランス公使は銃を持った兵卒二十余人を随(したが)えて、正面の西から東に向いてすわる。その他薩摩、長門、因幡(いなば)、備前(びぜん)等の諸藩からも役人が列席している。 用意の整ったことを、細川、浅野の藩士が二十人のものに告げる。二十人のものは本堂の縁から駕籠に乗り移る。駕籠の両側には途中と同じ護衛が附く。駕籠は幕の外に立てられる。呼出の役人が名簿を繰り開いて、今首席のものの名を読み上げようとする。 この時天が俄(にわか)に曇って、大雨が降って来た。寺の内外に満ちていた人民は騒ぎ立って、檐下(のきした)木蔭に走り寄ろうとする。非常な雑沓である。 切腹は一時見合せとなって、総裁宮始、一同屋内に雨を避けた。雨は未(ひつじ)の刻に歇(や)んだ。再度の用意は申(さる)の刻に整った。 呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮(しずま)った。箕浦は黒羅紗(くろらしゃ)の羽織に小袴(こばかま)を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手(めて)に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。 「フランス人共聴け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手(さかて)に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口(きずぐち)は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に※し込んで、大網(だいもう)を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨(にら)み付けた。 馬場が刀を抜いて項(うなじ)を一刀切ったが、浅かった。 「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。 馬場の二の太刀は頸椎(けいつい)を断って、かっと音がした。 箕浦は又大声を放って、 「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭(きょうがい)と畏怖(いふ)とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所(おきどころ)に迷った。 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜(おと)した。 次に呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同(うじあつ)。土佐郡江の口村に住んでいた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生れて、当年二十四歳になる。歩兵小隊司令には慶応三年八月になった。西村は軍服を着て切腹の座に着いたが、服の釦鈕(ぼたん)を一つ一つ丁寧にはずした。さて短刀を取って左に突き立て、少し右へ引き掛けて、浅過ぎると思ったらしく、更に深く突き立てて緩(ゆるや)かに右へ引いた。介錯人の小坂は少し慌(あわ)てたらしく、西村がまだ右へ引いているうちに、背後から切った。首は三間ばかり飛んだ。 次は池上で、北川が介錯した。次の大石は際立った大男である。先ず両手で腹を二三度撫(な)でた。それから刀を取って、右手で左の脇腹を突き刺し、左手(ゆんで)で刀背(とうはい)を押して切り下げ、右手に左手を添えて、刀を右へ引き廻し、右の脇腹に至った時、更に左手で刀背を押して切り上げた。それから刀を座右に置いて、両手を張って、「介錯頼む」と叫んだ。介錯人落合は為損(しそん)じて、七太刀目に首を墜した。切腹の刀の運びがするすると渋滞なく、手際の最も立派であったのは、この大石である。 これから杉本、勝賀瀬、山本、森本、北城、稲田、柳瀬の順序に切腹した。中にも柳瀬は一旦左から右へ引き廻した刀を、再び右から左へ引き戻したので腸(はらわた)が創口から溢(あふ)れて出た。 次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺(あたり)が昏(くら)くなって、本堂には燈明が附いた。 フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、起ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執(と)って立っている兵卒に波及した。姿勢は悉(ことごと)く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云うと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包擁(ほうよう)した兵卒は駆歩(かけあし)に移って港口へ走った。
切腹の座では橋詰が衣服をくつろげて、短刀を腹に立てようとした。そこへ役人が駆け付けて、「暫く」と叫んだ。驚いて手を停めた橋詰に、役人はフランス公使退席の事を話して、ともかくも一時切腹を差し控えられたいと云った。橋詰は跡に残った八人の所に帰って、仔細(しさい)を話した。 とても死ぬるものなら、一思(ひとおもい)に死んでしまいたいと云う情に、九人が皆支配せられている。留められてもどかしいと感ずると共に、その留めた人に打(ぶ)っ附かって何か言いたい。理由を問うて見たい。一同小南の控所に往って、橋詰が口を開いた。 「我々が朝命によって切腹いたすのを、何故にお差留になりましたか。それを承りに出ました」 小南は答えた。 「その疑は一応尤(もっとも)であるが切腹にはフランス人が立ち会う筈(はず)である。それが退席したから、中止せんではならぬ。只今薩摩、長門、因幡、備前、肥後、安芸七藩の家老方がフランス軍艦に出向かわれた。姑(しばら)く元の席に帰って吉左右(きっそう)を待たれい」 九人は是非なく本堂に引き取った。細川、浅野両藩の士(さむらい)が夕食の膳を出して、食事をする気にはなられぬと云う人々に、強(し)いて箸(はし)を取らせ、次いで寝具を出して枕に就かせた。子の刻頃になって、両藩の士が来て、只今七藩の家老方がこれへ出席になると知らせた。九人は跳(は)ね起きて迎接した。七家老の中三人が膝を進めて、かわるがわる云うのを聞けば、概(おおむ)ねこうである。我々はフランス軍艦に往って退席の理由を質(ただ)した。然るにフランス公使は、土佐の人々が身命を軽んじて公に奉ぜられるには感服したが、何分その惨澹(さんたん)たる状況を目撃するに忍びないから、残る人々の助命の事を日本政府に申し立てると云った。明朝は伊達少将の手を経て朝旨(ちょうし)を伺うことになるだろう。いずれも軽挙妄動(もうどう)することなく、何分の御沙汰を待たれいと云うのである。九人は謹んで承服した。 中一日置いて二十五日に、両藩の士が来て、九人が大阪表へ引上げることになったこと、それから六番隊の橋詰、岡崎、川谷は安芸藩へ、八番隊の竹内、横田、土居、垣内、金田、武内は肥後藩へ預けられたことを伝えた。九挺の駕籠は寺の広庭に舁(か)き据えられた。一同駕籠に乗ろうとする時、橋詰が自ら舌を咬(か)み切って、口角から血を流して倒れた。同僚の潔く死んだ後に、自分の番になって故障の起ったのを遺憾だと思ったのである。幸に舌の創は生命を危くする程のものではなかったが、浅野家のものは再び変事の起らぬうちに、早く大阪まで引き上げようと思って、橋詰以下三人の乗った駕籠を、早追の如くに急がせた。細川家のものが声を掛けて、歩度を緩(ゆる)めさせようとしたが、浅野家のものは耳にも掛けない。とうとう細川家のものも駆足になった。 大阪に着くと、九挺の駕籠が一旦長堀の土佐藩邸の前に停められた。小南が門前に出て、橋詰に説諭した。そこから両藩のものが引き分れて、各(おのおの)預けられた人達を連れて帰った。橋詰には医者が附けられ、又土佐藩から看護人が差し添えられた。
九人のものは細川、浅野両家で非常に優待せられた。中にも細川家では、元禄年中に赤穂浪人を預り、万延元年に井伊掃部頭(いいかもんのかみ)を刺した水戸浪人を預り、今度で三度目の名誉ある御用を勤めるのだと云って、鄭重(ていちょう)の上にも鄭重にした。新調した縞(しま)の袷(あわせ)を寝衣(ねまき)として渡す。夜具は三枚布団で、足軽が敷畳をする。隔日に据風呂(すえふろ)が立つ。手拭と白紙とを渡す。三度の食事に必ず焼物付の料理が出て、隊長が毒見をする。午後に重詰の菓子で茶を出す。果物が折々出る。便用には徒士(かち)二三人が縁側に出張る。手水(ちょうず)の柄杓(ひしゃく)は徒士が取る。夜は不寝番(ねずばん)が附く。挨拶に来るものは縁板に頭を附ける。書物を貸して読ませる。病気の時は医者を出して、目前で調合し、目前で煎(せん)じさせる。凡そこう云う扱振である。 三月二日に、死刑を免じて国元へ指返(さしかえ)すと云う達しがあった。三日に土佐藩の隊長が兵卒を連れて、細川、浅野両藩にいる九人のものを受取りに廻った。両藩共七菜(しちさい)二(に)の膳附の饗応(きょうおう)をして別を惜んだ。十四日に、九人のものは下横目一人宰領二人を附けられて、木津川口から舟に乗り込み、十五日に、千本松を出帆し、十六日の夜なかに浦戸(うらど)の港に着いた。十七日に、南会所をさして行くに、松が鼻から西、帯屋町までの道筋は、堺事件の人達を見に出た群集で一ぱいになっている。南会所で、下横目が九人のものを支配方に引き渡し、支配方は受け取って各自の親族に預けた。九人のものはこの時一旦遺書(ゆいしょ)遺髪(ゆいはつ)を送って遣(や)った父母妻子に、久し振の面会をした。 五月二十日に、南会所から九人のものに呼出状が来た。本人は巳(み)の刻、実父又は実子のあるものは、その実父、実子も巳の刻半に出頭すべしと云うのである。南会所では目附の出座があって、下横目が三箇条の達しをした。扶持切米(ふちきりまい)召し放され、渡川限(わたりかわかぎり)西へ流罪(るざい)仰せ付けられる。袴刀(はかまかたな)のままにて罷(まか)り越して好いと云うのが一つ。実子あるものは実子を兵卒に召し抱え、二人扶持切米四石を下し置かれると云うのが二つ。実子のないものは配処に於いて介補(かいほ)として二人扶持を下し置かれ、幡多(はた)中村の蔵から渡し遣(つか)わされると云うのが三つである。九人のものは相談の上、橋詰を以て申し立てた。我々はフランス人の要求によって、国家の為めに死のうとしたものである。それゆえ切腹を許され、士分(さむらいぶん)の取扱を受けた。次いでフランス人が助命を申し出たので、死を宥(なだ)められた。然れば無罪にして士分の取扱をも受くべき筈である。それを何故に流刑に処せられるか、その理由を承らぬうちは、輒(たやす)くお請(うけ)が出来難いと云うのである。目附は当惑の体で云った。不審は最(もっとも)である。しかしこの度の流刑は自殺した十一人の苦痛に準ずる御処分であろう。枉(ま)げてお請をせられたいと云った。九人のものは苦笑して云った。十一人の死は、我々も日夜心苦しく存ずる所である。その苦痛に準ずると云われては、論弁すべき詞(ことば)がない。一同お請いたすと云った。 九人のものは流人として先例のない袴着帯刀(はかまぎたいとう)の姿で出立したが、久しく蟄居(ちっきょ)して体(からだ)が疲れていたので、土佐郡朝倉村に着いてから、一同足痛を申し立てて駕籠に乗った。配所は幡多郡入田村(はたごおりにゅうたむら)である。庄屋宇賀祐之進(うがすけのしん)の取計(とりはからい)で、初は九人を一人ずつ農家に分けて入れたが、数日の後一軒の空屋に八人を合宿させた。横田一人は西へ三里隔たった有岡村の法華宗真静寺の住職が、俗縁があるので引き取った。 九人のものは妙国寺で死んだ同僚十一人のために、真静寺で法会(ほうえ)を行って、次の日から村民に文武の教育を施しはじめた。竹内は四書の素読(そどく)を授け、土居、武内は撃剣を教え、その他の人々も思い思いに諸芸の指南をした。 入田村は夏から秋に掛けて時疫(じえき)の流行する土地である。八月になって川谷、横田、土居の三人が発熱した。土居の妻は香美郡夜須村(かがみごおりやすむら)から、昼夜兼行で看病に来た。横田の子常次郎は、母が病気なので、僅(わず)かに九歳の童子でありながら、単身三十里の道を歩いて来て、父を介抱した。この二人は次第に恢復(かいふく)に向ったのに、川谷一人は九月四日に二十六歳を一期(いちご)として病死した。 十一月十七日に、目附方は橋詰以下九人のものに御用召を発した。生き残った八人は、川谷の墓に別を告げて入田村を出立し、二十七日に高知に着いた。即時に目附役場に出ると、各通の書面を以て、「御即位御祝式に被当(あたられ)、思召帰住御免(おぼしめしきじゅうごめん)之上、兵士某(なにがし)父に被仰付(おおせつけられ)、以前之年数被継遣之(いぜんのねんすうこれをつぎつかわさる)」と云う申渡(もうしわたし)があった。これは八月二十七日にあった明治天皇の即位のために、八人のものが特赦(とくしゃ)を受けたので、兵士とは並の兵卒である。士分取扱の沙汰(さた)は終(つい)に無かった。
妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。箕浦を頭(かしら)に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶(おおがめ)が切石の上に伏せてある。これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶(かめ)を「生運様(いきうんさま)」と云って参詣(さんけい)するものが迹(あと)を絶たない。 十一人のうち箕浦は男子がなかったので、一時家が断絶したが、明治三年三月八日に、同姓箕浦幸蔵の二男楠吉(くすきち)に家名を立てさせ、三等下席(かせき)に列し、七石三斗を給し、次で幸蔵の願に依て、猪之吉の娘を楠吉に配することになった。 西村は父清左衛門が早く亡くなって、祖父克平(かつへい)が生存していたので、家督を祖父に復せられた。後には親族筧氏(かけいうじ)から養子が来た。 小頭以下兵卒の子は、幼少でも大抵兵卒に抱えられて、成長した上で勤務した。
底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社 1968(昭和43)年4月20日発行 1979(昭和54)年8月15日24刷 入力:j_sekikawa 校正:小林繁雄 ファイル作成:野口英司 2001年3月12日公開 2001年6月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
右手を創に※し込んで、 |
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