それから、然らば假名遣を若し國民に教へようとするならば、どうしたらば好いかと云ふ其の方法手段であります。是れはたしか黒澤翁麿あたりの工夫でありませうか、少數のむつかしい假名から教へて行くと云ふと、後との容易しいのは自然に分ると云ふ方法があります。今日でも假名遣を教へる人は大抵さう云ふ手段を執るやうであります。一種の記憶法のやうなものであります。斯う云ふ記憶法でありますが、是れなどを猶研究したならば、教へる方法は今日よりも一層完全に出來得るかと思ふのであります。假名遣の困難と云ふことに就いては主として字音假名遣のことが擧げられてあります。此の字音のことは洵に困難な問題でありまして、古い所の、古いと云つても是れは十八世紀ではありまするが、僧文雄の「麿光韻鏡」から以來、本居の「漢字三音考」と「字音假名遣」、文政中の太田全齋の「漢呉音圖」、現存して居られる木村正辭先生の「漢呉音圖正誤」、先づ斯う云ふやうな系統で、字音の研究がしてある。大槻先生の仰しやつた通りに實に是れは頭痛のするやうな本であります。詩を作つたことのない者などには所詮覺えられぬと云ふ御論は尤もに聽きました。併しながら是れも其の極く困難な部分は殆ど大槻博士の御演説の中に網羅してあつたやうに思ふ。兎に角一場の御演説で困難な部分は網羅し得られるのでありまして、其の外は割合に容易しいのであります。此の字音の假名遣に對する、之に處する道を考へまするには、漢語がどの位日本化して居るかと云ふ程度を研究する必要があります。先刻申します通り全く字音が國語に化して居るのがある。それからそれに亞ぎまして、「文」「錢」の外に、あゝ云ふ類の之に準ずべきものがあります。例之ば「天地」と云ふことは「あめつち」よりか「てんち」の方が行はれて居る。是位に日本化すれば是れは國語と見なければならぬ。それに反して所謂漢字に隱れて居る字音と云ひまするものは、日本化した程度の極く低いものである。字音に隱れて居るから之れを改めることは容易だと云つてありまするけれども、字音に隱れて居る程ならば改めないでも宜しいかも知れないと云ふ一方には理由が立ちます。そこでさう云ふ日本化して居る程度の低いものは除いて、十分日本化して居るものを小學等に教へると云ふことになりますると云ふと、字數が自然に限られることになる。其の少數の字數ならば字音假名遣と雖ども教へられるかと思ふのです。そんなら久しく音の訛つて居るものはどうするか。例之ば今の「輸出」が「ゆしゆつ」になつて居ると云ふやうなことであります。斯う云ふのは「ゆしゆつ」と云ふ新國語と認めます。是れは音でない、訓だと思へば宜しいのであります。是れは字音としての取扱を停止すれば宜しいのであります。然らば未だ字音の考へられて居らぬものはどうするか。大槻先生は烏帽子の「烏」は「え」であるか「ゑ」であるかと云ふ疑を御引きになりました。斯う云ふことこそ國語調査會と云ふやうな所で定案を作つて、兎に角一つの案を作つてそれを公認せられることが必要であるかと思ふのであります。 併し困難は獨り字音ばかりではない、國語の假名遣にもあります。此の場合では殊に少數のむつかしい假名から教へるといふ手段を研究して、其の方法をもう少し完全に作れば、假名遣を廣く教へることが出來ようかと思ひます。諮詢案では「動詞の活用から出て居る假名」と云ふものだけを保存することになつて居りまするが、其の御趣意は至極結構な御趣意と思ひます。併し實際の案に表はれて居るところはどうも用意周到でないやうに思ふのであります。例之ば和行の假名を以て言つて見ますると「居る」と云ふ語は假名遣を存して置く。是れが名詞になつて、例之ば坐に居る「位」、「圓居」、「芝居」と云ふ假名になると阿行の「い」になるやうに思はれる。又「据う」と云詞でも「すう」と云ふ假名遣が存してある。「つきすゑ」の「つくゑ」又「いしずゑ」の「ゑ」になると、是れは阿行になつてしまふ。斯う云ふことがあつて見ると云ふと、どうも境界がはつきりしないやうに思ひます。どうも此の案は未だ十分熟して居るまいかと思ひます。教育團とか云ふものの意見と云ふのが、此の頃新聞に出て居りますが、大いに參考すべきことがあるやうに見受けます。大體の論は私は取りませぬけれども、此の諮詢案に對する教育團の意見と云ふものには宜しいところがあるかと思ひます。又國語の假名遣で未だ考へてないもの、例之ば「くぢら」か「くじら」か、「たはら」か「たわら」かと云ふやうなこと、是れも先刻の字音と同じく、斯う云ふことこそ國語調査會などで研究せられて其の結果を公認せられたら宜しいかと思ひます。兎に角字音にも國語にも假名遣に困難はありますけれども、凌ぐべからざる程の困難はないやうに思ひます。 そこで自分の意見を尚ほ約めて申しますれば次の通りであります。第一に假名遣は成程性質上から保守的なものである。併しながら發音的の側から見ても大なる不都合があるものとは認めない。夫故に教科書などでは矢張假名遣の正則として之を用ゐられたいと云ふ、此點は陸軍省も一般に其の意見であります。第二は假名遣は發音的に改めると云ふことを爲し得るものである。政府は極く愼重に調査して漸を以て改められるが宜しい。其の時には國語を淨めると云ふことを顧慮して、徐々に直されたい。斯う云ふのであります。それから次に第三に此の假名遣を直すに先立つて、國語にも字音にも假名遣の未定問題があるから、さう云ふことは學者の團體にでも命じて兎に角定めさせてそれを公認せられたい。斯う云ふのであります。そこで此の諮詢案と云ふものはどうも未だ熟して居らぬやうに思ふ。尚ほ附け加へて申したい意見があります。どうか政府に於ては純粹に發音による國語の書き方と云ふことを、一層深く研究せられて、丁度西洋で發音學者、Phonetik の學者がいろ/\研究して居るやうに國語を成るたけ完全に發音的に書くと云ふ方法を研究せられたいと斯う思ふのであります。どうも唯今改正案になつて居る發音的の假名と云ふものは發音的でない所があるやうに思ふ。矢野君でありましたか、斯う言はれました、「かう」だの「こう」だの「かふ」だの「こふ」だのを「こう」と書く、それは矢張發音的に「こお」と「お」の字を書いた方が宜しいと云ふことを言はれましたが、御尤もと思ひます。古い催馬樂などに阿行の母音を後へ添へて書いたやうな例があるかと思ふ。是れなどは寧ろ發音的で書くと云ふ側からは「こう」と書かずに、阿行の「お」を使つて「こお」と書いた方が宜しいやうに思ひます。其の外發音の必要なる研究の他の例を言ひますと、外國の語を書くときに英語で云ふ「あある」と「える」などは別々に表はされない。是れなども何か符號を以て表はすことが必要である。さうなればrとlの音を別々に表すことが出來ると思ふ。さう云ふ發音的に國語を完全に書く法を十分研究して置かれると云ふと、其中からどれだけのものを採つて假名遣に入れると云ふときの基礎にならうと思ふ。さう云ふ元帳を作つて置いてそれから靜に改正をしたいのであります。それからもう一つ申して置きたいのは、小學などの教育に新しい發音假名を教へると云ふことは是れは混雜の原因となる。それは教へなくても宜しいと云ふことであります。是非小學校の初めから假名遣は正しい假名遣を教へるが好い。教科書は正則の假名遣で書いてやりたい。そこで子供に自身で何か書かせる。書かせる段になると云ふと或は發音的に書くかも知れぬ。其の時に發音的に書いたのを誤としない、それを認めてやる。こんな時の教員の參考には、今云つたやうな發音的の書き方の調査が出來て居つたならば、それを使用することが出來るだらう。發音的に書いたのを、それを誤には勘定しない、斯うして行きます。さうすると云ふと一向差支ない。是れが本當の許容である。是れなれば許容と云ふ詞は正當に用ゐられて居るのであります。そこで目に觸れるものは悉く本當の假名遣になつて來る。斯の如くにしたならば、段々小學校から中學校に行くに從つて假名遣を覺えるだらうと思ひます。大略斯う云ふ意見であります。
(明治四十一年六月)
底本:「筑摩全集類聚 森鴎外全集 第7巻」筑摩書房 1971(昭和46)年8月5日第1版発行 入力:山田豊 校正:高橋真也 1999年7月23日公開 2006年4月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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