「何もかも知られてしまひましたの。だからこの手紙は、わたくし泣ながら書きます。お父う様はわたくしを打ちました。わたくしどうしようかと思ひますわ。もうとても外へ一人でなんか出しません。あなたの仰やつた通りだと思ひます。御一しよに逃げませうね。アメリカへでも好いし、その外どこでも、あなたのお好きな所へ参りますわ。わたくしあすの朝六時に
少年は手紙を読んでしまつてから、大股に室内を歩き出した。なんだか今までの苦痛が無くなつたやうな心持がする。動悸が烈しい。兎に角一人前の男になつたといふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する地位に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己の物になるのだと思ふと、ひどく嬉しい。血が頭に昇つて来る。そこで椅子に腰を掛けた。その時、どこへ行つたら好からうと云ふ問題が始めて浮んだ。
この問題の解決は中々付かない。そこでそれをぼかす為めに、跳り上がつて支度をし始めた。
少しばかりのシヤツや衣類を纏めて、それから溜めて置いた紙幣を黒革の紙入れに捻ぢ込んだ。それから忙しげに、なんの必要もない
夜中過ぎに
横になつてから、又どこへ行かうかと考へた。そして声を出して云つた。「なに。真の恋愛をしてゐる以上はどうでもなる。」
時計がこち/\と鳴つてゐる。窓の下の往来を馬車が通つて、窓硝子に響く。時計は十二時まで打つて
少年はその音を遠くに聞くやうな心持で、又さつきの「真の恋愛をしてゐる以上は」と云ふ詞を口の内で繰り返した。
その内夜が明け掛つた。
フリツツは床の上で寒けがして、「己はもうアンナは厭になつた」と思つてゐる。なんだか頭がひどく重い。「兎に角アンナは厭だ。あれが真面目だらうか。二つ三つ背中を
五月の朝の日が晴やかに、明るく部屋に差し込んで来た。その時フリツツは「どうもアンナだつて真面目に考へて、あんな手紙を書いたのではあるまい」と思つた。それと同時に、少し気が落ち着いて来て、この儘も少し寝てゐたいと思つた。併し又一転して考へて見ると、やはり
まだ薄ら寒い朝の町を、疲れて膝のがく/\するやうな足を引き
停車場の広場は空虚である。なんだか気味の悪いやうな、まだ希望の繋がれてゐるやうな心持をしながら、フリツツはあたりを見廻した。
茶色のジヤケツはどこにも見えない。
フリツツはほつと息をした。それから廊下や待合室を駆け廻つて捜した。旅客が寝ぼけた顔をして、何事にも無頓着な様子で歩き廻つてゐる。赤帽が柱の
茶色のジヤケツはどこにも見えない。
駅夫がどこかの待合室を覗いて、なんとか地名を呼んだ。そしてがらん/\と、けたゝましく
フリツツは
なんだかひどく気楽な心持になつて、或る柱の
その時床の石畳みの上を急ぎ足で来る靴の音がした。
フリツツがふいとその方角を見ると、茶色のジヤケツを着た、小さい姿が、プラツトフオオムの戸の向うへ隠れるのが見えた。帽子の上にゆらめいてゐる薔薇の花も見えたのである。
フリツツはぢつとそれを見送つてゐた。その時少年の心に、この人生をおもちやにしようとしてゐる、色の蒼い弱々しい小娘に対する恐怖が、圧迫するやうに生じて来た。そして娘が跡へ引き返して来て、自分を見附けて、知らぬ世界へ引き摩つて行くのだらうとでも思つたらしく、フリツツは慌てゝ停車場を駆け出して、跡をも見ずに町の方へ帰つて行つた。