阿闍梨から話に聞いて想像したよりも目に見ては寂しい八の宮の山荘であった。仮の庵という体裁で簡単にできているのである。山荘といっても風流な趣を尽くした贅沢なものもあるが、ここは荒い水音、波の響きの強さに、思っていることも心から消される気もされて、夜などは夢を見るだけの睡眠が続けられそうもない。素朴といえば素朴、すごいといえばすごい山荘である。僧のごとく悟っておいでになる宮のためにはこんな家においでになることは、人生を捨てやすくなることであろうが姫君たちはどんな気持ちで暮らしておいでになるであろう、世間の女に見るような柔らかな感じなどは失っておいでになるであろうとこんな観察も薫はされるのであった。 仏間になっている所とは襖子一重隔てた座敷に女王たちは住んでいるらしく思われた。異性に興味を持つ男であれば、交際をし始めて、どんな性質の人たちかとまず試みたいという気は起こすことであろうと思われる空気も山荘にはあった。しかしそうした異性に心の動かされぬ人たるべく遠くに師とする方を尋ねて来ながら、普通の男らしく山荘の若い女性に誘惑を試みる言行があってはならないと薫は思い返して、宮のお気の毒な御生活を懇切に御補助することを心がけることにして、たびたび伺っては、かねて願ったように俗体で深く信仰の道にはいるその方法とか、あるいは経文の解釈とかを宮から伺おうとした。学問的ばかりでなく、柔らかに比喩をお用いになったりなどして、宮が説明あそばすことはよく薫の心にはいった。高僧と言われる人とか、学才のある僧とかは世間に多いがあまりに人間と離れ過ぎた感がして、きつい気のする有名な僧都とか、僧正とかいうような人は、また一方では多忙でもあるがために、無愛想なふうを見せて、質問したいことも躊躇されるものであるし、また人格は低くてただ僧になっているという点にだけ敬意も持てるような人で、下品な、言葉づかいも卑しいのが、玄人らしく馴れた調子で経文の説明を聞かせたりするのは反感が起こることでもあって、昼間は公務のために暇がない薫のような人は、静かな宵などに、寝室の近くへ招いて話し相手をさせる気になれないものであるが、気高い、優美な御風采の八の宮の、お言いになるのは同じ道の教えに引用される例なども、平生の生活によき感化をお与えになる親しみの多いものを混ぜたりあそばされることで効果が多いのである。最も深い悟りに達しておられるというのではないが、貴人は直覚でものを見ることが穎敏であるから、学問のある僧の知らぬことも体得しておいでになって、次第になじみの深くなるにしたがい、薫の思慕の情は加わるばかりで、始終お逢いしたくばかり思われ、公務の忙しいために長く山荘をお訪ねできない時などは恋しく宮をお思いした。 薫がこんなふうに八の宮を尊敬するがために冷泉院からもよく御消息があって、長い間そうしたお使いの来ることもなく寂しくばかり見えた山荘に、京の人の影を見ることのあるようになった。そして院から御補助の金品を年に何度か御寄贈もされることになった。薫も何かの機会を見ては、風流な物をも、実用的な品をも贈ることを怠らなかった。こんなふうでもう三年ほどもたった。 秋の末であったが、四季に分けて宮があそばす念仏の催しも、この時節は河に近い山荘では網代に当たる波の音も騒がしくやかましいからとお言いになって、阿闍梨の寺へおいでになり、念仏のため御堂に七日間おこもりになることになった。姫君たちは平生よりもなお寂しく山荘で暮らさねばならなかった。ちょうどそのころ薫中将は、長く宇治へ伺わないことを思って、その晩の有明月の上り出した時刻から微行で、従者たちをも簡単な人数にして八の宮をお訪ねしようとした。河の北の岸に山荘はあったから船などは要しないのである。薫は馬で来たのだった。宇治へ近くなるにしたがい霧が濃く道をふさいで行く手も見えない林の中を分けて行くと、荒々しい風が立ち、ほろほろと散りかかる木の葉の露がつめたかった。ひどく薫は濡れてしまった。こうした山里の夜の路などを歩くことをあまり経験せぬ人であったから、身にしむようにも思い、またおもしろいように思われた。
山おろしに堪へぬ木の葉の露よりもあやなく脆きわが涙かな
村の者を驚かせないために随身に人払いの声も立てさせないのである。左右が柴垣になっている小路を通り、浅い流れも踏み越えて行く馬の足音なども忍ばせているのであるが、薫の身についた芳香を風が吹き散らすために、覚えもない香を寝ざめの窓の内に嗅いで驚く人々もあった。 宮の山荘にもう間もない所まで来ると、何の楽器の音とも聞き分けられぬほどの音楽の声がかすかにすごく聞こえてきた。山荘の姉妹の女王はよく何かを合奏しているという話は聞いたが、機会もなくて、宮の有名な琴の御音も自分はまだお聞きすることができないのである、ちょうどよい時であると思って山荘の門をはいって行くと、その声は琵琶であった。所がらでそう思われるのか、平凡な楽音とは聞かれなかった。掻き返す音もきれいでおもしろかった。十三絃の艶な音も絶え絶えに混じって聞こえる。しばらくこのまま聞いていたく薫は思うのであったが、音はたてずにいても、薫のにおいに驚いて宿直の侍風の武骨らしい男などが外へ出て来た。こうこうで宮が寺へこもっておいでになるとその男は言って、 「すぐお寺へおしらせ申し上げましょう」 とも言うのだった。 「その必要はない。日数をきめて行っておられる時に、おじゃまをするのはいけないからね。こんなにも途中で濡れて来て、またこのまま帰らねばならぬ私に御同情をしてくださるように姫君がたへお願いして、なんとか仰せがあれば、それだけで私は満足だよ」 と薫が言うと、醜い顔に笑を見せて、 「さように申し上げましょう」 と言って、あちらへ行こうとするのを、 「ちょっと」 と、もう一度薫はそばへ呼んで、 「長い間、人の話にだけ聞いていて、ぜひ伺わせていただきたいと願っていた姫君がたの御合奏が始まっているのだから、こんないい機会はない、しばらく物蔭に隠れてお聞きしていたいと思うが、そんな場所はあるだろうか。ずうずうしくこのままお座敷のそばへ行っては皆やめておしまいになるだろうから」 と言う薫の美しい風采はこうした男をさえ感動させた。 「だれも聞く人のおいでにならない時にはいつもこんなふうにしてお二方で弾いておいでになるのでございますが、下人でも京のほうからまいった者のございます時は少しの音もおさせになりません。宮様は姫君がたのおいでになることをお隠しになる思召しでそうさせておいでになるらしゅうございます」 丁寧な恰好でこう言うと、薫は笑って、 「それはむだなお骨折りと申すべきだ。そんなにお隠しになっても人は皆知っていて、りっぱな姫君の例にお引きするのだからね」 と言ってから、 「案内を頼む。私は好色漢では決してないから安心するがよい。そうしてお二人で音楽を楽しんでおいでになるところがただ拝見したくてならぬだけなのだよ」 親しげに頼むと、 「それはとてもたいへんなことでございます。あとになりまして私がどんなに悪く言われることかしれません」 と言いながらも、その座敷とこちらの庭の間に透垣がしてあることを言って、そこの垣へ寄って見ることを教えた。薫の供に来た人たちは西の廊の一室へ皆通してこの侍が接待をするのだった。 月が美しい程度に霧をきている空をながめるために、簾を短く巻き上げて人々はいた。薄着で寒そうな姿をした童女が一人と、それと同じような恰好をした女房とが見える。座敷の中の一人は柱を少し楯のようにしてすわっているが、琵琶を前へ置き、撥を手でもてあそんでいた。この人は雲間から出てにわかに明るい月の光のさし込んで来た時に、 「扇でなくて、これでも月は招いてもいいのですね」 と言って空をのぞいた顔は、非常に可憐で美しいものらしかった。横になっていたほうの人は、上半身を琴の上へ傾けて、 「入り日を呼ぶ撥はあっても、月をそれでお招きになろうなどとは、だれも思わないお考えですわね」 と言って笑った。この人のほうに貴女らしい美は多いようであった。 「でも、これだって月には縁があるのですもの」 こんな冗談を言い合っている二人の姫君は、薫がほかで想像していたのとは違って非常に感じのよい柔らかみの多い麗人であった。女房などの愛読している昔の小説には必ずこうした佳人のことが出てくるのを、いつも不自然な作り事であると反感を持ったものであるが、事実として意外な所に意外なすぐれた女性の存在することを知ったと思うのであった。 若い人は動揺せずにあられようはずもない。霧が深いために女王たちの顔を細かに見ることができないのを、もう一度また雲間を破って月が出てくれればいいと薫の願っているうちに、座敷の奥のほうから来客のあることを報じた者があったのか、御簾をおろして、縁側に出ていた人たちも中へはいってしまった。あわてたふうなどは見せずに、静かに奥へ皆が引っこんだ気配には聞こえてこようはずの衣擦れの音も、新しい絹の気がないのか添わないで寂しいが優雅で薫の心に深い印象を残した。 薫は隙見した場所を静かにはなれて、京へ車を呼ばせる使いを立てたりした。宮家の先刻の侍に、 「宮様のお留守にあやにく伺ったのですが、あなたの好意で私は屈託を少し忘れることもできましたよ。私の伺ったことをお奥へ申し上げてください。山路の夜霧に濡れながら伺った奇特さを認めていただくつもりです」 と薫が言うと、侍はすぐに奥へ行った。薫が隙見をしたことなどは知らずに、弾いて遊んでいた琵琶や琴の音をあるいは聞かれたかもしれぬということで姫君たちは恥ずかしく思った。よい香の混じった風の吹き通ったことも確かな事実であったが、思いがけぬ時刻であったために、薫中将の来訪とは気のつかなかったのは、何たる神経の鈍いことであったろうと二女王は羞恥に堪えられなく思うのであった。取り次ぎ役の侍の気のきかぬことがもどかしくなって、薫は無遠慮にあたるかもしれぬが、山荘住まいの現在の女王がたはとがめもされまいと思い、まだ霧の深い時間であったから、さっきのぞいたほうの座敷の縁へ歩いて行き、御簾の前へすわったのであった。田舎風の染んだ若い女房などは客と応答する言葉もわからず、敷き物を出すことすら不馴れであった。 「このお座敷の御簾の前にしか座が頂戴できないのでしょうか。あさはかな心だけでは決して訪ねてまいれるものでないと、何里の夜路をまいって自身でも認めうるのですから、御待遇を改めていただきたいものですね。たびたびこうしてこちらへ上がっております誠意だけはわかっていただいているものと頼もしくは思っております」 まじめに薫はこう言った。若い女房にはこの応対にあたりうる者もなく、皆きまり悪く上気している者ばかりであったから、部屋へ下がって寝ているある一人を、起こしにやっている間の不体裁が苦しくて、大姫君は、 「何もわからぬ者ばかりがいるのですから、わかった顔をいたしましてお返辞を申し上げることなどはできないのでございます」 と、品のよい、消えるような声で言った。 「人生の憂さがわかりながら私の知らず顔をしていますのも、世の中のならわしに従っているだけなのです。宮様はすでに私の気持ちをお知りになっておられますのに、あなた様だけが俗世界の一人としか私をお認めくださらないのは残念です。世間を超越された宮様のこの御生活の中においでになりますあなた様がたのお心の境地は澄みきったものでしょうから、こうした男の志の深さ浅さも御明察くだすったらうれしいことだろうと私は思います。世間並みの一時的な感情で御交際を求める男と同じように私を御覧になるのではありませんか。私がどんな誘惑にも打ち勝って来ている男であることは、すでに今までにお耳へはいっていることかとも思われます。独身生活を続けております私が求める友情をお許しくだすって、私もまた寂しいあなた様のお心を慰める友になりえて親密なおつきあいができましたらどんなにうれしいかと思われます」 などと薫の多く言うのに対して、大姫君は返辞がしにくくなって困っているところへ、起こしにやった老女が来たために、応答をそれに譲った。その女は出すぎた物言いをするのであった。 「まあもったいない、失礼なお席でございますこと。なぜ御簾の中へお席を設けませんでしたでしょう。若い人たちというものは人様の見分けができませんでねえ」 などと老人らしい声で言っていることにも女王たちはきまり悪さを覚えていた。 「この世においでになる人の数にもおあたりになりませんようなお暮らしをあそばして、当然おいでにならなければならない方でさえも段々遠々しくばかりなっておしまいになりますのに、あなた様の御好意のかたじけなさは、私ども風情のつまらぬ者さえも驚きの目をみはるばかりでございます。でございますから、お若い女王様がたも常に感激はしておいでになりながらも、そのとおりにお話しあそばすことはおできにならないのでございましょう」 控えめにせず物なれたふうに言い続けることに反感は起こりながらも、この人の田舎風でなく上流の女房生活をしたらしい品のよい声づかいに薫は感心して、 「取りつきようもない皆さんばかりでしたのに、あなたが出て来てくださいまして、私の誠心誠意をくんでいてくださる方を得ましたことは、私の大きい幸福です」 こう御簾に身を寄せて言っている薫を、几帳の間からのぞいて見ると、曙の光でようやく物の色がわかる時間であったから、簡単な服装をわざわざして来たらしい狩衣姿の、夜露に濡れたのもわかったし、またこの世界のものでないような芳香もそこには漂っていることにも気づかれた。この老女はどうしたのか泣きだした。 「あまり出すぎたことをしてお気持ちを悪くしましてはと存じまして、私は自分をおさえておりましたが、悲しい昔の話をどうかして機会を作りまして、少しでもお話しさせていただき、あなた様の御承知あそばさなかったことを、お知らせもしたいということを私は長い間仏様の念誦をいたしますにも混ぜて願っておりましたその効験で、こうしたおりが得られたのでしょうが、お話よりも先に涙におぼれてしまいまして、申し上げることができません」 身体を慄わせて言う老女の様子に真剣味が見えて、老人はだれもよく泣くものであると知っている薫であったが、こんなにまで悲しがるのが不思議に思われて、 「この御山荘へ伺うことになりましてからずいぶん年月はたちますが、こちらのほうにも一人もおなじみがなくて寂しくばかり思われていたのです。昔のことを知っておいでになるというあなたにお逢いすることができて、私はにわかに心強くなったのですから、この機会に何でもお話しください」 と言った。 「ほんとうにこんなよいおりはございません。またあるといたしましても、私は老人でございますから、それまでにどうなるかもしれたものではありませんので、ただこうした老女がいると申すことを覚えておいていただくためにお話しいたします。三条の宮にお仕えしておりました小侍従が亡くなりましたことはほのかに聞いて承知しておりました。昔親しくいたしました同じ年ごろの人がたいてい亡くなりましたあとで、この五、六年こちらの宮家へ私は御奉公いたしております。ご存じではございますまい、ただいま藤大納言と申し上げます方のお兄様で、衛門督でお亡れになりました方のことを何かの話の中ででもお聞きになったことがございますでしょうか。私どもにとりましては、お亡れになりましたのがまだ昨日のようにばかり思われまして、その時の悲しみが忘れられないのでございますが、数えてみますと、あなた様がこんな大人にまでなっておいでになるだけの年月がたっているのでございますから、夢のようですよ。私はつまらない女でございましたが、人に知らせてならぬことで、しかもお心でお思いになりますことを私には時々お話ししてくだすったのでございました。御病気がお悪くて、もう頼みのない時になりまして、私をお呼びになって、少し御遺言をあそばしたことがあるのでございます。それはあなた様に御関係のあるお話なのでございましたから、これだけお話を申し上げましたあとを、まだお聞きになりたく思召すのでございましたら、また別な時間をお作りくださいまし。若い女房たちは私が出てまいって、あまりに話し込んでおりますことで、出すぎた真似をするように、反感を持ちまして何か言っておりますのももっともなことでございますから」 さすがにこれだけにとめて老女はあとを言おうとしなかった。怪しい夢のような話である。巫女などが問わず語りをするようなものであると、薫は信を置きがたく思いながらも、始終心の隅から消すことのできない疑いに関したことであったから、なお話の核心に触れたくは思ったが、今もこの人が言ったように、女房たちが見ている所であって、老女と二人向き合って昔話に夜を明してしまうことも優雅なことではないと気がついて、 「私には何の心あたりもないことですが、昔のお話であると思うと身にしみます。ですからぜひ今の話のあとをそのうちお聞かせください。霧が晴れて現わになっては恥ずかしい姿になっていて、私の心よりも劣った形を姫君がたのお目にかけることになるのは苦痛ですから失礼します」 と薫が言って、立った時に宮の行っておいでになる寺の鐘がかすかに聞こえてきた。霧はますます濃くなっていて、宮のおいでになる場所と山荘の隔たりが物哀れに感ぜられた。薫は姫君たちの心持ちを思いやって同情の念がしきりに動くのだった。二人とも引っ込みがちに内気なふうになるのも道理であるなどと思われた。
「朝ぼらけ家路も見えず尋ねこし槙の尾山は霧こめてけり
心細いことです」 と言って、またもとの席に帰って、川霧をながめている薫は、優雅な姿として都人の中にも定評のある人なのであるから、まして山荘の人たちの目はどれほど驚かされたかもしれない。 だれも皆恥じて取り次ぐことのできないふうであるのを見て、大姫君がまたつつましいふうで自身で言った。
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