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源氏物語(げんじものがたり)42 まぼろし
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-6 10:03:18 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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つれづれとわが泣き暮らす夏の日をかごとがましき虫の声かな
夜を知る蛍を見ても悲しきは時ぞともなき思ひなりけり
七月七日も例年に変わった 未明に一人 七夕の
こう口ずさんでおいでになった。 秋風らしい風の吹き始めるころからは法事の 君恋ふる涙ははてもなきものを今日をば何のはてといふらん
と書かれてあったのを、手に取ってお読みになってから、院がまたその横へ、 人恋ふるわが身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり
とお書き添えになった。 九月になり もろともにおきゐし菊の朝露もひとり
と院はお歌いになった。 十月は 大空を通ふまぼろし夢にだに見えこぬ
何によっても慰められぬ月日がたっていくにしたがい、院のお悲しみは深くばかりになった。 宮人は
今年をこんなふうに隠忍してお通しになった院は、もう次の春になれば出家を実現させてよいわけであるとその用意を少しずつ始めようとされるのであったが、物哀れなお気持ちばかりがされた。院内の人々にもそれぞれ等差をつけて物を与えておいでになるのであった。目だつほどに今日までの御生活に区切りをつけるようなことにはしてお見せにならないのであるが、近くお仕えする人たちには、院が出家の実行を期しておいでになることがうかがえて、今年の終わってしまうことを非常に心細くだれも思った。人の目については不都合であるとお思いになった古い恋愛関係の手紙類をなお破るのは惜しい気があそばされたのか、だれのも少しずつ残してお置きになったのを、何かの時にお見つけになり破らせなどして、また改めて始末をしにおかかりになったのであるが、 死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほまどふかな
と仰せられた。女房たちも御遠慮がされてくわしく読むことはできないのであったが、端々の文字の少しずつわかっていくだけさえも非常に悲しかった。同じ世にいて、近い所に別れ別れになっている悲しみを、実感のままに書かれてある故人の文章が、その当時以上に今のお心を打つのは道理なことである。こんなにめめしく悲しんで自分は見苦しいとお思いになって、よくもお読みにならないで長く書かれた女王の手紙の横に、 かきつめて見るもかひなし
とお書きになって、それも皆焼かせておしまいになった。 仏名の僧を迎える行事も今年きりのことであるとお思いになると、僧の 春までの命も知らず雪のうちに色づく梅を今日かざしてん
というのであって、お返し、 千代の春見るべきものと祈りおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる
参会者の作も多かったが省いておく。院の御 今年が終わることを心細く思召す院であったから、若宮が、 「 などと言って、お走り歩きになるのを御覧になっても、このかわいい人も見られぬ生活にはいるのであるとお思いになるのがお寂しかった。 物
元日の参賀の客のためにことにはなやかな 底本:「全訳源氏物語 中巻」角川文庫、角川書店 1971(昭和46)年11月30日改版初版発行 1994(平成6)年6月15日39版発行 ※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。 ※校正には、2002(平成14)年1月15日44版を使用しました。 入力:上田英代 校正:kompass 2004年2月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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