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源氏物語(げんじものがたり)34 若菜(上)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-6 9:53:45 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 六条院のおいでになったことが伝えられると、
「どうしてでしょう。私のお返事をどう聞き違えて申し上げたのだろう」
 尚侍は機嫌きげんを悪くしたが、
「いいかげんな口実を作りましてお帰しいたすことなどはもったいないことでございましょう」
 と中納言の君は言って、無理な計らいまでして院を座敷へ御案内してしまった。院は見舞いの挨拶あいさつなどをお取り次がせになったあとで、
「ただここに近い所へまで出てくだすって、物越しでもお話しくださいませんか。今日はもう昔のような不都合なことをする心を持っていませんから」
 こう切に仰せられるので、尚侍はひどく歎息たんそくをしながら膝行いざって出た。だからこの人は軽率なのであると、満足を感じながらも院は批評をしておいでになった。これは二人にとって絶えて久しい場面であった。遠い世の思い出が女の心によみがえらないことでもないのである。東の対であった。東南の端の座敷に院はおいでになって、隣室の尚侍のいる所との間の襖子からかみには懸金かねがねがしてあった。
「何だか若者としての御待遇を受けているようで、これでは心が落ち着かないではありませんか。あれからどれだけの年月、日は幾つたつということまでも忘れない私としては、あなたのこの冷たさが恨めしく思われてなりませんよ」
 と、院はお恨みになった。夜はふけにふけてゆく。池の鴛鴦おしどりの声などが哀れに聞こえて、しめっぽく人けの少ない宮の中の空気が身にお感じられになり、人生はこんなに早く変わってしまうものかと昔の栄華の跡のやしきがお思われになると、女の心を動かそうとしてうそ泣きをした平仲へいちゅうではなくて真実の涙のこぼれるのをお覚えになった。昔に変わってあせらず老成なふうに恋を説きながら、
「これはいつまでもこのままにしておくことになるのですか」
 と言って、襖子を引き動かしたまうのであった。

年月を中に隔てて逢坂あふさかのさもせきがたく落つる涙か

 院がこうお言いになっても、

涙のみせきとめがたき清水しみづにて行き逢ふ道は早く絶えにき

 というようなかけ離れた返辞を女はするにすぎなかったが、昔を思ってはだれが原因になってこの方は遠い国に漂泊さすらっておいでになったか、一人で罪をお負いになったこの方に、冷たい賢がった女にだけなって逢っていて済むだろうかと朧月夜おぼろづきよ尚侍ないしのかみの心は弱く傾いていった。もとから重厚な所の少ない性質のこの人は、源氏の君から離れていた年月の間昔の軽率を後悔していたし、清算のできた気にもなっていたのであるが、昔のとおりなような夜が眼前に現われてきて、その時と今の間にあった時がにわかに短縮された気のするままに、初めの態度は取り続けられなくなった。
 やはり最もえん貴女きじょとしてなお若やかな尚侍を院は御覧になることができたのであった。世に対し、人に対してはばかる煩悶はんもんが見えて歎息たんそくをしがちな尚侍を、今初めて得た恋人よりも珍しくお思いになり、海のような愛のくのを院はお覚えになった。夜の明けていくのが惜しまれて院は帰って行く気が起こらない。朝ぼらけの艶な空からは小鳥の声がうららかに聞こえてきた。花は皆散った春の暮れで、浅緑にかすんだ庭の木立ちをおながめになって、この家で昔藤花とうかの宴があったのはちょうどこのころのことであったと院はみずからお言いになったことから、昔と今の間の長いことも考えられ、青春の日が恋しく、現在のことが身にんでお思われになった。中納言の君がお見送りをするために妻戸をあけてすわっている所へ、いったん外へおいでになった院が帰って来られて、
「このふじと私は深い因縁のある気がする。どんなにこの花は私の心をくか知っていますか。私はここを去って行くことができないよ」
 こうお私語ささやきになったままで、なお花をながめて立ち去ろうとはなされないのであった。山から出た日のはなやかな光が院のお姿にさして目もくらむほどお美しい。この昔にもまさった御風采ふうさいを長く見ることのできなかった尚侍が見て、心の動いていかないわけはないのである。過失のあったあとでは後宮に侍してはいても、表だったきさきの位には上れない運命を負った自分のために、姉君の皇太后はどんなに御苦労をなすったことか、あの事件を起こして永久にぬぐえない悪名までも取るにいたった因縁の深い源氏の君であるなどとも尚侍は思っていた。名残なごりの尽きぬ会見はこれきりのことにさせたくないことではあるが、今日の六条院が恋の微行しのびあるきなどを続いて軽々しくあそばされるものでもないと思われた。院はこのやしきにおける人目も恐ろしく思召おぼしめされたし、日がのぼっていくのにせきたてられるお気持ちも覚えておいでになった。廊の戸口の下へ車が着けられて、供の人たちもひそかなお促し声もたてた。院は庭にいた者に長くしだれた藤の花を一枝お折らせになった。

沈みしも忘れぬものを懲りずまに身も投げつべき宿の藤波

 と歌いながら院はお悩ましいふうで戸口によりかかっておいでになるのを、中納言の君はお気の毒に思っていた。尚侍は再び作られた関係を恥じて思い乱れているのであったが、やはり恋しく思う心はどうすることもできないのである。

身を投げんふちもまことの淵ならでけじやさらに懲りずまの波

 と女は言った。青年がするような行動を院は御自身も肯定できなくお思いになるのであるが、女の情熱の冷却してはいないことがうれしくて、またの会合を遂げうるようによく語っておゆきになった。昔も多くの中のすぐれた志で愛しておいでになりながら、やむなくお別れになった仲に、この一夜があったあとのお心はその人へ強くおかれにならぬわけもない。
 院は非常に静かに忍んで自室へおはいりになった。こうした女の所からのお帰り姿を見て、相手は尚侍あたりであろうと、夫人には想像されるのであったが、気のつかぬふうをしていた。かえってねたみを表へ出すことよりもこれを院は苦しくお思いになって、なぜこうまで妻を冷淡にあつかったのであろうと歎息がされ、以前にまさった熱情をもって永久に変わらぬ愛を語ろうとあそばされるのに言葉を尽くしておいでになった。尚侍との間に復活させた情事はらすべき性質のものではないのであるが、昔のこともくわしく知っている女王にょおうであったから、今度のことも真実のことまではお言いにならなかったが、
「物越しでやっと逢ってもらっただけでは心が残ってならない。人目を上手じょうずに繕ってもう一度だけは逢いたい人だ」
 とくらいにお話しになった。女王は笑って、
「お若返りにばかりなりますわね。昔を今にまた新しくお加えになっては、いよいよ私の影は薄くばかりなります」
 と言いながらも、涙ぐんだ目をしているのが可憐かれんであった。
「いつもそんなふうに、寂しそうにばかりあなたがするから、私はたまらなく苦しくなる。もっと荒削りに、私を打つとかひねるとかして懲らしてくれたらどうですか。あなたにそうした水くさい態度をとらせるようには暮らして来なかったはずだが、妙にあなたは変わってしまいましたね」
 などとも言って、機嫌きげんをお取りになるうちには前夜の真相も打ちあけて話しておしまいになることになった。姫宮のほうへお出かけにならずに、夫人をなだめるのに終日かかっておいでになった。それを宮は何ともお思いにならないのであるが、乳母たちだけは不快がっていろいろと言っていた。嫉妬しっとをお持ちになる傾向が宮にもあれば院はまして苦しい立場になるのであるが、おっとりとした少女おとめの宮を、人形のように気楽にお扱いになることはできるのであった。
 東宮へ上がっておいでになる桐壺きりつぼの方は退出を長く東宮がお許しにならぬので、姫君時代の自由が恋しく思われる若い心にはこれを苦しくばかり思うのであった。夏ごろになっては健康もすぐれなくなったのであるが、なおも帰るお許しがないので困っていた。これは妊娠であったのである。まだ十四、五の小さい人であったから、この徴候を見てだれもだれも危険がった。やっとのことでお許しが下がって帰邸することになった。女三の宮のおいでになる寝殿の東側になった座敷のほうに桐壺の方の一時の住居すまいが設けられたのである。明石あかし夫人も共に六条院へ帰った。光る未来のある桐壺の方の身に添って進退する実母夫人は幸運に恵まれた人と見えた。紫夫人はそちらへ行って桐壺の方に逢おうとして、
「このついでに中の戸を通りまして姫宮へ御挨拶あいさつをいたしましょう。前からそう思っていたのですが機会がなかったのですもの。わざわざ伺うのもきまりが悪かったのですが、こんな時だと自然なことに見えていいと思います」
 と院へ御相談をした。院は微笑をされながら、
「結構ですよ。まだ子供なのですから、よくいろんなことを教えておあげなさい」
 と御同意をあそばされた。宮様よりも明石夫人という聡明そうめいな女に逢うことで夫人は晴れがましく思い、髪も洗い、よそおいに念を入れた女王の美はこれに準じてよい人もないであろうと思われた。
 院は宮のほうへおいでになって、
「今日の夕方対のほうにいる人が淑景舎しげいしゃたずねに来るついでにここへも来て、あなたと御交際の道を開きたいように言っていましたから、お許しになって話してごらんなさい。善良な性質の人ですよ。まだ若々しくてあなたの遊び相手もできそうですよ」
 とお語りになった。
「恥ずかしいでしょうね。どんなお話をすればいいのでしょうね」
 とおおように宮は言っておられる。
「人にする返辞は先方の話次第で出てくるものです。ただ好意を持ってお逢いにならないではいけませんよ」
 院はこまごまと御注意をされた。院は御両妻の間が平和であるように祈っておいでになるのである。あまりにたあいのない子供らしさを紫の女王に発見されることは、御自身としても恥ずかしいことにお思いになるのであるが、夫人が望んでいることをとめるのもよろしくないとお考えになったのである。
 紫の女王は内親王である良人おっとの一人の妻の所へ伺候することになった自分をあわれんだ。二十年同棲どうせいした自分より上の夫人は六条院にあってはならないのであるが、少女時代から養われて来たために、自分は軽侮してよいものと見られて、良人は高貴な新妻をお迎えしたものであろうと思うと寂しかった。手習いに字を書く時も、棄婦の歌、閨怨けいえんの歌が多く筆に上ることによって、自分はこうした物思いをしているのかとみずから驚く女王であった。院は自室のほうへお帰りになった。あちらで女三の宮、桐壺きりつぼの方などを御覧になって、それぞれ異なった美貌びぼうに目を楽しませておいでになったあとで、始終見れておいでになる夫人の美から受ける刺激は弱いはずで、それに比べてきわだつ感じをお受けになることもなかろうと思われるが、なお第一の嬋妍せんけんたる美人はこれであると院はこの時驚歎きょうたんしておいでになった。気高けだかさ、貴女きじょらしさが十分備わった上にはなやかで明るく愛嬌あいきょうがあって、えんな姿の盛りと見えた。去年より今年は美しく昨日より今日が珍しく見えて、飽くことも見てむことも知らぬ人であった。どうしてこんなに欠点なく生まれた人だろうかと院はお思いになった。手習いに書いた紙を夫人がすずりの下へ隠したのを、院はお見つけになって引き出してお読みになった。字は専門家風に上手じょうずなのではなく、貴女らしい美しさを多く含んだものである。

身に近く秋や来ぬらん見るままに青葉の山もうつろひにけり

 と書かれてある所へ院のお目はとまった。

水鳥の青羽は色も変はらぬをはぎの下こそけしきことなれ

 など横へ書き添えておいでになった。何かの場合ごとに今日の夫人の懊悩おうのうする心の端は見えても、さりげなくおさえている心持ちに院は感謝しておいでになるのであった。今夜はどちらとも離れていてよい暇な時であったから、朧月夜おぼろづきよの君の二条邸へ院は微行でお出かけになった。あるまじいことであるとお思い返しになろうとしても、おさえきれぬ気持ちがあったのである。
 東宮の淑景舎しげいしゃの方は実母よりも紫夫人を慕っていた。美しく成人した継娘ままむすめを女王は真実の親に変わらぬ心で愛した。なつかしく語り合ったあとで中の戸をあけて、宮のお座敷へ行き、はじめて女三にょさんみやに御面会した。ただ少女とお見えになるだけの宮様に女王は好感が持たれて、軽い気持ちにもなり年長の人らしく、保護者らしいふうにものを言って、宮の母君と自身の血の続きを語ろうとして、中納言の乳母めのとというのをそばへ呼んで言った。
「さかのぼって言いますとそうなのですね。私の父の宮とお母様は御兄弟なのです。ですからもったいないことですが親しく思召おぼしめしていただきたいと申し上げたかったのですが、機会がございませんでね。これからはお心安く思召して、私どもの住んでおりますほうへもお遊びにおいでくださいまして、気のつきませんことがございまして、御注意をいただけましたらうれしく存じます」
 中納言の乳母が、
「お母様にもお死に別れになりますし、院の陛下は御出家をあそばしますし、お一人ぼっちのお心細い宮様ですから、御親切なお言葉をいただきますことは、この上なく幸福に思召すかと存ぜられます。法皇様も宮様があなた様を御信頼あそばして御保護の願えますようにとの思召しがおありあそばすらしく存じ上げました。私どももそのお言葉を承ってまいったのでございます」
 などと言った。
「もったいないお手紙をあちらからくださいました時から、どうかしてお力にならなければと心がけてはいるのでございますが、何と申しても私が賢くなくて」
 とあたたかい気持ちを女王は見せて、姉が年少の妹に対するふうで、宮のお気に入りそうな絵の話をしたり、ひな遊びはいつまでもやめられないものであるとかいうことを若やかに語っているのを、宮は御覧になって、院のお言葉のように、若々しい気立ての優しい人であると少女おとめらしいお心にお思いになり、打ち解けておしまいになった。
 これ以来手紙が通うようになって、友情が二人の夫人の間に成長していった。書信でする遊び事もなされた。世間はこうした高貴な家庭の中のことを話題にしたがるもので、初めごろは、
「対の奥様はなんといっても以前ほどの御寵愛ちょうあいにあっていられなくなるであろう。少しは院の御情が薄らぐはずだ」
 こんなふうにも言ったものであるが、実際は以前に増して院がお愛しになる様子の見えることで、またそれについて宮へ御同情を寄せるような口ぶりでなされるうわさが伝えられたものであるが、こんなふうに寝殿の宮も対の夫人もむつまじくなられたのであるからもう問題にしようがないのであった。
 十月に紫夫人は院の四十の賀のために嵯峨さが御堂みどうで薬師仏の供養をすることになった。たいそうになることは院がとめておいでになったから、目だたせない準備をしたのであった。それでも仏像、経箱、経巻の包みなどのりっぱさは極楽も想像されるばかりである。そうした最勝王経、金剛、般若はんにゃ、寿命経などの読まれる頼もしい賀の営みであった。高官が多く参列した。御堂のあたりの嵯峨野の秋のながめの美しさに半分は心がかれて集まった人なのであろうが、その日は霜枯れの野原を通る馬や車を無数に見ることができた。盛んな誦経ずきょうの申し込みが各夫人からもあった。二十三日が仏事の最後の日で、六条院は狭いまでに夫人らが集まって住んでいるため、女王には自身だけの家のように思われる二条の院で賀の饗宴きょうえんを開くことにしてあった。賀の席上で奉る院のお服類をはじめとして当日用の仕度したくはすべて紫夫人の手でととのえられているのであったが、花散里はなちるさと夫人や、明石あかし夫人なども分担したいと言い出して手つだいをした。二条の院の対の屋を今は女房らの部屋へやなどにも使わせることにしていたのであるが、それを片づけて殿上役人、五位の官人、院付きの人々の接待所にあてた。寝殿の離れ座敷を式場にして、螺鈿らでん椅子いすを院の御ために設けてあった。西の座敷に衣裳いしょうの卓を十二置き、夏冬の服、夜着などの積まれたそれらの上を紫のあやおおうてあるのも目に快かった。中の品物の見えないのも感じがいいのである。椅子の前には置き物の卓が二つあって、支那しなうすものすそぼかしのおおいがしてある。挿頭かざしの台はじんの木の飾りあしの物で、蒔絵まきえの金の鳥が銀の枝にとまっていた。これは東宮の桐壺の方が受け持ったので、明石夫人の手から調製させたものであるからきわめて高雅であった。御座おましの後ろの四つの屏風びょうぶ式部卿しきぶきょうの宮がお受け持ちになったもので、非常にりっぱなものだった。絵は例の四季の風景であるが、泉や滝のき方に新しい味があった。北側の壁に添って置き棚が二つえられ、小物の並べてあることはきまった形式である。南側の座敷に高官、左右の大臣、式部卿の宮をはじめとして親王がたのお席があった。舞台の左右に奏楽者の天幕ができ、庭の西と東には料理の箱詰めが八十、纏頭てんとう用の品のはいった唐櫃からびつを四十並べてあった。午後二時に楽人たちが参入した。万歳楽、※(「鹿/章」、第3水準1-94-75)こうじょうなどが舞われ、日の暮れ時に高麗こうらい楽の乱声らんじょうがあって、また続いて落蹲らくそんの舞われたのも目れず珍らしい見物であったが、終わりに近づいた時に、権中納言と、右衛門督うえもんのかみが出て短い舞をしたあとで紅葉もみじの中へはいって行ったのを陪観者は興味深く思った。昔の朱雀すざく院の行幸みゆきに青海波が絶妙の技であったのを覚えている人たちは、源氏の君と当時のとうの中将のようにこの若い二人の高官がすぐれた後継者として現われてきたことを言い、世間から尊敬されていることも、りっぱさも美しさも昔の二人の貴公子に劣らず、官位などはその時の父君たち以上にも進んでいることなどを年齢としまでも数えながら語って、やはり前生の善果がある家の子息たちであると両家を祝福した。六条院も涙ぐまれるほど身にしむ追憶がおありになった。夜になって楽人たちの退散していく時に紫の夫人付きの家職の長が下役たちを従えて出て、纏頭品の箱から一つずつ出して皆へわかった。白い纏頭の服を皆が肩にかけて山ぎわから池の岸を通って行くのをはるかに見てはつるの列かと思われた。席上での音楽が始まっておもしろい夜の宴になった。楽器は東宮の御手から皆呈供されたのである。朱雀すざく院からお譲られになった琵琶びわみかどからお賜わりになった十三げんの琴などは六条院のためにお馴染なじみの深い音色ねいろを出して、何につけても昔の宮廷がお思われになる方であったから、またさまざまの恋しい昔の夢をおかせした。入道の宮がおいでになったなら四十の御賀も自分が主催して行なったことであろう。今になっては何を志としてお見せすることができよう、すべて不可能なことになったと院は御歎息たんそくをあそばした。女院をお失いになったことは何の上にも添う特殊な光の消えたことであると帝も寂しく思召すのであって、せめて六条院だけを最高の地位にえたいというお望みも実現されないことを始終残念に思召す帝であったが、今年は四十の賀に託して六条院へ行幸みゆきをあそばされたい思召しであった。しかしそれも冗費は国家のためお慎みになるようにと六条院からの御進言があっておできにならぬためにくやしく思召すばかりであった。
 十二月の二十日過ぎに中宮ちゅうぐうが宮中から退出しておいでになって、六条院の四十歳の残りの日のための祈祷きとうに、奈良ならの七大寺へ布四千反をわかってお納めになった。また京の四十寺へ絹四百ぴきを布施にあそばされた。養父の院の深い愛を受けながら、お報いすることは何一つできなかった自分とともに、御父の前皇太子、母御息所みやすどころの感謝しておられる志も、せめてこの際に現わしたいと中宮は思召したのであるが、宮中からの賀の御沙汰ごさたを院が御辞退されたあとであったから、大仰おおぎょうになることは皆おやめになった。
「四十の賀というものは、先例を考えますと、それがあったあとをなお長く生きていられる人は少ないのですから、今度は内輪のことにしてこの次の賀をしていただく場合にお志を受けましょう」
 と六条院は言っておいでになったのであるが、やはりこれは半公式の賀宴で派手はでになった。六条院の中宮のお住居すまいの町の寝殿が式場になっていて、前にお受けになった幾つかの賀の式に変わらぬ行き届いた設けがされてあった。高官への纏頭てんとうはおきさきの大饗宴きょうえんの日の品々に準じて下された。親王がたには特に女の装束、非参議の四位、殿上役人などには白い細長衣ほそなが一領、それ以下へは巻いた絹を賜わった。院のためにととのえられた御衣服は限りもなくみごとなもので、そのほかに国宝とされている石帯せきたい、御剣を奉らせたもうたのである。この二品などは宮の御父の前皇太子の御遺品で、歴史的なものだったから院のお喜びは深かった。古い時代の名器、美術品が皆集まったような賀宴になったのであった。昔の小説も贈り物をすることを最も善事のように書き立ててあるが、面倒で筆者にはいちいち書けない。
 帝は六条院へ好意をお見せになろうとした賀宴をやむをえず御中止になったかわりに、そのころ病気のため右大将を辞した人のあとへ、中納言をにわかに抜擢ばってきしておすえになった。院もお礼の御挨拶あいさつをあそばされたが、それは、
「突然の御恩命はあまりに過分なお取り扱いで、若い彼が職に堪えますかどうか疑問にいたしております」
 こんな謙遜けんそんなお言葉であった。
 みかどはこの右大将を表面の主催者として院の四十の賀の最後の宴を北東の町の花散里はなちるさと夫人の住居すまいに設けられた。派手はでになることを院は避けようとされたのであったが、宮中の御内命によって行なわれるこの賀宴は、すべて正式どおりに略したところのないすばらしいものになった。幾つかの宴席の料理の仕度したくなどは内廷からされた。屯食とんじきの用意などはお指図さしずを受けてとうの中将が皆したのである。親王お五方いつかた、左右の大臣、大納言二人、中納言三人、参議五人、これだけが参列して、御所の殿上役人、東宮、院の殿上人もほとんど皆集まって参っていた。院のお席の物、その室に備えられた道具類は太政大臣が聖旨を奉じて最高の技術者に製作させた物であった、そしてお言葉を受けてこの大臣もお式の場へ臨んだ。院はこれにもお驚きになって恐縮の意を表されながら式の座へお着きになった。中央の室に南面された院のお席に向き合って太政大臣の座があった。きれいで、りっぱによくふとっていて、位人臣をきわめた貫禄かんろくの見える男盛りと見えた。院はまだ若い源氏の君とお見えになるのであった。四つの屏風びょうぶには帝の御筆蹟ひっせきられてあった。薄地の支那綾しなあやに高雅な下絵のあるものである。四季の彩色絵よりもこのお屏風はりっぱに見えた。帝の御字は輝くばかりおみごとで、目もくらむかと思いなしも添って思われた。置き物の台、き物、吹き物の楽器は蔵人所くろうどどころから給せられたのである。右大将の勢力も強大になっていたため今日の式のはなやかさはすぐれたものに思われた。四十匹の馬が左馬寮、右馬寮、六衛府りくえふの官人らによって次々に引かれて出た。おそれ多いお贈り物である。そのうち夜になった。例の万歳楽、賀皇恩がこうおんなどという舞を、形式的にだけ舞わせたあとで、お座敷の音楽のおもしろい場が開かれた。太政大臣という音楽の達者たてものが臨場していることにだれもだれも興奮しているのである。琵琶びわは例によって兵部卿ひょうぶきょうの宮、院はきん、太政大臣は和琴わごんであった。久しくお聞きにならぬせいか和琴の調べを絶妙のものとしてお聞きになる院は、御自身も琴を熱心におきあそばされたのである。いかなる時にも聞きえなかった妙音も出た。またも昔の話が出て、子息の縁組みその他のことで昔に増した濃い親戚しんせき関係を持つことにおなりになった二人は、むつまじく酒杯をお重ねになった。おもしろさも頂天に達した気がされて、酔い泣きをされるのもこのかたがたであった。お贈り物には、すぐれた名器の和琴を一つ、それに大臣の好む高麗笛こまぶえを添え、また紫檀したんの箱一つには唐本と日本の草書の書かれた本などを入れて、院は帰ろうとする大臣の車へお積ませになった。馬を院方の人が受け取った時に右馬寮の人々は高麗楽を奏した。六衛府の官人たちへの纏頭てんとうは大将が出した。質素に質素にとして目だつことはおやめになったのであるが、宮中、東宮、朱雀すざく院、きさいの宮、このかたがたとの関係が深くて、自然にはなやかさの作られる六条院は、こんな際に最も光る家と見えた。院には大将だけがお一人息子で、ほかに男子のないことは寂しい気もされることであったが、その一人の子が万人にすぐれた器量を持ち、君主の御覚えがめでたく、幸運の人というにほかならぬことがあかしされていくにつけて、この人の母である夫人と、伊勢いせ御息所みやすどころとの双方の自尊心が強くて苦しく競い合った時代に次いで、中宮とこの大将が双方とも、院の大きい愛のもとでりっぱなかたがたになられたことが思わせられる。この日大将から院へ奉った衣服類は花散里夫人が引き受けて作ったのである。纏頭の物は皆三条の若夫人の手でできたようであった。六条院のはなやかな催し事もよそのことに聞いていた花散里夫人には、こうした生きがいのある働きをする日はあることかと思われたものであるが、大将の母儀ぼぎになっていることによって光栄が分かたれたのである。
 新年になった。六条院では淑景舎しげいしゃかたの産期が近づいたために不断の読経どきょうが元日から始められていた。諸社、諸寺でも数知れぬ祈祷きとうをさせておいでになるのである。院は昔のあおい夫人が出産のあとで死んだことで懲りておいでになって、恐ろしいものと子を産むことを感じておいでになり、紫夫人に出産のなかったことは物足らぬお気持ちもしながらまたうれしくお思われにもなるのであったから、まだ少女といってよいほどの身体からだで、その女の大厄たいやくを突破せねばならぬ御女おんむすめのことを、早くから御心配になっていたが、二月ごろからは寝ついてしまうほどにも苦しくなったふうであるのを院も女王にょおうも不安がられないはずもない。陰陽師おんようじどもは場所を変えて謹慎をせねばならぬと進言するので、院外の離れた家へ移すのは気がかりに思召され、明石あかし夫人の北の町の一つの対の屋へ淑景舎の病室は移されることになった。こちらはただ大きい対の屋が二つと、そのほかは廊にしてめぐらせた座敷ばかりの建物であったから、廊座敷に祈祷の壇が幾つも築かれ、評判のよい祈祷僧は皆集められて祈っていた。明石夫人は桐壺きりつぼの方が平らかに出産されるか否かで自身の運命も決まることと信じていて、一所懸命な看護をしていた。明石入道の尼夫人はもうぼけた老婆になっているはずである。姫君に接近のできることを夢のような幸福と思って、移って間もなくこの人がそばへ出てくるようになった。もう幾年か明石夫人は姫君に付き添っているのであるが、桐壺の方の生まれてきた当時の事情などはまだ正確に話してなかった。それを老尼はうれしさのあまりに病室へ来ては涙まじりに、昔の話を身じまいをしながら姫君へ語るのであった。初めの間は無気味な老婆であると姫君は思って、顔ばかり見つめているのを常としたが、実母にそうした母親があるということは何かの時に聞いたこともあったのを思い出してからは好意を持つようになった。明石で生まれた時のこと、また院がその海岸へ移って来ておいでになったころの様子などを尼君は言う、
「京へお帰りになりました時、一家の者はこれで御縁が切れてしまうのかとひどく悲しんだものでございますがね、お生まれになったお姫様が暗い運命から私たちを救い上げてくだすったのでございますから、ありがたいことと御恩を思っております」
 はらはらと涙をこぼしている。そんな哀れな昔の話をこの尼さんが聞かせてくれなければ、自分はただ疑ってみるだけで、真相は何もわからずにしまったかもしれぬと思って桐壺の方は泣いた。心のうちでは、自分の身の上は決して欠け目ないものとは言えなかったのを、養母の夫人の愛にみがかれて十分な尊敬も受ける院の御女おんむすめともなりえたのである、思い上がった心で東宮の後宮に侍していても、他の人たちを自分に劣ったもののように見たりしてきたのは過失あやまりである、表面に出して言わないでも、世間の人は自分のその態度をそしったことであろうと反省もされるようになった。実母は少し劣った家の出であるとは知っていても、生まれたのはそうした遠い田舎いなかの家であったなどとは思いも寄らぬことだったのである。おおように育てられ過ぎたせいだったかもしれぬが、自身の今まで知らぬとは不思議なことのように思われるのであった。祖父である入道が現在では人間離れのした仙人せんにんのような生活をしているということも若い心には悲しかった。姫君がにわかにいろいろな物思いを胸に持って、寂しい顔をしている時に明石夫人が出て来た。昼の加持にあちらこちらから手つだいの者や僧が来て騒いでいるのを、この人は今まで監督していたのであるが、来てみると姫君のそばには他の者がいずに尼君だけが得意な気分を見せて近くにすわっていた。
「体裁が悪うございますよ。短い几帳きちょう身体からだをお隠しになってお付きしていらっしゃればいいのに、風が吹いていますからお座敷の外から人がのぞけば、あなたはお医者のような恰好かっこうでおそばに出ているのですから恥ずかしい。こんなふうにしておいでになってはね」
 などと明石は片腹痛がっていた。品のよいとりなしでこうしているのであると尼君自身は信じているのであるが、もう耳もあまり聞こえなくて、娘の言葉も、
「ああよろしいよ」
 などと言っていいかげんに聞いているのである。六十五、六である。しゃんとした尼姿で上品ではあるが、目を赤く泣きはらしているのを見ては、古い時代、つまり源氏の君の明石の浜を去ったころによくこうであったことが思い出されて夫人ははっとした。
「間違いの多い昔話などを申していたのでしょう。怪しくなりました記憶から取り出します話には荒唐無稽こうとうむけいな夢のようなこともあるのでございますよ」
 と、微笑を作りながら夫人のながめる姫君は、えんにきれいな顔をしていて、しかも平生よりはめいったふうが見えた。自身の子ながらももったいなく思われるこの人の心を、傷つけるような話を自身の母がして煩悶はんもんをしているのではないか、おきさきの位にもこの人の上る時を待って過去の真実を知らせようとしていたのであるが、現在はまだ若いこの人でも、昔話から母の自分をうとましく思うことはあるまいが、この人自身の悲観することにはなろうと明石夫人はあわれんだ。加持が済んで僧たちの去ったあとで、夫人は近く寄って菓子などを勧め、
「少しでも召し上がれ」
 と心苦しいふうに姫君を扱っていた。尼君はりっぱな美しい桐壺きりつぼの方に視線をやっては感激の涙を流していた。顔全体にみを作って、口は見苦しく大きくなっているが、目は流れ出す涙で悲しい相になっていた。困るというように明石は目くばせをするが、気のつかないふうをしている。

「老いの波かひある浦に立ちいでてしほたるるあまをたれかとがめん

 昔の聖代にも老齢者は罪されないことになっていたのでございますよ」
 と尼君は言った。硯箱すずりばこに入れてあった紙に、

しほたるるあまを波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋とまや

 こんな歌を姫君は書いた。明石も堪えがたくなって泣いた。

世を捨てて明石の浦に住む人も心のやみは晴るけしもせじ

 などと言って、この場の悲しい空気の密度をより濃くすまいとした。姫君は祖父に別れた朝のことなどを、心には忘れていても、夢の中だけにも見たいのが見えぬのは残念であると思った。
 三月の十幾日に桐壺の方は安産した。その時まではあぶないことのようにして、多くの祈祷が神仏にささげられていたのであるが、たいした苦しみもなく、しかも男宮をお生みしたのであったから、この上の幸福もないようで院のお心も落ち着いた。こちらはかげの場所のようになっていた所で、ただ風流な座敷が幾つも作られてある建物では、いかめしい今後続いてあるはずの産養うぶやしないの式などに不便であって、老尼君のためにだけはうれしいことと見えても、外見へは不都合であるために、南の町へ産屋うぶやを移す計画ができていた。紫の女王にょおうも出て来た。白い服装をして母らしく若宮をお抱きしている姫君はかわいく見えた。紫夫人は自身に経験のないことであったし、他の人の場合にもこうした産屋などに立ち合ったことはなかったから、幼い宮を珍しくおかわいく思うふうが見えた。まだあぶないように思われるほどの小さい方を女王は始終手に抱いているので、ほんとうの祖母である明石あかし夫人は、養祖母に任せきりにして、産湯うぶゆ仕度したくなどにばかりかかっていた。東宮宣下せんげの際の宣旨拝受の役を勤めた典侍ないしのすけがお湯をお使わせするのであった。迎え湯をたらいぎ入れる役を明石の勤めるのも気の毒で淑景舎しげいしゃの方の生母がこの人であることは知らないこともない東宮がたの女房たちは目をとめて、どこかに欠点でもある人なら当然のこととも思っておられようが、あまりに気高けだかい明石の姿はこの人たちに畏敬いけいの念を起こさせて、未来の天子の御外祖母たる因縁を身に備えて生まれた人に違いないというようなことも思わせた。お湯殿の式のくわしい記事は省略する。
 六日めに以前の南の町の御殿へ桐壺の方は移った。七日の夜には宮中からのお産養うぶやしないがあった。朱雀すざく院が世捨て人の御境遇へおはいりになったために、そのお代わりにあそばされたことであったらしい。宮中から頭の弁が宣旨で来て、この日の派手はでな祝宴を管理した。纏頭てんとうの品々は中宮のお志で慣例以上の物が出された。親王がた、諸大臣家からもわれもわれもとはなやかな御祝い品の来るお産屋うぶやであった。この際の祝宴については、いつも華奢かしゃに流れることは遠慮したいとお言いになる院も、あまりお止めにはならなかったために、目もくらむほどのお産養の日が続き、ぼんやりとしていた筆者にその際の洗練された細かな物好みで製作されたおのおのの式の賀品などのことによく気がつかなかった。
 院は若宮をお抱きになって、
「大将が幾人も持った子を今まで見せないのを恨めしく思っていたが、こんなかわいい方が授かった」
 と愛しておいでになるのはごもっともなことである。毎日物が引き伸ばされるように若宮は大きくおなりになるのであった。乳母めのとなどは新しい人をお見つけになることは当分されずに、これまでの六条院の女房の中から、身柄も性質もよい人ばかりを選んでお付けになった。明石夫人が聡明そうめいで、気高けだかい、おおような心を持っていながら、ある場合に卑下することを忘れずに、自身が表に出ようとすることのない態度のとれることについてはほめない人はなかった。紫夫人は顔をあらわに見せて話すようなことは今までこの人となかったのであるが、今度はよくむつまじく話して、過去においては長く僭越せんえつな競争者であると見ていた人に好意を持ちうるようになり、若宮を愛する気持ちの交流があたたかい友情までも覚えさすことになった。女王にょおうは子供好きであったから、天児あまがつの人形などを自身で縫ったりしている時はことさら若々しく見えた。日夜を若宮のために心をつかう紫夫人であった。明石の老尼は、若宮を満足できるほど拝見することのできないのを残念に思っていた。しかしそれがかえって幸いであったかもしれぬ、なおしばらくでもそばでお愛し申し上げるような時間が許されたものであれば、あとの恋しい思いで尼は死んだかもしれないから。
 明石の入道も姫君の出産の報を得て、人間離れのした心にも非常にうれしく思われて、
「もうこれでこの世と別な境地へ自分の心を置くことができる」
 と弟子でしどもに言い、明石の邸宅を寺にし、近くの領地は寺領に付けて以前から播磨はりまの奥のこおりに人も通いがたい深い山のある所を選定して、最後のこもり場所としてあったものの、少しまだ不安な点が残していく世にあって、なおそこへは移らなかった山の草庵そうあんへ、もう今後の子孫の運は仏神にお頼みするばかりであるとして入道は行ってしまうのであった。近年はもう京の家族も順調に行っていることに安心して、使いを出してみることもなかったのである。京から使いが送られた時にだけ短いたよりを尼君へ書いて来た。入道はいよいよ明石を立つ時に、娘の明石夫人へ手紙を書いた。
この幾年間はあなたと同じ世界にいながらすでに他界で生存するもののような気持ちでたいしたことのない限りはおたよりを聞こうともしませんでした。仮名書きの物を読むのは目に時間がかかり、念仏を怠ることになり、無益むやくであるとしたのです。またこちらのたよりもあげませんでしたが、承ると姫君が東宮の後宮へはいられ、そして男宮をお生み申されたそうで、私は深くおよろこびを申し上げる。その理由はみじめな僧の身で今さら名利を思うのではありません。過去の私は恩愛の念から離れることができず、六時の勤行をいたしながらも、仏に願うことはただあなたに関することで、自身の浄土往生の願いは第二にしていましたが、初めから言えば、あなたが生まれてくる年の二月の某日の夜の夢に、こんなことを見たのです、私自身は須弥山しゅみせんを右の手にささげているのです。その山の左右から月と日の光がさしてあたりを照らしています。私には山の陰影かげが落ちて光のさしてくることはないのです。私はその山を広い海の上に浮かべて置いて、自身は小さい船に乗って西のほうをさして行くので終わったのです。その夢のさめた朝から私の心にはある自信ができたのですが、何によってそうした夢に象徴されたような幸福に近づきうるかという見当がつかなかったところ、ちょうどそのころから母の胎にはらまれたのがあなたです。普通の書物にも仏典にも夢を信じてよいことが多く書かれてありますから、無力な親でいてあなたをたいせつなものにして育てていましたが、そのために物質的に不足なことのないようにと京の生活をやめて地方官の中へはいったのです。ここでまた私の身の上に悪いことが起こり、しまいに土着して出家の人になり、あなたは姫君をお生みになったそのころのことは知っておいでになるとおりです。その時代に私は多くの願を立てていましたが、皆神仏のおれになることになり、あなたは幸福な人になられました。姫君が国の母の御位みくらいをお占めになった暁には住吉すみよしの神をはじめとして仏様への願果たしをなさるようにと申しておきます。私の大願がかなった今では、はるかに西方の十万億の道を隔てた世界の、九階級の中の上の仏の座が得られることも信じられます。今から蓮華れんげをお持ちになる迎えの仏においする夕べまでを私は水草の清い山にはいってお勤めをしています。



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