天台の経典六十巻を読んで、意味の難解な所を僧たちに聞いたりなどして源氏が寺にとどまっているのを、僧たちの善行によって仏力でこの人が寺へつかわされたもののように思って、法師の名誉であると、下級の輩までも喜んでいた。静かな寺の朝夕に人生を観じては帰ることがどんなにいやなことに思われたかしれないのであるが、紫の女王一人が捨てがたい絆になって、長く滞留せずに帰ろうとする源氏は、その前に盛んな誦経を行なった。あるだけの法師はむろん、その辺の下層民にも物を多く施した。帰って行く時には、寺の前の広場のそこここにそうした人たちが集まって、涙を流しながら見送っていた。諒闇中の黒い車に乗った喪服姿の源氏は平生よりもすぐれて見えるわけもないが、美貌に心の惹かれない人もなかった。 夫人は幾日かのうちに一段ときれいになったように思われた。高雅に落ち着いている中に、源氏の愛を不安がる様子の見えるのが可憐であった。幾人かの人を思う幾つかの煩悶は外へ出て、この人の目につくほどのことがあったのであろう、「色変はる」というような歌を詠んできたのではないかと哀れに思って、源氏は常よりも強い愛を夫人に感じた。山から折って帰った紅葉は庭のに比べるとすぐれて紅くきれいであったから、それを、長く何とも手紙を書かないでいることによって、また堪えがたい寂しさも感じている源氏は、ただ何でもない贈り物として、御所においでになる中宮の所へ持たせてやった。手紙は命婦へ書いたのであった。
珍しく御所へおはいりになりましたことを伺いまして、両宮様いずれへも御無沙汰しておりますので、その際にも上がってみたかったのですが、しばらく宗教的な勉強をしようとその前から思い立っていまして、日どりなどを決めていたものですから失礼いたしました。紅葉は私一人で見ていましては、錦を暗い所へ置いておく気がしてなりませんから持たせてあげます。よろしい機会に宮様のお目にかけてください。
と言うのである。実際珍しいほどにきれいな紅葉であったから、中宮も喜んで見ておいでになったが、その枝に小さく結んだ手紙が一つついていた。女房たちがそれを見つけ出した時、宮はお顔の色も変わって、まだあの心を捨てていない、同情心の深いりっぱな人格を持ちながら、こうしたことを突発的にする矛盾があの人にある、女房たちも不審を起こすに違いないと反感をお覚えになって、瓶に挿させて、庇の間の柱の所へ出しておしまいになった。 ただのこと、東宮の御上についてのことなどには信頼あそばされることを、丁寧に感情を隠して告げておよこしになる中宮を、どこまでも理智だけをお見せになると源氏は恨んでいた。東宮のお世話はことごとく源氏がしていて、それを今度に限って冷淡なふうにしてみせては人が怪しがるであろうと思って、源氏は中宮が御所をお出になる日に行った。まず帝のほうへ伺ったのである。帝はちょうどお閑暇で、源氏を相手に昔の話、今の話をいろいろとあそばされた。帝の御容貌は院によく似ておいでになって、それへ艶な分子がいくぶん加わった、なつかしみと柔らかさに満ちた方でましますのである。帝も源氏と同じように、源氏によって院のことをお思い出しになった。尚侍との関係がまだ絶えていないことも帝のお耳にはいっていたし、御自身でお気づきになることもないのではなかったが、それもしかたがない、今はじめて成り立った間柄ではなく、自分の知るよりも早く源氏のほうがその人の情人であったのであるからと思召して、恋愛をするのに最もふさわしい二人であるから、やむをえないともお心の中で許しておいでになって、源氏をとがめようなどとは、少しも思召さないのである。詩文のことで源氏に質問をあそばしたり、また風流な歌の話をかわしたりするうちに、斎宮の下向の式の日のこと、美しい人だったことなども帝は話題にあそばした。源氏も打ち解けた心持ちになって、野の宮の曙の別れの身にしんだことなども皆お話しした。二十日の月がようやく照り出して、夜の趣がおもしろくなってきたころ、帝は、 「音楽が聞いてみたいような晩だ」 と仰せられた。 「私は今晩中宮が退出されるそうですから御訪問に行ってまいります。院の御遺言を承っていまして、だれもほかにお世話をする人もない方でございますから、親切にしてさしあげております。東宮と私どもとの関係からもお捨てしておけませんのです」 と源氏は奏上した。 「院は東宮を自分の子と思って愛するようにと仰せなすったからね、自分はどの兄弟よりも大事に思っているが、目に立つようにしてもと思って、自分で控え目にしている。東宮はもう字などもりっぱなふうにお書きになる。すべてのことが平凡な自分の不名誉をあの方が回復してくれるだろうと頼みにしている」 「それはいろんなことを大人のようになさいますが、まだ何と申しても御幼齢ですから」 源氏は東宮の御勉学などのことについて奏上をしたのちに退出して行く時皇太后の兄である藤大納言の息子の頭の弁という、得意の絶頂にいる若い男は、妹の女御のいる麗景殿に行く途中で源氏を見かけて、「白虹日を貫けり、太子懼ぢたり」と漢書の太子丹が刺客を秦王に放った時、その天象を見て不成功を恐れたという章句をあてつけにゆるやかに口ずさんだ。源氏はきまり悪く思ったがとがめる必要もなくそのまま素知らぬふうで行ってしまったのであった。 「ただ今まで御前におりまして、こちらへ上がりますことが深更になりました」 と源氏は中宮に挨拶をした。明るい月夜になった御所の庭を中宮はながめておいでになって、院が御位においでになったころ、こうした夜分などには音楽の遊びをおさせになって自分をお喜ばせになったことなどと昔の思い出がお心に浮かんで、ここが同じ御所の中であるようにも思召しがたかった。
九重に霧や隔つる雲の上の月をはるかに思ひやるかな
これを命婦から源氏へお伝えさせになった。宮のお召し物の動く音などもほのかではあるが聞こえてくると、源氏は恨めしさも忘れてまず涙が落ちた。
「月影は見し世の秋に変はらねど隔つる霧のつらくもあるかな
霞が花を隔てる作用にも人の心が現われるとか昔の歌にもあったようでございます」 などと源氏は言った。中宮は悲しいお別れの時に、将来のことをいろいろ東宮へ教えて行こうとあそばすのであるが、深くもお心にはいっていないらしいのを哀れにお思いになった。平生は早くお寝みになるのであるが、宮のお帰りあそばすまで起きていようと思召すらしい。御自身を残して母宮の行っておしまいになることがお恨めしいようであるが、さすがに無理に引き止めようともあそばさないのが御親心には哀れであるに違いなかった。 源氏は頭の弁の言葉を思うと人知れぬ昔の秘密も恐ろしくて、尚侍にも久しく手紙を書かないでいた。時雨が降りはじめたころ、どう思ったか尚侍のほうから、
木枯しの吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさの頃も経にけり
こんな歌を送ってきた。ちょうど物の身にしむおりからであったし、どんなに人目を避けてこの手紙が書かれたかを想像しても恋人の情がうれしく思われたし、返事をするために使いを待たせて、唐紙のはいった置き棚の戸をあけて紙を選び出したり、筆を気にしたりして源氏が書いている返事はただ事であるとは女房たちの目にも見えなかった。相手はだれくらいだろうと肱や目で語っていた。
どんなに苦しい心を申し上げてもお返事がないので、そのかいのないのに私の心はすっかりめいり込んでいたのです。
あひ見ずて忍ぶる頃の涙をもなべての秋のしぐれとや見る
心が通うものでしたなら、通っても来るものでしたなら、空も寂しい色とばかりは見えないでしょう。
などと情熱のある文字が列ねられた。こんなふうに女のほうから源氏を誘い出そうとする手紙はほかからも来るが、情のある返事を書くにとどまって、深くは源氏の心にしまないものらしかった。 中宮は院の御一周忌をお営みになったのに続いてまたあとに法華経の八講を催されるはずでいろいろと準備をしておいでになった。十一月の初めの御命日に雪がひどく降った。源氏から中宮へ歌が送られた。
別れにし今日は来れども見し人に行き逢ふほどをいつと頼まん
中宮のためにもお悲しい日で、すぐにお返事があった。
ながらふるほどは憂けれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地して
巧みに書こうともしてない字が雅趣に富んだ気高いものに見えるのも源氏の思いなしであろう。特色のある派手な字というのではないが決して平凡ではないのである。今日だけは恋も忘れて終日御父の院のために雪の中で仏勤めをして源氏は暮らしたのである。 十二月の十幾日に中宮の御八講があった。非常に崇厳な仏事であった。五日の間どの日にも仏前へ新たにささげられる経は、宝玉の軸に羅の絹の表紙の物ばかりで、外包みの装飾などもきわめて精巧なものであった。日常の品にも美しい好みをお忘れにならない方であるから、まして御仏のためにあそばされたことが人目を驚かすほどの物であったことはもっともなことである。仏像の装飾、花机の被いなどの華美さに極楽世界もたやすく想像することができた。初めの日は中宮の父帝の御菩提のため、次の日は母后のため、三日目は院の御菩提のためであって、これは法華経の第五巻の講義のある日であったから、高官たちも現在の宮廷派の人々に斟酌をしていず数多く列席した。今日の講師にはことに尊い僧が選ばれていて「法華経はいかにして得し薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し」という歌の唱えられるころからは特に感動させられることが多かった。仏前に親王方もさまざまの捧げ物を持っておいでになったが、源氏の姿が最も優美に見えた。筆者はいつも同じ言葉を繰り返しているようであるが、見るたびに美しさが新しく感ぜられる人なのであるからしかたがないのである。最終の日は中宮御自身が御仏に結合を誓わせられるための供養になっていて、御自身の御出家のことがこの儀式の場で仏前へ報告されて、だれもだれも意外の感に打たれた。兵部卿の宮のお心も、源氏の大将の心もあわてた。驚きの度をどの言葉が言い現わしえようとも思えない。宮は式の半ばで席をお立ちになって簾中へおはいりになった。中宮は堅い御決心を兄宮へお告げになって、叡山の座主をお招きになって、授戒のことを仰せられた。伯父君にあたる横川の僧都が帳中に参ってお髪をお切りする時に人々の啼泣の声が宮をうずめた。平凡な老人でさえいよいよ出家するのを見ては悲しいものである。まして何の予告もあそばさずにたちまちに脱履の実行をなされたのであるから、兵部卿の宮も非常にお悲しみになった。参列していた人々も同情の禁ぜられない中宮のお立場と、この寂しい結末の場を拝して泣く者が多かった。院の皇子方は、父帝がどれほど御愛寵なされたお后であったかを、現状のお気の毒さに比べて考えては皆暗然としておいでになった。方々は慰問の御挨拶をなされたのであるが、源氏は最後に残って、驚きと悲しみに言葉も心も失った気もしたが、人目が考えられ、やっと気を引き立てるようにしてお居間へ行った。落ち着かれずに人々がうろうろしたことや、すすり泣きの声もひとまずやんで、女房は涙をふきながらあなたこなたにかたまっていた。明るい月が空にあって、雪の光と照り合っている庭をながめても、院の御在世中のことが目に浮かんできて堪えがたい気のするのを源氏はおさえて、 「何が御動機になりまして、こんなに突然な御出家をあそばしたのですか」 と挨拶を取り次いでもらった。 「これはただ今考えついたことではなかったのですが、昨年の悲しみがありました時、すぐにそういたしましては人騒がせにもなりますし、それでまた私自身も取り乱しなどしてはと思いまして」 例の命婦がお言葉を伝えたのである。源氏は御簾の中のあらゆる様子を想像して悲しんだ。おおぜいの女の衣摺れなどから、身もだえしながら悲しみをおさえているのがわかるのであった。風がはげしく吹いて、御簾の中の薫香の落ち着いた黒方香の煙も仏前の名香のにおいもほのかに洩れてくるのである。源氏の衣服の香もそれに混じって極楽が思われる夜であった。東宮のお使いも来た。お別れの前に東宮のお言いになった言葉などが宮のお心にまた新しくよみがえってくることによって、冷静であろうとあそばすお気持ちも乱れて、お返事の御挨拶を完全にお与えにならないので、源氏がお言葉を補った。だれもだれも常識を失っているといってもよいほど悲しみに心を乱しているおりからであるから、不用意に秘密のうかがわれる恐れのある言葉などは発せられないと源氏は思った。
「月のすむ雲井をかけてしたふともこのよの闇になほや惑はん
私にはそう思えますが、御出家のおできになったお心持ちには敬服いたされます」 とだけ言って、お居間に女房たちも多い様子であったから源氏は捨てられた男の悲痛な心持ちを簡単な言葉にして告げることもできなかった。
「大方の憂きにつけては厭へどもいつかこの世を背きはつべき
りっぱな信仰を持つようにはいつなれますやら」 宮の御挨拶は東宮へのお返事を兼ねたお心らしかった。悲しみに堪えないで源氏は退出した。 二条の院へ帰っても西の対へは行かずに、自身の居間のほうに一人臥しをしたが眠りうるわけもない。ますます人生が悲しく思われて自身も僧になろうという心の起こってくるのを、そうしては東宮がおかわいそうであると思い返しもした。せめて母宮だけを最高の地位に置いておけばと院は思召したのであったが、その地位も好意を持たぬ者の苦しい圧迫のためにお捨てになることになった。尼におなりになっては后としての御待遇をお受けになることもおできにならないであろうし、その上自分までが東宮のお力になれぬことになってはならないと源氏は思うのである。夜通しこのことを考え抜いて最後に源氏は中宮のために尼僧用のお調度、お衣服を作ってさしあげる善行をしなければならぬと思って、年内にすべての物を調えたいと急いだ。王命婦もお供をして尼になったのである。この人へも源氏は尼用の品々を贈った。こんな場合にりっぱな詩歌ができてよいわけであるから、宮の女房の歌などが当時の詳しい記事とともに見いだせないのを筆者は残念に思う。 源氏が三条の宮邸を御訪問することも気楽にできるようになり、宮のほうでも御自身でお話をあそばすこともあるようになった。少年の日から思い続けた源氏の恋は御出家によって解消されはしなかったが、これ以上に御接近することは源氏として、今日考えるべきことでなかったのである。 春になった。御所では内宴とか、踏歌とか続いてはなやかなことばかりが行なわれていたが中宮は人生の悲哀ばかりを感じておいでになって、後世のための仏勤めに励んでおいでになると、頼もしい力もおのずから授けられつつある気もあそばされたし、源氏の情火から脱れえられたことにもお悦びがあった。お居間に隣った念誦の室のほかに、新しく建築された御堂が西の対の前を少し離れた所にあってそこではまた尼僧らしい厳重な勤めをあそばされた。源氏が伺候した。正月であっても来訪者は稀で、お付き役人の幾人だけが寂しい恰好をして、力のないふうに事務を取っていた。白馬の節会であったから、これだけはこの宮へも引かれて来て、女房たちが見物したのである。高官が幾人となく伺候していたようなことはもう過去の事実になって、それらの人々は宮邸を素通りして、向かい側の現太政大臣邸へ集まって行くのも、当然といえば当然であるが、寂しさに似た感じを宮もお覚えになった。そんな所へ千人の高官にあたるような姿で源氏がわざわざ参賀に来たのを御覧になった時は、わけもなく宮は落涙をあそばした。源氏もなんとなく身にしむふうにあたりをながめていて、しばらくの間はものが言えなかった。純然たる尼君のお住居になって、御簾の縁の色も几帳も鈍色であった。そんな物の間から見えるのも女房たちの淡鈍色の服、黄色な下襲の袖口などであったが、かえって艶に上品に見えないこともなかった。解けてきた池の薄氷にも、芽をだしそめた柳にも自然の春だけが見えて、いろいろに源氏の心をいたましくした。「音に聞く松が浦島今日ぞ見るうべ心ある海人は住みけり」という古歌を口ずさんでいる源氏の様子が美しかった。
ながめかる海人の住処と見るからにまづしほたるる松が浦島
と源氏は言った。今はお座敷の大部分を仏に譲っておいでになって、お居間は端のほうへ変えられたお住居であったから、宮の御座と源氏自身の座の近さが覚えられて、
ありし世の名残りだになき浦島に立ちよる波のめづらしきかな
と取り次ぎの女房へお教えになるお声もほのかに聞こえるのであった。源氏の涙がほろほろとこぼれた。今では人生を悟りきった尼になっている女房たちにこれを見られるのが恥ずかしくて、長くはいずに源氏は退出した。 「ますますごりっぱにお見えになる。あらゆる幸福を御自分のものにしていらっしゃったころは、ただ天下の第一の人であるだけで、それだけではまだ人生がおわかりにならなかったわけで、ごりっぱでもおきれいでも、正しい意味では欠けていらっしゃるところがあったのです。御幸福ばかりでなくおなりになって、深味がおできになりましたね。しかしお気の毒なことですよ」 などと老いた女房が泣きながらほめていた。中宮もお心にいろいろな場合の過去の源氏の面影を思っておいでになった。
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