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源氏物語(げんじものがたり)01 桐壺

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-5 14:44:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

源氏物語

桐壺

紫式部

與謝野晶子訳




紫のかがやく花と日の光思ひあはざる
ことわりもなし      (晶子)

 どの天皇様の御代みよであったか、女御にょごとか更衣こういとかいわれる後宮こうきゅうがおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵あいちょうを得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力にたのむ所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬しっとほのおを燃やさないわけもなかった。夜の御殿おとど宿直所とのいどころから退さがる朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて口惜くちおしがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がっていがちということになると、いよいよみかどはこの人にばかり心をお引かれになるという御様子で、人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。御聖徳を伝える歴史の上にも暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも殿上役人たちも困って、御覚醒かくせいになるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ちょうあいぶりであった。唐の国でもこの種類の寵姫ちょうき楊家ようかじょの出現によって乱がかもされたなどとかげではいわれる。今やこの女性が一天下のわざわいだとされるに至った。馬嵬ばかいの駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気ふんいきの中でも、ただ深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。父の大納言だいなごんはもう故人であった。母の未亡人が生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢力のある派手はでな家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者を持たぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。
 前生ぜんしょうの縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。寵姫を母とした御子みこを早く御覧になりたい思召おぼしめしから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子おやこを宮中へお招きになった。小皇子しょうおうじはいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚がいせきが背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌びぼうにならぶことがおできにならぬため、それは皇家おうけの長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子あいしとして非常に大事がっておいでになった。更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった。ただお愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女きじょと言ってよいほどのりっぱな女ではあったが、始終おそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催し事をあそばす際には、だれよりもまず先にこの人を常の御殿へお呼びになり、またある時はお引き留めになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができずそのまま昼も侍しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生まれになって以後目に立って重々しくお扱いになったから、東宮にもどうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子の御生母の女御は疑いを持っていた。この人は帝の最もお若い時に入内じゅだいした最初の女御であった。この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へ済まないという気も十分に持っておいでになった。帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無力な家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。
 住んでいる御殿ごてんは御所の中の東北のすみのような桐壺きりつぼであった。幾つかの女御や更衣たちの御殿のろうを通いみちにして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直とのいをする更衣が上がり下がりして行く桐壺であったから、始終ながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みがかさんでいくのも道理と言わねばならない。召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物のすそが一度でいたんでしまうようなことがあったりする。またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壺の更衣の通りみちをなくしてはずかしめるようなことなどもしばしばあった。数え切れぬほどの苦しみを受けて、更衣が心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそうあわれを多くお加えになって、清涼殿せいりょうでんに続いた後涼殿こうりょうでんに住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮こうきゅうよりもまた深くなった。
 第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着はかまぎの式が行なわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手はでな準備の費用が宮廷から支出された。それにつけても世間はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌びぼう聡明そうめいさとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生まれてくるものかと皆驚いていた。その年の夏のことである。御息所みやすどころ――皇子女おうじじょの生母になった更衣はこう呼ばれるのである――はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが帝はお許しにならなかった。どこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、
「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」
 と言っておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五、六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇を願って帰宅させることにした。こんな場合にはまたどんな呪詛じゅそが行なわれるかもしれない、皇子にまでわざわいを及ぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目だたぬように御息所だけが退出するのであった。この上留めることは不可能であると帝は思召して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬ御尊貴の御身の物足りなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。
 はなやかな顔だちの美人が非常にせてしまって、心の中には帝とお別れして行く無限の悲しみがあったが口へは何も出して言うことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのを御覧になると帝は過去も未来も真暗まっくらになった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろな頼もしい将来の約束をあそばされても更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心おおみこころを襲うた。更衣が宮中から輦車れんしゃで出てよい御許可の宣旨せんじを役人へお下しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると今行くということをお許しにならない。
「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いてうちへ行ってしまうことはできないはずだ」
 と、帝がお言いになると、そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、

「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

 死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」
 これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召おぼしめしたが、今日から始めるはずの祈祷きとうも高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思召しながらお帰しになった。
 帝はお胸が悲しみでいっぱいになってお眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へお出しになる尋ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ち遠しいであろうと仰せられた帝であるのに、お使いは、
「夜半過ぎにお卒去かくれになりました」
 と言って、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。
 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引きこもっておいでになった。その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服きふく中の皇子が、けがれのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけを不思議にお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心持ちほどお気の毒なものはなかった。
 どんなに惜しい人でも遺骸いがいは遺骸として扱われねばならぬ、葬儀が行なわれることになって、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣きこがれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕おたぎの野にいかめしく設けられた式場へ着いた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。
「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷いをさますために行く必要があります」
 と賢そうに言っていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。
 宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位さんみを贈られたのである。勅使がその宣命せんみょうを読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御にょごに相当する位階である。生きていた日に女御とも言わせなかったことがみかどには残り多く思召されて贈位を賜わったのである。こんなことででも後宮のある人々は反感を持った。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壺の更衣こういの真価を思い出していた。あまりにひどい御殊寵しゅちょうぶりであったからその当時は嫉妬しっとを感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。優しい同情深い女性であったのを、帝付きの女官たちは皆恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とはこうした場合のことであろうと見えた。時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて七日七日の仏事が次々に行なわれる、そのたびに帝からはお弔いの品々が下された。
 愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがってどうしようもない寂しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直とのいに召されることも絶えてしまった。ただ涙の中の御朝夕であって、拝見する人までがしめっぽい心になる秋であった。
「死んでからまでも人の気を悪くさせる御寵愛ぶりね」
 などと言って、右大臣の娘の弘徽殿こきでん女御にょごなどは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子を御覧になっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、御自身のお乳母めのとなどをその家へおつかわしになって若宮の様子を報告させておいでになった。
 野分のわきふうに風が出て肌寒はださむの覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人がお思われになって、靫負ゆげい命婦みょうぶという人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びが行なわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜にむ歌なども平凡ではなかった。彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。
 命婦は故大納言だいなごん家に着いて車が門から中へ引き入れられた刹那せつなからもう言いようのない寂しさが味わわれた。未亡人の家であるが、一人娘のために住居すまいの外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁を保って暮らしていたのであるが、子を失った女主人おんなあるじ無明むみょうの日が続くようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさし込んだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人はすぐにもものが言えないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。
「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いがあばら屋へおいでくださるとまたいっそう自分が恥ずかしくてなりません」
 と言って、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。
「こちらへ上がりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍ないしのすけは陛下へ申し上げていらっしゃいましたが、私のようなあさはかな人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」
 と言ってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。
「当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやく落ち着くとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですがそれもありません。目だたぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい」
「こういうお言葉ですが、涙にむせ返っておいでになって、しかも人に弱さを見せまいと御遠慮をなさらないでもない御様子がお気の毒で、ただおおよそだけを承っただけでまいりました」
 と言って、また帝のおことづてのほかの御消息を渡した。
「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分なかたじけない仰せを光明にいたしまして」
 未亡人はおふみを拝見するのであった。
時がたてば少しは寂しさも紛れるであろうかと、そんなことを頼みにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思いやっている小児こどもも、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子の代わりとして面倒めんどうを見てやってくれることを頼む。
 などこまごまと書いておありになった。

宮城野みやぎのの露吹き結ぶ風のおと小萩こはぎが上を思ひこそやれ

 という御歌もあったが、未亡人はわき出す涙が妨げて明らかには拝見することができなかった。
「長生きをするからこうした悲しい目にもあうのだと、それが世間の人の前に私をきまり悪くさせることなのでございますから、まして御所へ時々上がることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せを伺っているのですが、私が伺候いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたい御様子をお見せになりますから、私はごもっともだとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申し上げてくださいませ。良人おっとも早くくしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私が御いっしょにおりますことは、若宮のために縁起のよろしくないことと恐れ入っております」
 などと言った。そのうち若宮ももうおやすみになった。
「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしく御様子も陛下へ御報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それではあまりおそくなるでございましょう」
 と言って命婦は帰りを急いだ。
「子をなくしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公のお使いでなく、気楽なお気持ちでお休みがてらまたお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとは何ということでしょう。返す返す運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。故人のことを申せば、生まれました時から親たちに輝かしい未来の望みを持たせました子で、父の大納言だいなごんはいよいよ危篤になりますまで、この人を宮中へ差し上げようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、確かな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましてはただ遺言を守りたいばかりに陛下へ差し上げましたが、過分な御寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、皆さんの御嫉妬の積もっていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深い御愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」
 こんな話をまだ全部も言わないで未亡人は涙でむせ返ってしまったりしているうちにますます深更になった。
「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながらあまりに穏やかでないほどの愛しようをしたのも前生ぜんしょうの約束で長くはいっしょにおられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁でつながれていたのだ、自分は即位そくいしてから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信を持っていたが、あの人によって負ってならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって湿っぽい御様子ばかりをお見せになっています」
 どちらも話すことにきりがない。命婦みょうぶは泣く泣く、
「もう非常におそいようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」
 と言って、帰る仕度したくをした。落ちぎわに近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人の悲しみを促すような虫の声がするのであるから帰りにくい。

鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜飽かず降る涙かな

 車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。



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