五
いままで知らなかった感じがナースチャの心に生じた。モスクワへ、自分でも行けるのであろうか。原っぱへ出て、夏空の下の長い堤防や遠くの動かぬ貨車の列を見る時、ナースチャの眼に涙が浮んだ。小学三年だけ行ったナースチャの頭に、アンナ・リヴォーヴナの言葉はつよくうちこまれ、彼女は忘れることが出来なかった。しかし、ナースチャは口に出してはなにも云わなかった。自分の心がこわかった。
ある午後、市場へ買い出しに出かけていると夕立がかかって来た。ナースチャはいそいで市場のアーチの下へ逃げこんだ。アーチは奥行が深く、その内壁に沿うて十六カペイキの耳飾や針を売る三文雑貨屋や、紐屋、古着売りなどの店が張られている。五六人の労働者と、子供をかかえた一人のツィガンカがやはりアーチの下へ雨宿りに来た。ツィガンカは裸足で、赤い更紗の重くひろい裾を蹴るように歩き、一人一人の労働者の前に手を出した。銭をやるものはない。風がさっと吹く。雨あしが白くけむって移った。労働者の濡れた体が乾きかける一種の匂いとタバコの匂いがアーチのなかにこもった。山羊が一匹、野菜店のさしかけた板屋根の横から雨をついてこちらへ向ってかけ出して来た。アーチの下へ入ると、山羊は壁によせて開けてある鉄扉と内壁との間へ頭だけつっこんだ。そうすると安心したように山羊は眼を細くし、時々短い白い尻尾をぶるるるとふるわした。ナースチャはむき出しな腕に籠を引かけ、その山羊のとぼけた鼻面を見ながら笑った。 「ばか……」 ナースチャの肩に後から触るものがある。 「お前さんもここへ逃げこんだの?」 振返って見て、ナースチャは顔をあからめた。 アンナ・リヴォーヴナが自分の体からはなして洋傘の滴をきりながら立っているのであった。 「気違いみたいなお天気じゃないの」 ツィガンカが、目さとく彼女を見つけ、そばへよって来た。 「可愛いお方、占いしましょう、たった十カペイキ、占いさせて下さい」 アンナ・リヴォーヴナは手提袋をあけ、三カペイキの銅貨をツィガンカの黒い、爪だけ白い手の平にのせた。 ツィガンカはおじぎし、アーチの端へ去った。 「わたしは占いがこわい」 アンナ・リヴォーヴナがナースチャにささやいた。 「お前さんはどう?」 ナースチャはわからなかった。彼女はツィガンカに一ぺんも物乞いをされたことがなかった。そのくらい、見すぼらしい村の娘なのであった。 雨が小降りになって、アンナ・リヴォーヴナとナースチャはアーチの下を出た。 「お前さん急ぐの?」 「いいえ」 歩道の横で女が三人ならび、いまの夕立で柔くなった石の間の地面で草取りをはじめている。その前を通り過ぎた時、アンナ・リヴォーヴナが云った。 「お前さん、本当にモスクワへ出る気はないかい」 ナースチャは、顔や胸があつくなってなんと返事してよいかわからなかった。なんとなく心ひかれたからアンナ・リヴォーヴナについて来は来たのだが…… 「もし来たいなら、わたしが帰る時、一しょに行ってもいいね」 アンナ・リヴォーヴナはつづけて云った。 「わたしの家でも働いてくれる人がいるんだからどうせ」 「わたしにはお金がありません」 「そのくらいのことはわたしが立てかえといて上げてもいい。――お前さん、床の拭きよう知っているだろう?」 「知っています」 「洗濯出来るだろう?」 「ええ」 「スープのとりようだって知ってるわね、もちろん」 ナースチャは、ほんの少し弱く、 「ええ」 と答えた。(伯母のところでは、一月に二度くらいしか肉入のスープなど食べなかった。) 「それごらん!」 夕立の水たまり、そこにいまは日光と青葉のかげが爽やかにチラチラしている上を越しながら、アンナ・リヴォーヴナは陽気にナースチャに断言した。 「もうちゃんと立派な女中さんじゃないの!」 主人は技師で、大きい娘はもうお嫁に行ってしまっていて、家は暇なこと、月給は十三ルーブリということをアンナ・リヴォーヴナは説明した。 「わたしはいまのようにしているよりいいと思うね」 「…………」 「どうしたのさ黙りこんで……ああ、別れたくない人がいるのね?」 「伯母さんに話して下さい、アンナ・リヴォーヴナ!」 ナースチャはとびつくような本気さで云った。 「どうぞ伯母さんに話して下さい。わたしは行きたい! 本当に行きたいんです!」 ナースチャのそばかすのある顔が急にみっともなくのぼせて、彼女は涙を頬っぺたの上に落した。 「泣かないだっていいのに、おかしなナースチャ!」 モスクワでは職業組合に入る女中が多くなった。職業組合員の女中は、まるで役人でも頼むようにやかましい証書を交換したり、一つ間違うと訴訟を起したり、アンナ・リヴォーヴナにはひどく居心地わるかった。それにせっかく四五月経ってなれたと思うと六月目には出てしまうものも多い。職業組合員になるには六ヵ月働いた上でなければならず、組合員になると、アンナ・リヴォーヴナの利益とは関係ない利益が彼女たちにあるのであった。ナースチャは職業紹介所から来る娘でなく、田舎の原っぱから真直ぐ自分の家へ来るというだけでも、アンナ・リヴォーヴナは満足だった。
「可愛いムーシェンカ」 アンナ・リヴォーヴナは娘へ書いた。 「この間は手紙をありがとう。坊やの歯々がとうとう生えたってね。おめでとう。わたしは本当にうれしいよ。ソヴェトのわたしの孫の歯もやはりキリストさまのと同じに前歯から生えることが確められて。 イワン・ドミトリィッチさんは相かわらず会議会議かい。昔の妻は良人に猟に出かけられてよく淋しい思いをしたものです。いまの妻は会議に良人を奪われる。会議が猟よりわるいところは、会議に季節がないことと、猟師小舎でのやき肉のかわりにお茶のぬるいのとサンドウィッチで夜の十二時五十分までタバコでもうもうした席に坐っていなければならないことです。まして猟には、あのあぶなかしいエナメル靴をはいた秘書役などと云うものはついていなかったんだからね! (だがイワン・ドミトリィッチには、くれぐれもよろしく伝えておくれ。わたしは母親の本能で、彼がそうざらにはないお前の良人なのを知っているんだからね) さて、わたしもいよいよ明日ここを引きあげます。例年の通り日やけと散歩でつぶした靴の踵のお土産のほかに今年はちょっとした掘出し物がある。あててごらん! 女中がつれて帰れるらしいのです。いまのモスクワで、身許のはっきりした田舎出の女中は、人造絹糸でない絹ものと同じくらい珍しいじゃあないか。大して気は利きそうもないが、お前も知っているサーシュカね、あれのように、またたく間に三本も赤葡萄酒のびんをひろくもないユーブカの間へちょろまかすような芸当のないのもたしからしい(孤児だから面倒でないし、辛棒もするでしょう)もし―― アンナ・リヴォーヴナは、もしお前の方で欲しければと書きかけたのを消し、 ――もし眼鏡ちがいでなかったら、どうぞお前もよろこんでおくれ」 と結んだ。 下宿の夕飯後、大きな鏡のある客間の長椅子で、アンナ・リヴォーヴナは手紙のその部分を面白そうにニーナや技師の妻ユリヤ・ニコライエヴナなどに読んできかせた。(彼女の左の手首から下っている袋のなかにある、手紙のもう一枚の方には、ユリヤ・ニコライエヴナの夫である頭の禿げた電気技師が、妻の留守の夜、どんなにバタンと閉めた戸をまたそっと開けてニーナの部屋へ忍んで行ったか、翌日二人がどんなに人目をかまわず、食べかけたパイを皿ごととりかえっこして食べたか恐ろしい事実を書いてあるのであった) アンナ・リヴォーヴナの少しふるえを帯びた声の合間合間にニーナは、 「素敵! 素敵!」 と叫んだ。 「なんて愉快な機智にとんだお手紙なんでしょう! 本当にわたし母にきかせてやりたい。こんな面白い手紙をもらう娘さんも世間にはいらっしゃるんですものねえ。まったくゾーシチェンコと合作がお出来になるわ、ねえ、ユリヤ・ニコライエヴナ?」 小さい白い布に刺繍をしながら、歯からもれる声でユリヤ・ニコライエヴナは、 「さあ」 やや重く答えた。 「私はゾーシチェンコを知っているけれど、なんだかがさつなひとで……わたしは好きでありませんよ」 下宿へ食事だけしに通って来る小柄な軍医が、下から議論の中心になったゾーシチェンコのとじの切れた短篇集をもって来た。彼は「恐ろしき夜」を女達に朗読しはじめた。
この時間に、村端れの仕立屋タマーラの窓からランプの光が夜の村道までさしていた。 ランプの真下で伯母がラシャの裁物をしている。明日立つナースチャが隣室からの光りで戸口のところだけ明るい台所で、大箱の蓋を開け、荷ごしらえをしている。わずかの下着と、二枚の冬服と一枚外套があるばかりであった。いままで、その上に毎晩ナースチャが寝て来た箱のなかには、まだいくらか古着があったが、どれも小さくなったり、きれていたり、役に立つのはなかった。 シューラが、箱の底をほじくって、すり切れた、誰かの古い狐の皮を引ずり出した。 「いいもの! いいもの! さあ、ナーシェンカ、これもつめといでよ」 「おやめよ」 「なぜさ! モスクワは寒いよ、ホラ!」 狐の皮を自分の頸にまきつけ、シューラはしなをしてナースチャのぐるりを歩きまわった。 「いい襟巻だよ」 相手にならず、洗ってあるのや洗ってないのや靴下をつかんで麻袋につめこんでいたナースチャは、溜息をつき、手の甲で額をこすり箱にもたれて坐ってしまった。ややしばらくそのかたちのナースチャを眺めていたシューラは、狐の皮をぬぎ、うしろ手のままそろりと箱のふちへずりのぼった。ナースチャは動かぬ。シューラはよほど経ってからこごんで、小さい声でよびかけた。 「ナーシェンカ」 「…………」 「お前……ねえナーシェンカ、こわくない? 行っちゃうの……」 「…………」 「ね、ナーシェンカ、こわくない?」 箱からぶら下っているシューラの骨っぽい少女の脛が、いきなりナースチャの若々しい腕で抱きしめられた。 「黙ってて! 後生だから」 ナースチャはさっきからなんとも云えない心持なのであった。伯母の頭の上にある真鍮の吊ランプも、夜の台所の匂いも、なにもかにもふだんと変らないのに、自分だけが行ってしまって帰らないというのは、なんと妙な、切ない心持であろう。ナースチャは、暗いうちでさらにシューラの脛を抱きしめ自分の額を押しつけた。この世で、これだけしか抱けるものはなかった。 その心持がシューラに通じた。シューラは、ナースチャの髪をなで、むせばないように口をあけて泣いた。 隣室では、ランプの光がさし、はさみの音がする。ランプの光はぼろのかたまりのようにナースチャをかげにおき、シューラの金髪の一部分だけをせまく射るように照らしつづけた。
六
ソフィヤ村のナーシェンカは市に出た。 ナースチャは電車にのっている。電車は二台連結だ。ナースチャはひろげた脚の間に麻袋をおき、あとの車にのっている。アンナ・リヴォーヴナはナースチャの隣にかけ、かばんをそばにおき、その上に肱をついて眼をつぶっている。電車は午前九時すぎのモスクワを行くのだ。ナースチャは朝日のあたる窓に向って、顔をしかめながら外をみた。大きいまるで見知らぬ都会の景色のなかでナースチャになじみのあるのは向日葵の種売りだけであった。朝のところどころの露店で、五カペイキのコップは向日葵を盛って厚ぼったく光った。 電車の窓の下をトラックが通る。トラックには三人労働者がのっていて、あっち向きに電車を追いぬきながら、窓にあるナースチャの顔を見つけ、互になにか云って笑った。 「おーい、こっちへ乗ってきな!」 怒鳴りつつ去った。紫と白の太い縞シャツを着た、若い男の笑顔を、ナースチャはいい男だったと思った。 樹の枝でつくった平べったい檻に鶏を沢山入れ、山のように積んだ荷馬車が行った。下積みの檻は、上からの重みでひずんで、一羽雄鶏が苦しそうに檻のすき間から首を外へ突出していた。 アンナ・リヴォーヴナの家では、どんな正餐を食べるのであろうか? 道普請だ。電車はのろのろ進む。……ナースチャはなんだかちょっとぼんやりした。 やがて教会の金の円屋根が光って見える広い通りへ出た。からりとして明るい往来の上に、一台柩馬車がいた。柩馬車は黒い。棺も黒い。花もなくひいて行く。後からプラトークをかぶった女が二人、年とった女を左右からかかえて歩いていた。柩馬車の御者台には、御者とならんで十一二の男の児が冬外套を着てのっかって行く。 窓からのり出してナースチャはその葬式を見送った。その時ひろい街の上にあるのは朝日とその葬式ばかりで、いつまでもいつまでも馬車にのっかって行く男の児の外套を着た背中が黒くぽっつりとかなたに見えるのであった。……ナースチャは窓をはなれ、坐りなおし、帳簿つけをしている女車掌の胸につり下っている、テープのように巻いた切符を眺めた。切符は赤、黄、水色、白――電車はながい。
七
クレムリン城内と向いあって、四角にモスストロイ(モスクワ土木課)がある。 パーヴェル・パヴロヴィッチは五年間、歩いてその三階へ通いつづけた。出かける前に、彼は火傷しそうに熱い茶を受皿にあけて飲んで、バタつきパンをたべて、タバコを吸いながら水色の技術制帽を外套の袖口で一二へんこすってかぶるのであった。 ナースチャは一時間半前に、台所の寝台から起きた。ソフィヤ村の伯母の家でナースチャの寝床は大箱の上だった。ここでは箱でなく、台所の壁から一枚板が下りた。ナースチャはその上へ掛物にくるまって眠るのであった。 パーヴェル・パヴロヴィッチが、茶をのんで窓越しに並木道の菩提樹の梢を眺めている間に、ナースチャはニッケル盆にコップと薬罐とバラ模様の急須をのせ、食堂の隣室の戸をたたいた。 「入ってもよござんすか」 直ぐ、 「お入り」 と返事のある時もある。いつまでも返事のない時、ナースチャは、ドンドン戸をたたいた。それはきっとそうやってたたかなければいけないのだ。鍵があく。 「おお眠い。一たい何時? いま」 ナースチャは丁寧に腰をかがめてテーブルへ盆をおきつつ答える。 「八時十分です」 リザ・セミョンノヴナは裸足のまま寝台の前の小さい古い絨毯布の上に立っていた。あくびをし、柔かい金髪のおかっぱを両手でもしゃくしゃにこねまわし、もう一つあくびをしつつナースチャの肩へよっかかった。 「ナースチャ、鬼よ、お前! たったいっぺんでいいからうんざりするほど寝かしといてくれればいいのに!」 ナースチャ自身は黒い髪をたっぷり持って首の上に重く丸めていた。彼女には、この金髪の、足の裏まで柔いみたいなリザ・セミョンノヴナが好もしかった。リザ・セミョンノヴナはナースチャが来て半月後、アンナ・リヴォーヴナが出した貸間広告で来た銀行員である。 リザ・セミョンノヴナは、 脚をぶらぶらふりながら、 わたしは樽にかけている。 コンムニストだということは 云ったげようか とても、陽気だ。 流行歌をうたい出し、ナースチャの顔のなかになんともしれぬながしめを与え、麻の手拭を肩にかけて洗面所へ出かける。ナースチャもついて室を出て、おなじ廊下で一つ手前の台所へ帰る。 籠をぶらぶら振りながら わたしは窓にかけている。 女中になるということは 云ったげようか とても、陽気だ。 陽気だということに反語のこころをふくめてナースチャは、心のうちでいくつもかえ歌をこしらえ、調子をとりつつ、それが火曜日の朝ならばごしごしと洗濯盥でアンナ・リヴォーヴナの下着をもむのであった。 パーヴェル・パヴロヴィッチが出て行く。リザ・セミョンノヴナが赤い手提に身許証明書と八カペイキのパンとを入れて出て行く。アンナ・リヴォーヴナがそのあとで独り食堂で、桃色の夜帽子をかぶったまま茶を飲む。ナースチャは寝室と、リザ・セミョンノヴナの室掃除をする。ナースチャはリザ・セミョンノヴナがそのうえで白粉もつけるし、手紙も書くたった一脚の、いつも一晩で散らかるテーブルの上を、彼女独特の原則にしたがって片づけた。ソフィヤ村で、ナースチャはいつこのような白粉箱、香水箱、新聞、古手紙、毛糸の黒坊人形まである小机を見たことがあろう。ナースチャはしかたがないから、あるほどのものを片ぱしから大きさの順で机の端につみ重ねた。したがって、新聞が基礎構造で、「週間」「アガニョーク」「エルマー・ガントリー」という英語の筋ばかり厚い小説、日記、字引、五月八日にキエフから来た手紙、もう一つ小さい端のめくれた古手帳、その上に、ナースチャはきまって黄色い円い白粉箱をおき、黒坊人形は手にとって一つ接吻して、その白粉箱によせかけ、片づけ終るのであった。リザ・セミョンノヴナは帰って来て――夕方か夜更けかに――興業銀行で百八ルーブリの月給をもらう代り、怠ることの出来ない英語勉強のために、音読用エルマー・ガントリーをとろうとすると、それがまた彼女の金髪らしい性質で、いつの間にか机一杯に白粉箱や古手紙が散らばってしまうのであった。 カウカーズの上靴を寝台の下にしまって、ナースチャがリザ・セミョンノヴナの室に鍵をかけ終ると、アンナ・リヴォーヴナは廊下で黒麦わらの帽子をかぶっている。 「さあ、籠を持って」 「ただいま」 「牛乳壜を入れたかい?」 「ええ」 戸に鍵をかけ、はしごを中途まで降りかけると、アンナ・リヴォーヴナは、 「ホラ、また忘れちゃった!」 と立ち止った。 「ナースチャ、忘れたろう?」 「なんです」 「ケフィールの瓶さ」 幸いナースチャが平然と腕に下げている籠からビール瓶くらいのケフィールの空瓶を出して見せられる時はよいが、さもないと、ナースチャはまたはしごをのぼって、鍵をあけて、台所へ行って瓶をとって、また表の戸を閉めて、念のためいっぺん引っぱって見て、アンナ・リヴォーヴナの待っているところまで戻らねばならぬ。悪い時は、どうかしてアンナ・リヴォーヴナが扉のしめようを信用せず、 「いい娘だから、もう一度しっかり見ておいで。モスクワはソフィヤ村じゃないんだからね、三分間扉を開けっ放しにしておいてごらん、壁のペイチカまでさらわれちまうから」 と云う場合であった。ナースチャは戻らねばならぬ。三階まで二度往復せねばならぬことを意味するのであった。 市場には、村の市場より数倍の店と群集と、いろんな匂いとがある。市場のモスクワ式ごろた石の通路では、花キャベジの葉っぱ、タバコの吸殻、わら屑、新聞の切れっ端が踏みにじられていた。魚売店からきたなく臭い水がごろた石の間を流れた。市場の古いごろた石道はきつい日に照らされて表面だけ白っぽくかわいて見えても、石と石との隙間の奥にはいつも黒いぐしゃぐしゃした泥濘がある。ナースチャは時々、そのごろた石と石との隙間に靴の踵をかまれてよろけながら、眼をつき出し、愉快そうにアンナ・リヴォーヴナのあとから店々をのぞいて歩くのであった。 頭上の大板へ葡萄と林檎を盛った男が、長靴を鳴らし人をかきわけてやって来た。女がその肩にぶつかった。 「ヘーイ、ヘイ! ばかやろう!」 いそいでよけた女の顔の前へ、てのひらにのせた鶏をつき出して、横歩きをしつつ髯の大きな男が熱心につばきをとばしてしゃべった。 「奥さん、じゃいくらならいいんだね。見なさい。こりゃ本当のヒナですぜ、けさつぶした」 赤い羽根付の帽子をかぶった女は止らず歩きつづけた。 「だから、もう云ったよ。八十五カペイキ!」 「もう十カペイキだけ! あんたにとってこれっぽっち同じじゃないか」 「同じなら、お前さん負けとき」 「わたしのを買って下さいよ、ね奥さん」 更紗のプラトークをかぶった女が、その時やっぱり手に毛をにぎったひどくひねた鶏をのせ、人かげから、歩いてゆく女の前に現れた。 「ねえ、奥さん、本当の主婦ならこれを見落しゃしませんよ、たった九十五カペイキ、お買いなさい奥さん」 二人の鶏売りにはさまれ、女は怒ったように、 「駄目! 駄目!」 と叫んで一そう早く歩き出した。 「わたしは買わないよ、いらないっていったら!」 行手にはもう別の人だかりがあり、鮭の切売りを見物しているのであった。 「ナースチャ!」 肉売り店の前に立って少し口をあけ、面白そうにその様子を見ていたナースチャは、びっくりしてうしろを向いた。 「さ、これ」 アンナ・リヴォーヴナは犢の骨付肉を新聞でつまんでナースチャの籠へ入れた。 「駄目だよ。さらわれちゃ」 女が二人ならんで足許の箱に玉子をひろげていた。ナースチャが来かかった時、年よりの方の女が、急にあわてて箱をもち上げ、 「来たよ」 とささやいた。あわててもう一人の女も箱を持ち上げ逃げるかまえをしたが、そちらを見て、 「籠をもってる」 安心して、再び玉子の箱を元のように足許に下した。直ぐ巡査が現れた。巡査も買物で、ほかの群集の男女と同じに籠をぶら下げ、玉子売の隣で胡瓜漬売の前にたたずんだ。ナースチャは顔を上に向けて笑った。市場は、陽気だ。 リザ・セミョンノヴナも陽気でなくはなかった。 リザ・セミョンノヴナは時々は夜も、台所へ入って来ることがある。 「ナースチャ、ちょっとじりじりやらせてね」 爪磨した彼女の手にアルミニュームの小鍋がある。小鍋に二つの卵とハムが入っている。アンナ・リヴォーヴナとリザ・セミョンノヴナがとり交した契約書には、モスクワの借室がたいていそうであるように台所は利用せぬことになっているのであった。セミョンノヴナでも、しかし時には、夜、茶と一しょに熱いものが食べたかろうではないか。 台所の隅の腰かけに、昼間のせてあった金盥の代りに、いまはナースチャ自身がかけている。ハムをあぶりながら、リザ・セミョンノヴナは綺麗な水色の瞳で、じろじろナースチャを眺めて、云うのであった。 「ナースチャ、なぜおかっぱにしないの」 「わたし似合わないんです」 リザ・セミョンノヴナの小料理は手伝うこともないので、かえってナースチャは間がわるい表情だ。 「きったことがあるの?」 「いいえ、伯母さんも似合わないというし、シューラも似合わないって云うもんだから」 「ばかなナースチャ、おかっぱにしないのなんか禿げ頭の爺さんか豚だけよ――ごらん、わたしだってよく似合ってるじゃないの」 ナースチャは、感嘆して、紫苑色のリザ・セミョンノヴナのすらりとしたスウェーター姿を眺めた。 「わたしだってあなたみたいな髪さえあれば……こんな黒い髪! あきあきしちゃう」 「ホウ、ホウ、ホウ」 肩をすぼめ、唇を丸め、ホークで器用に小鍋をひっかけながら、 「そら出来た」 リザ・セミョンノヴナはガスを消す。 「寝る? ナースチャ」 ナースチャはもっといろいろのことをしゃべりたい。その心持をあらわす暇のないうちに、 「じゃおやすみ、ありがとうよ、ナースチャ」 リザ・セミョンノヴナは裾の端を台所の戸がしめこみそうにひらり、小鍋を持って自分の室に行ってしまうのであった。 ナースチャがお休みなさいと云う間もなかった。 彼女は台所の隅の四本柱の腰かけの上で、両手を膝の間にはさみ、体を前や後に振りながら周囲の物音をききすます。廊下のあちらでリザ・セミョンノヴナの戸が閉った。食堂からこもった笑声が響いた。食堂の入口に厚いカーテンが下っているからあんなに遠く聞えるのだ。アンナ・リヴォーヴナ夫婦と夫婦づれの客が、カルタをやっていた。ナースチャがずっとさっきコーヒーを持って行ったら、アンナ・リヴォーヴナはカルタを手のなかで一心にそろえながら、 「お砂糖もいるよ」 と云った。主人のパーヴェル・パヴロヴィッチがその前に台所へ顔を出して、 「ナースチャ、コーヒーおくれ、苦くしちゃいかんぜ」 と云って直ぐ引っこんだ。夜の間にナースチャにかけられた言葉のそれが全部である。 膝の間にはさんでいた片方の手をのばして、ナースチャはかたわらの棚の下をさぐった。いろんな紙屑のなかから、手当り次第に引っぱり出してみると、パーヴェル・パヴロヴィッチが役所から持って来た製図の切れ端であった。もう一遍やって見ると、新聞が出た。ナースチャは太い活字をひろって読んだ。パホード・プロチフ・エストラノドノイ・ハルツールイ……これはなんのことだろう。別のところには細かい字がうんと書いてあってカリーニンとかルジュタクとか人の名がある。 再び両手を膝にはさみ、体をゆすり、ナースチャはシューラを恋しく思い出すのであった。寂しい……。明るい……明るい……そして一人ぼっちの台所は寂しい。夜はいつしか進んでナースチャはねむたくなる。大きなあくびをして立ち上り、彼女はギーと板を下し、その上にのって高い棚から掛物をひきずりおろした。 便所で誰かが灯をつける度に、高窓のガラスを越してナースチャの寝顔に光がさした。ナースチャは口をあけ、うなりながら眠った。
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