四
千里さきは妙な国でした。 そこでは、みんな人でも物でも逆さまになつてゐました。両足を天にあげて、もが/\さして苦しさうなのです。そして人は口々に、 「あゝ苦しい/\、助けてくれ/\。」 と、言つてゐました。 「どうしたんでせう、大黒さん、なぜあんなに逆さまになつて歩くんでせう。」 吉ちやんはびつくりしてきゝました。 「こゝか。」 と、大黒様が申しました。 「こゝは鏡の市といふところさ。やはり夢の国のうちなんだよ。だがね、こゝで一つ面白いことをして遊ばう。あの逆さまの人や物を、ひつくり返してみよう。お前あのおしやもじを持つてゐるね。」 「えゝ、こゝにあります。」 「それを出して、焼けてゐない方を前へ向けて、クウル、クリイル、ケーレと呪文をとなへるのだ。いゝか、やつてみなさい。」 吉ちやんはそのとほりにしますと、不思議/\、音もしないで、ピヨコリと、人でも物でも皆当り前になりました。するとそこいらにゐた人達が、うよ/\と自動車のまはりへ集まつて来ました。 「有難うございます/\。あなたのお蔭でみんなが、ちやんとなつて助かりました。あなたは神様でございます。」 一人々々ぺこ/\とお礼を言ひます。そのうちに一人の立派な服を着た人が、その中から進み出て、丁寧にお辞儀をいたしました。 「私は、この市の長をつとめてゐる者のところから参りました。あなたがみんなの難儀をお救ひ下さいましたから、お礼に御馳走をしたいと申してをります。どうぞおいで下さいませんか。」 大黒様はポケツトの中から、行くと言ひなさいと、すゝめますから、吉ちやんも、では行きませうといつて、その男に案内さして市長のうちへ行きました。 市長のうちは大変立派な、大きなお城でした。けれども不思議なことには、何だかごた/\してゐて、吉ちやんをうつちやらかしたまゝ誰も出て来ません。 「大黒様。」 と、吉ちやんはもう何でも大黒様にきゝさへすれば分ると思つてゐます。 「どうしたのでせうね、この騒ぎは。それに、お客様の僕を、誰もかまつてくれないぢやありませんか。」 「うん、これか。」 と、大黒様は申しました。 「これはいつもあることなんだ、世界がひつくり返つたときには。――いまに分るよ。」 言つてゐるうちに、立派な服に、左の腕に黒い布をまいた人が出て来ました。その顔は蒼醒めてをりました。 「私が市長でございます。」 と、その人は丁寧にお辞儀をして申しました。 「あなたのお蔭で、私共の世界が元どほりに、真すぐになりましたことは、誠に御礼の申さうやうもないことでございます。で、ほんのお礼のしるしばかりに、宴会を開きましておいでを願つたのでございますが、とんでもないことが一つ起つて、大変失礼いたしました。」 「はあ、さうですか……成程、あなたの顔はあをいですよ。一体どんなことが起つたのですか。」 と、吉ちやんはもつたいらしく大人ぶつて言ひました。 「えゝそれはあなたに申しかねますが、実のところ、私の一人娘が、今度世界が元へもどる拍子に、どこか身体をぶつけたと見えて、死んでしまつたのでございます。」 吉ちやんが何かいはうとすると、大黒様がポケツトの中から小さな声で、 「そんなことなら、僕が直ぐよくしてあげますと言ひなさい。」 と、勧めました。 「さうですか、えゝと、では僕がよくしてあげませう。」 と、吉ちやんはえらさうに言ひましたので、市長は大変悦びまして、吉ちやんをつれて娘のところへ来ました。大黒様はみんな人を去らしてしまへと、小さな声で吉ちやんに言ひますので、吉ちやんは、 「ではちよつとみんなこの室を去つて下さい。そして私がよしといふまで、見てはいけません。」 と、いひつけました。 皆なが去つてしまふと、大黒様がまた言ひました。 「またそのおしやもじの焼けない方で、娘の顔を撫でるのだ。クウル、クリイル、ケーレと三べんとなへて――。早くしなさい。」 吉ちやんがそのとほりにしますと、娘はすぐ甦りました。
五
そこで市長は吉ちやんを大きな広間につれて行つて、沢山な御馳走をしました。電燈がぴかぴかと宝石にうつつて輝き、オーケストラの音楽が鳴りひゞく。それに綺麗に着かざつた紳士や、貴婦人が、よく活動写真で見るやうに、ダンスをしてゐます。吉ちやんは喜んで御馳走をたべながら、それを見たり聞いたりしてゐました。するとふと妙なことを考へ出しました。 それはこんな綺麗な人達が、前のやうに、逆さまになつたら、どんなものだらうか。どんな顔をするだらうかといふことでした。よく子供は股の間から、逆さまに世界を見るものです。吉ちやんは股の間からではなく、ちやんとしたまゝ、世界の逆さまになつたのを見たくて仕方がなくなりました。そこで、大黒様には内しよで、そつと、例のおしやもじを出し、今度は前とは反対に、焼け焦げた方を少し向けてみますと、果して考へたとほり、舟がゆれるやうにみんなが一方へ傾きました。 「うん、これは面白いぞ。やあ変な顔をしてゐる。そら元へ返してやるぞ。」 吉ちやんがおしやもじの焼けない方を向けると、また皆なが元気よく、踊つたり、跳ねたりします。焦げた方を向けると、皆な傾いて、心配さうな顔になる。吉ちやんは面白がつて、おしやもじをヒヨイ/\向けかへてゐるうち、ふと手に力が入りすぎて、焼けた方を向けますと、さあ大変、部屋も人もみんな宙がへりをして、それと一緒に吉ちやんもすてんとひつくりかへりました。びつくりして目がさめると、吉ちやんは自分の机に頭をつけて、眠つてゐたことが分りました。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
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