氷河鼠の上着を有つた大将は唇をなめながらまはりを見まはした。 『君、おい君、その窓のところのお若いの。失敬だが君は船乗りかね』 若者はやつぱり外を見てゐました。月の下にはまつ白な蛋白石のやうな雲の塊が走つて来るのです。 『おい、君、何と云つても向ふは寒い、その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。けれども君はなか/\豪儀なとこがある。よろしい貸てやらう。僕のを一枚貸てやらう。さうしよう』 けれども若者はそんな言が耳にも入らないといふやうでした。つめたく唇を結んでまるでオリオン座のとこの鋼いろの空の向ふを見透かすやうな眼をして外を見てゐました。 『ふん。バースレーかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもできやしない。黒狐だから。おい若いお方。君、君、おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』 こんな馬鹿げた大きな子供の酔どれをもう誰も相手にしませんでした。みんな眠るか睡る支度でした。きちんと起きてゐるのはさつきの窓のそばの一人の青年と客車の隅でしきりに鉛筆をなめながらきよときよと聴き耳をたてて何か書きつけてゐるあの痩た赤髯の男だけでした。 『紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか』 白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに大股にやつて来ました。 『おい、紅茶をおくれ』イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。 そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。 窓は月のあかりでまるで螺鈿のやうに青びかりみんなの顔も俄に淋しく見えました。 『まつくらでござんすなおばけが出さう』ボーイは少し屈んであの若い船乗りののぞいてゐる窓からちよつと外を見ながら云ひました。 『おや、変な火が見えるぞ。誰かかがりを焚いてるな。をかしい』 この時電燈がまたすつとつきボーイは又 『紅茶はいかがですか』と云ひながら大股にそして恭しく向ふへ行きました。 これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。
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夜がすつかり明けて東側の窓がまばゆくまつ白に光り西側の窓が鈍い鉛色になつたとき汽車が俄にとまりました。みんな顔を見合せました。 『どうしたんだらう。まだベーリングに着く筈がないし故障ができたんだらうか。』 そのとき俄に外ががや/\してそれからいきなり扉ががたつと開き朝日はビールのやうにながれ込みました。赤ひげがまるで違つた物凄い顔をしてピカ/\するピストルをつきつけてはひつて来ました。 そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊といつた方がいゝやうな、いや、白熊といふよりは雪狐と云つた方がいいやうなすてきにもく/\した毛皮を着た、いや、着たといふよりは毛皮で皮ができてるというた方がいゝやうな、ものが変な仮面をかぶつたえり巻を眼まで上げたりしてまつ白ないきをふう/\吐きながら大きなピストルをみんな握つて車室の中にはひつて来ました。 先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだ睡つてゐたゆふべの偉らい紳士を指さして云ひました。 『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物の上にねラツコ裏の内外套と海狸の中外套と黒狐裏表の外外套を着ようといふんだ。おまけにパテント外套と氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさへた上着も着ようといふやつだ。これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ、叩き起せ。』 二番目の黒と白の斑の仮面をかぶつた男がタイチの首すぢをつかんで引きずり起しました。残りのものは油断なく車室中にピストルを向けてにらみつけてゐました。 三番目のが云ひました。 『おい、立て、きさまこいつだなあの電気網をテルマの岸に張らせやがつたやつは。連れてかう』 『うん、立て。さあ立ていやなつらをしてるなあさあ立て』 紳士は引つたてられて泣きました。ドアがあけてあるので室の中は俄に寒くあつちでもこつちでもクシヤンクシヤンとまじめ腐つたくしやみの声がしました。 二番目がしつかりタイチをつかまへて引つぱつて行かうとしますと三番目のはまだ立つたまゝきよろきよろ車中を見まはしました。 『外にはないか。そこのとこに居るやつも毛皮の外套を三枚持つてるぞ』 『ちがふちがふ』赤ひげはせはしく手を振つて云ひました。『ちがふよ。あれはほんとの毛皮ぢやない絹糸でこさへたんだ』 『さうか』 ゆふべのその外套をほんとのモロツコ狐だと云つた人は変な顔をしてしやちほこばつてゐました。 『よし、さあでは引きあげ、おい誰でもおれたちがこの車を出ないうちに一寸でも動いたやつは胸にスポンと穴をあけるから、さう思へ』 その連中はぢりぢりとあと退りして出て行きました。 そして一人づつだんだん出て行つておしまひ赤ひげがこつちへピストルを向けながらせなかでタイチを押すやうにして出て行かうとしました。タイチは髪をばちやばちやにして口をびくびくまげながら前からはひつぱられうしろからは押されてもう扉の外へ出さうになりました。 俄に窓のとこに居た帆布の上着の青年がまるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがりました。 ズドン。ピストルが鳴りました。落ちたのはたゞの黄いろの上着だけでした。と思つたらあの赤ひげがもう足をすくつて倒され青年は肥つた紳士を又車室の中に引つぱり込んで右手には赤ひげのピストルを握つて凄い顔をして立つてゐました。 赤ひげがやつと立ちあがりましたら青年はしつかりそのえり首をつかみピストルを胸につきつけながら外の方へ向いて高く叫びました。 『おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉れ。ちよつと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから』 『わかつたよ。すぐ動かすよ』外で熊どもが叫びました。 『レールを横の方へ敷いたんだな』誰かが云ひました。 氷ががりがり鳴つたりばたばたかけまはる音がしたりして汽車は動き出しました。 『さあけがをしないやうに降りるんだ』船乗りが云ひました。赤ひげは笑つてちよつと船乗りの手を握つて飛び降りました。 『そら、ピストル』船乗りはピストルを窓の外へはふり出しました。 『あの赤ひげは熊の方の間諜だつたね』誰かが云ひました。わかものは又窓の氷を削りました。 氷山の稜が桃色や青やぎらぎら光つて窓の外にぞろつとならんでゐたのです。これが風のとばしてよこしたお話のおしまひの一切れです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
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