土神はたまらなさうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考へました。おれのこんなに面白くないといふのは第一は狐のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ。樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さへどうでもよければ狐などはなほさらどうでもいゝのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないといふのは情ない。それでも気にかゝるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまへ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめて顫へたぞ。あの立派だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあはれな人間などをいぢめたのだ。けれども仕方ない。誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。 土神はひとりで切ながってばたばたしました。空を又一疋の鷹が翔けて行きましたが土神はこんどは何とも云はずだまってそれを見ました。 ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるやうな鉄砲の音が聞えました。そらから青びかりがどくどくと野原に流れて来ました。それを呑んだためかさっきの草の中に投げ出された木樵はやっと気がついておづおづと起きあがりしきりにあたりを見廻しました。 それから俄かに立って一目散に遁げ出しました。三つ森山の方へまるで一目散に遁げました。 土神はそれを見て又大きな声で笑ひました。その声は又青ぞらの方まで行き途中から、バサリと樺の木の方へ落ちました。 樺の木は又はっと葉の色をかへ見えない位こまかくふるひました。 土神は自分のほこらのまはりをうろうろうろうろ何べんも歩きまはってからやっと気がしづまったと見えてすっと形を消し融けるやうにほこらの中へ入って行きました。
(四)[#「(四)」は縦中横]
八月のある霧のふかい晩でした。土神は何とも云へずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向ってゐたのです。本当に土神は樺の木のことを考へるとなぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変ってよくなってゐたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考へたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもへて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神ぢゃないか、一本の樺の木がおれに何のあたひがあると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教へました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊にちょっとでもあの狐のことを思ひ出したらまるでからだが灼けるくらゐ辛かったのです。 土神はいろいろ深く考へ込みながらだんだん樺の木の近くに参りました。そのうちたうとうはっきり自分が樺の木のとこへ行かうとしてゐるのだといふことに気が付きました。すると俄かに心持がをどるやうになりました。ずゐぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない、どうもさうらしい、さうだとすれば大へんに気の毒だといふやうな考が強く土神に起って来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。ところがその強い足なみもいつかよろよろしてしまひ土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来てゐたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりに澱んだ霧の向ふから狐の声が聞えて来るのでした。 「えゝ、もちろんさうなんです。器械的に対称の法則にばかり叶ってゐるからってそれで美しいといふわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」 「全くさうですわ。」しづかな樺の木の声がしました。 「ほんたうの美はそんな固定した化石した模型のやうなもんぢゃないんです。対称の法則に叶ふって云ったって実は対称の精神を有ってゐるといふぐらゐのことが望ましいのです。」 「ほんたうにさうだと思ひますわ。」樺の木のやさしい声が又しました。土神は今度はまるでべらべらした桃いろの火でからだ中燃されてゐるやうにおもひました。息がせかせかしてほんたうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまへを切なくするのか、高が樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神と云へるか、土神は自分で自分を責めました。狐が又云ひました。 「ですから、どの美学の本にもこれくらゐのことは論じてあるんです。」 「美学の方の本沢山おもちですの。」樺の木はたづねました。 「えゝ、よけいもありませんがまあ日本語と英語と独乙語のなら大抵ありますね。伊大利のは新らしいんですがまだ来ないんです。」 「あなたのお書斎、まあどんなに立派でせうね。」 「いゝえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス、大理石のシィザアがころがったりまるっきりごったごたです。」 「まあ、立派だわねえ、ほんたうに立派だわ。」 ふんと狐の謙遜のやうな自慢のやうな息の音がしてしばらくしいんとなりました。 土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言ってゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした。いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐたのが今度はできなくなったのです。あゝつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうか、けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきことぢゃない、けれどもそのおれといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか、一体おれはどうすればいゝのだ、土神は胸をかきむしるやうにしてもだえました。 「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言ひました。 「えゝ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環なんかそれぁ美しいんですからね。」 土神は俄に両手で耳を押へて一目散に北の方へ走りました。だまってゐたら自分が何をするかわからないのが恐ろしくなったのです。 まるで一目散に走って行きました。息がつゞかなくなってばったり倒れたところは三つ森山の麓でした。 土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまはりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷のやうに空へ行って野原中へ聞えたのです。土神は泣いて泣いて疲れてあけ方ぼんやり自分の祠に戻りました。
(五)[#「(五)」は縦中横]
そのうちたうとう秋になりました。樺の木はまだまっ青でしたがその辺のいのころぐさはもうすっかり黄金いろの穂を出して風に光りところどころすゞらんの実も赤く熟しました。 あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機嫌でした。今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼうっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環になってかかったやうに思ひました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と話したいなら話すがいゝ、両方ともうれしくてはなすのならほんたうにいゝことなんだ、今日はそのことを樺の木に云ってやらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。 樺の木は遠くからそれを見てゐました。 そしてやっぱり心配さうにぶるぶるふるへて待ちました。 土神は進んで行って気軽に挨拶しました。 「樺の木さん。お早う。実にいゝ天気だな。」 「お早うございます。いゝお天気でございます。」 「天道といふものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡萄は紫になる。実にありがたいもんだ。」 「全くでございます。」 「わしはな、今日は大へんに気ぶんがいゝんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにはかに心持ちが軽くなった。」 樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのやうに思はれて返事しかねました。 「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかはってやっていゝのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云ひました。その眼も黒く立派でした。 樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息をつくばかりでした。 そのときです。狐がやって来たのです。 狐は土神の居るのを見るとはっと顔いろを変へました。けれども戻るわけにも行かず少しふるへながら樺の木の前に進んで来ました。 「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革の靴をはき茶いろのレーンコートを着てまだ夏帽子をかぶりながら斯う云ひました。 「わしは土神だ。いゝ天気だ。な。」土神はほんたうに明るい心持で斯う言ひました。狐は嫉ましさに顔を青くしながら樺の木に言ひました。 「お客さまのお出での所にあがって失礼いたしました。これはこの間お約束した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」 「まあ、ありがたうございます。」と樺の木が言ってゐるうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷり顫ひました。 土神はしばらくの間たゞぼんやりと狐を見送って立ってゐましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思ひましたら俄かに頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったやうに肩をいからせてぐんぐん向ふへ歩いてゐるのです。土神はむらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変ったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、畜生、さあ、どうするか見ろ、といきなり狐のあとを追ひかけました。樺の木はあわてて枝が一ペんにがたがたふるへ、狐もそのけはひにどうかしたのかと思って何気なくうしろを見ましたら土神がまるで黒くなって嵐のやうに追って来るのでした。さあ狐はさっと顔いろを変へ口もまがり風のやうに走って遁げ出しました。 土神はまるでそこら中の草がまっ白な火になって燃えてゐるやうに思ひました。青く光ってゐたそらさへ俄かにガランとまっ暗な穴になってその底では赤い焔がどうどう音を立てて燃えると思ったのです。 二人はごうごう鳴って汽車のやうに走りました。 「もうおしまひだ、もうおしまひだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と狐は一心に頭の隅のとこで考へながら夢のやうに走ってゐました。 向ふに小さな赤剥げの丘がありました。狐はその下の円い穴にはひらうとしてくるっと一つまはりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込まうとして後あしをちらっとあげたときもう土神はうしろからぱっと飛びかかってゐました。と思ふと狐はもう土神にからだをねぢられて口を尖らして少し笑ったやうになったまゝぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れてゐたのです。 土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけました。 それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。 それからぐつたり横になってゐる狐の屍骸のレーンコートのかくしの中に手を入れて見ました。そのかくしの中には茶いろなかもがやの穂が二本はひって居ました。土神はさっきからあいてゐた口をそのまゝまるで途方もない声で泣き出しました。 その泪は雨のやうに狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったやうになって死んで居たのです。
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