楢渡のとこの崖はまっ赤でした。 それにひどく深くて急でしたからのぞいて見ると全くくるくるするのでした。 谷底には水もなんにもなくてたゞ青い梢と白樺などの幹が短く見えるだけでした。 向ふ側もやっぱりこっち側と同じやうでその毒々しく赤い崖には横に五本の灰いろの太い線が入ってゐました。ぎざぎざになって赤い土から喰み出してゐたのです。それは昔山の方から流れて走って来て又火山灰に埋もれた五層の古い熔岩流だったのです。 崖のこっち側と向ふ側と昔は続いてゐたのでせうがいつかの時代に裂けるか罅れるかしたのでせう。霧のあるときは谷の底はまっ白でなんにも見えませんでした。 私がはじめてそこへ行ったのはたしか尋常三年生か四年生のころです。ずうっと下の方の野原でたった一人野葡萄を喰べてゐましたら馬番の理助が欝金の切れを首に巻いて木炭の空俵をしょって大股に通りかかったのでした。そして私を見てずゐぶんな高声で言ったのです。 「おいおい、どこからこぼれて此処らへ落ちた? さらはれるぞ。蕈のうんと出来る処へ連れてってやらうか。お前なんかには持てない位蕈のある処へ連れてってやらうか。」 私は「うん。」と云ひました。すると理助は歩きながら又言ひました。 「そんならついて来い。葡萄などもう棄てちまへ。すっかり唇も歯も紫になってる。早くついて来い、来い。後れたら棄てて行くぞ。」 私はすぐ手にもった野葡萄の房を棄ていっしんに理助について行きました。ところが理助は連れてってやらうかと云っても一向私などは構はなかったのです。自分だけ勝手にあるいて途方もない声で空に噛ぶりつくやうに歌って行きました。私はもうほんたうに一生けんめいついて行ったのです。 私どもは柏の林の中に入りました。 影がちらちらちらちらして葉はうつくしく光りました。曲った黒い幹の間を私どもはだんだん潜って行きました。林の中に入ったら理助もあんまり急がないやうになりました。又じっさい急げないやうでした。傾斜もよほど出てきたのでした。 十五分も柏の中を潜ったとき理助は少し横の方へまがってからだをかゞめてそこらをしらべてゐましたが間もなく立ちどまりました。そしてまるで低い声で、 「さあ来たぞ。すきな位とれ。左の方へは行くなよ。崖だから。」 そこは柏や楢の林の中の小さな空地でした。私はまるでぞくぞくしました。はぎぼだしがそこにもこゝにも盛りになって生えてゐるのです。理助は炭俵をおろして尤らしく口をふくらせてふうと息をついてから又言ひました。 「いゝか。はぎぼだしには茶いろのと白いのとあるけれど白いのは硬くて筋が多くてだめだよ。茶いろのをとれ。」 「もうとってもいゝか。」私はききました。 「うん。何へ入れてく。さうだ。羽織へ包んで行け。」 「うん。」私は羽織をぬいで草に敷きました。 理助はもう片っぱしからとって炭俵の中へ入れました。私もとりました。ところが理助のとるのはみんな白いのです。白いのばかりえらんでどしどし炭俵の中へ投げ込んでゐるのです。私はそこでしばらく呆れて見てゐました。 「何をぼんやりしてるんだ。早くとれとれ。」理助が云ひました。 「うん。けれどお前はなぜ白いのばかりとるの。」私がききました。 「おれのは漬物だよ。お前のうちぢゃ蕈の漬物なんか喰べないだらうから茶いろのを持って行った方がいゝやな。煮て食ふんだらうから。」 私はなるほどと思ひましたので少し理助を気の毒なやうな気もしながら茶いろのをたくさんとりました。羽織に包まれないやうになってもまだとりました。 日がてって秋でもなかなか暑いのでした。 間もなく蕈も大ていなくなり理助は炭俵一ぱいに詰めたのをゆるく両手で押すやうにしてそれから羊歯の葉を五六枚のせて繩で上をからげました。 「さあ戻るぞ。谷を見て来るかな。」理助は汗をふきながら右の方へ行きました。私もついて行きました。しばらくすると理助はぴたっととまりました。それから私をふり向いて私の腕を押へてしまひました。 「さあ、見ろ、どうだ。」 私は向ふを見ました。あのまっ赤な火のやうな崖だったのです。私はまるで頭がしいんとなるやうに思ひました。そんなにその崖が恐ろしく見えたのです。 「下の方ものぞかしてやらうか。」理助は云ひながらそろそろと私を崖のはじにつき出しました。私はちらっと下を見ましたがもうくるくるしてしまひました。 「どうだ。こはいだらう。ひとりで来ちゃきっとこゝへ落ちるから来年でもいつでもひとりで来ちゃいけないぞ。ひとりで来たら承知しないぞ。第一みちがわかるまい。」 理助は私の腕をはなして大へん意地の悪い顔つきになって斯う云ひました。 「うん、わからない。」私はぼんやり答へました。 すると理助は笑って戻りました。 それから青ぞらを向いて高く歌をどなりました。 さっきの蕈を置いた処へ来ると理助はどっかり足を投げ出して座って炭俵をしょひました。それから胸で両方から繩を結んで言ひました。 「おい、起して呉れ。」 私はもうふところへ一杯にきのこをつめ羽織を風呂敷包みのやうにして持って待ってゐましたが斯う言はれたので仕方なく包みを置いてうしろから理助の俵を押してやりました。理助は起きあがって嬉しさうに笑って野原の方へ下りはじめました。私も包みを持ってうれしくて何べんも「ホウ。」と叫びました。 そして私たちは野原でわかれて私は大威張りで家に帰ったのです。すると兄さんが豆を叩いてゐましたが笑って言ひました。 「どうしてこんな古いきのこばかり取って来たんだ。」 「理助がだって茶いろのがいゝって云ったもの。」 「理助かい。あいつはずるさ。もうはぎぼだしも過ぎるな。おれもあしたでかけるかな。」 私も又ついて行きたいと思ったのでしたが次の日は月曜ですから仕方なかったのです。 そしてその年は冬になりました。 次の春理助は北海道の牧場へ行ってしまひました。そして見るとあすこのきのこはほかに誰かに理助が教へて行ったかも知れませんがまあ私のものだったのです。私はそれを兄にもはなしませんでした。今年こそ白いのをうんととって来て手柄を立ててやらうと思ったのです。
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