八 鳥を捕る人
「ここへかけてもようございますか」 がさがさした、けれども親切そうな、大人の声が、二人のうしろで聞こえました。 それは、茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い巾でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に掛けた、赤髯のせなかのかがんだ人でした。 「ええ、いいんです」ジョバンニは、少し肩をすぼめてあいさつしました。その人は、ひげの中でかすかに微笑いながら荷物をゆっくり網棚にのせました。ジョバンニは、なにかたいへんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正面の時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子の笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天井を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲虫がとまって、その影が大きく天井にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓の外から光りました。 赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に訊きました。 「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」 「どこまでも行くんです」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。 「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」 「あなたはどこへ行くんです」カムパネルラが、いきなり、喧嘩のようにたずねましたので、ジョバンニは思わずわらいました。すると、向こうの席にいた、とがった帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑いだしてしまいました。ところがその人は別におこったでもなく、頬をぴくぴくしながら返事をしました。 「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまえる商売でね」 「何鳥ですか」 「鶴や雁です。さぎも白鳥もです」 「鶴はたくさんいますか」 「いますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか」 「いいえ」 「いまでも聞こえるじゃありませんか。そら、耳をすまして聴いてごらんなさい」 二人は眼を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧くような音が聞こえて来るのでした。 「鶴、どうしてとるんですか」 「鶴ですか、それとも鷺ですか」 「鷺です」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。 「そいつはな、雑作ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、脚をこういうふうにしておりてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです」 「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか」 「標本じゃありません。みんなたべるじゃありませんか」 「おかしいねえ」カムパネルラが首をかしげました。 「おかしいも不審もありませんや。そら」その男は立って、網棚から包みをおろして、手ばやくくるくると解きました。 「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです」 「ほんとうに鷺だねえ」二人は思わず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫りのようにならんでいたのです。 「眼をつぶってるね」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白いつぶった眼にさわりました。頭の上の槍のような白い毛もちゃんとついていました。 「ね、そうでしょう」鳥捕りは風呂敷を重ねて、またくるくると包んで紐でくくりました。誰がいったいここらで鷺なんぞたべるだろうとジョバンニは思いながら訊きました。 「鷺はおいしいんですか」 「ええ、毎日注文があります。しかし雁の方が、もっと売れます。雁の方がずっと柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしをそろえて、少しひらべったくなって、ならんでいました。 「こっちはすぐたべられます。どうです、少しおあがりなさい」鳥捕りは、黄いろの雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。 「どうです。すこしたべてごらんなさい」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっとたべてみて、 (なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、たいへんきのどくだ)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。 「も少しおあがりなさい」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、 「ええ、ありがとう」といって遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向こうの席の、鍵をもった人に出しました。 「いや、商売ものをもらっちゃすみませんな」その人は、帽子をとりました。 「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の渡り鳥の景気は」 「いや、すてきなもんですよ。一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯を、規則以外に間(一時空白)させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですからしかたありませんや、わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情は、おれのとこへ持って来たってしかたがねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との途方もなく細い大将へやれって、こう言ってやりましたがね、はっは」 すすきがなくなったために、向こうの野原から、ぱっとあかりが射して来ました。 「鷺の方はなぜ手数なんですか」カムパネルラは、さっきから、訊こうと思っていたのです。 「それはね、鷺をたべるには」鳥捕りは、こっちに向き直りました。「天の川の水あかりに、十日もつるしておくかね、そうでなけぁ、砂に三、四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水銀がみんな蒸発して、たべられるようになるよ」 「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、尋ねました。鳥捕りは、何かたいへんあわてたふうで、 「そうそう、ここで降りなけぁ」と言いながら、立って荷物をとったと思うと、もう見えなくなっていました。 「どこへ行ったんだろう」二人は顔を見合わせましたら、燈台守は、にやにや笑って、少し伸びあがるようにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手をひろげて、じっとそらを見ていたのです。 「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな」と言ったとたん、がらんとした桔梗いろの空から、さっき見たような鷺が、まるで雪の降るように、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞いおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片っぱしから押えて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍のように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや否や、まるで雪の解けるように、縮まってひらべったくなって、まもなく溶鉱炉から出た銅の汁のように、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についているのでしたが、それも二、三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。 鳥捕りは、二十疋ばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾にあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、かえって、 「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。 「どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。 「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか」 ジョバンニは、すぐ返事をしようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。 「ああ、遠くからですね」鳥捕りは、わかったというように雑作なくうなずきました。
九 ジョバンニの切符
「もうここらは白鳥区のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所です」 窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるような、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向こうへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、まもなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみだして、とうとう青いのは、すっかりトパーズの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。それがまただんだん横へ外れて、前のレンズの形を逆にくり返し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向こうへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、またちょうどさっきのようなふうになりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所が、睡っているように、しずかによこたわったのです。 「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……」鳥捕りが言いかけたとき、 「切符を拝見いたします」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立っていて言いました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼をそらして(あなた方のは?)というように、指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。 「さあ」ジョバンニは困って、もじもじしていましたら、カムパネルラはわけもないというふうで、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、はいっていたかとおもいながら、手を入れてみましたら、何か大きなたたんだ紙きれにあたりました。こんなものはいっていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらいの大さ[#「大さ」はママ]の緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですからなんでもかまわない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直ってていねいにそれを開いて見ていました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考えて少し胸が熱くなるような気がしました。 「これは三次空間の方からお持ちになったのですか」車掌がたずねました。 「なんだかわかりません」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。 「よろしゅうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります」車掌は紙をジョバンニに渡して向こうへ行きました。 カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ちかねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したもので、だまって見ているとなんだかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように言いました。 「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」 「なんだかわかりません」ジョバンニが赤くなって答えながら、それをまたたたんでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめていましたが、その鳥捕りの時々たいしたもんだというように、ちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。 「もうじき鷲の停車場だよ」カムパネルラが向こう岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と、地図とを見くらべて言いました。 ジョバンニはなんだかわけもわからずに、にわかにとなりの鳥捕りがきのどくでたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら、自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですかと訊こうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考えてふり返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りがいませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕るしたくをしているのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかもとがった帽子も見えませんでした。 「あの人どこへ行ったろう」カムパネルラもぼんやりそう言っていました。 「どこへ行ったろう。いったいどこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう」 「ああ、僕もそう思っているよ」 「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕はたいへんつらい」ジョバンニはこんなへんてこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで言ったこともないと思いました。 「なんだか苹果のにおいがする。僕いま苹果のことを考えたためだろうか」カムパネルラが不思議そうにあたりを見まわしました。 「ほんとうに苹果のにおいだよ。それから野茨のにおいもする」 ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでもはいって来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花のにおいのするはずはないとジョバンニは思いました。 そしたらにわかにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけず、ひどくびっくりしたような顔をして、がたがたふるえてはだしで立っていました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年がいっぱいに風に吹かれているけやきの木のような姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。 「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ」青年のうしろに、もひとり、十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が、黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議そうに窓の外を見ているのでした。 「ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神さまに召されているのです」黒服の青年はよろこびにかがやいてその女の子に言いました。けれどもなぜかまた額に深く皺を刻んで、それにたいへんつかれているらしく、無理に笑いながら男の子をジョバンニのとなりにすわらせました。それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指さしました。女の子はすなおにそこへすわって、きちんと両手を組み合わせました。 「ぼく、おおねえさんのとこへ行くんだよう」腰掛けたばかりの男の子は顔を変にして燈台看守の向こうの席にすわったばかりの青年に言いました。青年はなんとも言えず悲しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれたぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣いてしまいました。 「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでしょう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、雪の降る朝にみんなと手をつないで、ぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたり、ほんとうに待って心配していらっしゃるんですから、早く行って、おっかさんにお目にかかりましょうね」 「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ」 「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派な川、ね、あすこはあの夏じゅう、ツィンクル、ツィンクル、リトル、スターをうたってやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています」 泣いていた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉弟にまた言いました。 「わたしたちはもう、なんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもう、ほんとうに明るくてにおいがよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代わりにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう」青年は男の子のぬれたような黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいてきました。 「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか」 さっきの燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。 「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二か月前、一足さきに本国へお帰りになったので、あとから発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのために祈ってくれました。けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかいて、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして助けてあげるよりはこのまま神の御前にみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまた、その神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれども、どうしても見ているとそれができないのでした。子どもらばかりのボートの中へはなしてやって、お母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなど、とてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私たちはかたまって、もうすっかり覚悟して、この人たち二人を抱いて、浮かべるだけは浮かぼうと船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフヴイが一つ飛んで来ましたけれどもすべってずうっと向こうへ行ってしまいました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのときにわかに大きな音がして私たちは水に落ち、もう渦にはいったと思いながらしっかりこの人たちをだいて、それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年没くなられました。ええ、ボートはきっと助かったにちがいありません、なにせよほど熟練な水夫たちが漕いで、すばやく船からはなれていましたから」 そこらから小さな嘆息やいのりの声が聞こえジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。 (ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、はげしい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうにきのどくでそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう) ジョバンニは首をたれて、すっかりふさぎ込んでしまいました。 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」 燈台守がなぐさめていました。 「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」 青年が祈るようにそう答えました。 そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席によりかかって睡っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔らかな靴をはいていたのです。 ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向こうの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のようでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点々をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集まってぼおっと青白い霧のよう、そこからか、またはもっと向こうからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のようなものが、かわるがわるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗な風は、ばらのにおいでいっぱいでした。 「いかがですか。こういう苹果はおはじめてでしょう」向こうの席の燈台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落とさないように両手で膝の上にかかえていました。 「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。ここらではこんな苹果ができるのですか」青年はほんとうにびっくりしたらしく、燈台看守の両手にかかえられた一もりの苹果を、眼を細くしたり首をまげたりしながら、われを忘れてながめていました。 「いや、まあおとりください。どうか、まあおとりください」 青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。 「さあ、向こうの坊ちゃんがた。いかがですか。おとりください」 ジョバンニは坊ちゃんといわれたので、すこししゃくにさわってだまっていましたが、カムパネルラは、 「ありがとう」と言いました。 すると青年は自分でとって一つずつ二人に送ってよこしましたので、ジョバンニも立って、ありがとうと言いました。 燈台看守はやっと両腕があいたので、こんどは自分で一つずつ睡っている姉弟の膝にそっと置きました。 「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は」 青年はつくづく見ながら言いました。 「この辺ではもちろん農業はいたしますけれどもたいていひとりでにいいものができるような約束になっております。農業だってそんなにほねはおれはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のように殻もないし十倍も大きくてにおいもいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです」 にわかに男の子がばっちり眼をあいて言いました。 「ああぼくいまお母さんの夢をみていたよ。お母さんがね、立派な戸棚や本のあるとこにいてね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼく、おっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか、と言ったら眼がさめちゃった。ああここ、さっきの汽車のなかだねえ」 「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ」青年が言いました。 「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん」 姉はわらって眼をさまし、まぶしそうに両手を眼にあてて、それから苹果を見ました。 男の子はまるでパイをたべるように、もうそれをたべていました。またせっかくむいたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのような形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。 二人はりんごをたいせつにポケットにしまいました。 川下の向こう岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光るまるい実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじってなんとも言えずきれいな音いろが、とけるように浸みるように風につれて流れて来るのでした。 青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。 だまってその譜を聞いていると、そこらにいちめん黄いろや、うすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋のような露が太陽の面をかすめて行くように思われました。 「まあ、あの烏」カムパネルラのとなりの、かおると呼ばれた女の子が叫びました。 「からすでない。みんなかささぎだ」カムパネルラがまた何気なくしかるように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けているのでした。 「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから」青年はとりなすように言いました。 向こうの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の讃美歌のふしが聞こえてきました。よほどの人数で合唱しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまたすわりました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。 ジョバンニまでなんだか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラもいっしょにうたいだしたのです。 そして青い橄欖の森が、見えない天の川の向こうにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまい、そこから流れて来るあやしい楽器の音も、もう汽車のひびきや風の音にすりへらされてずうっとかすかになりました。 「あ、孔雀がいるよ。あ、孔雀がいるよ」 「あの森琴の宿でしょう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが集まっていらっしゃると思うわ、まわりには青い孔雀やなんかたくさんいると思うわ」 「ええ、たくさんいたわ」女の子がこたえました。 ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとじたりする光の反射を見ました。 「そうだ、孔雀の声だってさっき聞こえた」カムパネルラが女の子に言いました。 「ええ、三十疋ぐらいはたしかにいたわ」女の子が答えました。 ジョバンニはにわかになんとも言えずかなしい気がして思わず、 「カムパネルラ、ここからはねおりて遊んで行こうよ」とこわい顔をして言おうとしたくらいでした。 ところがそのときジョバンニは川下の遠くの方に不思議なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細長いもので、あの見えない天の川の水の上に飛び出してちょっと弓のようなかたちに進んで、また水の中にかくれたようでした。おかしいと思ってまたよく気をつけていましたら、こんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいのでした。そのうちもうあっちでもこっちでも、その黒いつるつるした変なものが水から飛び出して、まるく飛んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えてきました。みんな魚のように川上へのぼるらしいのでした。 「まあ、なんでしょう。たあちゃん。ごらんなさい。まあたくさんだわね。なんでしょうあれ」 睡そうに眼をこすっていた男の子はびっくりしたように立ちあがりました。 「なんだろう」青年も立ちあがりました。 「まあ、おかしな魚だわ、なんでしょうあれ」 「海豚です」カムパネルラがそっちを見ながら答えました。 「海豚だなんてあたしはじめてだわ。けどここ海じゃないんでしょう」 「いるかは海にいるときまっていない」あの不思議な低い声がまたどこからかしました。 ほんとうにそのいるかのかたちのおかしいことは、二つのひれをちょうど両手をさげて不動の姿勢をとったようなふうにして水の中から飛び出して来て、うやうやしく頭を下にして不動の姿勢のまままた水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔のように波をあげるのでした。 「いるかお魚でしょうか」女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐったりつかれたように席にもたれて睡っていました。 「いるか、魚じゃありません。くじらと同じようなけだものです」カムパネルラが答えました。 「あなたくじら見たことあって」 「僕あります。くじら、頭と黒いしっぽだけ見えます。潮を吹くとちょうど本にあるようになります」 「くじらなら大きいわねえ」 「くじら大きいです。子供だっているかぐらいあります」 「そうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ」姉は細い銀いろの指輪をいじりながらおもしろそうにはなししていました。 (カムパネルラ、僕もう行っちまうぞ。僕なんか鯨だって見たことないや) ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも堅く、唇を噛んでこらえて窓の外を見ていました。その窓の外には海豚のかたちももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれて、その上に一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶった男が立っていました。そして両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号しているのでした。 ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗をふっていましたが、にわかに赤旗をおろしてうしろにかくすようにし、青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のようにはげしく振りました。すると空中にざあっと雨のような音がして、何かまっくらなものが、いくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸のように川の向こうの方へ飛んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓からからだを半分出して、そっちを見あげました。美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を、実に何万という小さな鳥どもが、幾組も幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。 「鳥が飛んで行くな」ジョバンニが窓の外で言いました。 「どら」カムパネルラもそらを見ました。 そのときあのやぐらの上のゆるい服の男はにわかに赤い旗をあげて狂気のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群れは通らなくなり、それと同時にぴしゃあんというつぶれたような音が川下の方で起こって、それからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふって叫んでいたのです。 「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥」その声もはっきり聞こえました。 それといっしょにまた幾万という鳥の群れがそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出しているまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しい頬をかがやかせながらそらを仰ぎました。 「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気な、いやだいと思いながら、だまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息をして、だまって席へ戻りました。カムパネルラがきのどくそうに窓から顔を引っ込めて地図を見ていました。 「あの人鳥へ教えてるんでしょうか」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。 「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう」 カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしいんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったので、だまってこらえてそのまま立って口笛を吹いていました。 (どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ) ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押えるようにして、そっちの方を見ました。 (ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ) ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり、天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。 そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るようになりました。向こう岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがって、だんだん高くなっていくのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて真珠のような実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増してきて、もういまは列のように崖と線路との間にならび、思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向こう側の窓を見ましたときは、美しいそらの野原の地平線のはてまで、その大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられて、さやさや風にゆらぎ、その立派なちぢれた葉のさきからは、まるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように露がいっぱいについて、赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。カムパネルラが、 「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに言いましたけれども、ジョバンニはどうしても気持ちがなおりませんでしたから、ただぶっきらぼうに野原を見たまま、 「そうだろう」と答えました。 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ、小さな停車場にとまりました。 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、風もなくなり汽車もうごかず、しずかなしずかな野原のなかにその振り子はカチッカチッと正しく時を刻んでいくのでした。 そしてまったくその振り子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れて来るのでした。 「新世界交響楽だわ」向こうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。 全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。 (こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり談しているんだもの。僕はほんとうにつらい) ジョバンニはまた手で顔を半分かくすようにして向こうの窓のそとを見つめていました。 すきとおった硝子のような笛が鳴って汽車はしずかに動きだし、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛を吹きました。 「ええ、ええ、もうこの辺はひどい高原ですから」 うしろの方で誰かとしよりらしい人の、いま眼がさめたというふうではきはき談している声がしました。 「とうもろこしだって棒で二尺も孔をあけておいてそこへ播かないとはえないんです」 「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ」 「ええ、ええ、河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷になっているんです」 そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。 あの姉は弟を自分の胸によりかからせて睡らせながら黒い瞳をうっとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考え込んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、男の子はまるで絹で包んだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。 突然とうもろこしがなくなって巨きな黒い野原がいっぱいにひらけました。 新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧き、そのまっ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけ、たくさんの石を腕と胸にかざり、小さな弓に矢をつがえていちもくさんに汽車を追って来るのでした。 「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい」 黒服の青年も眼をさましました。 ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。 「走って来るわ、あら、走って来るわ。追いかけているんでしょう」 「いいえ、汽車を追ってるんじゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんですよ」 青年はいまどこにいるか忘れたというふうにポケットに手を入れて立ちながら言いました。 まったくインデアンは半分は踊っているようでした。第一かけるにしても足のふみようがもっと経済もとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその羽根は前の方へ倒れるようになり、インデアンはぴたっと立ちどまって、すばやく弓を空にひきました。そこから一羽の鶴がふらふらと落ちて来て、また走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてその鶴をもってこっちを見ている影も、もうどんどん小さく遠くなり、電しんばしらの碍子がきらっきらっと続いて二つばかり光って、またとうもろこしの林になってしまいました。こっち側の窓を見ますと汽車はほんとうに高い高い崖の上を走っていて、その谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れていたのです。 「ええ、もうこの辺から下りです。なんせこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向こうからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう」さっきの老人らしい声が言いました。 どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなってきました。汽車が小さな小屋の前を通って、その前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ているときなどは思わず、ほう、と叫びました。 どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるようになりながら腰掛にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をいままでよほど激しく流れて来たらしく、ときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河原なでしこの花があちこち咲いていました。汽車はようやく落ち着いたようにゆっくり走っていました。 向こうとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旗がたっていました。 「あれなんの旗だろうね」ジョバンニがやっとものを言いました。 「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ」 「ああ」 「橋を架けるとこじゃないんでしょうか」女の子が言いました。 「ああ、あれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ」 その時向こう岸ちかくの少し下流の方で、見えない天の川の水がぎらっと光って、柱のように高くはねあがり、どおとはげしい音がしました。 「発破だよ、発破だよ」カムパネルラはこおどりしました。 その柱のようになった水は見えなくなり、大きな鮭や鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中にほうり出されてまるい輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気持ちが軽くなって言いました。 「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒なんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いいねえ」 「あの鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかないるんだな、この水の中に」 「小さなお魚もいるんでしょうか」女の子が談につり込まれて言いました。 「いるんでしょう。大きなのがいるんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだから、いま小さいの見えなかったねえ」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直っておもしろそうにわらって女の子に答えました。 「あれきっと双子のお星さまのお宮だよ」男の子がいきなり窓の外をさして叫びました。 右手の低い丘の上に小さな水晶ででもこさえたような二つのお宮がならんで立っていました。 「双子のお星さまのお宮ってなんだい」 「あたし前になんべんもお母さんから聞いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでいるからきっとそうだわ」 「はなしてごらん。双子のお星さまが何をしたっての」 「ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊びにでて、からすと喧嘩したんだろう」 「そうじゃないわよ。あのね、天の川の岸にね、おっかさんお話しなすったわ、……」 「それから彗星がギーギーフーギーギーフーて言って来たねえ」 「いやだわ、たあちゃん、そうじゃないわよ。それはべつの方だわ」 「するとあすこにいま笛を吹いているんだろうか」 「いま海へ行ってらあ」 「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ」 「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう」
川の向こう岸がにわかに赤くなりました。 楊の木や何かもまっ黒にすかし出され、見えない天の川の波も、ときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向こう岸の野原に大きなまっ赤な火が燃され、その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく酔ったようになって、その火は燃えているのでした。 「あれはなんの火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう」ジョバンニが言いました。 「蠍の火だな」カムパネルラがまた地図と首っぴきして答えました。 「あら、蠍の火のことならあたし知ってるわ」 「蠍の火ってなんだい」ジョバンニがききました。 「蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるって、あたし何べんもお父さんから聴いたわ」 「蠍って、虫だろう」 「ええ、蠍は虫よ。だけどいい虫だわ」 「蠍いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が言ってたよ」 「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけど、とうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。 ああ、わたしはいままで、いくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください。って言ったというの。 そしたらいつか蠍はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃えて、よるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火、それだわ」 「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ」 ジョバンニはまったくその大きな火の向こうに三つの三角標が、ちょうどさそりの腕のように、こっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。 その火がだんだんうしろの方になるにつれて、みんなはなんとも言えずにぎやかな、さまざまの楽の音や草花のにおいのようなもの、口笛や人々のざわざわ言う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあって、そこにお祭りでもあるというような気がするのでした。 「ケンタウル露をふらせ」いきなりいままで睡っていたジョバンニのとなりの男の子が向こうの窓を見ながら叫んでいました。 ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜かもみの木がたって、その中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集まったようについていました。 「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ」 「ああ、ここはケンタウルの村だよ」カムパネルラがすぐ言いました。
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