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山を想ふ(やまをおもう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-27 9:37:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「近頃こちらには窒扶斯チフスがはやりやしてなあ、昨夜も此の先の村の者が一人いけなくなりやしたが、全體窒扶斯つうものは喰ひ度がる病だから、構はずうんと喰はせるがいゝでごわすわ。そいつを今時の醫者は、やれ何を喰はしてはいけねえのつつうて喰ひ度がるやつを喰はせねえで殺してしまふでさあ。わしら若い時飛彈ひだに行きやしたが、あちらあ赤痢が地方病でごわしてなあ、まるで村中赤痢だつつうに死ぬ者あ一人もねえでごわす。それつつうが、みんな赤痢の性質をわきまへて居るからなんで、なんでも赤痢は命にかゝはる病ではねえやつで、病人がしきりに糞をまり度がつちやあ便所へ行きやせう、ところが出てえには出てえだが、さて出ねえのが此の病のきまりでごわすから、何度通つても同じだ。たゞからだをこはすばかでごわすわ。これで皆いけなくなりやすが、それにやあ病人を便所へやらねえ工風をしねえぢやいけやせん。まづ爐の上に板を渡し、又その上に蒲團を敷き、蒲團も板も病人の着物も、恰度お尻の當るところをまるく切拔きやして、病人がまり度がつたつちやあ寢かしたまゝでやらせるやうにするでごわすわ。それで醫者の藥は駄目でごわすから無花果の葉を煎じていやつつう程飮ませるがいゝでごわす。飛彈ではみんなそれで助かるんで、なあに醫者の藥なんかきくもんぢやごわしねえ。一體藥つつうものは人間の壽命を延ばす事は出來ねえもので、たゞ苦痛をすくなくするばかでごわす。人間つうものは生れた時から十歳で死ぬか七十で死ぬかちやんときめられて來るものだで、藥だらうが何だらうが壽命丈はどうする事も出來るもんぢやごわしねえ。人間何時死ぬかつう事も、親の生れた時と子の生れた時さへはつきりわかつてせえゐりやあ、すつかり知れるものでごわすからなあ。××寺の先の隱居なんか何月何日何時に死ぬつて知つてたから、さあ其の日になりやすと、頭を綺麗に剃りやして、白い着物を着て、さあ今死ぬぞつつうて弟子やなんかを呼集めたが、一時間たつても二時間たつても死なねえわ。そんな筈はねえがつて云つたつて、現在死なねえだからしやうがねえ。そんな理窟はねえ筈だと云つたが、その日はたうとう死なずに濟んで、隱居も首をひねりやした。ところがどうだ、これが生れた時を間違へて勘定してゐた事がわかつて、さあこれから二百七十日たつと、今度こそはほんとに死ぬぞつて事になりやした。それが二百七十日目に、ころりと死んでしまひやしたぞ。つまり誰でも死ぬ時はきまつて居るでごわすわ。わしらとこの息子も二人とも十歳にもならねえでいけなくなりやしたが、これも定命ぢやうみやうで、實は此の人間の生れる月といふものは一年のうちに四月よつきしかねえでごわす。その外の月に生れた子はどうしても十歳より上に生延いきのびる事がごわせん。もう三千年も前の人でお釋迦樣つつう人は究理家でごわしたなあ。人は三百六十の骨、四萬八千の毛穴ありと、ちやんと本に書いてゐやすからなあ。そればかりぢやあごわせん。何の動物には何本の骨がある。何の蟲には幾本の骨がある。何の鳥には何本の毛がある。ちやあんとしらべがとゞいてゐやすわ。ところがこれも理窟を知つて見ればわけのねえ事で、すべて動物は胎生卵生濕氣生化生の四つにわけられてゐるもので此の四つしかねえだから、そこ迄考へてみれば何の不思議もねえ、わけのねえ事ですわなあ。で、すべて血のあるものには骨がある。骨のねえものには血がねえと、かうきまつたものだ。それ、みゝずには血がねえ、骨がねえ。あの海にゐる海鼠なまこでごわしたかなあ、あいつなぞも血がねえ、骨がねえ。」
 和尚の話は何時迄も盡きなかつた。淺間山には天狗(てんごと發音する)が住んでゐて、現に自分も若い時に見た事、近頃もゐるにはゐるが、あまり里には出て來なくなつた事などを、一人ではなし、一人でうなづいて倦きなかつた。面白いには面白いのだが、面白過ぎて參つてしまつた。しまひには逃出すやうに辭去した。
 その日の夕方登山の支度をして出た。友達も私も單衣一枚で、草鞋を穿き、落葉松からまつの杖をついた。友達は杖銃[#「杖銃」はママ]を肩にかけた。下男の孝治さんといふのが、今夜と翌朝の食料と毛布を一包にして背負つた。おあつらへのちぐさ色の股引に縞のぬのこを着て、腰には大きな烟草入をぶらさげてゐた。
 山はあれ氣味で、吹おろす風が強かつた。道ばたの蕎麥の畑から山鳩が飛んだ。友達は直に身構へた。銃聲が山に響いてこだました。傷ついた鳩は少しさきの豆畑に落ちた。
 だらだら登の松原にかゝつた。林中で夕陽を見た。風が止んで、蟲の音がしげくなつた。林はいつか落葉松に變つた。枝も葉も細かく隙間の無い林と林の間の防火線を行くのだ。時々足下あしもとから兎があらはれて、又草にかくれた。日が暮れて提灯をつけた。歩いてゐると暑いが、足をやすめると寒い。私は何處かで、小錢の入つてゐる蟇口を落した。
 道は次第に急になつて、杖の力による事が多くなつた。時時流にかけた丸木橋を渡つた。三時間の後、山の三分の二の位置にあるといふ小屋に着いた。
「お疲れ。」
 といひながら友達が先に入つた。此の小屋はその年はじめて出來たもので、まだ大工や屋根屋や樵夫きこりがゐた。みんないつぱい機嫌だつた。
 爐ばたで、持つて行つた握飯を喰つた。ほだの烟が目にしみて、だらしなく涙がこぼれた。腹がはると眠くなつた。山の上は五十五六度だといふ。毛布をかぶつて横になつたが、私は眠れなかつた。寒さと蚤のためだ。それなのに外の者はみんな樂々と眠つてしまつた。誰だか、しきりにおならをした。
 二時頃、靜かな山の下の方から、ほいほいとかけ聲して登山者が來た。戸をあけて、六七人の一行が、へとへとになつて入つて來た。みんな爐のそばに倒れるやうに寢てしまつた。
 その連中は一時間ばかり休んでから、早く登らないと頂上で朝日が拜めないと云つて出かけた。吾々も起きて、又握飯を喰つた。
 孝治さんは小屋に殘つた。友達と二人で外に出ると、暗い立木の梢に、細く青い月がかゝつてゐた。あの澄んだ色を見ろ、東京の月とは違ふからと友達が云つた。頂上迄もう一里あるのであつた。
 右に聳えてゐるのがぎつぱ山だ。人々は鬼の牙の形と見てゐる。木立がつきると俄かに寒くなつた。道は燒石ばかりになつた。風がまともにおろして來て、屡々帽子を奪はうとする。
 東の空が稍明るくなつた。遙かに下の方の山々の腰をめぐつて白い雲が湧上つて來た。急傾斜で息切がするが、友達の足は早い。彼は八度目の登山だつた。私は負けない氣を出して踏張ふんばつた。風は益々烈しく、山鳴が聞えて來た。小屋を出て一時間の後、吾々は絶頂の噴火口のふちに立つた。
 硫黄臭い黒烟のうづまく底に、眞紅の火が見える。たとへるものが無かつた。
 つい此の間、長野の町の女學校の生徒が、姙娠のからだを此處に捨てた。摺鉢形になつてゐるので、底の火の中迄落ちて行かずに、中途の岩に引かゝつて、何時迄も白い足が二本むき出しになつて見えたさうだ。
 雲を破つて日が登つた。もくもくと湧く白雲の海の向うに、はつきりと富士山が見えた。岩のかげから、拍手が起つた。吾々より後から小屋に來て、先に出た連中だつた。
 くだりは早く、かけ足で天狗の露地といふところ迄下りた。其處には草花が咲き亂れてゐた。露に濡れてゐる地梨の紅い實や、こんまらつぱじきと呼ばれる黒い實を摘んで喰つた。
 小屋迄戻ると、昨夜の若衆達は、木を削つたり壁を塗つたり、せつせと働いてゐた。

淺間山から鬼が尻出して
鎌でかつ切るやうな屁をたれた
 と怒鳴つてゐる奴があつた。
 夜中で氣が付かなかつたが、小屋の前にはもう一つちひさい小屋があつた。樵夫の親子が住んでゐるのださうで、十八九の娘がゐた。特別の村の者なので、同じ小屋には住まないのださうだ。新しい手拭を姐さんかぶりにした可愛らしい娘だつた。昨夜爐邊で若衆達が、どうしても五六日中に何とかしてしまはうなどゝ亂暴な事を云つてゐた話の主題がやうやくわかつた。
 東京に歸つてから、當時イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ツルゲネフの小説を耽讀してゐた私は「山の少女」といふ題で、小説まがひのものを書いた。
 小屋を出て、朝露を踏んで山を下りた。登る時は夜中でただ闇だつたところが、花に埋れてゐるのであつた。稱讚の辭をみちばたに投捨てながら忽ち麓迄かけ下りてしまつた。
「今度の、小説ですか。」
 私が汗を流しながら淺間登山の此の紀行文を書いてゐる横から、家内が口を出した。折角高原の晴わたつた朝の空を仰ぎながら、若々しい詩情にひたらうとするところなのに、前かけにはお醤油のしみがついてゐるのである。
「今度は紀行文だ。淺間登山の記だ。」
「へえゝ、淺間山なんかに登つた事があるんですか。何時。」
「もうせんだよ。十八だつたかなあ。十七だつたかなあ。」
「そんな不精な人によく登れましたねえ。」
「そりやあ若かつたもの。」
 年をとつた亭主を持つた家内は、そんな時代なんか想像もつかないやうな顏つきだ。
「今ではもう駄目でしよ。御酒おさけを飮んで贅肉がついてしまつたから。」
「なあにこれで鍛へたからだなんだ。時間さへあれば今だつて淺間位わけなしだ。」
 憮然として軒先の空を仰いだ。そゝり立つ高峰を想ひながら。





底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「三田文学」
   1926(大正15)年10月
※踊り字(/\、/″\)の用法は底本の通りとしました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2003年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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