「久保田君の作は、もう十年たつと誰にもわからないものになるかもしれません。」 と同じ籾山氏が言はれた事がある。自分もこれには即座に贊成した。十年待つには及ばない、今既に久保田君の作品は、多くの人にとつて最も難解な小説なのである。 久保田君は淺草に生れ、淺草に育つた人である。その描く土地も人も總て淺草を離れない。たまたま――恰も久保田君が汽車に乘つて東京を離れる事の少い程たまには、淺草以外に材料を取る事もあるけれど、矢張り實は淺草になつてしまふ。第一その會話が、どうしても東京の眞中ではない。淺草に限る粗末なところがある。久保田君といへば、無條件で江戸つ子だと思ふ程單純な世間の人に、江戸つ子は江戸つ子に違ひないが、江戸つ子の中の淺草つ子だといふ事を教へ度い。 淺草の詩人は、淺草を知る事が深ければ深い程、淺草以外の世界を知らない事驚くばかりである。「戀の日」の中の一篇「潮の音」の如き、本來淺草には縁遠い學生々活を描いたもので、これが久保田君程の作家の手になつたものとは受取れない程幼稚だ。新派の役者の演る華族、役人、軍人のやうに氣が利かない。しかも悲慘な事には、新派の役者が、華族、役人、軍人などに充分扮し得たつもりでゐるやうに、久保田君自身は、ちつとも此の半馬な事を知らないのである。曾て久保田君が淺草田原町に居た頃、 「何しろ町内で大學に通つてるのは私一人きりなんです。」 と云つた事があつた。家庭とその周圍の空氣が、學校といふものには全く縁遠い爲め、學校といふものを買ひかぶつてゐるのである。既に大學を卒業し、浪花節語と藝術家とをひつくるめて政策の具に供しようとする大臣と膝組で、演劇の改良をはかる久保田君の如きは、當然大學者だと思はれてゐるに違ひない。かういふ周圍の影響から、久保田君自身さへ、學校を正當に了解してゐないで、一種の理想郷のやうに考へてゐた事は、その隨筆や談話筆記の中に、屡々學校に對する少年時の憧憬が、懷しさうに物語られてゐる事實によつて推測される。「潮の音」の失敗の如きは、此の無理解に基因する事いふ迄も無い。幸にして久保田君は、此の頃世に謂ふ所の知識階級に材料を取つたためしが無い。まことに己を知るもので、萬一敢て此の冒險を行つたら、忽ち新派の役者の寫實になる事は疑も無い。 そのかはりに、故郷淺草を背景にした場合には、久保田君程適確微妙に地方色を描き出す人は少い。「末枯」も「老犬」も「さざめ雪」も「三の切」も、その他曾て發表した勝れた作品の殆ど全部が淺草である。落語家、宗匠、鳶頭、細工物の職人、小賣商人、その女房、番頭、女中、丁稚、さうして時に旦那と呼ばれるその旦那さへ、何處かに安いところがついてつてゐるところ、飽迄も淺草である。その人々の心の底迄、久保田君は靜に、しかしおもひやり深く味はひ盡して居る。かういふ條件のすべてを完全に備へ、しかも久保田君一流の寫實主義が、立派に成功したものが「戀の日」の卷頭を飾る「末枯」である。 世の中はどうにもならないものだと固く思ひきめてゐる久保田君は、總て大がかりな悲劇を冷笑してしまふ傾向を持つてゐる。人間の意志の力を些かも認めないから、深刻な悲劇は嘘としか考へられない。さうして此の傾向も亦、獨特の依怙地から極端に走つて、何でもかんでも大がかりなものは、一切嫌ひだといふところ迄行つてゐる。トルストイ、ドストエウスキイ、ゾラなどの長篇小説は、久保田君にとつては些かくすぐつたいに違ひ無い。日本の作家にしてみても、尾崎紅葉先生や夏目漱石先生のやうな、構への大きい作家の作品は、餘り顧みるところではない。寧ろ片々たる小篇に、屡々特異の味はひを見出す人である。言葉を換へて云へば、この世の中の家常茶飯に、極めて意味深い哀韻の詩を見出して、之を描き出す作家なのである。
鈴むらさんのところへこのごろ扇朝が始終這入りこんでゐるといふ風説を聞いて、せん枝は心配した。何とかしなければいけないと思つた。――だが何とかしたいにも、一月あまりといふもの、鈴むらさんはまるでせん枝のところへ顏をみせなかつた。
これが「末枯」の冒頭である。目の惡いせん枝は、秋の日の障子の中に靜に坐つてゐる。扇朝といふ男は義理知らずだから、ちかづけてはいけないと心配してゐるのだ。義理と人情の世界に住む東京の人は、屡々かういふ種類の心配をする。久保田君にも勿論此の傾向がある。さうしてその心配が、時にとつては、――せん枝にも、久保田君にも――一種の道樂に等しい心慰である。心配のなりゆきを考へる時、希望に似た胸のときめきがあるに違ひ無い。しかし此の種の心配性は、決してその心配に拘泥して、進んで解決を求める事は無い。ぼんやりと、友だちの無い寂しさに浸りながら、あの人は如何したらうと思つてゐるばかりで、こつちから相手を探し出して心配してやる執着は無い。それは心配する事の重大と否とには拘らず、何事によらず、うるさく拘泥する事はしないのである。心の底の底には、矢張、心配したつてどうにもならないと、寂しく思ひきめてゐるのだ。 何事にも動き易く、目的も無く浮動して、ふとした事にも身の振方を變へてしまふ心弱い人間を描いて、久保田君はその寂しい心の底の底迄徹してゐる。たとへば扇朝といふ落語家の半生の物語の如き、淡々とした敍事の中に、その外面的に變化の多い幾年と共に、無智で氣短で、その癖始終果敢なく遣瀬ながつてゐる心持を、非の打ちどころの無い巧妙さで描いて居る。當今流行の新技巧派などと呼ばれて居る作家等が、無駄に冗長なる心理解剖の遊戲に有頂天になつて、落語家でも、幇間でも、田舍藝者でも、不良少年でも、殿樣でも、何れも小説家のやうにもつともらしく、理窟つぽい心理的開展を示して、くだくだしくこだはらせなくては承知しない馬鹿々々しい素人脅しとは品が違ふ。「末枯」のうまみのわからない人間が多いならば、それこそ「世の中が惡くなつた」のである。 扇朝の身の上話の終に、作者はかう説明してゐる。
それから十年。――はじめのうちは、柳朝うつしの人情噺のたんねんなところが、評判にもなつたが、年々に後から後からと、若い、元氣のいい連中は出て來る。――いくら負けない氣でも「時代」のかはつてくることは何うにもならなかつた。
作者は、作者が常にはかながる「時代の推移」の怖ろしさに心を傷めると同時に、その犧牲者に對して同情を寄せてゐるのである。けれども、作者は此の場合にも、決して詠嘆もしなければ嘆息もしない。淡々とした「情緒的寫實主義」を亂される事なく進むのである。 前にも云つた通り、久保田君は、自分では寫實主義の作家を以て任じて居る。しかし生來の詩人的氣禀は、無差別の寫實を許さない。常にその作品が淡い愁にみたされてゐる通り、愁の陰影の無い世想は、久保田君にとつては藝術にならないのである。鈴むらさんが、先代丁字屋傳右衞門からうけ繼いだ店を、その儘持ち堪へてときめいてゐたら、彼は久保田君の心に觸れて詩になる身の上ではなかつたであらう。せん枝の目が惡くならなかつたら、彼も亦作者の顧みるところとならなかつたかもしれない。鈴むらさんの飼つてゐる犬は、都合よく老犬だつた。これが又よく吠えつく若い犬だつたら、詩人は遂に手を出す事はしなかつたらう。 かういふ風に自分の持味の靜寂を傷つけない爲めに專心な作者は、恐らくは無意識で、自然描寫に於ても、閑靜な、色彩の暗い冬景色を選んでゐる。俳句から來た影響もあらうが、それは殊に雨か雪か曇日に限られてゐる。 「末枯」は、
ある夕がたから降り出した雨が、あくる日になつても、そのあくる日になつてもやまず、どうやらそれは暴模樣のやうにもなつた。――再び晴れた青空をみることが出來たとき、その青空のいろがもう水のやうに澄み盡してゐた。さうして、身にしみて冷めたい風がふいた。
といふ秋の初めから、年の暮迄の時雨の多い頃である。 「さざめ雪」は、
暗い、時雨のやうな雨が來て、漸次秋の深くなつて來る夜ごろ
である。 「三の切」は、
暗い便りない時雨の日がつづいて、今年もそこに十一月が來た、酉の市が來た。 初冬の宵の寂しさに、臺所の障子のかげに、細々と のなく頃である。 「冬至」にはその題の示す通り、
冬至だつた。――雪にでもなるらしく、暗く、凍てついた空に、ときどき、一文獅子の太鼓の音ばかりが心細く響いた。
「老犬」にはその初めに、
十一月の末から十二月にかけて
とあつて何れも冬だ。さうして此の冬空の灰色が、世の中の推移に殘されてゆく人々の身の上をつつんで、一層靜寂を増してゐるのである。 其處に久保田君獨特の藝術境があると共に、此の傾向は屡々作品を平面的なものにしてしまふ憾がある。然るに「末枯」の一篇は、此の缺點を脱却して、描寫もすべて立體的に、現實性を確然と把持して、渾然とした傑作を成した。ほんとのところ、自分は近頃「末枯」程の作品を見た事がなかつた。 「世の中が惡くなつた」とかこちながら、浮世の一隅に、氣の利いた口はききながら、心寂しがつてゐる人々の世の中が「戀の日」一卷の中に沁々と味はれる。 甚だ散漫な自分の感想は、何時迄たつても盡きさうも無い。「末枯」のうまみを細かく味はつてゐるときりが無い。ここいらでひとつ此頃流行の一手を學んで、大ざつぱにかたづけてしまへば、「末枯」の作者久保田万太郎君は、現代稀に見る完成した藝術家で、此の完成したといふ點に於て僅かに肩を並べ得る人は、徳田秋聲、正宗白鳥二氏の外には無い。仲間ぼめで危く文壇に地歩を占めて居る人間の多い現在、自分などが聲を張上げるのは誤解を招くおそれがあるが、藝術の作品の僞物とほん物の區別のわかる人々は、此の陣笠の聲の中にも眞實のある事を認めるであらう。 「戀の日」を再讀三讀して卷を閉ぢた時、自分は不思議な氣持がした。その昔頼母しがられた頃はいざしらず、此の頃の、出たらめの、安受合の、ちやらつぽこだと思つてゐた久保田君が、尚斯くの如き靜寂至純なる藝術境を把持して、完全無缺な作品を發表し得る事の不可思議に驚いたのだ。人間が偉くなければ、立派な作品は出來ないと思つてゐる自分の信仰がぐらついた。矢張り久保田君は偉い人だつたのかと思ひ出した。幾度も幾度も、此の問題を頭腦の中で繰返して居る間に、平生藝術家久保田君を見くびり勝な、其處いらに居る人間どものぼんくらと無禮が癪に障つて來た。自分自身の目はしの利かなかつた事も亦腹立たしくなつて來た。正直のところ、自分は久保田君の藝術の力に、完全に頭を垂れて膝まづいたのである。 最近、陸軍簡閲點呼に召集されて上京した時、忙しい中で、新婚の久保田君夫妻に逢つた。もの優しい新夫人を傍にして坐つた久保田君は、見違へるばかり身體はひきしまり、一頃の浮調子とはうつて變つて落ちついてゐた。堂々とした花婿だつた。さうして斯ういふ場合には、兎角世間の惡賢い人間がして見せる氣障と厭味を離れて、眞面目に結婚生活の幸福を説いて止まなかつた。女性を輕侮し、結婚生活を羨しいと思つてゐない自分さへ、久保田君の純眞なる喜悦の前には、おひやらかすことさへ出來なかつた。これ程喜べるものならば自分も結婚し度いと思つたが、自分の如き疑深い卑屈な根性の者には、到底それは不可能の事であらう。結局自分は、久保田君の結婚そのものよりも、久保田君が眞心から幸福を感じてゐる心持の方を羨んだ。 或は遂に久保田君は「生活の改造」を爲遂げたのかもしれない。さうしてほんたうに久保田君の偉さが、一時の浮薄に打勝つて光を現して來たのかもしれない。「世の中がよくなつて來た」のかもしれない。さういふ奇蹟の起る事を、自分は「末枯」の作者の爲めに祈つて止まないものである。(大正八年八月十八日)
――「三田文學」大正八年九月號
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