『構はんです。』 かう言つた一人は、仲間でも「おほん」と綽名をしてゐる位、情實といふやうなものに引き入れ難い態度の男であつた。 細君の顏はみるみる引き緊つて行つた。その答辯の模樣は、地方の女學校出でもあるらしく、時々生硬な漢語などを交へた。 『なるほど、その日にお宅に出入したものは差配の爺さんより外にはなかつた……それからあなたは風呂にいらしたんですね。』 『はい。』 『ぢや、その留守に何者かゞ來なかつたとも限らないんですね。』 『勿論、左樣でございます。』 『で、あなたはそのお金を茶ぶだいの上に忘れてお出なすつた……たしかですね、あなたはさうお信じなさるんすぬ[#「なさるんすぬ」はママ]。』 『は、どうしてもさう信じられるんでございます。』 『ですが奧さん。』と、一人の辯護士が口を挾んだ。『あなたはお風呂にいらつしやる時、そのお金に就ては何かお考へになりませんでしたか? たとへば危險を感ずるとかなんとか……』 『は、それはなんでございます。風呂に持つてまゐりますのは危險だと存じましたものですから、置いて行つたのでございます。』 『をかしいですね、風呂に持つて行くのが危險なら、人のゐない家に置いて行くのはなほ危險ぢやありませんか、殊にちやぶだいの上なぞに……』 『それが、忘れてまゐりましたんで……』 『ですが危險を感じて忘れるとは受け取れませんね。』と、代つて一人がぢつと細君の顏を見つめながら言つた。『どつかに一寸おしまひになりやしませんでしたか?』 『いえ、しまひでもいたしましたなら、盜られもしませんでございましたでせうけれど、全く私が迂濶に置き忘れてまゐつたものですから……』と、細君は慌てゝうち消した。『全く、置き忘れましたのは私の過失でございます。』 『はゝあ、ではやはりあなたのお留守に何者か窃みにはひつたのでせうな。ところでと、そのお金がお引越の時に、茶盆の下から出たといふのでしたね。』 『は、その通でございました。』 『茶盆は毎日お使ひになつたものでせうな。』 『は、毎日使用して居りました。それがその朝になつて出てまゐつたのでございますから、どうしても一度盜み出したものが、あまり搜索が嚴しいんで、怖氣がついてそつと戻しにまゐつたんだらうと思はれるんでございます。ちようどあの引越の混雜に紛れて……私どもでもさう解釋するより外はないと申して居ります。』 『勿論、あなたがちやぶだいの上に置き忘れたといふことを主張なさる以上は、さう解釋するより外はないでせうな。』 「おほん」氏は言つた。その鈍いやうで鋭い眼を、興奮した感情をさもなく裝はうと努めてゐるらしい細君の面にそゝぎながら。 『奧さん、お金におぼえでもありましたか?』 『はあ、ごいます[#「ごいます」はママ]。拾圓紙幣が五枚と五圓紙幣が七枚、それに一圓紙幣が二枚でございました。』と、細君は流暢に答へた。 『なるほど、都合八十七圓ですな。それで? 少しも減つてゐませんでしたか?』 『は、少しも減つて居りません。』 『金にもかはりなく?』 『は、あのなんでございます。さう申せば、五圓紙幣が一枚、少しかう汚れて、あの桃色のやうなものがついたりなんかして、少し皺になつたのが交つてるやうでございました。』 『すると、盜んだ奴は五圓だけ使つてしまつたので、自分のを代に入れて置いたといふんですね?』 『いえ、さう斷言は出來ませんけれど、或はさうでないかと思ふんでございます。みんな新しいお札だつたやうに覺えて居りますものですから……』 『はゝあ。』 辯護士達はお互に顏を見合してだまつた。 それから「おほん」氏はしばらくして、その怒つた肩に埋つたやうな首をかしげて、 『奧さん。』と、重々しく呼びかけた。『あなたは最初からお越になるおつもりでしたか?』 その時細君の顏色は動いた。けれども聲も調子も少しも取り紊さなかつた。 『はい。いえ、もう先から越しますつもりで居りましたんですが、ちようど恰好な家がございましたものですから……』
客の質問に答へて辯護士は言つた。 『差配のおやぢはね、もと港の町で辯護士などをしてゐた男があつて、そいつが金を殘してね、某町に貸家を建てたりなんかして――初め中尉の住んでゐた家もその一つさ。そのおやぢに差配をやらせたり、かたがたおやぢを手先にして金を廻させてゐたんだ。懷にあつたといふのはそれさ。ところがおやぢ、はじめそれをやらせられる時に、あまり名譽なことぢやないから誰にも言つちやならんぞと差し止められてゐたらしいんだ。それでどうしてもその金の出所を言はないのだよ。おかげでおやぢばかりひどい目に會つたわけさ。うん? ほんとのところ? そりや細君のいひ草ぢやないが、しかとは斷言出來ない。だが僕達の解釋するところに依るとだね、風呂に行く時ちよつと茶盆の下に挾んだにちがひないんだ。却つてそんなところは誰も氣が付くまいくらゐのところでね、女のやりさうなこつちやないか、はゝはゝ。そして自分で忘れてしまつて、はやまつて大さわぎをやつたのさ。』[#「やつたのさ。』」は底本では「やつたのさ。」]
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