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万葉集巻十六(まんようしゅうまきじゅうろく)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-26 9:25:15 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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萬葉集は歌集の王なり。其歌の眞摯に且つ高古なるは其特色にして、到底古今集以下の無趣味無趣向なる歌と比すべくもあらず。萬葉中の平凡なる歌といへども之を他の歌集に 眞淵以後萬葉を貴ぶ者多少之れ有り。されども其萬葉に貴ぶ所は其簡淨なる處、莊重なる處、高古なる處、眞面目なる處に在りて、曾て其他を知らざるが如し。簡淨、莊重、高古、眞面目、此等が萬葉の特色たる事は余亦異論無し。萬葉二十卷、殊に初の二三卷が善く此特色を現して秀歌に富める事は余も亦之を是認す。只萬葉崇拜者が第十六の卷を忘れたる事に向つて余は不平無き能はず。寧ろ此一事によりて余は所謂萬葉崇拜者が能く萬葉の趣味を解したりや否やを疑はざるを得ざるなり。余は試に世人に向つて萬葉第十六卷の歌を紹介し我邦の歌、しかも千年前の歌に此種類の歌ある事を現すと同時に、萬葉集の中に此一卷ある事を知らしめんと思ふなり。 萬葉第十六卷は主として異樣なる、即ち他に例の少き歌を集めたる者にして、趣向の滑稽、材料の複雜等其特色なり。併し調子は皆萬葉通じて同じ調子なれば如何に趣向に相違あるも其萬葉の歌たる事は一見まがふべくもあらず。左に其一二を擧げんか。 〔日本附録週報 明治32・2・27 一〕 さし鍋に湯わかせ子供いちひ津の檜橋より來むきつにあむさむ こは狐の鳴くを聞きてよめる歌にて狐に沸湯を浴びせてやらんと戲れしなり。眞率なる滑稽甚だ興あり。す 食事の時の有樣なるべし。或る人がはちす葉はかくこそあれもおきまろが家なる者はうもの葉にあらし うもの葉は芋の葉なり。おきまろは人名なり。これは蓮の葉を見て「これが蓮の葉ぢや、おき丸の内にあるのは芋の葉であつたらう」といふ意なり。無邪氣なる滑稽今人の思ひよらぬ處なり。玉箒刈りこ鎌麻呂むろの樹と 鎌麿は鎌を擬人法にしたるなり。玉箒は箒木なるべし。我邦に擬人法無しといふ人あれど物を人に擬するは神代記に多く見え歌にも例あり。此卷に鹿と蟹とが自己の境遇を述ぶる長歌二首あり。擬人法の長き者なり。からたちのうばら刈りそけ倉建てむ 歌に糞を詠まずといふ人あれど此歌には詠みこみあり。しかも屎まると詠みたり。勝間田の池はわれ知る蓮無ししかいふ君が鬚無きがごと こは人の知れる歌なり。或る人、勝間田の池の蓮を見て歸りて其趣を女に語りけるに女此歌を詠みて戲れたるなり。其實、池には蓮多くあり、其人には鬚多くあるを反對にいへる處滑稽にして面白し。此歌の第二句「池はわれ知る」とあるは「池は蓮無し」といふべき其中へ「われ知る」の一句を插入したる處最も巧なる言葉づかひなり。後世の歌、此變化を知らざるがために單調に墮ち了れり。萬葉調を主張しながら「句の獨立」などくだらぬ論を爲す者は論語よみの論語知らずとやいはん。ついでにいふ、前の歌も此歌も三句切なり。奈良山の兒の手柏のふたおもにかにもかくにもねぢけ人の友 吾妹子が額におふる雙六のことひの牛の鞍の上の瘡 此歌は理窟の合はぬ無茶苦茶な事をわざと詠めるなり。馬鹿げたれど馬鹿げ加減が面白し。寺々のめ餓鬼申さく大みわのを餓鬼たばりて其子産まさむ これは大みわの朝臣といふ人が餓鬼の如く痩せたるを嘲りて戲れたる者にて、女の餓鬼が大みわの朝臣を夫に持ちて子を産みたいといふ。といへる、奇想天外なり。普通ならば「夫に持ちたい」といふばかりにて結ぶべきを更に一歩を進めて「其子うまさむ」といふ處作者の伎倆を見るに足る。ついでにいふ、前の歌の「〔日本 明治32・2・28 二〕 [#底本ではここに「編注」あり。「寺々の」の歌の最後は普通「産まはむ」と訓む、という内容]此頃のわが戀力記し集め功に申さば五位の冠 「功」「五位」皆漢語なり。戀に骨折る功勞をいはゞ五位ぐらゐの値打はある、と自ら戲れいへる歌なり。戀に骨折る程度ともいふべき事を「こひぢから」といふ一語につゞめたる作者のはたらき畏るべき者あり。此の活用あるため萬葉は常に調子高き事を得たるに反し、古今以後にては詞は總て古きによるの主義にて全く造語を禁じたるため皆腰拔の歌となりたり。時として近時の俗謠に調子善き者あるは詞に束縛せられずして却つて詞を活用するに因る。自ら萬葉の旨を得たるものなり。 長歌はこゝに論ぜざる者なれど餘り珍しければ前に言ひたる蟹の述懷の歌一首を擧ぐべし。 おしてるや難波のを江に、庵つくりなまりて居る、蘆蟹を大君召すと、何せむにわを召すらめや、あきらけくわが知る事を、歌人とわを召すらめや、笛ふきとわを召すらめや、琴ひきとわを召すらめや、かもかくもみこと受けむと、今日今日と飛鳥に到り、立ちたれどおきなに到り、つかねどもつくぬに到り、ひむがしの中の御門ゆ、參り來てみこと受くれば、馬にこそふもだしかくもの、牛にこそ鼻繩はくれ、足引の此片山の、もむ楡を五百枝剥き垂れ、天照るや日のけに干し、さひづるやから臼につき、庭に立つから臼につき、おしてるや難波の小江の、はつ垂れを辛く垂れ來て、すゑ人の造れる瓶を、今日行きて明日取り持ち來、わが目らに鹽ぬりたべと、申しはやさも、申しはやさも これは初より終迄蟹の詞にて、大君が蟹を鹽漬にして此等の歌は皆趣向の珍しきのみならず、其趣向が文學的の趣味を帶び居るがためにいづれも善き歌として余は賞翫するなり。此一卷は萬葉の光彩を添ふると共に和歌界の光彩を添ふる者として余は特に之を 滑稽は文學的趣味の一なり。然るに我邦の人、歌よみたると繪師たると漢詩家たるとに論なく一般に滑稽を排斥し、萬葉の滑稽も俳句の滑稽も狂歌狂句の滑稽も 且つ萬葉卷十六の特色の滑稽に限らざるは前にいへるが如し。複雜なる趣向、言語の活用、材料の豐富、漢語俗語の使用、いづれも皆今日の歌界の弊害を救ふに必要なる條件ならざるはあらず。歌を作る者は萬葉を見ざるべからず。萬葉を讀む者は第十六卷を讀むことを忘るべからず。 〔日本 明治32・3・1 三〕 底本:「子規全集 第七卷 歌論 選歌」講談社 1975(昭和50)年7月18日第1刷発行 ※底本では編者によって補われた文字が〈 〉で示されています。本ファイルの作成に当たっては、底本が用いた〈 〉をそのまま使用しました。 入力:土屋隆 校正:川向直樹 2005年5月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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