元義の歌には妹または吾妹子の語を用ゐる極めて多し。故に吾妹子先生の諢名を負へりとぞ。けだし元義は熱情の人なりしを以て婦女に対する愛の自ら詞藻の上にあらはれしも多かるべく、彼が事実以外の事を歌に詠まざりきといふに思ひ合せても吾妹子の歌は必ず空想のみにも非るべし。『古今集』以後空想の文字に過ぎざりし恋の歌は元義に至りて万葉の昔に復り再び基礎を感情の上に置くに至れり。吾妹子の歌左に
失題 妹と二人暁露に立濡れて向つ峰上の月を看るかも 妹が家の向の山はま木の葉の若葉すゞしくおひいでにけり 鴨山の滝津白浪さにつらふをとめと二人見れど飽かぬかも 久方の天つ金山加佐米山雪ふりつめり妹は見つるや
(二月十九日) 元義吾妹子の歌
遊于下原 石上ふりにし妹が園の梅見れどもあかず妹が園の梅 正月晦日 皆人の得がてにすちふ君を得て 吾率寝る夜は人な 来りそ 自玉島至下原途中 矢かたをうち出て見れば梅の花 咲有山辺に妹が家見ゆ 河辺渡口 若草の妻の子故に 川辺川しば/\渡る 嬬の子故に 自下原至篠沖村路上 吾妹子を 山北に置きて 吾くれば浜風寒し 山南の海 夜更けて女のもとに行きて 有明の 月夜をあかみ 此園の 紅葉見に 来つ 其戸 令開 従児島還一宮途中 妹に恋ひ 汗入の山をこえ来れば春の月夜に 雁鳴きわたる 失題 妹が家の板戸 押ひらき 吾入れば太刀の 手上に花散りかゝる 夕闇の道は暗けど吾妹子に恋ひてすべなみ 出てくるかも 遠くともいそげ大まろ吾妹子に早も見せまくほしき此文 吾妹児破都婆那乎許多食 良詩昔見四従肥坐二 林 讃岐の国に渡りける時 吉備の児島の逢崎にて 逢崎は名にこそありけれはしけやし 吾妹が家は雲井かくりぬ 美作に在ける時故郷の酒妓のもとより文おこせければ 春の田をかへす/″\も妹が文見つゝし居れば夜ぞあけにける 妹に関する歌は実に元義の歌の過半を占め居るなり。
(二月二十日) 元義の熱情は彼の不平と共に澆ぎ出されて時に狂態を演ぜし事なきに非るも、元来彼は堅固なる信仰と超絶せる識見の上に立ちて自己の主義を守るを本分としたる者にして、決して恋の奴隷となりて終るが如き者に非ず。さればその歌に吾妹子の語多きに対してますらをの語多きが如きまた以て彼が堂々たる大丈夫を以て自ら任じたるを知るに足る。ますらをの歌
西蕃漢張良賛 言あげて雖称つきじ月の没る西の戎の大丈夫ごゝろ
望加佐米山 高田のや加佐米の山のつむじ風ますらたけをが笠吹きはなつ
自庭妹郷至松島途中 大井川朝風寒み大丈夫と念ひてありし吾ぞはなひる
遊于梅園 丈夫はいたも痩せりき梅の花心つくして相見つるから
失題 天地の神に祈りて大丈夫を君にかならず令生ざらめや 鳥が鳴くあづまの旅に丈夫が出立将行春ぞ近づく 石竹もにくゝはあらねど丈夫の見るべき花は夏菊の花
業合大枝を訪ふ 弓柄とるますらをのこし思ふこととげずほとほとかへるべきかは
元義は妹といはでもあるべき歌に妹の語を濫用せしと同じく丈夫といはでもあるべき歌に丈夫の語を濫用せり。此の如き者即ち両面における元義の性情をあらはしたる者に外ならず。
(二月二十一日) 元義は大丈夫を以て、日本男児を以て、国学者を以て自ら任じたるべく、詠歌の如きは固よりその余技に属せしものならん。古学に対する彼の学説は必ず大いに聞くべきものありしならんも、今日において遺稿などの其を徴するに足るものなきは遺憾なり。今その歌について多少その主義を表したりと思ふものを挙げんに
失題 おほろかに思ふな子ども皇祖の御書に載れる神の宮処
喩高階騰麿 菅の根の長き春日を徒に暮らさん人は猿にかもおとる
題西蕃寿老人画 ことさへぐ国の長人さかづきに其が影うつせ妹にのません
和安田定三作 今日よりは朝廷たふとみさひづるや唐国人にへつらふなゆめ
備中闇師城に学舎をたてゝ漢文よませらるゝときゝて 暗四鬼の司人等ねがはくは皇御国の大道を行け
失題 大君の御稜威加賀焼日之本荷狂業須流奈痴廼漢人
(二月二十二日) 以上挙ぐる所を以て元義の歌の如何なるかはほぼこれを知る事を得べし。元義は終始万葉調を学ばんとしたるがためにその格調の高古にして些の俗気なきと共にその趣向は平淡にして変化に乏しきの感あり。されど時としては情の発する所格調の如何を顧みるに遑あらずしてやや異様の歌となる事なきに非ず。例
高階謙満宅宴飲 天照皇御神も酒に酔ひて吐き散らすをば許したまひき 述懐 大な 牟遅神の 命は袋 負ひをけの命は牛かひましき 失題 足引の山中 治左が 佩ける 太刀神代もきかずあはれ長太刀 五番町石橋の上で 我○○をたぐさにとりし 我妹子あはれ 弥兵衛が 十つかの 剣遂に抜きて 富子を 斬りて 二きだとなす 弥兵衛がこやせる 屍うじたかれ見る我さへにたぐりすらしも 吾 独知るとまをさばかむろぎのすくなひこなにつらくはれんか 弓削破只名二社在 列弓削人八田乎婆雖作弓八不削 これらの歌多くは事に逢ふて率爾に作りし者なるべく文字の排列などには注意せざりしがために歌としては善きも悪きもあれどとにかく天真爛漫なる処に元義の人物性情は躍如としてあらはれ居るを見る。
(二月二十三日) 羽生某の記する所に拠るに元義は岡山藩中老池田勘解由の臣平尾新兵衛長治の子、壮年にして沖津氏の厄介人(家の子)となりて沖津新吉直義(退去の際元義と改む)と名のりまた源猫彦と号したり。弘化四年四月三十一日(卅日の誤か)藩籍を脱して(この時年卅六、七)四方に流寓し後遂に上道郡大多羅村の路傍に倒死せり。こは明治五、六年の事にして六十五、六歳なりきといふ。
格堂の写し置ける元義の歌を見るに皆天保八年後の製作に係るが如く天保八年の歌は既に老成して毫も生硬渋滞の処を見ず。されば元義が一家の見識を立てて歌の上にも悟る所ありしは天保八年頃なりしなるべく弘化四年を卅六、七歳とすれば天保八年は其廿六、七歳に当るべし。されど弘化四年を卅六、七歳として推算すれば明治五、六年は六十二、三歳に当る訳なればここに記する年齢には違算ありて精確の者に非るが如し。
(二月二十四日) 元義の岡山を去りたるは人を斬りしためなりともいひ不平のためなりともいふ。 元義は片足不具なりしため夏といへどもその片足に足袋を穿ちたり。よつて沖津の片足袋といふ諢名を負ひたりといふ。 元義には妻なく時に婦女子に対して狂態を演ずる事あり。晩年磐梨郡某社の巫女のもとに入夫の如く入りこみて男子二人を挙げしが後長子は窃盗罪にて捕へられ次子もまた不肖の者にて元義の稿本抔は散佚して尋ぬべからずといふ。 元義には潔癖あり。毎朝歯を磨くにも多量の塩を用ゐ厠用の紙さへも少からず費すが如き有様なりしかば誰も元義の寄食し居るを好まざりきといふ。 元義は髪の結ひ方に好みありて数里の路を厭はずある髪結師のもとに通ひたりといふ。 元義ある時刀の鞘があやまつて僧の衣に触れたりとて漆の剥ぐるまでに鞘を磨きたりといふは必ずしも潔癖のみにはあらず彼の主義としてひたぶるに仏教を嫌ひたるがためなるべし。 元義は藤井高尚の門人業合大枝を訪ひて、志を話さんとせしに大枝は拒みて逢はざりきといふ。 元義には師匠なく弟子なしといふ。 元義に万葉の講義を請ひしに元義は人丸の太子追悼の長歌を幾度も朗詠して、歌は幾度も読めば自ら分るものなり、といひきといふ。 脱藩の者は藩中に住むを許さざりしが元義は黙許の姿にて備前の田舎に住みきといふ。 元義の足跡は山陰山陽四国の外に出でず。京にも上りし事なしといふ。 以上事実の断片を集め見ば元義の性質と境遇とはほぼこれを知るを得べし。国学者としての元義は知らず、少くとも歌につきて箇程の卓見を有せる元義が一人の同感者を持たざりしを思ひ、その境遇の箇程に不幸なりしを思ひ、その不平の如何に大なりしやを思ひ、その不平を漏らす所なきを思ひ、而して後に婦女に対するその熱情を思はば時に彼の狂態を演ずる者むしろ憐むべく悲しむべきにあらずや。
(二月二十五日) 格堂の集録せる元義の歌を見るに短歌二百余首長歌十余首あり。この他は存否知るべからず。 元義の筆跡を見るに和様にあらずむしろ唐様なり。多く習ひて得たる様にはあらでただ無造作に書きなせるものから大字も小字も一様にして渋滞の処を見ず。上手にはあらねど俗気なし。 万葉以後において歌人四人を得たり。源実朝、徳川宗武、井手曙覧、平賀元義これなり。実朝と宗武は貴人に生れて共に志を伸ばす能はざりし人、曙覧と元義は固より賤しききはにていづれも世に容れられざりし人なり。宗武の将軍たる能はざりしに引きかへ実朝が名のみの将軍たりしはなほ慰むるに足るとせんか、しかも遂に天年を全うするに至らざりしは千古の惨事とすべし。元義の終始不遇なるに対して曙覧が春嶽の知遇を得たるは晩年やや意を得たるに近し、しかも二人共に王家の臣たる能はざりしは死してもなほ遺憾あるべきにや。 曙覧は汚穢を嫌はざりし人、されど身のまはりは小奇麗にありしかと思はる。元義は潔癖の人、されど何となくきたなき人には非りしか。 四家の歌を見るに、実朝と宗武とは気高くして時に独造の処ある相似たり。但宗武の方、覇気やや強きが如し。曙覧は見識の進歩的なる処、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但伎倆の点において調子を解する点において曙覧は遂に元義に如かず。故に曙覧の歌の調子ととのはぬが多きに反して元義の歌は殆ど皆調子ととのひたり。されど元義の歌はその取る所の趣向材料の範囲余りに狭きに過ぎて従つて変化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以なり。彼にしてもし自ら大歌人たらんとする野心あらんかその歌の発達は固より此に止まらざりしや必せり。その歌の時に常則を脱する者あるは彼に発達し得べき材能の潜伏しありし事を証して余あり。惜しいかな。
(二月二十六日) 近来雑誌の表紙を模様色摺となしかつ用紙を舶来紙となす事流行す。体裁上の一進歩となす。 雑誌『目不酔草』の表紙模様不折の意匠に成る。面白し。但何にでも梅の花や桜の花をくつつけるは不折の癖と知るべし。 雑誌『明星』は体裁の美麗なる事普通雑誌中第一のものなりしが遂に廃刊せし由気の毒の至なり。今廃刊するほどならば最後の基本金募集の広告なからましかば、死際一層花を添へたらんかと思ふ。是非なし。 雑誌『精神界』は仏教の雑誌なり。始に髑髏を画きてその上に精神界の三字を書す。その様何とやら物質的に開剖的に心理を研究する意かと思はれて仏教らしき感起らず。髑髏の画のやや精細なるにも因るならん。 雑誌『みのむし』は伊賀より出づる俳諧の雑誌なり。表紙に芭蕪の葉を画けるにその画拙くしてどうやら蕪の葉に似たるやう思はる。蕪村流行のこの頃なれば芭蕉翁も蕪村化したるにやといと可笑し。 雑誌『太陽』の陽の字のつくり時に易に从ふものあり。そんな字は字引になし。
(二月二十七日) 『日本』へ寄せらるる俳句を見るに地方々々にて俳句の調にもその他の事にも多少の特色あり、従つて同地方の人は万事をかしきほどに似よりたる者あり。同一の俳句または最も善く似たる俳句が同地方の人二人の稿に殆ど同時に見出ださるる事などしばしばあれど、この場合にはいづれを原作としいづれを剽窃とせんか、ほとほと定めかねて打ち捨つるを常とす。総じてその地方の俳句会盛なる時はその会員の句皆面白く俳句会衰ふる時はあるだけの会員悉く下手になる事不思議なるほどなり。 句風以外の特色をいはんか、鳥取の俳人は皆四方太流の書体巧なるに反して、取手(下総)辺の俳人はきたなき読みにくき字を書けり。出雲の人は無暗に多く作る癖ありて、京都の人の投書は四、五十句より多からず。大阪の人の用紙には大阪紙と称ふるきめ粗き紙多く、能代(羽後)の人は必ず馬鹿に光沢多き紙を用ゐる。越中の人に限りて皆半紙を二つ切にしたるを二つに折りて小く句を書くなり。はがきに二句か三句認めあるはいづれの地方に限らず初心なる人の必ずする事なり。
(二月二十八日) 黄塔まだ世にありし頃余が書ける漢字の画の誤を正しくれし事あり。それより後よりより余も注意して字引をしらべ見るに余らの書ける楷書は大半誤れる事を知りたれば左に一つ二つ誤りやすき字を記して世の誤を同じくする人に示す。 菫謹勤などの終りの横画は三本なり。二本に書くは非なり。活字にもこの頃二本の者を拵へたり。 達の字の下の処の横画も三本なり、二本に非ず。 切の字の扁は七なり。土扁に書く人多し。 助の字の扁は且なり。目扁に書く人多し。 ※[#「麾-毛」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「手」」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「石」」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「鬼」」、42-8]などの中の方を林の字に書くは誤なり。この頃活字にもこの誤字を拵へたれば注意あるべし。 ※[#「兎」の「儿」を「兔」のそれのように、42-10]※[#「免」の「儿」を「兔」のそれのように、42-10]共に四角の中の劃を外まで引き出すなり。活字を見るに兎の字は正しけれど免の字はことさらに二画に離したるが多し。しかしこれらは誤といふにも非るか。 「つか」といふ字は冢 にして豕に点を打つなり。しかるに多少漢字を知る人にして※[#「わかんむり/一/豕」、42-12]※[#「塚のつくりのわかんむりと豕の間に一」、42-12]の如く豕の上に一を引く人多し。されど※[#「わかんむり/一/豕」、42-13]※[#「塚のつくりのわかんむりと豕の間に一」、42-13]皆東韻にして「つか」の字にはあらず。 ※[#「入/王」、42-14]※[#「兪/心」、42-14]などの冠は入なり。人冠に非ず。 分貧などの冠は八なり。人にも入にも非ず。 神※[#「示+氏」、43-1]の※[#「示+氏」、43-1]の字は音「ぎ」にして示扁に氏の字を書く。普通に祗(氏の下に一を引く者)の字を書くは誤なり。祗は音「し」にして祗候などの祗なり。 廢は広く「すたる」の意に用ゐる。 だれの癈は不具の人をいふ。何処にでも だれの方を用ゐる人多し。
○正誤 前々号墨汁一滴にある人に聞けるまま雑誌『明星』廃刊の由記したるに、廃刊にあらず、只今印刷中なり、と与謝野氏より通知ありたり。余はこの雑誌の健在を喜ぶと共にたやすく人言を信じたる粗相とを謝す。
(三月一日) 二月二十八日 晴。朝六時半病牀眠起。家人暖炉を焚く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。繃帯を取りかふ。粥二碗を啜る。梅の俳句を閲す。 今日は会席料理のもてなしを受くる約あり。水仙を漬物の小桶に活けかへよと命ずれば桶なしといふ。さらば水仙も竹の掛物も取りのけて雛を祭れと命ず。古紙雛と同じ画の掛物、傍に桃と連翹を乱れさす。 左千夫来り秀真来り麓来る。左千夫は大きなる古釜を携へ来りて茶をもてなさんといふ。釜の蓋は近頃秀真の鋳たる者にしてつまみの車形は左千夫の意匠なり。麓は利休手簡の軸を持ち来りて釜の上に掛く。その手紙の文に牧渓の画をほめて
我見ても久しくなりぬすみの絵のきちの掛物幾代出ぬらん
といふ狂歌を書けり。書法たしかなり。 左千夫茶を立つ。余も菓子一つ薄茶一碗。 五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し。
味噌汁は三州味噌の煮漉、実は嫁菜、二椀代ふ。 鱠は鯉の甘酢、この酢の加減伝授なりと。余は皆喰ひて摺山葵ばかり残し置きしが茶の料理は喰ひ尽して一物を余さぬものとの掟に心づきて俄に当惑し山葵を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑ひとなる。 平は小鯛の骨抜四尾。独活、花菜、山椒の芽、小鳥の叩き肉。 肴は鰈を焼いて煮たるやうなる者鰭と頭と尾とは取りのけあり。 口取は焼玉子、栄螺(?)栗、杏及び青き柑類の煮たる者。 香の物は奈良漬の大根。
飯と味噌汁とはいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出し各 椀にて食ふ。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなりと。余は遂に料理の半を残して得喰はず。飯終りて湯桶に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべしとて心覚のため書きつけ置く。 点燈後茶菓雑談。左千夫、その釜に一首を題せよといふ。余問ふ、湯のたぎる音如何。左千夫いふ、釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たらんかと。乃ち
題釜 氷解けて水の流るゝ音すなり 子規
(三月二日) 料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましひは味噌汁にある由、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まるといへば我らの毎朝吸ふ味噌汁とは雲泥の差あることいふまでもなし。味噌を選ぶは勿論、ダシに用ゐる鰹節は土佐節の上物三本位、それも善き部分だけを用ゐる、それ故味噌汁だけの価三円以上にも上るといふ。(料理は総て五人前宛なれど汁は多く拵へて余す例なれば一鍋の汁の価と見るべし)その汁の中へ、知らざる事とはいへ、山葵をまぜて啜りたるは余りに心なきわざなりと料理人も呆れつらん。この話を聞きて今更に臍を噬む。 茶の道には一定の方式あり。その方式をつくりたる精神を考ふれば皆相当の理ある事なれどただその方式に拘るために伝授とか許しとかいふ事まで出来て遂に茶の活趣味は人に知られぬ事となりたり。茶道はなるべく自己の意匠によりて新方式を作らざるべからず。その新方式といへども二度用ゐれば陳腐に堕つる事あるべし。故に茶人の茶を玩ぶは歌人の歌をつくり俳人の俳句をつくるが如く常に新鮮なる意匠を案出し臨機応変の材を要す。四畳半の茶室は甚だ妙なり。されど百畳の広間にて茶を玩ぶの工夫もなかるべからず。掛軸と挿花と同時にせずといふも道理ある事なり。されど掛軸と挿花と同時にするの工夫もなかるべからず。室の構造装飾より茶器の選択に至るまで方式にかかはらず時の宜しきに従ふを賞玩すべき事なり。 何事にも半可通といふ俗人あり。茶の道にても茶器の伝来を説きて価の高きを善しと思へる半可通少からず。茶の料理なども料理として非常に進歩せるものなれど進歩の極、堅魚節の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を争ふに至りてはいはゆる半可通のひとりよがりに堕ちて余り好ましき事にあらず。凡て物は極端に走るは可なれどその結果の有効なる程度に止めざるべからず。 茶道に配合上の調和を論ずる処は俳句の趣味に似たり。茶道は物事にきまりありて主客各 そのきまりを乱さざる処甚だ西洋の礼に似たりとある人いふ。
(三月三日) 誤りやすき字左に 盡は書畫の字よりは横画一本少きなり。聿の如く書くは誤れり。行書にて聿の如く書くことあれどもその場合には四箇の点を打たぬなり。 と とには点あり。この点を知らぬ人多し。 學覺などいふ「かく」の字と與譽などいふ「よ」の字とは上半の中の処異なり。しかるに両者を混同して書ける者たとへば學の字の上半を與の字の如く書ける者書籍の表題抔にも少からず。 ※[#「内」の「人」に代えて「入」、47-7]兩共に入を誤りて人に書くが多し。 喬の夭を天に誤り、※[#「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、47-8]※[#「門<壬」、47-8]の壬を王に誤るが多し。 傘は人冠に人四箇に十なり。しかるに十字の上にも中にも横の棒を引く事古きよりの習ひと見えたり。 吉の士を土に誤り書く者多し。 舍は人冠に舌なり。されど人冠に土に口を書きし字も古き法帖に見ゆ。 臼の下の処は一を引くなり。兒も同じ。されどこの一の棒の中を切りて二画に書くは書きやすきためにや。 鼠(ねずみ)の上の処は臼なり。しかるにこの頃 の字を書く人あり。後者は 獵臘などの字の旁にて「ろふ」「れふ」の音なり。 易は日に勿なり。賜の字。 の字など皆同じ。されど陽揚腸場楊湯など陽韻に属する字の旁は易の字の真中に横の棒を加へたるなり。 獺 懶などの旁は負なり頁に非ず。 「ちり」は塵なり。しかるに艸冠をつけて の字を書く人あり。後者は艸名(よもぎの訓あり)ならん、「ちり」の字にはあらず。こは塵の草体が艸冠の如く見ゆるより誤りしか。 解は角に刀に牛なり。牛の字を井に誤るが多し。 漢字廃止論のあるこの頃かかる些少の誤謬を正すなど愚の至なりと笑ふ人もあるべし。されど一日なりとも漢字を用ゐる上は誤なからんを期するは当然の事なり。いはんや国文に漢字を廃するも漢字は永久に滅びざるをや。但かかる事は数十年慣れ来りし誤を一朝に改めんとすれば非常に困難を覚ゆれど初め教へらるる時に正しき字を教へこまるれば何の困難もなき事なり。小学校の先生たちなるべく正しき字を教へたまへ。
(三月四日) 誤りやすき字左に 段鍛は「たん」にして假蝦鰕霞遐は「か」なり。段と と扁もつくりも異なるを混同して書く人多し。 蒹葭は「あし」「よし」の類なるべし。葭簀張の葭も同字なり。しかるに近頃葮の字を用ゐる人あり。後者は字引に「むくげ」とあるはたしかならねど「よし」にあらざるは勿論なり。 「おき」は沖なり。しかるにこの頃は二水の冲の字を用ゐる人多し。両字とも水深の意なきにあらねど我邦にて「おき」の意に用ゐるは字義より来るに非ずしてむしろ水の真中といふ字の組立より来るに非るか。 汽車の汽を と書く人多し。字引に汽は水气也とあるを福沢翁の見つけ出して訳字に当てたるなりと。 の字もあれど意義異なり。 四の字の中は片仮名のルの字の如く右へ曲ぐるなり。讀贖などのつくりの中の処も四を書くなり。されど賣の字の中の処は四の字に非ず。右へ曲ぐる事なく真直に引くなり。いささかの事故どうでもよけれどただ讀(とく)のつくりが賣(ばい)の字に非ることを知るべし。 奇の字の上の処は大の字なり。奇の字を字引で引かんとならば大の部を見ざるべからず。されど立の字の如く書くも古き代よりの事なるべし。 逢蓬峯は「ほう」にして降絳は「こう」なり。終りの処少し違へり。 ※[#「女+ 」、49-15](ひめ)の字のつくりは臣に非ず。 士と土、爪と瓜、岡と罔、齊と齋、戊と戌、これらの区別は大方知らぬ人もなけれど商(あきなひ)と (音テキ)、班(わかつ)と斑(まだら)の区別はなほ知らぬ人少なからず。 以上挙げたる誤字の中にも古くより書きならはして一般に通ずる者は必ずしも改むるにも及ばざるべし。但甲の字と乙の字と取り違へたるは是非とも正さざるべからず。 甲の字と乙の字と取り違へたる場合は致し方なけれど或る字の画を誤りたる場合はこれを印刷に附する時は自ら正しき活字に直る故印刷物には誤字少き訳なり。けだし活字の初は『康熙字典』によりて一字々々作りたりといへば活字は極めて正しき者にてありき。しかるに近来出来たる活字は無学なる人の杜撰に作りしものありと見えて往々偽字を発見する事あり。せめては活字だけにても正しくして世の惑を増さざるやうしたき者なり。
(三月五日) 自分は子供の時から湯に入る事が大嫌ひだ。熱き湯に入ると体がくたびれてその日は仕事が出来ぬ。一日汗を流して労働した者が労働がすんでから湯に入るのは如何にも愉快さうで草臥が直るであらうと思はれるがその他の者で毎日のやうに湯に行くのは男にせよ女にせよ必ずなまけ者にきまつて居る。殊に楊枝をくはへて朝湯に出かけるなどといふのは堕落の極である。東京の銭湯は余り熱いから少しぬるくしたら善からうとも思ふたがいつそ銭湯などは罷めてしまふて皆々冷水摩擦をやつたら日本人も少しは活溌になるであらう。熱い湯に酔ふて熟柿のやうになつて、ああ善い心持だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ。
(三月六日) 自分が病気になつて後ある人が病牀のなぐさめにもと心がけて鉄網の大鳥籠を借りて来てくれたのでそれを窓先に据ゑて小鳥を十羽ばかり入れて置いた。その中にある水鉢の水をかへてやると総ての鳥が下りて来て争ふて水をあびる様が面白いので病牀からながめて楽しんで居る。水鉢を置いてまだ手を引かぬ内にヒワが一番先に下りて浴びる。浴び様も一番上手だ。ヒワが浴びるのは勢ひが善いので目たたく間に鉢の水を半分位羽ではたき散らしてしまふ。そこで外の鳥は残りの乏しい水で順々に浴びなくてはならぬやうになる。それを予防するつもりでもあるまいが後にはヒワが先づ浴びようとするとキンバラが二羽で下りて来てヒワを追ひ出し二羽並んで浴びてしまふ。その後でジヤガタラ雀が浴びる。キンカ鳥も浴びる。カナリヤも浴びる。暫くは水鉢のほとりには先番後番と鳥が詰めかけて居る。浴びてすんだ奴は皆高いとまり木にとまつて頻りに羽ばたきして居る。その様が実に愉快さうに見える。考へて見ると自分が湯に入る事が出来ぬやうになつてからもう五年になる。
(三月七日) 余は漢字を知る者に非ず。知らざるが故に今更に誤字に気のつきしほどの事なれば余の言ふ所必ず誤あらんとあやぶみしが果してある人より教をたまはりたり。因つて正誤かたがたこれを載せ併せてその好意を謝す。
(略)   獺懶等の 旁は負なり 頁にあらずとせられ候へども負にあらず※ [#「刀/貝」、52-4]の字にて貝の上は刀に候勝負の負とは少しく異なり候右等の字は 剌より音生じ候また※ [#「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、52-5]の下は壬にあらず※ [#「壬」の下の横棒が長いもの、52-5](音テイ)に候※ [#「呈」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、52-6]※ [#「望」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、52-6]等皆同様に御座候右些細の事に候へども気付たるまま(一老人 投) またある人より
(略)菩薩薩摩の薩は字原薛なり博愛堂『集古印譜』に薩摩国印は薛……とあり訳経師が仮釈にて薛に二点添付したるを元明より産の字に作り字典は薩としあるなり唐には決して産に書せず云々
右の誤は字典にもあり麑島人も仏教家も一般に知らであれば正したき由いひこされたり。
(三月八日) 雑誌『日本人』に「春」を論じて「我国は旧と太陰暦を用ゐ正月を以て春の初めと為ししが」云々とあり。語簡に過ぎて解しかぬる点もあれど昔は歳の初即正月元旦を以て春の初となしたりとの意ならん。陰暦時代には便宜上一、二、三の三箇月を以て春とし四、五、六の三箇月を以て夏となし乃至秋冬も同例に三箇月宛を取りしこといふまでもなし。されど陰暦にては一年十二箇月に限らず、十三箇月なる事も多ければその場合には四季の内いづれか四箇月を取らざるべからず。これがために気候と月日と一致せず、去年の正月初と今年の正月初といたく気候の相異を来すに至るを以て陰暦時代にても厳格にいへば歳の初を春の初とはなさず、立春(冬至後約四十五日)を以て春の初と定めたるなり。その証は古くより年内立春などいふ歌の題あり、『古今集』開巻第一に
年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ
とあるもこの事なり。この歌の意は歳の初と春の初とは異なり、さればいづれを計算の初となすべきかと疑へる者なればこれを裏面より見ればこの頃にても普通には便宜上歳の初を春の初となしたる事なるべし。されど朝廷の儀式にも特に立春の日を選びてする事あり。『公事根源』に
供若水 立春日 若水といふ事は去年御生気の方の井をてんして蓋をして人に汲せず、春立つ日主水司内裏に奉れば朝餉にてこれをきこしめすなり、荒玉の春立つ日これを奉れば若水とは申すにや云々
とあるを見ても知るべし。平民社会にては立春の儀式といふ事は知らねど節分(立春前一夜)の儀式は種々ありて今日に至るまでその幾分を存せり。中にもこの夜各 の年齢の数に一つ増したるだけの熬豆を紙に包みて厄払に与へ来年の厄を払はしむるが如きは明かに立春を以て計算の初となし立春に入る事によりて新たに齢一つを加ふる者と定めたるを見るべし。(陰暦の正月元日は立春に最も近き朔日を取りたる者なれば元日と立春と十五日以上の差違ある事なし。されど元日前十五日立春の年と元日後十五日立春の年とを比較すれば気候に三十日の遅速あり) 右の如く昔は歳初と春初と区別あるが如くなきが如く曖昧に過ぎ来りしが明治に至り陽暦の頒布と共に陰暦は公式上廃せられたれば両者は断然と区別せられて一月一日は毎年冬季中に来る者と定まれり。この際に当りて春夏秋冬の限界については何らの規定する所なければ余は依然として立春立夏立秋立冬を以て四季の限界とする説に従ひ居るなり。元来この立春立夏等の節は陰暦時代にも用ゐられたれどその実月の盈虧には何らの関係もなくかへつて太陽の位置より算出せし者なればこれを太陽暦と並び用ゐて毫も矛盾せざるのみならず毎年ほぼ同一の日に当るを以て記憶にも甚だ便利あり。 雑誌『日本人』の説は西洋流に三、四、五の三箇月を春とせんとの事なれども、我邦には二千年来の習慣ありてその習慣上定まりたる四季の限界を今日に至り忽ち変更せられては気候の感厚き詩人文人に取りて迷惑少からず。されど細かにいへば今日までの規定も習慣上に得たる四季の感と多少一致せざるかの疑なきに非ず。もつとも気候は地方によりて非常の差違あり、殊に我邦の如く南北に長き国は千島のはてと台湾のはてと同様に論ずべきにあらねど、試に中央東京の地についていはんに(京都も大差なかるべし)立春(二月四日頃)後半月位は寒気強くして冬の感去らず。立秋(八月八日頃)後半月位は暑気強くして秋の感起らず。また菊と紅葉とは古来秋に定めたれど実際は立冬(十一月八日頃)後半月位の間に盛なり。故に東京の気候を以ていはんには立春も立夏も立秋も立冬も十五日宛繰り下げてかへつて善きかと思はるるなり。されば西洋の規定と実際は大差なき訳となる。しかしながらこは私に定むべき事にもあらねば無論旧例に依るを可とすべきか。(西洋の規定は東京よりはやや寒き地方より出でし規定に非るか)
(三月九日) 自個の著作を売りて原稿料を取るは少しも悪き事に非ず。されどその著作の目的が原稿料を取るといふ事より外に何もなかりしとすれば、著者の心の賤しき事いふまでもなし。近頃出版せられたる秋竹の『明治俳句』は果して何らの目的を以て作りたるか。秋竹は俳句を善くする者なり。俳句に堪能なる秋竹が俳句の集を選びたるは似つかはしき事にして、素人の杜撰なるものと同日に見るべからず。されど秋竹は始めより俳書編纂の志ありしか、近来俳句に疎遠なる秋竹が何故に俄に俳句編纂を思ひ立ちたるか。この句集が如何なる手段によつて集められしかは問ふ所に非ず。この書物を出版するにつき、秋竹が何故に苦しき序文を書きしかは余の問ふ所に非ず。もし余の邪推を明にいはば、秋竹は金まうけのためにこの編纂を思ひつきたるならん。秋竹もし一点の誠意を以て俳句の編纂に従事せんか、その手段の如何にかかはらずこれを賛成せん。されど余は秋竹の腐敗せざるかを疑ふなり。さはれ余は個人として秋竹を攻撃せんとには非ず。今の新著作かくの如きもの十の九に居る故に特に秋竹を仮りていふのみ。
(三月十日) 漢字廃止、羅馬字採用または新字製造などの遼遠なる論は知らず。余は極めて手近なる必要に応ぜんために至急新仮字の製造を望む者なり。その新仮字に二種あり。一は拗音促音を一字にて現はし得るやうなる者にして例せば茶の仮字を「ちや」「チヤ」などの如く二字に書かずして一字に書くやうにするなり。「しよ」(書)「きよ」(虚)「くわ」(花)「しゆ」(朱)の如き類皆同じ。促音は普通「つ」の字を以て現はせどもこは仮字を用ゐずして他の符号を用ゐるやうにしたしと思ふ。しかし「しゆ」「ちゆ」等の拗音の韻文上一音なると違ひ促音は二音なればその符号をしてやはり一字分の面積を与ふるも可ならん。 他の一種は外国語にある音にして我邦になき者を書きあらはし得る新字なり。 これらの新字を作るは極めて容易の事にして殆ど考案を費さずして出来得べしと信ず。試にいはんか朱の仮字は「し」と「ユ」または「ゆ」の二字を結びつけたる如き者を少し変化して用ゐ、著の仮字は「ち」と「ヨ」または「よ」の二字を結びつけたるを少し変化して用ゐるが如くこの例を以て他の字をも作らば名は新字といへどその実旧字の変化に過ぎずして新に新字を学ぶの必要もなく極めて便利なるべしと信ず。また外国音の方は外国の原字をそのまま用ゐるかまたは多少変化してこれを用ゐ、五母音の変化を示すためには速記法の符号を用ゐるかまたは拗音の場合に言ひし如く仮字をくつつけても可なるべし。とにかくに仕事は簡単にして容易なり。かつ新仮字増補の主意は、強制的に行はぬ以上は、唯一人反対する者なかるべし。余は二、三十人の学者たちが集りて試に新仮字を作りこれを世に公にせられん事を望むなり。
(三月十一日) 不平十ヶ条
一、元老の死にさうで死なぬ不平 一、いくさの始まりさうで始まらぬ不平 一、大きな頭の出ぬ不平 一、郵便の消印が読めぬ不平 一、白米小売相場の容易に下落せぬ不平 一、板ガラスの日本で出来ぬ不平 一、日本画家に油絵の味が分らぬ不平 一、西洋人に日本酒の味が分らぬ不平 一、野道の真直について居らぬ不平 一、人間に羽の生えて居らぬ不平
(三月十二日)
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