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熱海線私語(あたみせんしご)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-26 8:49:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「先づ△△から××まで私線鉄道を敷いて、△△山の赤土を埋立地へ運ぶとなれば……」
 と彼は虚空に眼を据えた。――彼への訪問者といふのが、どれもこれも、一見すると狸のやうに落着いて葉巻などを喫してゐるが、愛嬌笑ひの声も、真剣味を露はにした賛同の握手も、真面目気であればあるほど空々しく品が悪かつた。山林技師であるナタリーの父親だけが、おそらく級友でもあつたかのやうに、へだてのない容子が一見してあきらかであり、
「何ウモ君ノマハリニ集ル紳士連ハ、信用成シ難イネ。」
 などゝ云つても、彼は返つて何か魂胆あり気にかぶりを振つて一向とり合はなかつた。
 私たちにしろ、もう遥かの山のむかふからはトンネル工事の爆破の音なども響きはぢめたし、竹藪であつたり、沼地であつたりした場所が繁華なステーシヨンの広場になるといふからには、多くの彼の事業に関して、決して失敗などは予期しもしなかつたのであるが、年寄や婦子供のみの古めかしい屋根の下に行灯や雪洞の光りのまはりで寂しく蟋蟀のやうな日夕を送り迎へてゐた者共にとつては、急に夜更けまでも電話のベルが鳴つたり、乗つたこともなかつた自動車が出入したりする華々しさに、何か漠然として信じ難いばつの悪さを誘はれるのであつた。
「どうせ碌なことがある気遣ひはないさ。それあ停車場が出来るといふからには、賑やかにはなるだらうけれど、そんな先の事許り当にして前祝ひばかりしてゐたひには、屹度また後ではふさがなければならないやうな始末になるばかりさ。」
 阿母がそんなに云ふと、阿父は震えて口を尖らせた。
 熱を挙げてゐる傍から、冷言を浴せられては堪らぬだらうと寧ろ私は、阿父の心懐に加担した。――が、そんな当面のことには私などは要もなかつたし、家庭の雰囲気も何うやら息苦しくなつたので、大学生になつて多少の憂鬱も知り始めた私は、休暇で帰省しても故家には落つかず、大概熱海の山荘へ赴いて本を読んだり、小説体の如くに会話などを挿入する日記などを書いてゐた。ハネ釣籠の井戸があり梅や柿木の繁つてゐた草葺屋根の家が、アメリカ風の至極簡粗なカツテーヂに改装されて、阿父の外国友達の家族が料理人コツクなどを伴れて訪れた。阿父は、それらの友達と捕鯨船へ乗り込んで遠洋航海へ赴いたり、ボルネオ地方へ鰐狩りへ行つたりしたが、
「これ位ひの道楽は、余興のようなものさ。」
 などゝ云ひながら、三月か半年で引き返すと、相変らず折鞄を抱へて、不思議とあんな深刻グルウミイな眼を輝かせながら車を飛してゐた。おそらく獅子の遠吠えが聞えたといふジヤングルに天幕の夢を結んでも、大鯨を獲り逃して残恨の胸を叩きながら酒場に酔ひ潰れても、おゝ、あれらの故山の、あれらの山々がそうしてゐる間にも刻々と切り崩づされるに随つて金貨を積んだ橇の音が次第々々に近づいて来てゐるのだといふ素晴しい夢に誘はれてゐたのである。私などにしろ、何も知らぬ青少年であつたが、漠然とした幸福のようなものを感じないでもなかつたが、稍ともすると昔描き慣れて、今だつて筆を執りさへすれば大概の姿なら即座に描きこなせるフリガンの活動画が歴起として眼の前にチラつくのであつた。フリガンの表情は、歓喜に炎えた時でも、悲境のドン底に墜落した時でも、或ひは稀にいさゝかの成功に反身になつた場合でも、常住不断に変化を知らぬ丸い眼と稍突り気味の口吻と、そして缶型の赤い帽子だけは決して落とさぬ姿勢なので、模写の手際も別段六ヶしいわけではなかつたのだ。私は、思はずもそんな連想を劃てる自分を秘かにウソ寒く慨嘆しながら、幾組となくつくつた連続画の憶ひ出を、どうやら益々詳細に吾阿父の上に対照せずには居られなかつた。
「あはゝゝゝ、あはゝゝゝ、お前の画はほんとうに巧いよ、さて、これから缶ちやんがどうなるのか、あたしは来週が楽しみでならない。あはゝゝゝゝ。」
 と、私の幻灯を観ながら、そのまゝ醒めぬ眠りに陥入つてしまつた慈はしき婆さんの笑ひ声が、あらためて私の耳の底に蘇ると、何やら私はあれらの無稽至極と思つてゐた人生諷刺の微風そよかぜが眼のあたりに吹き出したとなど思ふのであつた。阿父も表情の乏しい貌だつた。何故か笑ひ声は思ひ出しても、笑ひ顔は想像成し難かつた。――私は、あれこれと対照すればするほど、あれらの滑稽なる諷刺画がそのまゝ吾が生活の眼前に展開するかの如き、云はゞ恐怖症に襲はれさうであつた。私は、次第に憂鬱であつた。私は、滑稽を認めて、笑ひを知らぬ悲惨に堕ちた。どうやら自分の表情も、頭の缶型を落さぬ程度の奇妙に生真面目気なる木石に化したかのやうな思ひである、単なる真面目気なる表情の奇怪至極さは、一種の壮厳なる、然して永遠に模糊たる滑稽美に満ちたるものと考へざるを得なかつた――私は、肉親に対する自己の観照眼に関して、余程不道徳的なる苦悩にさいなまれたと見えて、そんな風に、厭に勿体振つた感想を手帖に記してゐた。

     四

 土曜日の夕刻には、きまつて横浜からナタリーが訪れた。彼女は私に従つて、日本語の練習を念願としてゐた。
「ボクはもうヨコハマからなら、いつでもひとりで大丈夫になつた。」
 彼女は、そんな程度の日本語をつかつた。レデイの一人称は、アタシとかワタクシとかと云はなければならぬのだと、屡々私は訂正もしたのであつたが、彼女には一向その規約が腑におちず、また私もそれほど熱心な教師ではなく自分勝手な喋舌り方をする方が多かつたから、彼女はつい私を真似て「ボク」とか「オレ」とかと云つた。私は、やがて、眼の碧い、そして「夕映えを染めた如き」などゝ得意になつてお世辞を云つた飴色の豊満な巻髪をたくわへた十八の娘が、何も知らずに野卑な方言などを使ふのを、内心妙に悦んだ。私は間もなく一切の男女の差別を無視して、第二人称は「アナタ」などゝいふよりは寧ろ「オメエ」と呼んだ方がいきであり、どうせ日本語を学ぶ位ひならば標準語は何処でゞも習へるのだから、「ワガハイ」を選んだのを幸ひ得難き通俗語を知つた方が趣味深いに違ひあるまい――などゝ、実は標準語と来たら自分が怪しかつたので、ごまかしたのでもあつた。私は東京の大学生にはなつてゐたが、アクの強い方言の田舎青年だつた。
 彼女は父親のオフイスでタイプライターを叩いてゐたが、特に土曜日に限つて、日本語の練習といふ「お稽古」のために、十時に仕舞ひ、午前ひるまえの汽車に乗つた。旧東海道線であつたから国府津駅で箱根行の電車に乗り換へ、四十分も揺られた後に小田原で更に熱海行の「軽便」に移り、待合時間を別にして、これが三時間あまりかゝつた。それ故、熱海に着くのは、冬だと、もうとつぷりと暮れてゐた。――「軽便」の到着は三十分位ひのあとさきは珍らしくもないので、私は明るいうちに自転車用のアセチリン・ランプを用意して、咲見町の崖ふちにあつた終点に来るのであつた。どうやら阿父の悪影響らしく、Nに限つては“Girl-shyはにかみ”は覚えなかつた代り、いつの間にかその自由さが、単なる友情を超えたおもしろさに移つてゐるのを秘かに意識せずには居られなかつた。私は未だ宿屋の番頭なども繰り込まぬ人気のない待合所のベンチに腰を降して「新進作家叢書」とか「ウエルテル文庫」などゝいふ小型の和訳本を読んだ。やがて麦畑の向方から麦笛のやうな汽笛が響き、炭坑のトロツコの如くに汽缶車の向きをあべこべにつけた汽車がのろ/\と這入つて来ると、忽ち彼女は先頭を切つて車から飛び降りた。すると、出迎への旅館の連中が向方と私を見くらべて、わらふのであつた。――といふのは、私を見出した彼女は、忽ち飛び込むやうに駆け寄つて来て、鳥のやうに朗らかな感投詞を叫びながら両腕を私の肩に載せて、頬つぺたに接吻をおくるのであつた。その光景が間もなく彼等の好奇の眼を誘つたのである。それ故私は、彼女の姿を見出すと同時に合図の腕をあげて、素早く崖径を降つて、海辺へ向ふ松林へ逃れるのであつた。段畑と入れ交つた繁みのスロウプは滑らかな芝に覆はれてゐた。――そんな「劇的」な動作に私は到底人中では堪えられなかつたのである。
「バカヤロウ――ワガハイの靴のことも考へないで、そんなにはやくかくれては、ボクは転びさうではないか。」
 彼女はほんとうに怒つたような声を挙げながら、危ふ気な脚どりで石段を降りた。ランプの光りを投げると、未だ穿き慣れない踵の高い靴が臆劫さうに段々を注意深く踏み応えてゐた。(これらの、とるに足りない印象が時経れば経る程鮮かに残つてゐた。どうやら熱海線の長い思ひ出の中の、私にとつては得難きアルペンの花であつたような気がするのである。)
 もう梅も散つて、そろ/\山桜の花が開きさうな晩、私達は月あかりの芝生で土産の弁当籠をあけて家へ向ふのも忘れた。
「ミヤニニタウシロスガタ――といふのは何んな意味なの。」
 宮に似たうしろ姿や春の月
と私が記念碑の文字を訓むと、彼女は即座にノートをとり出して質問などした。
「スプリング・ムーンが、別れた恋人のかたちに似てゐるといふセンチメントをうたつたエレヂイである。」
「月が恋人のかたちに似てゐるといふのが、どうしてエレヂイなの?」
 彼女は神妙に首を傾げたり、噴き出したりした。
 伊豆山寄りの崖の上に西洋風のホテルが出来て物珍らしく、日曜にはダンス会が開かれるといふので、彼女は切りと私を誘ふのであつたが、二度も偶然に酔払つた阿父と出遇ひ、
「山小屋の、へつぽこハムレツトが来やがつた。俺には手前えの顰つ面の理由は解つてゐるんだぞ。」
 そんなことを凡そ屈托のない巻舌の英語で、大いに笑ひながら喋舌りかけたので、私は二の句も告げなかつた。すると狸腹の紳士や、狐憑きのやうな千三ツ屋が、声を合せてドツと笑つた。彼等は、酔つ払つた阿父を、見兼ねてゐる息子の照れ臭い様子が座興とでも見えたらしかつた。阿父は、俺の事業は悉く成功するに決つてゐるんだから、貴様も一そ「憂鬱学」(それはリテラチユアさと彼は註して)を分析するような学業などは放擲して、埋立会社長の秘書にでもならんか、二百円位ひのサラリイをやるぞなどゝ云つた。
「汽車が先づ小田原まで延び、真鶴に達するころになれば、丹那トンネルが完成して、熱海は一躍東洋の楽天地ルナパークになるのだ、勢ひ土地の狭隘に迫られて、海岸一帯の埋立工事を急がなければ漫遊客の収容に事足りぬわけだ。」
 阿父の一団が手に手に美しい歌妓を携へて附近の温泉場を会議場としながら株式の設立をいそぎ、祝盃に祝盃を重ねて素晴しい大夢に恍惚としてゐた有様は、さながら海賊の度胸にも似た豪胆さと奔放無碍なるお祭り気分であつた。私も、いつの間にかニワカ金持の分身の態にヤニさがつて、憂鬱な学業などは顧慮しなかつた。汽車は間もなく噂の大渦を横切つて小田原へ達し、大祭の提灯行列、更に真鶴に延びて大花火の万雷は空を覆ひ、沿線の春秋は三年、四年の年月を鬨の声を浴びて、興奮の竜巻の中を邁進した。
「お前だけは、まさかと思つてゐたのにとう/\ワイワイ連の手下になつたのかね。」
 阿母はひとり涙を滾して、私を引き据えようとしたが、今では滅多に吾家には戻らうともせず海岸寄りの上等地帯に新しい和風の粋な別荘などを建てゝ不安を知らぬ阿父の方の騒ぎが耳にこびりついて離れず、私は恰で遊蕩児のやうに阿母の言葉などは何処吹く風かとばかりにうけ流して、海賊連のお先走りであるかのやうに浮れた。
 ところが大トンネルの難工事が漸く不吉な噂を流すころになるに従つて、彼等の所謂「世界的不景気」なるものゝ暴風が次第に逞しく荒れ始めるに伴れて、地価などゝいふものは忽ちスロープを降下する橇のやうにもんどりを打つて滑り落ちた。
「これぢや、どうも取りつく島もないぞ。」
 連中の青息は穴のあいた風琴のやうに手応えもなくなり、狸腹や狐憑きの姿も消え失せて、阿父は道具立てばかりが依然として艶々しい独り舞台で腕組をしてゐるのが目立つた。所詮は抵当物件を悉く提供しても、辛うじて債務の域に達する程度で、わづかな蓄妾費の捻出にさへも事欠く状態らしかつた。多くの銀行は一斉に大扉を降すといふ騒ぎが起つたりした。
「何あに、もう少しの辛棒だ。ねえ君……」
 と阿父は思はず話相手にもならぬ私を、仲間とでも見違へて、そんな風に呼びかけたりした。「――あれまで進んだトンネルがこのまゝ中止になるなんてことがあるものか。僕はどんな恐慌が来ようと、政府は信じてゐるんだから……」
 大地震が勃発した。
 私は、両親にあいさつをするいとまもなく、甲斐々々しい背広服をまとつて、東京へ出ると即座に新聞記者の職を求め、実にも華々しい活躍に寝食を忘れた。そして休日毎に遥々と故郷の父母を見舞ふと、二人は仲違ひの状態で、阿母は米塩のもとでだけには事欠ぬと云つてゐたが阿父は西瓜畑の一隅の、漂流者の住みさうな小屋にもぐつて、
「俺ニハ一文ノ金モナクナツタヨ。はつどつぐデモ捏ネテ売リ出サウカシラ?」
 と、たしかにこれもフリガン君と見るより他はない茫然たる無表情の貌で目を丸くしてゐた。
「心細イコトヲ云ハナイデ欲イヨ、だつでい――僕トイフ息子ノアルコトヲ忘レタンデスカ?」
 私は胸を張り出して、大いに慰めた。阿父と英語の会話をとり交したのは全く暫くぶりだつたが、やはりこの方が具合が好かつた。――既にして私は再び明朗至純なる文学青年としての心懐をとり戻してゐた折からであつたから、人間の姿の本来なるものゝ純粋さこそは、寧ろその得意の場合よりも、失意の上にのみ釈然として認め得らるゝものであるといふ自信を持つてゐた。
「オ金モ、今日ダツテ、コレグラヒ持ツテ来マシタ、マタ来月モ持ツテ来ルデセウ、だつでいニ贈リタイノデアリマス。」
 私はポケツトから、あるだけの紙幣をつかみ出して五十円を並べたりした。すると彼は、心細気に横を向いて、
「俺あ、いらねえよ。折角お前えがとつたものなんだから服でもつくつたら好からう。」
 と今度は、明瞭な方言で唸つた。そして決して受取らうとしないのであるが、私だつて出したものを引つこめるわけにもゆかないので、不図、もう羽織も欲しい季節だといふのに浴衣の重ね着をして控えてゐた傍らの雛妓おしやくを見たので、慌ててその子に渡すと、その養母はゝと二人が非常に丁寧に頭をさげて、
「若旦那様、どうも有り難う――」
 とお辞儀をした。
     ――――――――――
 私は、或る事情のために本稿を此処で中断しなければならない。私は、これから急拠故郷の母の許へ赴くべき用件に迫られたのである。今では普通列車でも一時間三十分で達するのであるが、私は特に、超特急「ツバメ」の急行券を求めて、三十分だけでもの便乗時間を短縮せずには居られない。阿父は、あの漂流小屋で酒を飲み過ぎて斃れ、既に十数年の星霜が経つてゐる。丹那トンネルが開通したのはこの冒頭に誌した如く、去年の今頃であるが、従令阿父が健在であつたにしても、沿線のどこの一個所にも所有を保つた土地も無くなつたから、晩秋の大祭りの酒もうまくは飲めなかつたであらう。――十一月になると未だにナタリーは私の誕生日を祝して贈物を寄せるのが、あの「宮に似た」のエレヂイを私が説明した頃から、二十年以来の習慣である。夫々所持してゐたバースデイ・ブツクにサインを交したのは恰度あの頃であつたが、私はいつの間にか、それを紛失した。





底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷発行
初出:「日本評論 第十巻第十二号」日本評論社
   1935(昭和10)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
2006年5月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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