そして二人は彼のすぐ隣りのテエブルに坐った。 お嬢さんは彼に脊なかを向けて坐ったが、彼には何だかわざとかの女がそうしたように思われた。鸚鵡は一そう喧ましく人真似をしだした。かの女はときどきその鸚鵡を見るために脊なかを動かした。その度毎に彼はかの女の脊なかから彼の眼をそらした。 お嬢さんはその青年と鸚鵡とをかわるがわる相手にしながら絶えず喋舌っていた。その声はどうかすると「ルウベンスの偽画」の声にそっくりになった。さっきこのお嬢さんの声を聞いて彼がびっくりしたのはそのせいであったのだ。 お嬢さんの相手の青年はその顔つきばかりではなしに、全体の上品な様子が去年の混血児たちとはすこぶる異っていた。すべてがいかにもおっとりとして貴族的であった。そういう両者の対照の中に彼は何となくツルゲエネフの小説めいたものさえ感じたほどだった。この頃になってこのお嬢さんはやっとかの女の境涯を自覚しだしたのかも知れない。……そんなことをいい気になって空想していると、彼は彼自身までがうっかりその小説の中に引きずり込まれて行きそうで不安になった。 彼はもっとここに居てみようか、それとも出て行ってしまおうかと暫く躊躇していた。鸚鵡は相変らず人間の声を真似していた。それをいくら聴いていても、彼にはその言葉がすこしも分らなかった。それが彼にはなんだか彼の心の中の混雑を暗示するように思われた。 彼はいきなり立ちあがると不器用な歩き方でロッジを出て行った。 ロッジのそとへ出ると、二台の自転車がそのハンドルとハンドルとを、腕と腕とのようにからみあわせながら、奇妙な恰好で、そこの草の上に倒れているのを彼は見た。 そのとき彼の背後からお嬢さんの高らかな笑い声が聞えてきた。 彼はそれを聞きながら、自分の体の中にいきなり悪い音楽のようなものが湧き上ってくるのを感じた。 悪い音楽。たしかにそうだ。彼を受持っているすこし頭の悪い天使がときどき調子はずれのギタルを弾きだすのにちがいない。 彼は自分の受持の天使の頭の悪さにはいつも閉口していた。彼の天使は彼に一度も正確にカルタの札を分配してくれたことがないのだ。 或る晩のことであった。 彼は彼女の家から彼のホテルへのまっ暗な小径を、なんだか得体の知れない空虚な気持を持てあましながら帰りつつあった。 その時前方の暗やみの中から一組の若い西洋人達が近づいてくるのを彼は認めた。 男の方は懐中電気でもって足もとを照らしていた。そしてときどきその電気のひかりを女の顔の上にあてた。するとそのきらきら光る小さな円の中に若い女の顔がまぶしそうに浮び出た。 それを見るためには、その女が彼よりずっと脊が高かったので、彼はほとんど見上げるようにしなければならなかった。そういう姿勢で見ると、若い女の顔はいかにも神神しく思われた。 一瞬間の後、男は再び懐中電気をまっ暗な足もとに落した。 彼は彼等とすれちがいながら、彼等の腕と腕が頭文字のようにからみあっているのを発見した。それから彼はその暗やみの中に一人きりに取残されながら、なんだか気味のわるいくらいに亢奮しだした。彼は死にたいような気にさえなった。 そういう気持は悪い音楽を聞いたあとの感動に非常に似ていた。
そういう音楽的なへんな亢奮をしきりに振り落そうとして、彼はその朝もそこら中をむちゃくちゃに歩き廻った。そのうちに彼は一つの見知らない小径に出た。 そこいらは一度も来たことのないせいか、町から非常に遠く離れてしまったかのように思われた。 そのとき彼はふと自分の名前を呼ばれたような気がした。あたりを見廻してみたが、それらしいものは見えなかった。おかしいなと思っていると、また彼の名前を呼ぶものがあった。今度はややはっきり聞えたのでその声のした方を振り向いてみると、そこには彼のいる小径から三尺ばかり高まった草叢があり、その向うに一人の男がカンバスに向っているのが見えるのだ。その男の顔を見ると彼は一人の友人を思い出した。 彼はやっとこさその上に這い上って、その友人のそばへ近よって行った。が、その友人は、彼にはべつに何にも話しかけようとせずに、そのまま熱心にカンバスに向っていた。彼も話しかけない方がいいのだろうと思った。そうしてそこへ腰を下ろしたまま黙ってその描きかけの絵を見まもっていた。彼はときどきその絵のモチイフになっている風景をそのあたりに捜したりした。しかしそれらしい風景はどうしても捜しあてることが出来なかった。なにしろその画布の上には、唯、さまざまな色をした魚のようなものや小鳥のようなものや花のようなものが入り混っているだけだったから。 しばらくその奇妙な絵に見入っていたが、やがて彼はそっと立ちあがった。すると立ちあがりつつある彼を見上げながら、友人は言った。 「まあ、いいじゃないか。僕は今日東京へ帰るんだよ」 「今日帰る? だって、まだその絵、出来てないんじゃないの?」 「出来てないよ。だが僕はもう帰らなければならないんだ」 「どうしてさ」 友人はそれに答えるかわりに再び自分の絵の上に眼を落した。しばらくその一部分に彼の眼は強く吸いつけられているかのようであった。

彼はひとり先きにホテルに帰って、昼食を共にしようと約束をしたさっきの友人の来るのを客間で待っていた。 彼は客間の窓から顔を出して中庭に咲いている向日葵の花をぼんやり眺めていた。それは西洋人よりも脊高く伸びていた。 ホテルの裏のテニス・コオトからはまるで三鞭酒を抜くようなラケットの音が愉快そうに聞えてくるのである。 彼は突然立上った。そして窓ぎわの卓子の前に坐り直した。それから彼はペンを取りあげた。しかしその上にはあいにく一枚の紙もなかったので、彼はそこに備え付けの大きな吸取紙の上に不恰好な字をいくつもにじませて行った。
ホテルは鸚鵡 鸚鵡の耳からジュリエットが顔を出す しかしロミオは居りません ロミオはテニスをしているのでしょう 鸚鵡が口をあけたら 黒ん坊がまる見えになった
彼はもう一度それを読み返そうとしたが、すっかりインクがにじんでしまっていて何を書いたのか少しも分らなくなってしまっていた。 それでもやはり彼は、約束の時間よりもすこし遅れてやってきた友人がひょいとそれを覗き込んだ時には、それを裏返えしにした。 「隠さなくてもいいじゃないか?」 「これは何でもないんだ」 「ちゃんと知ってるよ」 「何をさ」 「一咋日、いいところを見ちゃったから」 「一昨日だって? なんだ、あれか」 「だから今日は君が奢るんだよ」 「あれは、君、そんなもんじゃないよ」 あれはただ浅間山の麓まで自動車で彼女たちのお供をしただけだ。「たったそれだけ」だったのだ。――彼は再びその時の夫人の言葉を思い出した。そしてひとりで顔を赧くした。 それから彼等は食堂へはいって行った。それを機会に彼は話題を換えようとした。 「ときに君の絵はどうしたい?」 「僕の絵? あれはあのままだ」 「惜しいじゃないか?」 「どうも仕方がないんだ。ここは風景は上等だが、描きにくくて困るね。去年も僕は描きに来たんだが駄目さ。空気があんまり良すぎるんだね。どんなに遠くの木の葉でも、一枚一枚はっきり見えてしまうんだ。それでどうにもならなくなるんだよ」 「ふん、そんなものかね……」 彼はスウプを匙ですくいながら、思わずその手を休めて、自分自身のことを考えた。ことによると、自分と彼女との関係がちっとも思うように進行しないのは、ひとつはここの空気があんまり良すぎて、どんなに小さな心理までも互にはっきり見えてしまうからかも知れない。彼はそれを信じようとさえした。 そして彼は考えた。描きかけの風景画をたずさえてこれから東京へ帰ろうとしているこの友人と同様に、自分もまた数日したら、それも恐らく描きかけのままになるであろう自分の「ルウベンスの偽画」をたずさえて再びここを立ち去るより他はないであろうか?
午後になって、その友人を町はずれまで見送ってから、彼はひとりで彼女の家を訪れた。 丁度ふたりでお茶を飲んでいるところだった。彼を見ると夫人は急に思い出したように彼女に言った。 「あの乳母車にのっている写真をお見せしないこと?」 彼女は笑いながらその写真を取りに次の部屋にはいっていった。その間、彼の眼のうちらには、彼女の幼時の写真の古い茸のような色がひとりでに溜ってくるようだった。次の部屋から再び帰ってきた彼女は彼に二枚の写真を渡した。が、それは二枚とも彼の眼をまごつかせたくらいに撮影したばかりの新鮮な写真だった。それはこの夏この別荘の庭で、彼女が籐椅子に腰かけているところを撮らせたものらしかった。 「どっちがよく撮れて?」彼女が訊いた。 彼は少しどきまぎしながら、近視のように眼を細くしてその二つの写真を見較べた。彼は何とはなしにその一つの方を指してしまった。そのとき彼の指の先がそっとその写真の頬に触れた。彼は薔薇の花弁に触れたように思った。 すると夫人はもう一つの方の写真を取りあげながら言った。 「でも、この方がこの人には似ていなくて?」 そう言われてみると、彼にもその方が現実の彼女によりよく似ているように思われた。そしてもう一つの方は彼の空想の中の彼女に、――「ルウベンスの偽画」にそっくりなのだと思った。 しばらくしてから、彼は実物を見ないうちに消えてしまったさっきの古い茸のような色をしたヴィジョンを思い出した。 「乳母車というのはどれですか?」 「乳母車?」 夫人はちょっと分らないような表情をした。が、すぐその表情は消えた。そしてそれはいつもの、やさしいような皮肉なような独特の微笑に変っていった。 「その籐椅子のことなのよ」 そしてそのように和やかな空気が、相変らず、その午後のすべての時間の上にあった。
これがあれほど彼の待ちきれずに待っていたところの幸福な時間であろうか? 彼女たちから離れている間中、彼は彼女たちにたまらなく会いたがっていた。そのあまりに、彼は彼の「ルウベンスの偽画」を自分勝手につくり上げてしまうのだ。すると今度はその心像が本当の彼女によく似ているかどうかを知りたがりだす。そしてそれがますます彼を彼女たちに会いたがらせるのであった。 ところが現在のように、自分が彼女たちの前にいる瞬間は、彼はただそのことだけですっかり満足してしまうのだ。そしてその瞬間までの、その心像が本当の彼女によく似ているかどうかという一切の気がかりは、忘れるともなく忘れてしまっている。それというのも、自分が彼女たちの前にいるのだということを出来るだけ生き生きと感じていたいために、その間中、彼はその他のあらゆることを、――果してその心像が本当の彼女によく似ているかどうかという前日からの宿題さえも、すっかり犠牲にしてしまうからだった。 しかし漠然ながらではあるが、自分の前にいる少女とその心像の少女とは全く別な二個の存在であるような気もしないではなかった。ひょっとしたら、彼の描きかけの「ルウベンスの偽画」の女主人公の持っている薔薇の皮膚そのままのものは、いま彼の前にいるところの少女に欠けているかも知れないのだ。 二つの写真のエピソオドが彼のそういう考えをいくらかはっきりさせた。
夕暮になって、彼はホテルへのうす暗い小径をひとりで帰っていった。 そのとき彼はその小径に沿うた木立の奥の、大きい栗の木の枝に何か得体の知れないものが登っていて、しきりにそれを揺ぶっているのを認めた。 彼が不安そうに、ふとすこし頭の悪い自分の受持の天使のことを思いうかべながら、それを見あげていると、なんだか浅黒い色をした動物がその樹からいきなり飛び下りてきた。それは一匹の栗鼠だった。 「ばかな栗鼠だな」 そんなことを思わずつぶやきながら、彼はうす暗い木立の中をあわてて尻尾を脊なかにのせて走り去ってゆく粟鼠を、それの見えなくなるまで見つめていた。
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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