けさ急に思い立って、軽井沢の山小屋を閉めて、野尻湖に来た。 実は――きのうひさしぶりで町へ下りて菓子でも買って帰ろうとしたら、何処の店ももう大概引き上げたあとで、漸っと町はずれのアメリカン・ベエカリイだけがまだ店を開いていたので、飛び込んだら、欲しいようなものは殆ど何も無かった、木目菓子の根っこのところだけ、それも半欠けになって残っていたが、いくら好きでも、これにはちょっと手を出し兼ねていた。そこへよく見かける一人の老外人がはいって来た。この店のお得意だと見え、「おやおや、お菓子、もうなんにも無いですね……」と割に流暢な日本語で店の売子に言葉を掛けながら、私の手を出しかねていたバウム・クウヘンを指して、「これは鼠が噛ったのですか?」などと常談さえ云う。「そうかも知れませんね。……それでもよろしかったら、先生に私から進物にしますわ。」雀斑のある若い娘も笑いながら、そんな返事をしている。「実は持て余していたところなんでしょう?」と老外人の見事な応酬。――そんな和気靄々たる常談の云いあいをあとに、私はビスケットだけ包んで貰って、さっさと店を出て来た。そして町を引っ返して往きながら、ふいといま頃は森のなかの小屋で風呂の火でも焚きつけているだろう妻の姿を浮べた。なんだか急に淋しくなった。このまま二三日何処かへちょっと旅行に出て、それから戻って来たら又こんな気もちも落着くだろうと思いながら、丁度店の主人が一人で横浜へ引き上げるため最後の荷作りをしている或る運道具店の前を通りすがりに、ひょいとズックの手提鞄のようなものを目に入れて、ずかずかと入っていって、突嗟に旅行の決心をして、それを買い求めた。それはラケットの入るようになった鞄だった。なんでもいいから、失くしたボストン・バッグの代りに旅行に携えてゆくつもりだった。…… そんな急な思いつきで、妻と二人で、旅に出て来たのだった。最初は、志賀高原、戸隠山、野尻湖なんぞとまわれるだけまわって、軽井沢ももう倦きたので、来年の夏を過ごすところを今から物色しておこうと思った。だが、何せ、疲れやすい私の事だから、先ず一番楽なコオスをと思って、野尻湖に来た。――どうも外人の跡ばかり追っかけているようで、気が引けるが、あいつらの見つけ出すものには棄て難い味がある。人のあまり知らないような山奥から不思議に日本離れした風景を捜し出してくるようだが、それは長く本国から離れている彼等のどうにもこうにもしようのないような郷愁からかも知れない。そういう山奥で夏だけ過ごすのは最初は随分不自由だろうが、それを忍んで、其処を彼等の流儀で馴らしてしまう。そんなところが私の心を惹くと見える。…… 旅の途中、二人分の簡単な身のまわりの物だけ詰めこんできた例のラケット入れは相当重くなったが、そんなものを女に持たせるのはどうかと思うので、最初のうちは自分でいかにも颯爽と持って歩いたが、すぐへたばってしまった。で、ときどき妻に持って貰って、人なかに出るときは急いで私が持ち換えたりした。そして私が痩せ我慢をしいしい歩いているのを、妻は側で心配そうに見ていた。そんな私達二人の旅だから、いくら慾張った旅程を立てておいたところで、何処まで往けるか知れたものだった。……
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乗合で野尻湖に向う途中、真白い蕎麦の花の咲いた畑の間で、もう引き上げて来る外人の荷物を積み込んだ荷馬車とすれちがった。どうせもう夏も過ぎた事だから、すっかり蓼れているだろうが、人に訊いてきたレエクサイド・ホテルとか云う、外人相手の小さなホテルだけでも明いていて呉れればいいが――と思って、湖畔で乗合から降り、船の発着所まで往って、船頭らしいものを捉えて訊くと、 「さあ、レエクサイドはどうかな?」と不承不承に立って、南の方の外人部落らしい、赤だの、緑だのの屋根の見える湖岸を見やっていたが、 「あの一番はずれに見える屋根がホテルだがね、まだ旗が出ているようだから、やってましょう。――お往きなさるかい?」 私達はすこし心細そうに顔を見交していた。が、せっかく此処まで来たのだから、その前まで往くだけでも往って見ようと、六人ぐらいは乗れそうな、旧式のモオタア船にちょこんと二人だけ乗った。 湖水は静かだった。絵はがきによくあるヨットは一隻も出ていなかった。私達を載せたモオタア船だけが湖上にあって、水の面にガソリンの臭を漂わせながら、いやにエンジンの音を立て続けている。――漸く外人部落が目なかいに見えて来、その一番はずれには、なるほど赤い屋根の建物があって、その上には赤い旗がばたばたやっているのが認められ出した。 モオタア船から上って、坂を登り切ると、すぐそれが分かった。レエクサイド・ホテルと云うからには、もう少し洒落た家かと思っていたら、なんの事はない、――丸木作りの、いとも粗末なバンガロオだった。私達は再び顔を見交した。ままよ、もうしようがないから、一晩だけでも我慢して泊って往こうと腹を据えて、私は妻の持っていたラケット入れを殆ど引ったくるようにして、玄関に立った。 玄関の脇に二つ三つ木の椅子のある小さな土間があって、そこが酒場になっている。舶来物らしいウィスキイや葡萄酒の壜が並んで、壁には「Summer in Germany」というポスタアが掛かっているのが見える。ちょっと一種の感じがある。 二度目に呼鈴を押したら、漸っと白い上張りを引っかけた若い男が出て来たので、部屋をかけあうと、まだ二三日滞在している筈の前からの客があるのでそれまでならお泊めします、と云う事だった。ともかくも部屋を見せて貰うことにして、靴を――そう、靴は脱がなければならなかった。 客室は二階に五つか六つあるっきり、――それも西側の湖水に向いた方は全部日本間で、洋間は裏山と向き合った東側に小さいのが二つあるだけだった。湖水に向った方は折からの西日が一ぱい差し込んでいて、それではやり切れないから、眺めの悪い洋間の方の一つを選んだ。窓の下には薪が積んであったり、玉蜀黍が植えられてあったりしていて、その少し向うに二三本の赭松が見え、それから何処へ往くのだか一本の道が傾きながら裏山へ消えているきりだった。しかし、思ったよりは落着けそうな部屋だった。 二階に張出しがあってちょっといいと妻が見て来ていうので、私もそのままスリッパを引摺って出て往って見た。すぐ真下に木々の枝を丁度いい額縁にして湖水の一部が見えそれを四方から囲んでいる山々を私ははじめて見た。地図と見くらべながら、右手のが斑尾山、それからずっと左手のが妙高山、黒姫山、というのだけが分かった。それからいま此処からは見えないが、戸隠山、飯綱山などがまだ控えている筈だった。
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そう疲れてもいないので、夕飯までに近所の外人部落でも一まわりして見る事にする。 急な丘の腹にもって来て、殆ど隙間もない位、それらの別荘が建て混んでいるので、通り路が何処からどうついているのかも分からず、又、その道から一々の別荘へなんの仕切りもなしに段々路がついているので、そのややっこしいったら無い。うっかりするとすぐ外人の別荘の中へ迷い込んでしまうが、さいわい今はもう殆ど全部閉まっているので、平気でそのヴェランダの下や勝手の横などを通り抜けて往った。まだ二軒か三軒ぐらい、そんな別荘に外人の家族が居残っているらしく、空家かと思った中から人の暮らしの静かな物音がしたりする。 こうやって人けの絶えた外人部落をなんという事なしにぶらついていると、夏の盛り時は見ていずとも、何か知ら夏に於ける彼等の生活ぶりがそこいらへんからいきいきと蘇ってくる。――人が住んでいようといまいと、いつもこんな具合に草が茫々と生えて、ヴェランダなど板が割れて、いまにも踏み抜きそうな位に、廃園らしい感じだが、そんな中から人々の笑い声がし、赤ん坊がハンモックに寝かされ、犬が走り、マアガレットが咲きみだれ、洗濯物が青いのや赤いのや白いのや綺麗にぶらさがっている。……夕方になると、上の方の別荘からレコオドが聞え、湖水の面にはヨットが右往左往している。そして、このウツギの花の咲いた井戸端なんぞには、きっと少女が水を汲みに来て快活そうにお喋りをする。……そんな愉しそうな空想があとからあとから涌いて来る。それをまた子供のようにはしゃいで一々妻に云い訊かせながら歩いている私は、何遍となく間違えて人の家へはいって往った。 漸っと急な坂を湖水の岸まで下りて、こんどは岸の砂地を歩いた。まだ二三隻、岸に繋がれていたボオトの尻を浪がぺちゃぺちゃと叩いていた。そこにも人けは全く絶えていて、白いワイヤ種の犬が一匹、その浪打ち際を、一人で駈けずりまわっているだけだった。
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夕方、私達が五つ六つの卓のあるきりの小さな食堂で、木の間ごしにちらちら見える湖水の面を眺めながら、セロリのついた野菜の皿に向っている最中、いましがた外から帰って来たらしい、外人の若い娘がふたりで食堂にはいって来た。先きにはいって来たのは、半ズボンに白いポロシャツという服装で、頭も男の子のように刈り上げた、目鼻立のきりっとした美しい娘で、続いてはいって来たのは、薔薇色の着物をきた肥り気味の、おとなしそうな娘だった。二人は私達の卓の傍をすうっと通って、向うの窓ぎわの卓に就いた。丁度私と白いポロシャツの娘とは向い合わせ、妻と薔薇色の娘とは背中合わせになった。 「きょうだいか知ら?」妻は小声で私に云ったが、それがポロシャツの娘を少年と見まちがえているらしい事に気がついて、私はおもわず微笑みながら首をふりふり、丁度食後の菓子を運んできた女中が立ち去るのを待って、「お前はあれを少年とまちがえているようだがね……あれは女性だよ」 「ほんとう?……」妻はそうかと云って振り向いて見るわけにもいかず、プディングを匙であぶなかしそうにすくいながら云った。 「女性は女性にちがいないが……あれは旦那様なのかも知れない。……」私はそんな蔭口をいいながら、おもわずその娘とばったり目を合わせた。私よりも先きに、娘の方ですぐ目をそらせた。 私は煙草をふかし出しながら、二人でゆっくり珈琲を飲んでいると、帳場のかげからレコオドが聞えてきた。「アヴェ・マリア!……」向うの卓で薔薇色の娘がそう甘えるような声を出した。ポロシャツの方はセロリを口に入れながら、黙ってうなずいていた。曲が静かに終っても、いつまでも空まわりをやっていた。それに気がついて、台所から皿洗いらしいものの姿が帳場の奥へちらり見えて、他のと掛け換えた。そのとき初めて気がついたが、どうやらこのホテルでは、マネエジャアから料理番、皿洗いまで一人でやっていると見える。こんどの曲はワルツか何からしかった。 夜、いつまでもなんだか口の中に残っているセロリの匂を気にしながら、すこし自分達の部屋で本を読んでいたが、どうも部屋が小さいせいか蒸し蒸しするので、窓を明け放しておいて二人ともヴェランダへ出て往った。 その隣りの、湖に面した部屋のあかりが急に消されたようだった。そこがさっきの娘たちの部屋らしい。私達がヴェランダに出て黙ったまま煙草をふかしていると、隣りの真っ暗な部屋から低い囁き声が漸くし出した。それとはなしに耳を傾けていると、一人が絶えず甘えるような声で何かを囁きつづけているのを、もう一人はふんふんといった調子でさも気がなさそうに聞いていた。そうしてはときどきよく生意気な青年がするように、どうでもいいような素っ気ない笑い声を立てていた…… 「もうおはいりにならない? すこし冷え冷えしてきたわ……」妻がいった。 「……」私は黙って、山の上にいつか漂い出している夜の雲を見上げていた。 「それはそうと、あしたはどうなさるおつもり?」 「うん、まあ、もう一日位、此処にいてもいいな。静かだから、本ぐらいは読めそうだ。」 私は思い出したように、手にしていた小さな本を開いた。それを少し遠くからのあかりで読もうとしかけた。 「こんな暗いところで、そんなものを読むのはおよしなさいな。……とにかく、こんやは疲れているからもうお休みにならない? あしたの事はあしたの事にして……」 「うん、それもよかろう。あしたの事はあしたの事にするか……」 私は再び一面に雲の出ている夜の空を見上げた。これはどうも明朝あたりから天気が崩れそうだぞと思った。だが、まあ好い、本当にあしたの事はあしたの事だ。……
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