楡の家
第一部
一九二六年九月七日、O村にて 菜穂子、 私はこの日記をお前にいつか読んで貰うために書いておこうと思う。私が死んでから何年か立って、どうしたのかこの頃ちっとも私と口を利こうとはしないお前にも、もっと打ちとけて話しておけばよかったろうと思う時が来るだろう。そんな折のために、この日記を書いておいてやりたいのだ。そういう折に思いがけなくこの日記がお前の手に入るようにさせたいものだが、――そう、私はこれを書き上げたら、この山の家の中の何処か人目につかないところに隠して置いてやろう。……数年間秋深くなるまでいつも私が一人で居残っていたこの家に、お前はいつかお前の故に私の苦しんでいた姿をなつかしむために、しばらくの日を過しに来るようなことがあるかも知れぬ。その時までこの山の家が私の生きていた頃とそっくりその儘になっていてくれると好いが。……そうしてお前は私が好んでそこで本を読んだり編物をしたりしていた楡の木陰の腰掛けに私と同じように腰を下ろしたり、又、冷えびえとする夜の数時間を暖炉の前でぼんやり過ごしたりする。そういうような日々の或る夜、お前は何気なく私の使っていた二階の部屋にはいって行って、ふとその一隅にこの日記を見つける。……若しかそんな折だったら、お前は私を自分の母としてばかりではなしに、過失もあった一個の人間として見直してくれ、私をその人間らしい過失のゆえに一層愛してくれそうな気もするのだ。 それにしても、この頃のお前はどうしてこんなに私と言葉を交わすのを避けてばかりいるのかしら? 何かお互に傷つけ合いそうなことを私から云い出されはせぬかと恐れておいでばかりなのではない。かえってお前の方からそういうことを云い出しそうなのを恐れておいでなのだとしか思えない。この頃のこんな気づまりな重苦しい空気が、みんな私から出たことなら、お兄さんやお前にはほんとうにすまないと思う。こうした鬱陶しい雰囲気がますます濃くなって来て、何か私たちには予測できないような悲劇がもちあがろうとしているのか、それとも私たち自身もほとんど知らぬ間に私たちのまわりに起り、そして何事もなかったように過ぎ去って行った以前の悲劇の影響が、年月の立つにつれてこんなに目立って来たのであろうか、私にはよく分らない。――が、恐らくは、私たちにはっきりと気づかれずにいる何かが起りつつあるのだ。それがどんなものか分らないながら、どうやらそれらしいと感ぜられるものがある。私はこの手記でその正体らしいものを突き止めたいと思うのだ。
私の父は或る知名の実業家であったが、私のまだ娘の時分に、事業の上で取り返しのつかぬような失敗をした。そこで母は私の行末を案じて、その頃流行のミッション・スクールに私を入れてくれた。そうして私はいつもその母に「お前は女でもしっかりしておくれよ。いい成績で卒業して外国にでも留学するようになっておくれよ」と云い聞かされていた。そのミッション・スクールを出ると、私は程なくこの三村家の人となった。それで、自分はどうしても行かなくてはならないものと思いこんでいたせいか、子供ごころに一層恐ろしい気のしていた、そんな外国なんかへは行かずにすんだ。その代り、この三村の家もその頃は、おじいさんと云うのが大へん呑気なお方で、ことに晩年は骨董などにお凝りになり、すっかり家運の傾いた後だったので、お前のお父様と私とで、それを建て直すのに随分苦労をしたものだった。二十代、三十代はほとんど息もつかずに、大いそぎで通り過ぎてしまった。そうしてやっと私たちの生活も楽になり、ほっと一息ついたかと思うと、こんどはお前のお父様がお倒れになってしまったのだ。兄の征雄が十八で、お前が十五のときであった。 実のところ、私はその時までお父様の方がお先き立ちなされようとは想像だにしていなかった。そうして若い頃などは、私が先きに死んでしまったならば、お父様はどんなにお淋しいことだろうと、そのことばかり云い暮らしていた程であった。それなのにその病身の私の方が小さなお前たちとたった三人きり取り残されてしまったのだから、最初のうちは何だかぽかんとしてしまっていた。 そのうちに漸っとはっきりと古い城かなんぞの中に自分だけで取り残されているような寂しさがひしひしと感ぜられて来た。この思いがけない出来事は、しかし、まだずいぶんと世間知らずの女であった私には、人間の運命のはかなさを何か身にしみるように感じさせただけだった。そうしてお父様がお亡くなりなさる前に、私に向って「生きていたらお前にもまた何かの希望が出よう」と仰しゃられたお言葉も、私にはただ空虚なものとしか思えないでいた。……
生前、お前のお父様は大抵夏になると、私と子供たちを上総の海岸にやって、御自分はお勤めの都合でうちに居残っていらっしゃった。そうして、一週間ぐらい休暇をおとりになると、山がお好きだったので、一人で信濃の方へ出かけられた。しかし山登りなどをなさるのではなく、ただ山の麓をドライヴなどなさるのが、お好きなのであった。……私はまだその頃は、いつも行きつけているせいか、海の方が好きだったのだけれど、お前のお父様の亡くなられた年の夏、急に山が恋しくなりだした。子供たちは少し退屈するかも知れないが、何んだかそんなさびしい山の中で、一夏ぐらい誰とも逢わずに暮らしたかったのだ。私はその時ふとお父様がよく浅間山の麓のOという村のことをお褒めになっていたことを憶い出した。何んでも昔は有名な宿場だったのだそうだけれど、鉄道が出来てから急に衰微し出し、今ではやっと二三十軒位しか人家がないと云う、そんなO村に、私は不思議に心を惹かれた。何しろお父様が初めてその村においでになったのは随分昔のことらしく、それでお父様はよく同じ浅間山の麓にある外人の宣教師たちが部落しているK村にお出かけになっていたようであるが、或る年の夏、丁度お父様の御滞在中に、山つなみが起って、K村一帯がすっかり浸水してしまった。その折、お父様はK村に避暑していた外人の宣教師やなんかと共に、其処から二里ばかり離れたO村まで避難なさったのだった。……その折、昔の繁昌にひきかえ、今はすっかり寂れ、それがいかにも落着いた、いい感じになっているこの小さな村にしばらく滞在し、そしてこの村からは遠近の山の眺望が実によいことをお知りになると、それから急にお病みつきになられたのだ。そうしてその翌年からは、殆んど毎夏のようにO村にお出かけになっていたようだった。それから二三年するかしないうちに、そこにもぽつぽつ別荘のようなものが建ち出したという話だった。あの山つなみの折、そこに避難された方のうちにでもお父様と同じようにすっかり好きになった者があるのだろうと笑いながら仰しゃっていた。が、あんまり淋しいところだし、不便なことも不便なので、二三年人のはいったきりで、そのまま使われずにいる別荘も少くはないらしかった。――そんな別荘の一つでも買って、気に入るように修繕したら、少し不便なことさえ辛抱すれば、結構私たちにも住めるかも知れない。そう思ったものだから、私は人に頼んで手頃な家を捜して貰うことにした。 私は漸っと、数本の、大きな楡の木のある、杉皮葺きの山小屋を、五六百坪の地所ぐるみ手に入れることが出来た。風雨にさらされて、見かけはかなり傷んでいたけれど、小屋のなかはまだ新しくて、思ったより住み心地がよかった。子供たちが退屈しはしないかとそれだけが心配だったが、むしろそんな山の中ではすべてのものが珍らしいと見え、いろんな花だの昆虫などを採っては大人しく遊んでいた。霧のなかで、うぐいすだの、山鳩だのがしきりなしに啼いた。私が名前を知らない小鳥も、私たちがその名前を知りたがるような美しい啼き声で囀った。流れのふちで桑の葉などを食べていた山羊の仔も、私たちの姿を見ると人なつこそうに近よってきた。そういう仔山羊とじゃれあっているお前たちを見ていると、私のうちには悲しみともなんともつかないような気もちがこみ上げてくるのだった。しかしその悲しみに似たものは、その頃私には殆んど快いほどのものに、それなくしては私の生活は全く空虚になるだろうと思えるほどのものになってしまっていた。
それから何やかやしているうちに数年が過ぎたのであった。とうとう征雄は大学の医科にはいった。将来何をするか、私は全く自由に選ばせて置いたのだった。が、その医科にはいった動機と云うのが、その学業に特に興味を抱いているからではなくて、むしろ物質的な気もちが主になっているのを知った時、私は、なんだか胸の痛くなるような気がした。それはこのままに暮らしていたのでは私たちの僅かな財産もだんだん減るばかりなので、私はそれを一人で気を揉んでいたけれど、そんな心配は一ぺんもまだ子供たちに洩らしたことなど無い筈であった。が、征雄はそういう点にかけては、これまでも不思議なくらい敏感であった。そういう征雄がどちらかと云うと一体に性質がおとなしすぎて困るのに反して、妹のお前はお前で、子供のうちから気が強かった。何か気に入らないことでもあると、一日中黙っておいでだった。そういうお前が私にはだんだん気づまりになって来る一方だった。最初はお前が年頃になるにつれ、ますます私に似てくるので、何んだか私の考えていることが、そっくりお前に見透かされているような気がするせいかも知れないと思っていた。が、そのうち私はやっと、お前と私の似ているのはほんの表面だけで、私たちの意見が一致する時でも、私が主として感情からはいって行っているのに、お前の方はいつも理性から来ていると云う相違に気がつきだした。それが私たちの気もちをどうかすると妙にちぐはぐにさせるのだろう。
たしか、征雄が大学を卒業して、T病院の助手になったので、お前と私だけでその夏をO村に過しに行くようになった最初の年であった。隣りのK村にはそのころ、お前のお父様の生きていらしった時分の知合がだいぶ避暑に来るようになっていた。その日も、お父様のもとの同僚だった方の、或るティ・パアティに招かれて、私はお前を伴って、そこのホテルに出かけたのだった。まだ定刻に少し間があったので、私たちはヴェランダに出て待っていた。その時私はひょっくりミッション・スクール時代のお友達で、今は知名のピアニストになっていられる安宅さんにお会いした。安宅さんはその時、三十七八の、背の高い、痩せぎすの男の方と立ち話をされていた。それは私も一面識のある森於菟彦さんだった。私よりも五つか六つ年下で、まだ御独身の方だけれど、brilliant という字の化身のようなそのお方と親しくお話をするだけの勇気は私には無かった。安宅さんと何やら気の利いた常談を交わしていらっしゃるらしいのを、私たちだけは無骨者らしい顔をして眺めていた。しかし森さんは私たちのそんな気持がおわかりだったと見え、安宅さんが何か用事があってその場を外されると、私たちの傍に近づかれて二言三言話しかけられたが、それは決して私たちを困らせるようなお話し方ではなかった。 それで私もつい気やすくなり、その方のお話相手になっていた。聞かれるままに私どものいるO村のことをお話すると、大へん好奇心をお持ちになったようだった。そのうち安宅さんをお誘いしてお訪ねしたいと思いますがよろしゅうございますか、安宅さんが行かれなかったら私一人でも参りますよ、などとまで仰しゃった。ほんの気まぐれからそう仰しゃったのではなく、何んだかお一人でもいらっしゃりそうな気がしたほどだった。
それから一週間ばかり立った、或る日の午後だった。私の別荘の裏の、雑木林のなかで自動車の爆音らしいものが起った。車などのはいって来られそうもないところだのに誰がそんなところに自動車を乗り入れたのだろう、道でも間違えたのかしらと思いながら、丁度私は二階の部屋にいたので窓から見下ろすと、雑木林の中にはさまってとうとう身動きがとれなくなってしまっている自動車の中から、森さんが一人で降りて来られた。そして私のいる窓の方をお見上げになったが、丁度一本の楡の木の陰になって、向うでは私にお気づきにならないらしかった。それに、うちの庭と、いまあの方の立っていらっしゃる場所との間には、薄だの、細かい花を咲かせた灌木だのが一面に生い茂っていた。――そのため、間違った道へ自動車を乗り入られたあの方は、私の家のすぐ裏の、ついそこまで来ていながら、それらに遮ぎられて、いつまでもこちらへいらっしゃれずにいた。それが私には心なしか、なんだかお一人で私のところへいらっしゃるのを躊躇なさっていられるようにも思えた。 私はそれから階下へ降りていって、とり散らかした茶テエブルの上などを片づけながら、何喰わぬ顔をしてお待ちしていた。やっと楡の木の下に森さんが現われた。私ははじめて気がついたように、惶ててあの方をお迎えした。 「どうも、飛んだところへはいり込んでしまいまして……」 あの方は、私の前に突立ったまま、灌木の茂みの向うにまだ車体の一部を覗かせながら、しきりなしに爆音を立てている車の方を振り向いていた。 私はともかくあの方をお上げして置いて、それからお隣りへ遊びに行っているお前を呼びにでもやろうと思っているうちに、さっきからすこし怪しかった空が急に暗くなって来て、いまにも夕立の来そうな空合いになった。森さんは何だか困ったような顔つきをなさって、 「安宅さんをお誘いしたら、何んだか夕立が来そうだから厭だと云っていましたが、どうも安宅さんの方が当ったようですな……」 そう云われながら、絶えずその暗くなった空を気になさっていた。 向うの雑木林の上方に、いちめんに古綿のような雲が掩いかぶさっていたが、一瞬間、稲妻がそれをジグザグに引き裂いた。と思うと、そのあたりで凄まじい雷鳴がした。それから突然、屋根板に一つかみの小石が絶えず投げつけられるような音がしだした。……私たちはしばらくうつけたように、お互に顔を見合わせていた。それは非常に長い時間に見えた。……それまでちょっとエンジンの音を止めていた自動車が、不意に野獣のようにあばれ出した。木の枝の折れる音が続けざまに私たちの耳にもはいった。 「だいぶ木の枝を折ったようですな……」 「うちのだか何処のだか分らないんですから、ようございますわ」 稲妻がときどき枝を折られたそれらの灌木を照らしていた。 それからまだしばらく雷鳴がしていたが、やっとのことで向うの雑木林の上方がうっすらと明るくなりだした。私たちは何んだかほっとしたような気持がした。そうしてだんだん草の葉が日にひかり出すのをまぶしそうに見ていると、又しても、屋根板にぱらぱらと大きな音がした。私たちは思わず顔を見合わせた。が、それは楡の木の葉のしずくする音だった…… 「雨が上ったようですから、少しそこいらを歩いて御覧になりません?」 そう云って私はあの方と向い合った椅子からそっと離れた。そうしてお隣りへお前を迎えにやって置いて、一足先きに、村のなかを御案内していることにした。 村は丁度養蚕の始まっている最中だった。家並は皆で三十軒足らずで、その上大抵の家はいまにも崩壊しそうで、中にはもう半ば傾き出しているのさえあった。そんな廃屋に近いものを取り囲みながら、ただ豆畑や唐黍畑だけは猛烈に繁茂していた。それは私たちの気もちに妙にこたえて来るような眺めだった。途中で、桑の葉を重たそうに背負ってくる、汚れた顔をした若い娘たちと幾人もすれちがいながら、私たちはとうとう村はずれの岐れ道まで来た。北よりには浅間山がまだ一面に雨雲をかぶりながら、その赤らんだ肌をところどころ覗かせていた。しかし南の方はもうすっかり晴れ渡り、いつもよりちかぢかと見える真向うの小山の上に捲き雲が一かたまり残っているきりだった。私たちが其処にぼんやりと立ったまま、気持よさそうにつめたい風に吹かれていると、丁度その瞬間、その真向うの小山のてっぺんから少し手前の松林にかけて、あたかもそれを待ち設けでもしていたかのように、一すじの虹がほのかに見えだした。 「まあ綺麗な虹だこと……」思わずそう口に出しながら私はパラソルのなかからそれを見上げた。森さんも私のそばに立ったまま、まぶしそうにその虹を見上げていた。そうして何だか非常に穏かな、そのくせ妙に興奮なさっていらっしゃるような面持をしていられた。 そのうち向うの村道から一台の自動車が光りながら走って来た。その中で誰かが私たちに向って手をふっているのが認められた。それは森さんのお車に乗せて貰って来たお前とお隣りの明さんだった。明さんは写真機を持っていらしった。そうしてお前が耳打ちすると、明さんはその写真機をあの方に横から向けたりした。私は叱言も言えずに、はらはらしてお前たちのそんな子供らしいはしゃぎ方を見ているよりしようがなかった。あの方はしかしそれにはお気がつかないような様子をなすって、すこし神経質そうに足もとの草をステッキで突いたり、ときどき私と言葉を交わしたりしながら、お前たちに撮られるがままになっていられた。
それから三四日、午後になると、一ぺんはきまって夕立がした。夕立はどうも癖になるらしい。その度毎に、はげしい雷鳴もした。私は窓ぎわに腰かけながら、楡の木ごしに向うの雑木林の上にひらめく無気味なデッサンを、さも面白いものでも見るように見入っていた。これまではあんなに雷を恐がった癖に。…… 翌日は、霧がふかく、終日、近くの山々すら見えなかった。その翌日も、朝のうちはふかい霧がかかっていたが、正午近くなってから西風が吹き出し、いつのまにか気もちよく晴れ上った。 お前は二三日前からK村に行きたがっておいでだったが、私はお天気がよくなってからにしたらと云って止めていたところ、その日もお前がそれを云い出したので、「なんだか今日は疲れていて、私は行きたくないから、それじゃ、明さんに一緒に行っていただいたら……」と私は勧めて見た。最初のうちは「そんなら行きたくはないわ」と拗ねておいでだったが、午後になると、急に機嫌を直して、明さんを誘って一緒に出かけていった。 が、一時間もするかしないうちに、お前たちは帰って来てしまった。あんなに行きたがっていた癖に、あんまり帰りが早過ぎるし、お前がなんだか不機嫌そうに顔を赤くし、いつも元気のいい明さんまでが、すこし鬱いでいるように見えるので、途中で、お前たちの間に、何か気まずいことでもあったのかしらと私は思った。明さんは、その日はおあがりにもならないで、そのまますぐ帰って行かれた。 その晩、お前は私にその日の出来事を自分から話し出した。お前はK村に行くと、真っ先きに森さんのところへお寄りする気になって、ホテルの外で明さんに待っていただいて、一人で中にはいっていった。丁度午餐後だったので、ホテルの中はひっそりとしていた。ボオイらしいものの姿も見えないので、帳場で居睡りをしていた背広服の男に、森さんの部屋の番号を教わると、一人で二階に上っていった。そして教わった番号の部屋のドアを叩くと、中からあの方らしい声がしたので、いきなりそのドアを開けた。お前をボオイかなんかだと思われていたらしく、あの方はベッドに横になったまま、何やら本を読んでいた。お前がはいってゆくのを見ると、あの方はびっくりなさったように、ベッドの上に坐り直された。 「おやすみだったんですか?」 「いいえ、こうやって本を読んでいただけなんです」 そう云いながら、あの方はしばらくお前の背後にじっと眼をやっていた。それからやっと気がついたように、 「おひとりなんですか?」とお前にきいた。 「ええ……」お前はなんだか当惑しながら、そのまま南向きの窓のふちに近よっていった。 「まあ、山百合がよくにおいますこと」 すると、あの方もベッドから降りていらしって、お前のとなりにお立ちになった。 「私はどうもそれを嗅いでいると頭痛がしてくるんです」 「お母さんも、百合のにおいはお嫌いよ」 「お母さんもね……」 あの方は何故かしらひどく素気のない返事をなさった。お前は少しむっとした。……その時、向うの亭の木蔦のからんだ四目垣ごしに、写真機を手にした明さんの姿がちらちらと見えたり隠れたりしているのにお前は気がついた。あんなにホテルの外で待っているとお前に固く約束しておきながら、いつのまにかホテルの庭へはいり込んでいるそんな明さんの姿を認めると、お前はお前の幾分こじれた気もちを今度は明さんの方へ向けだしていた。 「あれは明さんでしょう?」 あの方はそれに気がつくと、いきなりお前にそう仰しゃった。そうしてそれから急になんだかお前に興味をお持ちになったように、じっとお前を見つめ出した。お前は思わず真っ赤な顔をして、あの方の部屋を飛び出してしまった。…… そんな短い物語を聞きながら、私はお前は何んてまあ子供らしいんだろうと思った。そしてそれがいかにも自然に見えたので、この頃どうかするとお前は妙に大人びて見えたりしたのは全く私の思い違いだったのかしらと思われる位であった。そうして私はお前自身にもよく分らないらしかった、あの時の羞かしさとも怒りともつかないものの原因をそれ以上知ろうとはしなかった。
それから数日後、東京から電報が来て、征雄が腸カタルを起して寝こんでいるから、誰か一人帰ってくれというので、とりあえずお前だけが帰京した。お前の出発したあとへ、森さんからお手紙が来た。
先日はいろいろ有難うございました。 O村は私もたいへん好きになりました。私もああいうところに隠遁できたらと柄にないことまで考えています。然しこの頃の気もちは却って再び二十四五になったような、何やら訣の分らぬ興奮を感じている位です。 殊にあの村はずれで御一緒に美しい虹を仰いだときは、本当にこれまで何やら行き詰まっていたようで暗澹としていた私の気もちも急に開けだしたような気がしました。これは全くあなたのお陰だと思って居ります。あの折、私は或る自叙伝風な小説のヒントをまで得ました。 明日、私は帰京いたす積りですが、いずれ又、お目にかかってゆっくりお話したいと思います。数日前お嬢さんがお見えになりましたが、私の知らない間に、お帰りになっていました。どうなさったのですか?
私がこの手紙を読むそばに、若しお前がおいでだったら、私にはこの手紙はもっと深い意味のものにとれたかも知れない。しかし、私一人きりだったことが、読んだあとで平気でそれを他の郵便物と一緒に机の上に放り出させて置いた。それが私にこの手紙をごく何んでもないもののように思い込ませて呉れた。 同じ日の午後、明さんがいらしって、お前がもう帰京されたことを知ると、そんな突然の出発が何んだか御自分のせいではないかと疑うような、悲しそうな顔をして、お上りにもならずに帰って行かれた。明さんはいい方だけれど、早くから両親を失くなされたせいか、どうもすこし神経質すぎるようだ。…… この二三日で、ほんとうに秋めいて来てしまった。朝など、こうして窓ぎわに一人きりで何んということなしに物思いに耽っていると、向うの雑木林の間からこれまではぼんやりとしか見えなかった山々の襞までが一つ一つくっきりと見えてくるように、過ぎ去った日々のとりとめのない思い出が、その微細なものまで私に思い出されてくるような気がする。が、それはそんな気もちのするだけで、私のうちにはただ、何んとも云いようのない悔いのようなものが湧いてくるばかりだ。 日暮れどきなど、南の方でしきりなしに稲光りがする。音もなく。私はぼんやり頬杖をついて、若い頃よくそうする癖があったように窓硝子に自分の額を押しつけながら、それを飽かずに眺めている。痙攣的に目たたきをしている、蒼ざめた一つの顔を硝子の向うに浮べながら……
その冬になってから、私は或る雑誌に森さんの「半生」という小説を読んだ。これがあのO村で暗示を得たと仰しゃっていた作品なのであろうと思われた。御自分の半生を小説的にお書きなさろうとしたものらしかったが、それにはまだずっとお小さい時のことしか出て来なかった。そういう一部分だけでも、あの方がどういうものをお書きになろうとしているのか見当のつかない事もなかった。が、この作品の調子には、これまであの方の作品についぞ見たことのないような不思議に憂鬱なものがあった。しかしその見知らないものは、ずっと前からあの方の作品のうちに深く潜在していたものであって、唯、われわれの前にあの方の佯われていた brilliant な調子のためすっかり掩いかくされていたに過ぎないように思われるものだった。――こういう生な調子でお書きになるのはあの方としては大へんお苦しいだろうとはお察しするが、どうか完成なさるようにと心からお祈りしていた。が、その「半生」は最初の部分が発表されたきりで、とうとうそのまま投げ出されたようだった。それは何か私にはあの方の前途の多難なことを予感させるようでならなかった。 二月の末、森さんがその年になってからの初めてのお手紙を下さった。私の差し上げた年賀状にも返事の書けなかったお詫びやら、暮からずっと神経衰弱でお悩みになっていられることなど書き添えられ、それに何か雑誌の切り抜きのようなものを同封されていた。何気なくそれを披いてみると、それは或る年上の女に与えられた一聯の恋愛詩のようなものであった。何んだってこんなものを私のところにお送りになったのかしらといぶかりながら、ふと最後の一節、――「いかで惜しむべきほどのわが身かは。ただ憂ふ、君が名の……」という句を何んの事やら分らずに口ずさんでいるうち、これはひょっとすると私に宛てられたものかも知れないと思い出した。そう思うと、私は最初何んとも云えずばつの悪いような気がした。――それから今度は、それが若し本当にそうなのなら、こんなことをお書きになったりしては困ると云う、ごく世間並みの感情が私を支配し出した。……たとえ、そういうお気持がおありだったにせよ、そのままそっとしておいたら、誰も知らず、私も知らず、そして恐らくあの方自身も知らぬ間にそれは忘れ去られ、葬られてしまうにちがいない。何故そんな移ろい易いようなお気持を、こんな婉曲な方法にせよ、私にお打ち明けになったのだろう? いままでのように、向うもこちらもそういう気持を意識せずにおつきあいしているのならいいが、いったん意識し合った上では、もうこれからはお逢いすることさえ出来ない。…… そうして私はあの方のそんな一人よがりをお責めしたい気もちで一ぱいになっていた。しかし、そういうあの方を私はどうしても憎むような気もちにはなれなかった。そこに私の弱みがあったように思われる。……が、私はその数篇の詩が私に宛てられたものであることを知り得るのは、恐らく私一人ぐらいなものであろうことに気がつくと、何かほっとしながら、その紙片を破らずに自分の机の抽出しのずっと奥の方に蔵ってしまった。そうして私は何んともないような風をしていた。 丁度、お前たちと夕方の食事に向っている時だった。私はスウプを啜ろうとしかけたとき、ふとあの紙片が「昴」からの切り抜きであったことを憶い出した。(それまでもそれに気がついていたが、それが何んの雑誌だろうと私は別に問題にしていなかったのだ。)そしてその雑誌なら、毎号私のところにも送ってきてある筈だが、この頃手にもとらずに放ってあるので、若しかしたら私の知らぬ間に、兄さんはともかく、お前はもうその詩を読んでいるかも知れなかった。これは飛んでもないことになった、と私ははじめて考え出した。何んだか気のせいか、お前はさっきから私の方を見て見ないふりをしておいでのようでならなかった。すると突然、私のうちに誰にともつかない怒りがこみ上げてきた。しかし私はいかにも虔ましそうにスウプの匙を動かしていた。……
その日からというもの、私はあの方が私のまわりにお拡げになった、見知らない、なんとなく胸苦しいような雰囲気のなかに暮らしだした。私のお逢いする人達といえば、誰もかもみんなが私を何かけげんそうな顔をして見ているような気がされてならなかった。そうしてそれから数週間というものは、私はお前たちに顔を合わせるのさえ避けるようにして、自分の部屋に閉じ籠っていた。私はただじっとして私の身に迫ろうとしている何やら私にも分からないものから身をはずしながら、それが私たちの傍を通り過ぎてしまうのを待っているより他はないような気がした。とにかくそれを私たちの中にはいりこませ、縺れさせさえしなければ、私たちは救われる。そう私は信じていた。 そうして私はこんな思いをしているよりも一層のこと早く年をとってしまえたらとさえ思った。自分さえもっと年をとってしまい、そうしてもう女らしくなくなってしまえたら、たとえ何処であの方とお逢いしようとも、私は静かな気もちでお話が出来るだろう。――しかし今の私は、どうも年が中途半端なのがいけないのだ。ああ、一ぺんに年がとってしまえるものなら…… そんなことまで思いつめるようにしながら、私はこの日頃、すこし前よりも痩せ、静脈のいくぶん浮きだしてきた自分の手をしげしげと見守っていることが多かった。
その年は空梅雨であった。そうして六月の末から七月のはじめにかけて、真夏のように暑い日照りが続いていた。私はめっきり身体が衰えたような気がし、一人だけ先きに、早目にO村に出かけた。が、それから一週間するかしないうちに、急に梅雨気味の雨がふりだし、それが毎日のように降り続いた。間歇的に小止みにはなったが、しかしそんなときは霧がひどくて、近くの山々すら殆んどその姿を見せずにいた。 私はそんな鬱陶しいお天気をかえって好いことにしていた。それが私の孤独を完全に守っていて呉れたからだった。一日は他の日に似ていた。ひえびえとした雨があちらこちらに溜っている楡の落葉を腐らせ、それを一面に臭わせていた。ただ小鳥だけは毎日異ったのが、かわるがわる、庭の梢にやってきて異った声で啼いていた。私は窓に近よりながら、どんな小鳥だろうと見ようとすると、この頃すこし眼が悪くなってきたのか、いつまでもそれが見あたらずにいることがあった。そのことは半ば私を悲しませ、半ば私の気に入った。が、そうしていつまでもうつけたように、かすかに揺れ動いている梢を見上げていると、いきなり私の眼の前に、蜘蛛が長く糸をひきながら落ちてきて、私をびっくりさせたりした。 そのうちに、こんなに悪い陽気だけれど、ぼつぼつと別荘の人たちも来だしたらしい。二三度、私は裏の雑木林のなかを、淋しそうにレエンコオトをひっかけたきりで通って行く明さんらしい姿をお見かけしたが、まだ私きりなことを知っていらっしゃるからか、いつもうちへはお立寄りにならなかった。 八月にはいっても、まだ梅雨じみた天候がつづいていた。そのうちにお前もやって来たし、森さんがまたK村にいらしっているとか、これからいらっしゃるのだとか、あんまりはっきりしない噂を耳にした。何故またこんな悪い陽気だのにあの方はいらっしゃるのかしら? あそこまでいらっしたら、こちらへもお見えになるかも知れないが、私はいまのような気もちではまだお目にかからない方がいいと思う。しかしそんな手紙をわざわざ差し上げるのも何んだから、いらしったらいらしったでいい、その時こそ、私はあの方によくお話をしよう。その場に菜穂子も呼んで、あの子によく納得できるように、お話をしよう。何を云おうかなどとは考えない方がいい。放っておけば、云うことはひとりでに出てくるものだ……。
そのうちときどき晴れ間も見えるようになり、どうかすると庭の面にうっすらと日の射し込んでくるようなこともあった。すぐまたそれは翳りはしたけれど。私は、この頃庭の真んなかの楡の木の下に丸木のベンチを作らせた、そのベンチの上に楡の木の影がうっすらとあたったり、それがまた次第に弱まりながら、だんだん消えてゆきそうになる――そういう絶え間のない変化を、何かに怯やかされているような気もちがしながら見守っていた。あたかもこの頃の自分の不安な、落ちつかない心をそっくりそのままそれに見出しでもしているように。
それから数日後、かあっと日の照りつけるような日が続きだした。しかしその日ざしはすでに秋の日ざしであった。まだ日中はとても暑かったけれども。――森さんが突然お見えになったのは、そんな日の、それも暑いさかりの正午近くであった。 あの方は驚くほど憔悴なすっていられるように見えた。そのお痩せ方やお顔色の悪いことは、私の胸を一ぱいにさせた。あの方にお逢いするまでは、この頃、目立つほど老けだした私の様子を、あの方がどんな眼でお見になるかとかなり気にもしていたが、私はそんなことはすっかり忘れてしまった位であった。そうして私は気を引き立てるようにしてあの方と世間並みの挨拶などを交わしているうちに、その間私の方をしげしげと見ていらっしゃるあの方の暗い眼ざしに私の窶れた様子があの方をも同じように悲しませているらしいことをやっと気づき出した。私は心の圧しつぶされそうなのをやっと耐えながら、表面だけはいかにももの静かな様子を佯っていた。が、私にはその時それが精一ぱいで、あの方がいらしったらお話をしょうと決心していたことなどは、とてもいま切り出すだけの勇気はないように思えた。 やっと菜穂子が女中に紅茶の道具を持たせて出て来た。私はそれを受取って、あの方にお勧めしながら、お前が何かあの方に無愛想なことでもなさりはすまいかと、かえってそんなことを気にしていた。が、その時、私の全く思いがけなかったことには、お前はいかにも機嫌よさそうに、しかも驚くほど巧みな話しぶりであの方の相手をなさり出したのだ。この頃自分のことばかりにこだわっていて、お前たちのことはちっとも構わずにいたことを反省させられたほど、そのときのお前のおとなびた様子は私には思いがけなかった。――そう云うお前を相手になさっている方があの方にもよほど気軽だと見え、私だけを相手にされていた時よりもずっと御元気になられたようだった。 そのうちに話がちょっと途絶えると、あの方はひどくお疲れになっていられるような御様子だのに、急に立ち上がられて、もう一度去年見た村の古い家並みが見てきたいと仰しゃられるので、私たちもそこまでお伴をすることにした。しかし丁度日ざかりで、砂の白く乾いた道の上には私たちの影すらほとんど落ちない位だった。ところどころに馬糞が光っていた。そうしてその上にはいくつも小さな白い蝶がむらがっていた。やっと村にはいると、私たちはときどき日を除けるため道ばたの農家の前に立ち止まって、去年と同じように蚕を飼っている家のなかの様子を窺ったり、私たちの頭の上にいまにも崩れて来そうな位に傾いた古い軒の格子を見上げたり、又、去年まではまだ僅かに残っていた砂壁がいまはもう跡方もなくなって、其処がすっかり唐黍畑になっているのを認めたりしながら、何ということもなしに目を見合わせたりした。とうとう去年の村はずれまで来た。浅間山は私たちのすぐ目の前に、気味悪いくらい大きい感じで、松林の上にくっきりと盛り上っていた。それには何かそのときの私の気もちに妙にこたえてくるものがあった。 暫くの間、私たちはその村はずれの分かれ道に、自分たちが無言でいることも忘れたように、うつけた様子で立ちつくしていた。そのとき村の真ん中から正午を知らせる鈍い鐘の音が出し抜けに聞えてきた。それがそんな沈黙をやっと私たちにも気づかせた。森さんはときどき気になるように向うの白く乾いた村道を見ていられた。迎えの自動車がもう来る筈だったのだ。――やがてそれらしい自動車が猛烈な埃りを上げながら飛んで来るのが見え出した。その埃りを避けようとして、私たちは道ばたの草の中へはいった。が、誰ひとりその自動車を呼び止めようともしないで、そのまま草の中にぼんやりと突立っていた。それはほんの僅かな時間だったのだろうけれど、私には長いことのように思えた。その間私は何か切ないような夢を見ながら、それから醒めたいのだが、いつまでもそれが続いていて醒められないような気さえしていた。…… 自動車は、ずっと向うまで行き過ぎてから、やっと私たちに気がついて引っ返して来た。その車の中によろめくようにお乗りになってから、森さんは私たちの方へ帽子にちょっと手をかけて会釈されたきりだった。……その車が又埃りを上げながら立ち去った後も、私たちは二人ともパラソルでその埃りを避けながら、何時までも黙って草の中に立っていた。 去年と同じ村はずれでの、去年と殆ど同じような分かれ、――それだのに、まあ何んと去年のそのときとは何もかもが変ってしまっているのだろう。何が私たちの上に起り、そして過ぎ去ったのであろう? 「さっき此処いらで昼顔を見たんだけれど、もうないわね」 私はそんな考えから自分の心を外らせようとして、殆ど口から出まかせに云った。 「昼顔?」 「だって、さっき昼顔が咲いていると云ったのはお前じゃなかった?」 「私、知らないわ……」 お前は私の方をけげんそうに見つめた。さっきどうしても見たような気のしたその花は、しかし、いくらそこらを眼で捜して見てももう見つからなかった。私にはそれが何んだかひどく奇妙なことのように思われた。が、次ぎの瞬間にはこんなことをひどく奇妙に思ったりするのは、よほど私自身の気もちがどうかしているのだろうという気がしだしていた。……
それから二三日するかしないうちに、森さんからこれから急に木曾の方へ立たれると云うお端書をいただいた。私はあの方にお逢いしたらあれほどお話しておこうと決心していたのだが、変にはぐれてしまったのを何か後悔したいような気もちであった。が、一方では、ああやって何事もなかったようにお逢いし、そうして何事もなかったようにお分れしたのもかえって好いことだったかも知れない、――そう、自分自身に云って聞かせながら、いくぶん自分に安心を強いるような気もちでいた。そうしてその一方、私は、自分たちの運命にも関するような何物かが――今日でなければ、明日にもその正体がはっきりとなりそうな、しかしそうなることが私たちの運命を好くさせるか、悪くさせるかそれすら分らないような何物かが――一滴の雨をも落さずに村の上を過ぎってゆく暗い雲のように、自分たちの上を通り過ぎていってしまうようにと希っていた。…… 或る晩のことであった。私はもうみんなが寝静まったあとも、何んだか胸苦しくて眠れそうもなかったので一人でこっそり戸外に出て行った。そうして、しばらく真っ暗な林の中を一人で歩いているうちに漸く心もちが好くなって来たので、家の方へ戻って来ると、さっき出がけにみんな消して来た筈の広間の電気が、いつの間にか一つだけ点いているのに気がついた。お前はもう寝てしまったとばかり思っていたので、誰だろうと思いながら、楡の木の下にちょっと立ち止まったまま見ていると、いつも私のすわりつけている窓ぎわで、私がよくそうしているように窓硝子に自分の額を押しつけながら、菜穂子がじっと空を見つめているらしいのが認められた。 お前の顔は殆ど逆光線になっているので、どんな表情をしているのか全然分からなかったが、楡の木の下に立っている私にも、お前はまだ少しも気づいていないらしかった。――そういうお前の物思わしげな姿はなんだかそんなときの私にそっくりのような気がされた。 その時、一つの想念が私をとらえた。それはさっき私が戸外に出て行ったのを知ると、お前は何か急に気がかりになって、其処へ下りて来て、私のことをずっと考えておいでだったにちがいないと云う想念であった。恐らくお前はそれと知らずにそんな私とそっくりな姿勢をしているのだろうが、それはお前が私のことを立ち入って考えているうちに知らず識らず私と同化しているためにちがいなかった。いま、お前は私のことを考えておいでなのだ。もうすっかりお前の心のそとへ出て行ってしまって、もう取り返しのつかなくなったものでもあるかのように、私のことを考えておいでなのだ。 いいえ、私はお前の傍から決して離れようとはしませぬ。それだのにお前の方でこの頃私を避けようとしてばかりいる。それが私にまるで自分のことを罪深い女かなんぞのように怖れさせ出しているだけなのだ。ああ、私たちはどうしてもっと他の人達のように虚心に生きられないのかしら? …… そう心の中でお前に訴えかけながら、私はいかにも何気ないように家の中にはいって行き、無言のままでお前の背後を通り抜けようとすると、お前はいきなり私の方を向いて、殆んどなじるような語気で、 「何処へ行っていらしったの?」と私に訊いた。私はお前が私のことでどんなに苦い気もちにさせられているかを切ないほどはっきり感じた。
第二部
一九二八年九月二十三日、O村にて
この日記に再び自分が戻って来ることがあろうなどとは私はこの二三年思ってもみなかった。去年のいま頃、このO村でふとしたことから暫く忘れていたこの日記のことを思い出させられて、何とも云えない慚愧のあまりにこれを焼いてしまおうかと思ったことはあった。が、そのときそれを焼く前に一度読み返しておこうと思って、それすらためらわれているうちに焼く機会さえ失ってしまった位で、よもや自分がそれを再び取り上げて書き続けるような事になろうとは夢にも思わなかったのである。それをこうやって再び自分の気持に鞭うつようにしながら書き続けようとする理由は、これを読んでゆくうちにお前には分かっていただけるのではないかと思う。
森さんが突然北京でお逝くなりになったのを私が新聞で知ったのは、去年の七月の朝から息苦しいほど暑かった日であった。その夏になる前に征雄は台湾の大学に赴任したばかりの上、丁度お前もその数日前から一人でO村の山の家に出掛けて居り、雑司ヶ谷のだだっ広い家には私ひとりきり取り残されていたのだった。その新聞の記事で見ると、この一箇年殆ど支那でばかりお暮らしになって、作品もあまり発表せられなくなっていられた森さんは、古い北京の或物静かなホテルで、宿痾のために数週間病床に就かれたまま、何者かの来るのを死の直前まで待たれるようにしながら、空しく最後の息を引きとって行かれたとの事だった。 一年前、何者かから逃れるように日本を去られて、支那へ赴かれてからも、二三度森さんは私のところにもお便りを下すった。支那の外のところはあまりお好きでないらしかったが、都市全体が「古い森林のような」感じのする北京だけはよほどお気に入られたと見え、自分はこういうところで孤独な晩年を過ごしながら誰にも知られずに死んでゆきたいなどと御常談のようにお書きになって寄こされたこともあったが、まさか今が今こんな事になろうとは私には考えられなかった。或は森さんは北京をはじめて見られてそんな事を私に書いてお寄こしになったときから、既に御自分の運命を見透されていたのかも知れなかった。…… 私は一昨々年の夏、O村で森さんにお会いしたきりで、その後はときおり何か人生に疲れ切ったような、同時にそういう御自分を自嘲せられるような、いかにも痛々しい感じのするお便りばかりをいただいていた。それに対して私などにあの方をお慰めできるような返事などがどうして書けたろう? 殊に支那へ突然出立される前に、何か非常に私にもお逢いになりたがっていられたようだったが(どうしてそんな心の余裕がおありになったのかしら?)、私はまだ先の事があってからあの方にさっぱりとした気持でお逢い出来ないような気がして、それは婉曲におことわりした。そんな機会にでももう一度お逢いしていたら、と今になって見れば幾分悔やまれる。が、直接お逢いしてみたところで、手紙以上のことがどうしてあの方に向って私に云えただろう? …… 森さんの孤独な死について、私がともかくもそんな事を半ば後悔めいた気持でいろいろ考え得られるようになったのは、その朝の新聞を見るなり、急に胸を圧しつけられるようになって、気味悪いほど冷汗を掻いたまま、しばらく長椅子の上に倒れていた、そんな突然私を怯やかした胸の発作がどうにか鎮まってからであった。 思えば、それが私の狭心症の最初の軽微な発作だったのだろうが、それまではそれについて何んの予兆もなかったので、そのときはただ自分の驚愕のためかと思った。そのとき自分の家に私ひとりきりであったのが却って私にはその発作に対して無頓着でいさせたのだ。私は女中も呼ばず、しばらく一人で我慢していてから、やがてすぐ元通りになった。私はそのことは誰にも云わなかった。…… 菜穂子、お前はO村で一人きりでそういう森さんの死を知ったとき、どんな異常な衝動を受けたであろうか。少くともこのときお前はお前自身のことよりか私のことを、――それから私が打ちのめされながらじっとそれを耐えている、見るに見かねるような様子を半ば気づかいながら、半ば苦々しく思いながら一人で想像していたろうことは考えられる。……が、お前はそれに就いては全然沈黙を守っており、これまではほんの申訣のように書いてよこした端書の便りさえそのとききり書いてよこさなくなってしまった。私にはこのときはその方が却って好かった。自然なようにさえ思えた。あの方がもうお亡くなりになった上は、いつかはあの方の事に就いてもお前と心をひらいて語り合うことも出来よう。――そう私は思って、そのうち私達がO村ででも一しょに暮らしているうちに、それを語り合うに最もよい夕のあることを信じていた。が、八月の半ば頃になって溜まっていた用事が片づいたので、漸っとの事でO村へ行けるようになった私と入れちがいにお前が前もって何も知らせずに東京へ帰って来てしまったことを知ったときは、流石の私もすこし憤慨した。そうして私達の不和ももうどうにもならないところまで行っているのをその事でお前に露わに見せつけられたような気がしたのだった。 平野の真ん中の何処かの駅と駅との間で互にすれちがった儘、私はお前と入れ代ってO村で爺やたちを相手に暮らすようになり、お前もお前で、強情そうに一人きりで生活し、それからは一度もO村へ来ようとはしなかったので、それなり私達は秋まで一遍も顔を合わせずにしまった。私はその夏も殆ど山の家に閉じこもった儘でいた。八月の間は、村をあちこちと二三人ずつ組んで散歩をしている学生たちの白絣姿が私を村へ出てゆくことを億劫にさせていた。九月になって、その学生たちが引き上げてしまうと、例年のように霖雨が来て、こんどはもう出ようにも出られなかった。爺やたちも私があんまり所在なさそうにしているので陰では心配しているらしかったが、私自身にはそうやって病後の人のように暮らしているのが一番好かった。私はときどき爺やの留守などに、お前の部屋にはいって、お前が何気なくそこに置いていった本だとか、そこの窓から眺められるかぎりの雑木の一本一本の枝ぶりなどを見ながら、お前がその夏この部屋でどういう考えをもって暮らしていたかを、それ等のものから読みとろうとしたりしながら、何か切ないもので一ぱいになって、知らず識らずの裡に其処で長い時間を過ごしていることがあった。…… そのうちに雨が漸っとの事で上がって、はじめて秋らしい日が続き出した。何日も何日も濃い霧につつまれていた山々や遠くの雑木林が突然、私達の目の前にもう半ば黄ばみかけた姿を見せ出した。私は矢っ張何かほっとし、朝夕、あちこちの林の中などへ散歩に行くことが多くなった。余儀なく家にばかり閉じこもらされていたときはそんな静かな時間を自分に与えられたことを有難がっていたのだったけれど、こうして林の中を一人で歩きながら何もかも忘れ去ったような気分になっていると、こういう日々もなかなか好く、どうしてこの間まではあんなに陰気に暮らしていられたのだろうと我ながら不思議にさえ思われてくる位で、人間というものは随分勝手なものだと私は考えた。私の好んで行った山よりの落葉松林は、ときおり林の切れ目から薄赤い穂を出した芒の向うに浅間の鮮な山肌をのぞかせながら、何処までも真直に続いていた。その林がずっと先きの方でその村の墓地の横手へ出られるようになっていることは知っていたけれど、或日私は好い気持になって歩いているうちにその墓地近くまで来てしまい、急に林の奥で人ごえのするのに驚いて、惶ててそこから引っ返して来た。丁度その日はお彼岸の中日だったのだ。私はその帰り道、急に林の切れ目の芒の間から一人の土地の者らしくない身なりをした中年の女が出てきたのにばったりと出会った。向うでも私のような女を見てちょっと驚いたらしかったが、それは村の本陣のおようさんだった。 「お彼岸だものですから、お墓詣に一人で出て来たついでに、あんまり気持が佳いのでつい何時までも家に帰らずにふらふらしていました。」おようさんは顔を薄赤くしながらそう云って何気なさそうな笑い方をした。「こんなにのんびりとした気持になれたことはこの頃滅多にないことです。……」 おようさんは長年病身の一人娘をかかえて、私同様、殆ど外出することもないらしいので、ここ四五年と云うものは私達はときおりお互の噂を聞き合う位で、こうして顔を合わせたことはついぞなかったのだ。私達はそれだものだから、なつかしそうについ長い立ち話をして、それから漸くの事で分かれた。 私は一人で家路に著きながら、途々、いま分かれてきたばかりのおようさんが、数年前に逢ったときから見ると顔など幾分老けたようだが、私とは只の五つ違いとはどうしても思われぬ位、素振りなどがいかにも娘々しているのを心に蘇らせているうちに、自分などの知っているかぎりだけでも随分不為合せな目にばかり逢って来たらしいのに、いくら勝気だとはいえ、どうしてああ単純な何気ない様子をしていられるのだろうと不思議に思われてならなかった。それに比べれば、私達はまあどんなに自分の運命を感謝していいのだろう。それだのに、始終、そうでもしていなければ気がすまなくなっているかのように、もうどうでも好いような事をいつまでも心痛している、――そういう自分達がいかにも異様に私に感ぜられて来だした。 林の中から出きらないうちに、もう日がすっかり傾いていた。私は突然或決心をしながら、おもわず足を早めて帰ってきた。家に著くと、私はすぐ二階の自分の部屋に上がっていって、此の手帳を用箪笥の奥から取り出してきた。この数日、日が山にはいると急に大気が冷え冷えとしてくるので、いつも私が夕方の散歩から帰るまでに爺やに暖炉に火を焚いて置くように云いつけてあったが、その日に限って爺やは他の用事に追われて、まだ火を焚きつけていなかった。私はいますぐにもその手帳を暖炉に投げ込んでしまいたかったのだ。が、私は傍らの椅子に腰かけたまま、その手帳を無雑作に手に丸めて持ちながら、一種苛ら立たしいような気持で、爺やが薪を焚きつけているのを見ている外はなかった。 爺やはそういう苛ら苛らしている私の方を一度も振りかえろうとはせずに、黙って薪を動かしていたが、この人の好い単純な老人には私はそんな瞬間にもふだんの物静かな奥様にしか見えていなかったろう。……それからこの夏私の来るまで此処で一人で本ばかり読んで暮らしていたらしい菜穂子だって私にはあんなに手のつけようのない娘にしか思われないのに、この爺やには矢っ張私と同じような物静かな娘に見えていたのだったろう。そしてこういう単純な人達の目には、いつも私達は「お為合わせな」人達なのだ。私達がどんなに仲の悪い母娘であるかと云う事をいくら云って聞かせてみても此人達にはそんな事は到底信ぜられないだろう。……そのときふとこういう気が私にされてきた。実はそういう人達――いわば純粋な第三者の目に最も生き生きと映っているだろう恐らくは為合わせな奥様としての私だけがこの世に実在しているので、何かと絶えず生の不安に怯やかされている私のもう一つの姿は、私が自分勝手に作り上げている架空の姿に過ぎないのではないか。……きょうおようさんを見たときから、私にそんな考えが萌して来だしていたのだと見える。おようさんにはおようさん自身がどんな姿で感ぜられているか知らない。しかし私にはおようさんは勝気な性分で、自分の背負っている運命なんぞは何んでもないと思っているような人に見える。恐らくは誰の目にもそうと見えるにちがいない。そんな風に誰の目にもはっきりそうと見えるその人の姿だけがこの世に実在しているのではないか。そうすると、私だってもそれは人生半ばにして夫に死別し、その後は多少寂しい生涯だったが、ともかくも二人の子供を立派に育て上げた堅実な寡婦、――それだけが私の本来の姿で、そのほかの姿、殊に此の手帳に描かれてあるような私の悲劇的な姿なんぞはほんの気まぐれな仮象にしか過ぎないのだ。此の手帳さえなければ、そんな私はこの地上から永久に姿を消してしまう。そうだ、こんなものは一思いに焼いてしまうほかはない。本当にいますぐにも焼いてしまおう。…… それが夕方の散歩から帰って来たときからの私の決心だったのだ。それだのに、私は爺やが其処を立ち去った後も、ちょっとその機会を失ってしまったかのように、その手帳をぼんやりと手にしたまま火の中へ投ぜずにいた。私には既に反省が来ていた。私達のような女は、そうしようと思った瞬間なら自分達にできそうもない事でもしでかし、それをした理由だってあとからいくらでも考え出せるが、自分がこれからしようとしている事を考え出したら最後、もうすべての事が逡巡われてくる。そのときも、私はいざこれから此の手帳を火に投じようとしかけた時、ふいともう一度それを読み返して、それが長いこと私を苦しめていた正体を現在のこのような醒めた心で確かめてからでも遅くはあるまいと考えた。しかし、私はそうは思ったものの、そのときの気分ではそれをどうしても読み返してみる気にはなれなかった。そうして私はそれをその儘、マントル・ピイスの上に置いておいた。その夜のうちにも、ふいとそれを手にとって読んで見るような気になるまいものでもないと思ったからであった。が、その夜遅く、私は寝るときにそれを自分の部屋の元あった場所に戻しておくより外はなかった。 そんな事があってから二三日立つか立たないうちの事だったのだ。或夕方、私がいつものように散歩をして帰って来てみると、いつ東京から来たのか、お前がいつも私の腰かけることにしている椅子に靠れたまま、いましがたぱちぱち音を立てながら燃え出したばかりらしい暖炉の火をじっと見守っていたのは…… その夜遅くまでのお前との息苦しい対話は、その翌朝突然私の肉体に現われた著しい変化と共に、私の老いかけた心にとっては最も大きな傷手を与えたのだった。その記憶も漸く遠のいて私の心の裡でそれが全体としてはっきりと見え易いようになり出した、それから約一年後の今夜、その同じ山の家の同じ暖炉の前で、私はこうして一度は焼いてしまおうと決心しかけた此の手帳を再び自分の前にひらいて、こんどこそは私のしたことのすべてを贖うつもりで、自分の最後の日の近づいてくるのをひたすら待ちながら、こうして自分の無気力な気持に鞭うちつつその日頃の出来事をつとめて有りの儘に書きはじめているのだ。
お前は暖炉の傍らに腰かけたまま、そこに近づいていった私の方へは何か怒ったような大きい目ざしを向けたきり、何んとも云い出さなかった。私も私で、まるできのうも私達がそうしていたように、押し黙ったまま、お前の隣りへ他の椅子をもっていって徐かに腰を下ろした。私はなぜかお前の目つきからすぐお前の苦しんでいるのを感じ、どんなにかお前の心の求めているような言葉をかけてやりたかったろう。が、同時に、お前の目つきには私の口の先まで出かかっている言葉をそこにそのまま凍らせてしまうようなきびしさがあった。どうしてそんな風に突然こちらへ来たのかを率直にお前に問うことさえ私には出来悪かった。お前もそれがひとりでに分かるまでは何んとも云おうとしないように見えた。漸っとの事で私達が二言三言話し合ったのは雑司ヶ谷の人達の上ぐらいで、あとはそれが毎日の習慣でもあるかのように二人並んで黙って焚火を見つめていた。
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