続雉子日記
英夫君が帰京してから、こんどは私は一人で毎日のように空気銃を手にして、ジャックを連れては、殆ど二三日おきぐらいに降るのでますます雪の深くなった森の中を愉快そうに歩きまわっていたが、少しその度が過ぎたと見え、とうとう十日ほど前から風邪を引いて、いくじなく寝込んでいるていたらくである。枕もとにはお義理のように横文字の本を堆高く積んであるが、見ているのは大抵例の「スゥイス日記」か、ベデカアのスゥイス案内書位なものである。 この前の日記に、私はリルケが晩年住まっていたシャトオ・ド・ミュゾオのある村をラロンと書いて澄ましていたが、実はラロンはリルケの墓のある村の名で、同じヴァレェ州の同じロオヌの川沿いながら、ミュゾオのあるのはそれより少し下流に位している、シェルという小さな町から更に上方へ入った、葡萄畑なんぞの真ん中らしい。そしてそのミュゾオもシャトオとはほんの名ばかり、むしろ十三世紀頃に出来た小さな塔のようなものであるらしい。 一九二一年の秋のことである。それまでスゥイス中を転々としながら、長い間中絶されている「ドゥイノ悲歌」を再び続けるべく、そのために外界と遮絶して、全く一人きりになっていられるような隠れ場所を捜しあぐねていたリルケは、遂に伊太利との国境にもはや近いヴァレェ州にやって来て、その何処かプロヴァンスや、また西班牙の或る物をさえ思わせるような一帯の風物を一目見るや、此処こそ自分の求めている場所と信じて、その町の一つのシェルに暫く滞在し、附近を捜しまわったがそれも空しく、とうとうその町をも立ち去ろうとする間際になって、偶然或る飾窓に売物に出ている一つの塔の写真を認めた。それは彼の或る友人の寝台の上の壁に以前から掛っていた絵の中の古い館だった。そしてそれがミュゾオだったのである。それを彼はその同じ友人の世話によって漸く手に入れることが出来た。
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「恐ろしい山々の荒漠たる風物の中に全く孤立せる小さな館。……私はこれまでかかる孤独な存在、かかる沈黙との極度の親密を想像だに出来なかった。親愛なるリルケよ、あなたは純粋時間の中に閉じ籠っているように私に思えた……」と、その頃其処を訪れたポオル・ヴァレリイは書いている。 翌年の二月である。十年前の、一九一二年ドゥイノにて着手せられ、一九一四年以来殆ど全く中絶していた「ドゥイノ悲歌」は遂にそのシャトオ・ド・ミュゾオにおいて完成せられた。しかもそれは僅か二三日で出来上ったのである。 それを書き上げた夜半、リルケはもうペンを握る力もない位に疲労しながら、眠る前にその出版者キッペンベルクにその完成を知らせてやった手紙には甚だ人の心を打つものがあるが、その一節に曰く、「……私は冷たい月光の中に出て行きました。そして小さなミュゾオを大きな獣のように愛撫してやりました……かかるものを私に授けてくれた、その古い壁を。それからまたあの破壊されたドゥイノをも。」(ドゥイノは大戦中に伊太利軍のために破壊された。) それから数日と立たない裡に引続いて又、その支流とも云うべき小さな作品が殆ど求めずして出来た。「オルフォイスに捧ぐるソネット」と呼ばれる五十余篇のソネットがそれである。 それまでもとかく健康のすぐれなかったリルケは、その仕事の過労のためにいよいよ健康を損ねてゆき、その後殆どそのミュゾオに居ついたまま、僅かな詩作と、二三の翻訳をしたくらいで、遂に一九二六年十二月の末に死んで行った。死んだのは、しかし、その愛するミュゾオではなく、発病後強いて移されたレマン湖畔のモントルウの療養所である。 病名は壊血症というものだそうだが、その病気の直接の原因になったと云われる、いかにもリルケの最後らしい、美しい挿話を、私はつい最近読んだ。
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或る日、リルケはミュゾオを訪れることを予め約束してあった一人の婦人を待っていた。その婦人は約束の時間よりもやや遅れてやって来たが、それを待っている間、リルケはその客に与えようとして、庭に出て薔薇を摘んだ。(ミュゾオの庭には、詩人が自分の手で百株ばかりの薔薇を植えていたのである。)その時その薔薇の棘が彼の手を傷つけた。そしてその何でもなかったような小さな傷が次第に悪化して行って、遂に壊血症の原因になったと云うのである。「つねに女性の偉大さと薔薇の美しさとを説いていた詩人はかくして一女性のために摘んだ薔薇の一つに刺されて死んで行ったのである。その最後がいかに痛ましくあったとは云え、それはリルケがかれ独自の死を死すべく選んだものであった、」とその話の筆者は云う。 そのミュゾオの館の庭には、いまでも詩人の手植の薔薇が咲いているそうである。私が他日スゥイスにも行けるような身の上になれたら、何よりも先に、そのミュゾオの館と、それから詩人の墓のあるラロンの村とを訪れることだろう。 が、それはいつのことやら……。私はそれよりか今は、本はとっくに買い込んで置きながら、まだ手をつけていない、そしてリルケ自身も「長い、時としては骨の折れる読書」と云うその「ドゥイノ悲歌」を何とかして克服せんことをこそ思うべきであろう。
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ノオト
「雉子日記」のなかで、私は屡々ミュゾオの館のことを持ち出したが、それについて富士川英郎君から非常に興味のあるお手紙を頂戴した。「ミュゾオの館」というのは、御承知のようにリルケがその晩年を過した瑞西のヴァレェ州にある古い chteau のことである。その見もしない chteau のことなんぞを私はいろいろと知ったか振りをして書いて見たのであるが、富士川君の注意によって、二三此処に訂正して置きたいと思うのである。 先ず、その chteau du Muzot の読み方である。私はそれを普通にシャトオ・ド・ミュゾオと発音していた。ところが富士川君の注意によると、リルケ自らが一九二一年七月二十五日にマイリ・フォン・トウルン・ウント・タクジス・ホオエンロオエ夫人に宛てた手紙のなかにそれを Muzotte と発音してくれと書いてあるのだそうである。恐らくそれがその地方特有の呼び方なのであろう。勿論、Muzotte は富士川君も言われるように、仏蘭西式にミュゾットと発音するのだろう。従って私の用いていた「ミュゾオの館」は「ミュゾットの館」と訂正されなければならない。 以上はその館のほんの名称のことだが、富士川君はその名称のことから更に、その前述の手紙の中でリルケがいろいろとその館の構造や由来について詳しく語っている由、まだその手紙を見ていない私に懇切に書いてきてくれたのである。――それによって私はもう一つ訂正して置いた方がいいと思う箇所を発見したが、私はその詩人の愛していた古い館をただ漠然と十三世紀頃のものと書いていたが、その頃から残っているのはその建物の根幹だけで、それから何度も建て直され、現存している天井や家具の多くは十七世紀頃のものらしい。それからリルケがその館のさまざまな歴史を書いているうちに、こんな話があるそうである。 十六世紀の初め頃に、その館に Isabelle de Chevron という娘が住まっていた。その娘は Jean de Montheys という男と結婚した。が、それから一年立つか立たぬうちに、マリニャンの戦いが起り、その夫はそれにはかなく戦死してしまった。若い寡婦になったイザベルは再びミュゾットの館に引き取られた。やがてそのうちに彼女の前に二人の求婚者が現われた。そしてその二人は決闘して、お互いに刺し合って二人とも死んでしまった。その夫の戦死には耐えることの出来たイザベルも、それには耐え得ずして遂に発狂してしまったのであった。そして夜毎にミイエジュにある二人の求婚者の墓まで、薄い衣をまとったまま彼女はさまよって行くのだった。そして或る冬の夜、彼女はその墓場に息絶えていた…… リルケは死ぬとき遺言して、そのイザベル・ド・シュヴロンの眠りを妨げてはいけないから、ミュゾットの近くのその墓地には自分を葬らないようにして貰いたいと言ったといわれる。……リルケの墓のあるラロンが、もう殆どシンプロンにも近い位、ずっとロオヌの谷を遡ったところにあることは、私が前にも書いたとおりである。その墓の写真が、去年の「インゼルシッフ」のクリスマス号に載っていたそうだが、それもまだ私は見る機会を得ていないのである。
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