冬
一九三五年十月二十日 午後、いつものように病人を残して、私はサナトリウムを離れると、収穫に忙しい農夫等の立ち働いている田畑の間を抜けながら、雑木林を越えて、その山の窪みにある人けの絶えた狭い村に下りた後、小さな谿流にかかった吊橋を渡って、その村の対岸にある栗の木の多い低い山へ攀じのぼり、その上方の斜面に腰を下ろした。そこで私は何時間も、明るい、静かな気分で、これから手を着けようとしている物語の構想に耽っていた。ときおり私の足もとの方で、思い出したように、子供等が栗の木をゆすぶって一どきに栗の実を落す、その谿じゅうに響きわたるような大きな音に愕かされながら…… そういう自分のまわりに見聞きされるすべてのものが、私達の生の果実もすでに熟していることを告げ、そしてそれを早く取り入れるようにと自分を促しでもしているかのように感ずるのが、私は好きであった。 ようやく日が傾いて、早くもその谿の村が向うの雑木山の影の中にすっかりはいってしまうのを認めると、私は徐かに立ち上って、山を下り、再び吊橋をわたって、あちらこちらに水車がごとごとと音を立てながら絶えず廻っている狭い村の中を何んということはなしに一まわりした後、八ヶ岳の山麓一帯に拡がっている落葉松林の縁を、もうそろそろ病人がもじもじしながら自分の帰りを待っているだろうと考えながら、心もち足を早めてサナトリウムに戻るのだった。
十月二十三日 明け方近く、私は自分のすぐ身近でしたような気のする異様な物音に驚いて目を覚ました。そうしてしばらく耳をそば立てていたが、サナトリウム全体は死んだようにひっそりとしていた。それからなんだか目が冴えて、私はもう寝つかれなくなった。 小さな蛾のこびりついている窓硝子をとおして、私はぼんやりと暁の星がまだ二つ三つ幽かに光っているのを見つめていた。が、そのうちに私はそういう朝明けが何んとも云えずに寂しいような気がして来て、そっと起き上ると、何をしようとしているのか自分でも分らないように、まだ暗い隣りの病室へ素足のままではいって行った。そうしてベッドに近づきながら、節子の寝顔を屈み込むようにして見た。すると彼女は思いがけず、ぱっちりと目を見ひらいて、そんな私の方を見上げながら、 「どうなすったの?」と訝しそうに訊いた。 私は何んでもないと云った目くばせをしながら、そのまま徐かに彼女の上に身を屈めて、いかにも怺え切れなくなったようにその顔へぴったりと自分の顔を押しつけた。 「まあ、冷たいこと」彼女は目をつぶりながら、頭をすこし動かした。髪の毛がかすかに匂った。そのまま私達はお互のつく息を感じ合いながら、いつまでもそうしてじっと頬ずりをしていた。 「あら、又、栗が落ちた……」彼女は目を細目に明けて私を見ながら、そう囁いた。 「ああ、あれは栗だったのかい。……あいつのお蔭でおれはさっき目を覚ましてしまったのだ」 私は少し上ずったような声でそう言いながら、そっと彼女を手放すと、いつの間にかだんだん明るくなり出した窓の方へ歩み寄って行った。そしてその窓に倚りかかって、いましがたどちらの目から滲み出たのかも分らない熱いものが私の頬を伝うがままにさせながら、向うの山の背にいくつか雲の動かずにいるあたりが赤く濁ったような色あいを帯び出しているのを見入っていた。畑の方からはやっと物音が聞え出した。…… 「そんな事をしていらっしゃるとお風を引くわ」ベッドから彼女が小さな声で言った。 私は何か気軽い調子で返事をしてやりたいと思いながら、彼女の方をふり向いた。が、大きくって気づかわしそうに私を見つめている彼女の目と見合わせると、そんな言葉は出されなかった。そうして無言のまま窓を離れて、自分の部屋に戻って行った。 それから数分立つと、病人は明け方にいつもする、抑えかねたような劇しい咳を出した。再び寝床に潜りこみながら、私は何んともかとも云われないような不安な気持でそれを聞いていた。
十月二十七日 私はきょうもまた山や森で午後を過した。 一つの主題が、終日、私の考えを離れない。真の婚約の主題――二人の人間がその余りにも短い一生の間をどれだけお互に幸福にさせ合えるか? 抗いがたい運命の前にしずかに頭を項低れたまま、互に心と心と、身と身とを温め合いながら、並んで立っている若い男女の姿、――そんな一組としての、寂しそうな、それでいて何処か愉しくないこともない私達の姿が、はっきりと私の目の前に見えて来る。それを措いて、いまの私に何が描けるだろうか? …… 果てしのないような山麓をすっかり黄ばませながら傾いている落葉松林の縁を、夕方、私がいつものように足早に帰って来ると、丁度サナトリウムの裏になった雑木林のはずれに、斜めになった日を浴びて、髪をまぶしいほど光らせながら立っている一人の背の高い若い女が遠く認められた。私はちょっと立ち止まった。どうもそれは節子らしかった。しかしそんな場所に一人きりのようなのを見て、果して彼女かどうか分らなかったので、私はただ前よりも少し足を早めただけだった。が、だんだん近づいて見ると、それはやはり節子であった。 「どうしたんだい?」私は彼女の側に駈けつけて、息をはずませながら訊いた。 「此処であなたをお待ちしていたの」彼女は顔を少し赧くして笑いながら答えた。 「そんな乱暴な事をしても好いのかなあ」私は彼女の顔を横から見た。 「一遍くらいなら構わないわ。……それにきょうはとても気分が好いのですもの」つとめて快活な声を出してそう言いながら、彼女はなおもじっと私の帰って来た山麓の方を見ていた。「あなたのいらっしゃるのが、ずっと遠くから見えていたわ」 私は何も言わずに、彼女の側に並んで、同じ方角を見つめた。 彼女が再び快活そうに言った。「此処まで出ると、八ヶ岳がすっかり見えるのね」 「うん」と私は気のなさそうな返事をしたきりだったが、そのままそうやって彼女と肩を並べてその山を見つめているうちに、ふいと何んだか不思議に混んがらかったような気がして来た。 「こうやってお前とあの山を見ているのはきょうが始めてだったね。だが、おれにはどうもこれまでに何遍もこうやってあれを見ていた事があるような気がするんだよ」 「そんな筈はないじゃあないの?」 「いや、そうだ……おれはいま漸っと気がついた……おれ達はね、ずっと前にこの山を丁度向う側から、こうやって一しょに見ていたことがあるのだ。いや、お前とそれを見ていた夏の時分はいつも雲に妨げられて殆ど何も見えやしなかったのさ。……しかし秋になってから、一人でおれが其処へ行って見たら、ずっと向うの地平線の果てに、この山が今とは反対の側から見えたのだ。あの遠くに見えた、どこの山だかちっとも知らずにいたのが、確かにこれらしい。丁度そんな方角になりそうだ。……お前、あの薄がたんと生い茂っていた原を覚えているだろう?」 「ええ」 「だが実に妙だなあ。いま、あの山の麓にこうしてこれまで何も気がつかずにお前と暮らしていたなんて……」丁度二年前の、秋の最後の日、一面に生い茂った薄の間からはじめて地平線の上にくっきりと見出したこの山々を遠くから眺めながら、殆ど悲しいくらいの幸福な感じをもって、二人はいつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた自分自身の姿が、いかにも懐かしく、私の目に鮮かに浮んで来た。 私達は沈黙に落ちた。その上空を渡り鳥の群れらしいのが音もなくすうっと横切って行く、その並み重った山々を眺めながら、私達はそんな最初の日々のような慕わしい気持で、肩を押しつけ合ったまま、佇んでいた。そうして私達の影がだんだん長くなりながら草の上を這うがままにさせていた。 やがて風が少し出たと見えて、私達の背後の雑木林が急にざわめき立った。私は「もうそろそろ帰ろう」と不意と思い出したように彼女に言った。 私達は絶えず落葉のしている雑木林の中へはいって行った。私はときどき立ち止まって、彼女を少し先きに歩かせた。二年前の夏、ただ彼女をよく見たいばかりに、わざと私の二三歩先きに彼女を歩かせながら森の中などを散歩した頃のさまざまな小さな思い出が、心臓をしめつけられる位に、私の裡に一ぱいに溢れて来た。
十一月二日 夜、一つの明りが私達を近づけ合っている。その明りの下で、ものを言い合わないことにも馴れて、私がせっせと私達の生の幸福を主題にした物語を書き続けていると、その笠の陰になった、薄暗いベッドの中に、節子は其処にいるのだかいないのだか分らないほど、物静かに寝ている。ときどき私がそっちへ顔を上げると、さっきからじっと私を見つめつづけていたかのように私を見つめていることがある。「こうやってあなたのお側に居さえすれば、私はそれで好いの」と私にさも言いたくってたまらないでいるような、愛情を籠めた目つきである。ああ、それがどんなに今の私に自分達の所有している幸福を信じさせ、そしてこうやってそれにはっきりした形を与えることに努力している私を助けていて呉れることか!
十一月十日 冬になる。空は拡がり、山々はいよいよ近くなる。その山々の上方だけ、雪雲らしいのがいつまでも動かずにじっとしているようなことがある。そんな朝には山から雪に追われて来るのか、バルコンの上までがいつもはあんまり見かけたことのない小鳥で一ぱいになる。そんな雪雲の消え去ったあとは、一日ぐらいその山々の上方だけが薄白くなっていることがある。そしてこの頃はそんないくつかの山の頂きにはそういう雪がそのまま目立つほど残っているようになった。 私は数年前、屡々、こういう冬の淋しい山岳地方で、可愛らしい娘と二人きりで、世間から全く隔って、お互がせつなく思うほどに愛し合いながら暮らすことを好んで夢みていた頃のことを思い出す。私は自分の小さい時から失わずにいる甘美な人生へのかぎりない夢を、そういう人のこわがるような苛酷なくらいの自然の中に、それをそっくりそのまま少しも害わずに生かして見たかったのだ。そしてそのためにはどうしてもこういう本当の冬、淋しい山岳地方のそれでなければいけなかったのだ…… ――夜の明けかかる頃、私はまだその少し病身な娘の眠っている間にそっと起きて、山小屋から雪の中へ元気よく飛び出して行く。あたりの山々は、曙の光を浴びながら、薔薇色に赫いている。私は隣りの農家からしぼり立ての山羊の乳を貰って、すっかり凍えそうになりながら戻ってくる。それから自分で煖炉に焚木をくべる。やがてそれがぱちぱちと活溌な音を立てて燃え出し、その音で漸っとその娘が目を覚ます時分には、もう私はかじかんだ手をして、しかし、さも愉しそうに、いま自分達がそうやって暮している山の生活をそっくりそのまま書き取っている…… 今朝、私はそういう自分の数年前の夢を思い出し、そんな何処にだってありそうもない版画じみた冬景色を目のあたりに浮べながら、その丸木造りの小屋の中のさまざまな家具の位置を換えたり、それに就いて私自身と相談し合ったりしていた。それから遂にそんな背景はばらばらになり、ぼやけて消えて行きながら、ただ私の目の前には、その夢からそれだけが現実にはみ出しでもしたように、ほんの少しばかり雪の積った山々と、裸になった木立と、冷たい空気とだけが残っていた。…… 一人で先きに食事をすませてしまってから、窓ぎわに椅子をずらしてそんな思い出に耽っていた私は、そのとき急に、いまやっと食事を了え、そのままベッドの上に起きながら、なんとなく疲れを帯びたようなぼんやりした目つきで山の方を見つめている節子の方をふり向いて、その髪の毛の少しほつれている窶れたような顔をいつになく痛々しげに見つめ出した。 「このおれの夢がこんなところまでお前を連れて来たようなものなのだろうかしら?」と私は何か悔いに近いような気持で一ぱいになりながら、口には出さずに、病人に向って話しかけた。 「それだというのに、この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。それでいて、おれは仕事をしながらお前のことをもっともっと考えているのだと、お前にも、それから自分自身にも言って聞かせてある。そうしておれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、おれの詰まらない夢なんぞにこんなに時間を潰し出しているのだ……」 そんな私のもの言いたげな目つきに気がついたのか、病人はベッドの上から、にっこりともしないで、真面目に私の方を見かえしていた。この頃いつのまにか、そんな具合に、前よりかずっと長い間、もっともっとお互を締めつけ合うように目と目を見合わせているのが、私達の習慣になっていた。
十一月十七日 私はもう二三日すれば私のノオトを書き了えられるだろう。それは私達自身のこうした生活に就いて書いていれば切りがあるまい。それをともかくも一応書き了えるためには、私は何か結末を与えなければならないのだろうが、今もなおこうして私達の生き続けている生活にはどんな結末だって与えたくはない。いや、与えられはしないだろう。寧ろ、私達のこうした現在のあるがままの姿でそれを終らせるのが一番好いだろう。 現在のあるがままの姿? ……私はいま何かの物語で読んだ「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」という言葉を思い出している。現在、私達の互に与え合っているものは、嘗て私達の互に与え合っていた幸福とはまあ何んと異ったものになって来ているだろう! それはそう云った幸福に似た、しかしそれとはかなり異った、もっともっと胸がしめつけられるように切ないものだ。こういう本当の姿がまだ私達の生の表面にも完全に現われて来ていないものを、このまま私はすぐ追いつめて行って、果してそれに私達の幸福の物語に相応しいような結末を見出せるであろうか? なぜだか分らないけれど、私がまだはっきりさせることの出来ずにいる私達の生の側面には、何んとなく私達のそんな幸福に敵意をもっているようなものが潜んでいるような気もしてならない。…… そんなことを私は何か落着かない気持で考えながら、明りを消して、もう寝入っている病人の側を通り抜けようとして、ふと立ち止まって暗がりの中にそれだけがほの白く浮いている彼女の寝顔をじっと見守った。その少し落ち窪んだ目のまわりがときどきぴくぴくと痙攣れるようだったが、私にはそれが何物かに脅かされてでもいるように見えてならなかった。私自身の云いようもない不安がそれを唯そんな風に感じさせるに過ぎないであろうか?
十一月二十日 私はこれまで書いて来たノオトをすっかり読みかえして見た。私の意図したところは、これならまあどうやら自分を満足させる程度には書けているように思えた。 が、それとは別に、私はそれを読み続けている自分自身の裡に、その物語の主題をなしている私達自身の「幸福」をもう完全には味わえそうもなくなっている、本当に思いがけない不安そうな私の姿を見出しはじめていた。そうして私の考えはいつかその物語そのものを離れ出していた。「この物語の中のおれ達はおれ達に許されるだけのささやかな生の愉しみを味わいながら、それだけで独自にお互を幸福にさせ合えると信じていられた。少くともそれだけで、おれはおれの心を縛りつけていられるものと思っていた。――が、おれ達はあんまり高く狙い過ぎていたのであろうか? そうして、おれはおれの生の欲求を少し許り見くびり過ぎていたのであろうか? そのために今、おれの心の縛がこんなにも引きちぎられそうになっているのだろうか?……」 「可哀そうな節子……」と私は机にほうり出したノオトをそのまま片づけようともしないで、考え続けていた。「こいつはおれ自身が、気づかぬようなふりをしていたそんなおれの生の欲求を沈黙の中に見抜いて、それに同情を寄せているように見えてならない。そしてそれが又こうしておれを苦しめ出しているのだ。……おれはどうしてこんなおれの姿をこいつに隠し了せることが出来なかったのだろう? 何んておれは弱いのだろうなあ……」 私は、明りの蔭になったベッドにさっきから目を半ばつぶっている病人に目を移すと、殆ど息づまるような気がした。私は明りの側を離れて、徐かにバルコンの方へ近づいて行った。小さな月のある晩だった。それは雲のかかった山だの、丘だの、森などの輪廓をかすかにそれと見分けさせているきりだった。そしてその他の部分は殆どすべて鈍い青味を帯びた闇の中に溶け入っていた。しかし私の見ていたものはそれ等のものではなかった。私は、いつかの初夏の夕暮に二人で切ないほどな同情をもって、そのまま私達の幸福を最後まで持って行けそうな気がしながら眺め合っていた、まだその何物も消え失せていない思い出の中の、それ等の山や丘や森などをまざまざと心に蘇らせていたのだった。そして私達自身までがその一部になり切ってしまっていたようなそういう一瞬時の風景を、こんな具合にこれまでも何遍となく蘇らせたので、それ等のものもいつのまにか私達の存在の一部分になり、そしてもはや季節と共に変化してゆくそれ等のものの、現在の姿が時とすると私達には殆ど見えないものになってしまう位であった。…… 「あのような幸福な瞬間をおれ達が持てたということは、それだけでももうおれ達がこうして共に生きるのに値したのであろうか?」と私は自分自身に問いかけていた。 私の背後にふと軽い足音がした。それは節子にちがいなかった。が、私はふり向こうともせずに、そのままじっとしていた。彼女もまた何も言わずに、私から少し離れたまま立っていた。しかし、私はその息づかいが感ぜられるほど彼女を近ぢかと感じていた。ときおり冷たい風がバルコンの上をなんの音も立てずに掠め過ぎた。何処か遠くの方で枯木が音を引きむしられていた。 「何を考えているの?」とうとう彼女が口を切った。 私はそれにはすぐ返事をしないでいた。それから急に彼女の方へふり向いて、不確かなように笑いながら、 「お前には分っているだろう?」と問い返した。 彼女は何か罠でも恐れるかのように注意深く私を見た。それを見て、私は、 「おれの仕事のことを考えているのじゃないか」とゆっくり言い出した。「おれにはどうしても好い結末が思い浮ばないのだ。おれはおれ達が無駄に生きていたようにはそれを終らせたくはないのだ。どうだ、一つお前もそれをおれと一しょに考えて呉れないか?」 彼女は私に微笑んで見せた。しかし、その微笑みはどこかまだ不安そうであった。 「だってどんな事をお書きになったんだかも知らないじゃないの」彼女は漸っと小声で言った。 「そうだっけなあ」と私はもう一度不確かなように笑いながら言った。「それじゃあ、そのうちに一つお前にも読んで聞かせるかな。しかしまだ、最初の方だって人に読んで聞かせるほど纏まっちゃいないんだからね」 私達は部屋の中へ戻った。私が再び明りの側に腰を下ろして、其処にほうり出してあるノオトをもう一度手に取り上げて見ていると、彼女はそんな私の背後に立ったまま、私の肩にそっと手をかけながら、それを肩越しに覗き込むようにしていた。私はいきなりふり向いて、 「お前はもう寝た方がいいぜ」と乾いた声で言った。 「ええ」彼女は素直に返事をして、私の肩から手を少しためらいながら放すと、ベッドに戻って行った。 「なんだか寝られそうもないわ」二三分すると彼女がベッドの中で独り言のように言った。 「じゃ、明りを消してやろうか?……おれはもういいのだ」そう言いながら、私は明りを消して立ち上ると、彼女の枕もとに近づいた。そうしてベッドの縁に腰をかけながら、彼女の手を取った。私達はしばらくそうしたまま、暗の中に黙り合っていた。 さっきより風がだいぶ強くなったと見える。それはあちこちの森から絶えず音を引きいでいた。そしてときどきそれをサナトリウムの建物にぶっつけ、どこかの窓をばたばた鳴らしながら、一番最後に私達の部屋の窓を少しきしらせた。それに怯えでもしているかのように、彼女はいつまでも私の手をはなさないでいた。そうして目をつぶったまま、自分の裡の何かの作用に一心になろうとしているように見えた。そのうちにその手が少し緩んできた。彼女は寝入ったふりをし出したらしかった。 「さあ、今度はおれの番か……」そんなことを呟きながら、私も彼女と同じように寝られそうもない自分を寝つかせに、自分の真っ暗な部屋の中へはいって行った。
十一月二十六日 この頃、私はよく夜の明けかかる時分に目を覚ます。そんなときは、私は屡々そっと起き上って、病人の寝顔をしげしげと見つめている。ベッドの縁や壜などはだんだん黄ばみかけて来ているのに、彼女の顔だけがいつまでも蒼白い。「可哀そうな奴だなあ」それが私の口癖にでもなったかのように自分でも知らずにそう言っているようなこともある。 けさも明け方近くに目を覚ました私は、長い間そんな病人の寝顔を見つめてから、爪先き立って部屋を抜け出し、サナトリウムの裏の、裸過ぎる位に枯れ切った林の中へはいって行った。もうどの木にも死んだ葉が二つ三つ残って、それが風に抗っているきりだった。私がその空虚な林を出はずれた頃には、八ヶ岳の山頂を離れたばかりの日が、南から西にかけて立ち並んでいる山々の上に低く垂れたまま動こうともしないでいる雲の塊りを、見るまに赤あかと赫かせはじめていた。が、そういう曙の光も地上にはまだなかなか届きそうになかった。それらの山々の間に挟まれている冬枯れた森や畑や荒地は、今、すべてのものから全く打ち棄てられてでもいるような様子を見せていた。 私はその枯木林のはずれに、ときどき立ち止まっては寒さに思わず足踏みしながら、そこいらを歩き廻っていた。そうして何を考えていたのだか自分でも思い出せないような考えをとつおいつしていた私は、そのうち不意に頭を上げて、空がいつのまにか赫きを失った暗い雲にすっかり鎖されているのを認めた。私はそれに気がつくと、ついさっきまでそれをあんなにも美しく焼いていた曙の光が地上に届くのをそれまで心待ちにしてでもいたかのように、急になんだか詰まらなそうな恰好をして、足早にサナトリウムに引返して行った。 節子はもう目を覚ましていた。しかし立ち戻った私を認めても、私の方へは物憂げにちらっと目を上げたきりだった。そしてさっき寝ていたときよりも一層蒼いような顔色をしていた。私が枕もとに近づいて、髪をいじりながら額に接吻しようとすると、彼女は弱々しく首を振った。私はなんにも訊かずに、悲しそうに彼女を見ていた。が、彼女はそんな私をと云うよりも、寧ろ、そんな私の悲しみを見まいとするかのように、ぼんやりした目つきで空を見入っていた。
夜 何も知らずにいたのは私だけだったのだ。午前の診察の済んだ後で、私は看護婦長に廊下へ呼び出された。そして私ははじめて節子がけさ私の知らない間に少量の喀血をしたことを聞かされた。彼女は私にはそれを黙っていたのだ。喀血は危険と云う程度ではないが、用心のためにしばらく附添看護婦をつけて置くようにと、院長が言い付けて行ったというのだ。――私はそれに同意するほかはなかった。 私は丁度空いている隣りの病室に、その間だけ引き移っていることにした。私はいま、二人で住んでいた部屋に何処から何処まで似た、それでいて全然見知らないような感じのする部屋の中に、一人ぼっちで、この日記をつけている。こうして私が数時間前から坐っているのに、どうもまだこの部屋は空虚のようだ。此処にはまるで誰もいないかのように、明りさえも冷たく光っている。
十一月二十八日 私は殆ど出来上っている仕事のノオトを、机の上に、少しも手をつけようとはせずに、ほうり出したままにして置いてある。それを仕上げるためにも、しばらく別々に暮らした方がいいのだと云うことを病人には云い含めて置いたのだ。 が、どうしてそれに描いたような私達のあんなに幸福そうだった状態に、今のようなこんな不安な気持のまま、私一人ではいって行くことが出来ようか?
私は毎日、二三時間隔きぐらいに、隣りの病室に行き、病人の枕もとにしばらく坐っている。しかし病人に喋舌らせることは一番好くないので、殆んどものを言わずにいることが多い。看護婦のいない時にも、二人で黙って手を取り合って、お互になるたけ目も合わせないようにしている。 が、どうかして私達がふいと目を見合わせるようなことがあると、彼女はまるで私達の最初の日々に見せたような、一寸気まりの悪そうな微笑み方を私にして見せる。が、すぐ目を反らせて、空を見ながら、そんな状態に置かれていることに少しも不平を見せずに、落着いて寝ている。彼女は一度私に仕事は捗っているのかと訊いた。私は首を振った。そのとき彼女は私を気の毒がるような見方をして見た。が、それきりもう私にそんなことは訊かなくなった。そして一日は、他の日に似て、まるで何事もないかのように物静かに過ぎる。 そして彼女は私が代って彼女の父に手紙を出すことさえ拒んでいる。
夜、私は遅くまで何もしないで机に向ったまま、バルコンの上に落ちている明りの影が窓を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、暗に四方から包まれているのを、あたかも自分の心の裡さながらのような気がしながら、ぼんやりと見入っている。ひょっとしたら病人もまだ寝つかれずに、私のことを考えているかも知れないと思いながら……
十二月一日 この頃になって、どうしたのか、私の明りを慕ってくる蛾がまた殖え出したようだ。 夜、そんな蛾がどこからともなく飛んで来て、閉め切った窓硝子にはげしくぶつかり、その打撃で自ら傷つきながら、なおも生を求めてやまないように、死に身になって硝子に孔をあけようと試みている。私がそれをうるさがって、明りを消してベッドにはいってしまっても、まだしばらく物狂わしい羽搏きをしているが、次第にそれが衰え、ついに何処かにしがみついたきりになる。そんな翌朝、私はかならずその窓の下に、一枚の朽ち葉みたいになった蛾の死骸を見つける。 今夜もそんな蛾が一匹、とうとう部屋の中へ飛び込んで来て、私の向っている明りのまわりをさっきから物狂わしくくるくると廻っている。やがてばさりと音を立てて私の紙の上に落ちる。そしていつまでもそのまま動かずにいる。それからまた自分の生きていることを漸っと思い出したように、急に飛び立つ。自分でももう何をしているのだか分らずにいるのだとしか見えない。やがてまた、私の紙の上にばさりと音を立てて落ちる。 私は異様な怖れからその蛾を逐いのけようともしないで、かえってさも無関心そうに、自分の紙の上でそれが死ぬままにさせて置く。
十二月五日
夕方、私達は二人きりでいた。附添看護婦はいましがた食事に行った。冬の日は既に西方の山の背にはいりかけていた。そしてその傾いた日ざしが、だんだん底冷えのしだした部屋の中を急に明るくさせ出した。私は病人の枕もとで、ヒイタアに足を載せながら、手にした本の上に身を屈めていた。そのとき病人が不意に、 「あら、お父様」とかすかに叫んだ。 私は思わずぎくりとしながら彼女の方へ顔を上げた。私は彼女の目がいつになく赫いているのを認めた。――しかし私はさりげなさそうに、今の小さな叫びが耳にはいらなかったらしい様子をしながら、 「いま何か言ったかい?」と訊いて見た。 彼女はしばらく返事をしないでいた。が、その目は一層赫き出しそうに見えた。 「あの低い山の左の端に、すこうし日のあたった所があるでしょう?」彼女はやっと思い切ったようにベッドから手でその方をちょっと指して、それから何んだか言いにくそうな言葉を無理にそこから引出しでもするように、その指先きを今度は自分の口へあてがいながら、「あそこにお父様の横顔にそっくりな影が、いま時分になると、いつも出来るのよ。……ほら、丁度いま出来ているのが分らない?」 その低い山が彼女の言っている山であるらしいのは、その指先きを辿りながら私にもすぐ分ったが、唯そこいらへんには斜めな日の光がくっきりと浮き立たせている山襞しか私には認められなかった。 「もう消えて行くわ……ああ、まだ額のところだけ残っている……」 そのとき漸っと私はその父の額らしい山襞を認めることが出来た。それは父のがっしりとした額を私にも思い出させた。「こんな影にまで、こいつは心の裡で父を求めていたのだろうか? ああ、こいつはまだ全身で父を感じている、父を呼んでいる……」 が、一瞬間の後には、暗がその低い山をすっかり満たしてしまった。そしてすべての影は消えてしまった。 「お前、家へ帰りたいのだろう?」私はついと心に浮んだ最初の言葉を思わずも口に出した。 そのあとですぐ私は不安そうに節子の目を求めた。彼女は殆どすげないような目つきで私を見つめ返していたが、急にその目を反らせながら、 「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と聞えるか聞えない位な、かすれた声で言った。 私は脣を噛んだまま、目立たないようにベッドの側を離れて、窓ぎわの方へ歩み寄った。 私の背後で彼女が少し顫声で言った。「御免なさいね。……だけど、いま一寸の間だけだわ。……こんな気持、じきに直るわ……」 私は窓のところに両手を組んだまま、言葉もなく立っていた。山々の麓にはもう暗が塊まっていた。しかし山頂にはまだ幽かに光が漂っていた。突然咽をしめつけられるような恐怖が私を襲ってきた。私はいきなり病人の方をふり向いた。彼女は両手で顔を押さえていた。急に何もかもが自分達から失われて行ってしまいそうな、不安な気持で一ぱいになりながら、私はベッドに駈けよって、その手を彼女の顔から無理に除けた。彼女は私に抗おうとしなかった。 高いほどな額、もう静かな光さえ見せている目、引きしまった口もと、――何一ついつもと少しも変っていず、いつもよりかもっともっと犯し難いように私には思われた。……そうして私は何んでもないのにそんなに怯え切っている私自身を反って子供のように感ぜずにはいられなかった。私はそれから急に力が抜けてしまったようになって、がっくりと膝を突いて、ベッドの縁に顔を埋めた。そうしてそのままいつまでもぴったりとそれに顔を押しつけていた。病人の手が私の髪の毛を軽く撫でているのを感じ出しながら…… 部屋の中までもう薄暗くなっていた。
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