ええ情ないと、気も張も一時に脱けて、パッタリ地上へひれ伏しておいおい泣出した。吸筒が倒れる、中から水――といえば其時の命、命の綱、いやさ死期を緩べて呉れていようというソノ霊薬が滾々と流出る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに乾燥いで咽喉を鳴らしていた地面に吸込まれて了っていた。 この情ない目を見てからのおれの失望落胆と云ったらお話にならぬ。眼を半眼に閉じて死んだようになっておった。風は始終向が変って、或は清新な空気を吹付けることもあれば、又或は例の臭気に嗔咽させることもある。此日隣のは弥々浅ましい姿になって其惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度光景を窺おうとして、ヒョッと眼を開いて視て、慄然とした。もう顔の痕迹もない。骨を離れて流れて了ったのだ。無気味にゲタと笑いかけて其儘固まって了ったらしい頬桁の、その厭らしさ浅ましさ。随分髑髏を扱って人頭の標本を製した覚もあるおれではあるが、ついぞ此様なのに出逢ったことがない。この骸骨が軍服を着けて、紐釦ばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出て心中で嘆息を漏した、「嗚呼戦争とは――これだ、これが即ち其姿だ」と。 相変らずの油照、手も顔も既うひりひりする。残少なの水も一滴残さず飲干して了った。渇いて渇いて耐えられぬので、一滴甞める積で、おもわずガブリと皆飲んだのだ。嗚呼彼の騎兵がツイ側を通る時、何故おれは声を立てて呼ばなかったろう? よし彼が敵であったにしろ、まだ其方が勝であったものを。なんの高が一二時間責さいなまれるまでの事だ。それをこうして居れば未だ幾日ごろごろして苦しむことか知れぬ。それにつけても憶出すは母の事。こうと知ったら、定めし白髪を引 って、頭を壁へ打付けて、おれを産んだ日を悪日と咒って、人の子を苦しめに、戦争なんぞを発明した此世界をさぞ罵る事たろうなア! だが、母もマリヤもおれがこう 死に死ぬことを風の便にも知ろうようがない。ああ、母上にも既う逢えぬ、いいなずけのマリヤにも既う逢えぬ。おれの恋ももう是限か。ええ情けない! と思うと胸が一杯になって…… えい、また白犬めが。番人も酷いぞ、頭を壁へ叩付けて置いて、掃溜へポンと抛込んだ。まだ息気が通っていたから、それから一日苦しんでいたけれど、彼犬に視べればおれの方が余程惨憺だ。おれは全三日苦しみ通しだものを。明日は四日目、それから五日目、六日目……死神は何処に居る? 来てくれ! 早く引取ってくれ! なれど死神は来てくれず、引取ってもくれぬ。此凄まじい日に照付られて、一滴水も飲まなければ、咽喉の炎えるを欺す手段なく剰さえ死人の臭が腐付いて此方の体も壊出しそう。その臭の主も全くもう溶けて了って、ポタリポタリと落来る無数の蛆は其処らあたりにうようよぞろぞろ。是に食尽されて其主が全く骨と服ばかりに成れば、其次は此方の番。おれも同じく此姿になるのだ。 その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて、朝になっても同じ事。また一日を空に過す…… 山査子の枝が揺れて、ざわざわと葉摺の音、それが宛然ひそめきたって物を云っているよう。「そら死ぬそら死ぬそら死ぬ」と耳の端で囁けば、片々の耳元でも懐しい面「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」 「見えん筈じゃ、此様な処に居るじゃもの、」 と声高に云う声が何処か其処らで…… ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒眼勝の柔しい眼で山査子の間から熟と此方を覗いている光景。 「鋤を持ち来い! まだ他に二人おる。こやつも敵ぞ!」という。 「鋤は要らん、埋ちゃいかん、活て居るよ!」 と云おうとしたが、ただ便ない呻声が乾付いた唇を漏れたばかり。 「やッ! こりゃ活きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」 瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中へ注入れられたようであったが、それぎりでまた空。 担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝せ付られるようで快い。今眼が覚めたかと思うと、また生体を失う。繃帯をしてから傷の痛も止んで、何とも云えぬ愉快に節々も緩むよう。 「止まれ、卸せ! 看護手交代! 用意! 担え!」 号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高で、大の男四人の肩に担がれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯、それから漸く頭が見えるのだ。 「看護長殿!」 と小声に云うと、 「何か?」 と少し屈懸るようにする。 「軍医殿は何と云われました? 到底助かりますまい?」 「何を云う? そげな事あッて好もんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合うて助かる。貴様は仕合ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何して此三昼夜ばッか活ちょったか? 何を食うちょったか?」 「何も食いません。」 「水は飲まんじゃったか?」 「敵の吸筒を……看護長殿、今は談話が出来ません。も少し後で……」 「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」 また夢に入って生体なし。 眼が覚めてみると、此処は師団の仮病舎。枕頭には軍医や看護婦が居て、其外彼得堡で有名な某国手がおれの傷を負った足の上に屈懸っているソノ馴染の顔も見える。国手は手を血塗にして脚の処で暫く何かやッていたが、頓て此方を向いて、 「君は命拾をしたぞ! もう大丈夫。脚を一本お貰い申したがね、何の、君、此様な脚の一本位、何でもないさねえ。君もう口が利けるかい?」 もう利ける。そこで一伍一什の話をした。
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