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唯物史観と文学(ゆいぶつしかんとぶんがく)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-25 15:07:01 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 | ||
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一 人或は言うであろう。「勿論、宗教的、道徳的、哲學的、法律的の觀念は歴史の進歩と共に變化した。けれども宗教、道徳、哲學、政治、法律等は此の變化をうけずに生きのこつていた。」 「おまけに、凡(あら)ゆる社會状態に共通の、自由とか正義とかいう永久眞理がある。ところが共産主義は永久眞理を抹殺してしまう。それは凡(すべ)ての宗教、凡ての道徳を新しい基礎の上に構成する代りに全然廢してしまう。だから共産主義は過去の一切の歴史的經驗と矛盾するものである。」 此の批難を要約するとどうなるか? 過去に於ける一切の社會の歴史は階級對立の發展であつた。異つた時代に異つた形態をとつてくる階級對立の歴史であつた。 けれども階級對立が如何なる形態をとつたにもせよ、社會の一部が他の部分に搾取されたということは過去の全歴史に共通の一事實である。だから過去の時代の社會的意識が複雜多樣な相を示しているにも拘らず、それは或る共通の形態或は一般觀念の中に動いているのであつて、これは階級對立が全く消え去らない限りは完全になくならぬということは怪むに足りぬ。 共産主義革命は傳統的財産關係との最も急激な分裂である、故にその發展と共に傳統的觀念との最も急激な分裂が起るのは不思議でない…………マルクス。 マルクスは社會主義に對する小ブルジョア的批難に對して七十餘年前に以上の如く答えた。マルクスにとつては一定時代の法律や道徳や宗教等は多かれ少かれ支配階級の利益を包藏している階級的偏見に他ならなかつた。而してこの偏見から完全に解放される爲めには階級のない社會をまたねばならなかつた。文學は法律、道徳、宗教、哲學と共に社會的意識の一形態、一要素である。そこで一時代の文學は多かれ少なかれ支配階級の階級的偏見に感染することは些(いささか)の疑いもない。而してこの階級的偏見のよつて來るところは、階級對立を生ぜしめる社會的生産關係に他ならぬことも疑問の餘地がない。文學と唯物史觀との關係はそこに潜んでいる。ところが小ブルジョア的「思想家」達は昔も今もこの明白な事實を受け入れない。 唯物史觀は今や中間階級的アイデオロジストの批難の的となつている。しかし多くの新しい學説がそうであつた如く、而して唯物史觀が七十餘年前にそうであつた如く、甚だしい、誤解、曲解、通俗化、脱骨、中傷の犧牲となつている。 唯物史觀の如き時代後(おく)れの淺薄な學説に從うのは學者文人の恥辱であるとして、「現代文化」の支持者達は雄々しくも唯物史觀征伐の十字軍を起して來た。そうして彼等はこん度も亦易々と唯物史觀の首級をあげて凱旋したのである。嗚呼(ああ)しかしながら、その首級は正眞まぎれもない唯物史觀のそれであつたか? 否それは彼等のイリュージョンであつた。彼等自身がこしらえた唯物史觀の模型であつた。どうしてそんなことが生じたか? 二 近世の自然科學は丁度唯物史觀と同じ運命を經て來た。宗教家、神學者、倫理學者、哲學者、文學者等は、自然科學誕生の前後に於て甚しい恐慌を來した。そうして次には結束して此の幼兒を虐殺しようとした。權威ある故人をしてこれを語らしめよ。リッチー教授は言う。 「科學概念の變化に對する干渉は、人間の精神を重んずる人々によりて從來たえず行われた過失である。かかる干渉は常に當時勃興しつつあつた科學の爲に棄てられた中途半端な科學的學説の支持者の敗北に終つた。神學はガリレオに干渉したが、其干渉に依て何等得る所がなかつた。天文學、地質學、生物學、人類學、歴史學等は屡※(しばしば)、物質的人間説を恐れている人々の心を震駭(しんがい)させた。彼等はダーウィン説とラマルク説の相違等をもつけの幸として新學説と戰おうとした。恰(あたか)も人類の精神的幸福が十七世紀若しくはそれ以前の科學的信仰と密接不離の關係があるかのように……」(Prof. Ritchie, Philosophical Studies) これは丁度マルキシズム、サンジカリズム、アナーキズム等に依て唯物史觀に對する解釋を異にしているどさくさ紛れに十八世紀乃至十七世紀の科學前派のヒューマニズムを持出して、鐵と石炭と電氣とに依て動かされている近世産業問題を解決させようとする勞資協調人道主義者の心理其儘である。おまけに彼等も亦人類の精神的幸福が資本主義經濟組織と密接不離の關係があるかのように思つているのだ。 三 勞資協調派、無抵抗主義者、人道主義者、等が一刀のもとに退治した唯物史觀の白髮首(しらがくび)とは何であるか? それは古代希臘(ギリシヤ)にさかえた唯物的形而上學である。ターレスやヘラクライトスの原始的唯物哲學は、その後幾度か時代の衣をつけて各時代に出現した。最近に於ける自然科學の發達はエネルギーの概念を發達せしめ、オストワルドの如きは物質概念を捨ててエネルギー一元論を唱えた。唯物的形而上學が舊衣をすてて十九世紀乃至(ないし)二十世紀の新衣と着更えたのである。 ところが此等のメタフィジシァンは、宇宙の實體或は本體は何であるか? という問題を解こうとしたのである。而してこれに對しては希臘時代にはプラトーンやアリストテレスが、近世にはカントが、最近には新カント派が既にそれぞれ解決を與えている。今日では哲學は知識の問題に、科學は物理的世界の問題に自己の職能を局限して宇宙の究極的實體というような問題には觸れない。唯物史觀は多くの批難者がいうように形而上學ではなくて形而上學に對する死刑執行人の一人なのだ。 近世の文化的教養を受け、精神主義の福音(ふくいん)に醉わされた人々は攻撃の相手を見失つた。尤(もつと)もまだ「綜合文化」というような怪物をかかげて「今の科學者は物質萬能で人生を解しない」などという批難をする者がある。併しながら科學は本來物的現象の學問である。物的現象を支配するものは物的法則のみである。科學者が物質の研究をしているから物質萬能だなどという批難は少くも地上では通用しないのである。 唯物史觀によれば社會の一切の現象は進化する。唯物史觀の哲學は進化の哲學である。而してこの進化はヘーゲルがやつたように思惟や觀念の進化から説明することは出來ぬ。反對に思惟や觀念の進化は物質的進化の反映であり、物質的進化に對應する。物質的條件、即ち生産關係が行き詰つてその内部の革命的要素が活溌に發展する時には社會の意識形態は革命的となる。十八世紀や今日がそれである。物質的條件が完全に一階級の支配に統一されている時は社會の意識形態は平衡を保つて所謂(いわゆる)平和思想が瀰漫(びまん)する。十九世紀がそれである。日本では明治維新時代や源平時代や戰國時代が革命的時代であつた。元祿時代や明治時代が平和時代であつた。而してその都度文學もそれに對應して進化した。源平時代の軍記物には貴族に對する武士階級の革命的思想が現われ、維新前後の志士の言論には行き詰つた封建制度に對する新興階級の革命的思想が現われている。 明治文學、革命的ブルジョア文學のチャンピオンであつた坪内逍遙の「小説神髓」には文學が勸善懲惡から獨立すべきことが強調してある。この場合勸善懲惡は絶對的意味をもつているものでない。善は封建制度の善であり、惡は封建制度の惡である。そこで封建制度が亡びてしまえばこの種の勸善懲惡はもう意味をなさぬ。「小説神髓」は文學に於ける封建社會の殘滓(ざんし)に死刑の宣告を與え、ブルジョア自由主義をこれに代えたものであつた。 四 マルクスは「經濟學批評」の序文で簡潔にこの關係を言い表している。「人類の生活を決定するものは意識ではない、その反對に人類の社會的生活が彼等の意識を決定するのだ」と。彼に從えば人類の意識或は思想、所謂上部構造(文化)が人類の物質生活を決定するのではなくて、人類生活の物質的條件がそれ等を決定する、故に歴史の基礎は物質的であるというのである。 更にマルクスは「哲學の貧困」にこれを詳説している。曰く「社會關係は密接に生産力と關係している。人類は新しき生産力を獲得することによりてその生産樣式を變化し、その生産樣式、生活資料を獲得する方法を變化することによりて、その一切の社會關係を變化する。風車と共に封建社會が存在し、蒸氣機關と共に資本家社會が生れる。 物質的生産に一致せる社會關係を樹立した同じ人々は又その社會關係に一致せる、原理、觀念、範疇を生じさせる。 かくの如く此等の觀念、これ等の範疇は、それによりて表現されている社會關係以上に永遠ではない。これ等は歴史的、一時的の産物なのだ。」 五 如何に藝術の永遠を信ずるものも、徳川時代の文學と明治時代の文學とに變化がなかつたと主張する勇氣はないであろう。此の變化は何によつて生じたか? 唯物史觀はそれは物質的變化によつて生じたのであると解釋する、社會の生産關係の變化に基くものだと解釋する、抑(そもそ)も唯物史觀はこの變化或は歴史のみに對する説明であつて、發生や起原を説明しようとはしないのである。況(いわ)んや物質が全部であつて精神文化は閑却してもよい等とは主張しないのである。 ところが文學者、藝術家はこの點に於て美妙な、誘惑的な曲解を行い、唯物史觀は精神文化を破壞するものだという。それは中世紀の坊主が地動説は神に對する冒涜であると批難し、近世の宗教家が進化論は聖書に悖(もと)ると批難したのと同斷である。進化論によつて人間の祖先が動物であるということが證明されたら人間の戀愛も道徳も審美感も成立しないだろうか? 吾々は大抵原始時代の人間と動物との距離がごく近いことを知つている。併しながら戀愛もすれば、審美感も動く。 それと同じく人間の歴史が物質的條件によつて決定されるという事實があつても精神文化は依然として吾々の最も尊重しなければならぬものなのだ。唯物史觀を信ずる人は精神文化を閑却するどころか却つてこれを尊重する。だから資本主義によりて樹立された今日の文化の代りにもつと上等な文化を實現しようとする。その爲めにその支柱となつている物質條件を變えようとするのである。ところが「現代文化」の支持者達は資本主義文化を、物質的條件には無關係な永遠の文化だと思つてこれに反對するのだ。唯物史觀は文化そのものに挑戰したことはない。ただ唯物史觀を理論的背景とする社會主義はある特定の生産條件の上に樹立された文化に挑戰するだけである。 六 けれども「現代文明」の支持者達は尚(な)おひるまない。文化は永遠であつて決して物的條件の爲めに變化しないという。人間は太古から今日まで同じ人間であつて少しも變化しなかつたという意味に於てなら僕も藝術や文化の永遠を信じる。併しそれは歴史の否定であつて、歴史を否定する限り歴史觀たる唯物史觀は當然消滅して問題は殘らないわけだ。唯物史觀は歴史を肯定してその一の觀方、研究法としてのみ意味をもつのである。最もわかりやすい例で言えば昨今しきりに問題になつている映畫藝術は決して觀念から生れたものでなくて、或る時代に活動寫眞が發明された爲めに生じたものである。もつと精神的な問題について言えば尊王討幕という思想は幕府の横暴、皇室の式微という當時の社會條件があつて生じ、自由民權の思想は人民の權利が壓制されていたという特殊の物的條件によつて生じたのである。而してこれ等の社會條件は最後にこれを物的或は經濟的條件に還元することができるのである。 最後に文學藝術の方面から唯物史觀に對してあげられる反對の叫びの中には唯物史觀は文學的氣分乃至は情操にぴつたりあわないという理由からこれを排斥しようとするのがある。こんな亂暴な言い分がとおるなら、數學は藝術を否定せねばなるまい。文學は物理學を否定せねばなるまい。併し事實吾々は二二が四という數學の原理を信じつつ熱烈に愛しあうことが出來ると同じように、唯物史觀を信じつつ藝術を創作し鑑賞することが出來るのである。ただ凡俗なセンチメンタリズムが文學の名に於て歴史の事實を朦朧化し、二十世紀の現代に眼を閉じさして民衆を昔し昔しのお伽噺(とぎばなし)につれてゆこうとする時、唯物史觀は儼然(げんぜん)たる事實を示す必要があるのである。 繰り返して言うが唯物史觀は文化に挑戰するものでも、これを蔑視するものでもない。けれども歴史とその必然を信ずるが故に永遠に藉口(しやこう)して「歴史的一時的」の文化を擁護する守舊派に挑戰する。唯物史觀は形而上學でないから物資が萬能だとは言わない。歴史は物的條件によつて變化するというだけである。快感が起つてからピアノの音がするのでなくてピアノの音がしたから快感が起つたというまでだ。 併しながらこの簡單な眞理から生ずる結論は重大だ。物的條件が精神文化を決定し階級對立が文化の上に階級的偏見を印するということから必然に、文化から階級的偏見を取り除くためには階級對立を先ず廢止しなければならぬという結論が生れる。過渡期に於ては生産關係に革命的要素が増大すると同じく、その一意識形態なる文學にも革命的要素を増大して來るのである。 (大正十年十二月) 底本:「日本現代文學全集69 プロレタリア文學集」講談社 1969(昭和44)年1月19日初版発行 入力:田中亨吾 校正:大野裕 ファイル作成:野口英司 2000年11月10日公開 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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