三
光子の屍体を見出した瞬間から、大宅三四郎の頭には、どうしても抹殺(まっさつ)することのできない疑いが執拗(しつよう)に巣くった。彼はこの疑いに触れることを恐れて、わざと避けていたのであるが、避けようとすればする程、益々はっきりとした形を帯(お)びてくるようにすら思われた。 彼は自分の家へ入るのを恐れた。――嘉子はもう帰っているだろうか? どうしているだろう。犯した罪の恐ろしさに泣きくずれているのじゃなかろうか? もう既に警官に発見されて引致(いんち)されたのじゃなかろうか?―― まるではじめての家を訪れる時のように、彼はしばらく我が家の前に佇(たたず)んで思案をこらしていた。家の中は森閑(しんかん)としていて別に変った様子もなかった。とうとう彼は思いきってくぐりを開けた。 玄関へ迎えに出た嘉子の態度にはひどく平常(ふだん)と変った点はなかった。ただいつもとちがっている点は、殆んど口かずをきかないこと位だった。しかし、それは今朝役所へ出かける時に傷つけられた感情の余勢と見る方が自然な位であった。 「まあどうしたんでしょう」大宅の脱いだズボンをたたんでいた嘉子は、突然吃驚(びっくり)して叫んだ。「おズボンに血がついててよ」 「えっ」と血相をかえて大宅は叫んだ。なる程ズボンの膝のところに、まだ生々しい血のりがついていた。あれだけ用心をして来たのに、家へ帰るが早いかこんな大手抜かりを発見されたことは、彼の心をひどく萎縮させた。彼はまごまごしてしまって、血のついたわけを説明する口実を見出すこともできなかった。 「どうしてそんなもんがついたのかなあ、とに角(かく)汚いからよく洗っといておくれよ……それからと、今日誰か訪ねて来なかったかい?」と彼はなるべく自然に話頭(わとう)を転換しようとした。 「ええ別にどなたも……そうそう、そういえば夕方ちょっとお巡(まわ)りさんが来ましたわ」 「何、巡査が?」 「ええ、ずいぶん人の悪いお巡りさんよ。わたしのことをいろいろ根掘り葉掘りきくんですもの」 「どんなことをきいたんだ?」 「………」 「なんてきいたの?」 「御主人とどういう関係ですかなんてね。妾(わたし)返事に困っちゃったわ。だってまだ籍ははいっていないし、姓がちがうから妹だなんて言うわけにもいかないし、仕方がないから親戚のものだって言っといたわ」 「なんだ、戸籍しらべか? それっきりだったかい?」 「帰りがけににやにや笑っていたわ。きっともう知っているのよ」 「何を知ってるんだ?」 「………」 三四郎は思わずにじりよったが、不図(ふと)勘ちがいで真面目になりすぎたことに気がついて、あとは笑いにごまかしてしまった。 それっきり二人はだまって食膳に向った。今朝の喧嘩のことも光子のことも二人とも一語も言わなかった。但し三四郎は嘉子の様子をそれとなく注視していた。彼には何もかもが意外だらけだった。恐るべき罪を犯した筈の嘉子のあの驚くべき落ちつきはどうだろう。ことによると嘉子は何も知らぬのじゃないかしら。いやそんなことは絶対にあり得ない。今朝の彼女の言葉、いま光子のことをわざと一言も言いださぬ点、つとめて落ちついた態度を装っているらしいこと、それ等(ら)の事実は、すべて彼女が犯人だという断定に帰着してゆくのであった。 ――しかし、すんだことはしかたがない。なるべくこの事件は、このまま秘密に葬られてしまってくれればよいが、人を殺すというようなことは許すべからざる大罪だが、もとはみんな自分のためだ。自分を愛すればこそ、嘉子はあんな大胆なことをしたのだ。法網をくぐるのはよいことではないが、あの女が法のさばきを受けるとなると、自分は手を下さずして二人の女を殺したも同然になる。何とかしてこのままにそっとすましてしまいたいものだ――
四
三四郎はその晩一睡もできなかった。宵(よい)に目撃した惨劇、それにつながる様々な回想と、臆測とが、次から次へと彼の頭の中を交替して占領するのであった。神経は針のように尖って、ごとりと音がしても、警官がふみこんで来たのではないかと思ってひやりとした。 ――嘉子が果(はた)して犯人だろうか? ――この疑いは特に彼を苦しめた。 ――女というものは異常な場合には異常なことをし兼ねない性質をもっている。特に愛する男のためには、想像もできないような残忍性を発揮することがある――とりわけ――彼はバルザックの言葉を思い出した――女というものは、一度別の女のものであった男を愛する場合には、全力を賭(と)して戦うものだそうである。しかも、彼女の場合がちょうどそれにあたるではないか? ――二人の女が――しかも多感な女が一人の男を奪いあう場合、彼女達は手段をえらばない。どんな残忍な、どんな陰険な手段でもとりかねない。色情のために犯された放火や殺人等(とう)の惨劇は枚挙に遑(いとま)ない程ある。――考えれば考える程、恐ろしい疑いは益々具体的な形をとって来るのであった。 ――元来、女は嫉妬という兇器をもっている。恋することの強い女ほど嫉妬も強い。「嫉妬せざる女は恋せざる女なり」というオーガスチンの言葉を逆にすれば、「恋する女は嫉妬する女なり」ということになる。ところで嘉子は自分を熱愛している。自分を熱愛していることは、光子に対する強烈な嫉妬の存在を証(しょう)するわけだ―― 嘉子も長く眠(ね)つかなかった。三四郎は嘉子の小さい頭の中で、良心が彼女をせめさいなんでいるさまを想像していじらしくなって来たが、それと同時に、あくまでも自分の犯行をつつんで、表面平気を装うているらしい彼女の大胆さがにくらしかった。 いずれにしても、光子の家で、へまな証拠をのこして来たことを彼はかえすがえすも後悔した。あれがもとで足がついて、嘉子の犯罪が発覚するようなことになったら大変だと彼は思った。もしもの場合には、証拠をのこしておいたのを幸いに、自分ですべての罪をきてやろうかとも考えた。しかし、そんなことをしたところで嘉子の身は矢張り破滅だ。彼女は、自分に罪をきせてだまっているような女ではない。矢っ張りこのまま何事もわからず、闇から闇に葬られてしまえばよいがなあ―― 彼が妄想にふけっているうちに、いつのまにか眠っていたらしい嘉子の唇がその時突然動いた。 「許して下さい、光子さん。あーれ、光子さん――」 三四郎は飛び上(あが)るほどびっくりして、 「どうしたんだ、おい」 と次の文句を聞くのがおそろしさに、嘉子の肩の辺(あたり)をつかまえて揺(ゆす)り起した。嘉子はびっくりして眼をさました。 「ああ怖かった。夢でしたのね。ああよかった。妾(わたし)何か言って?」 「何かうなされていたよ」 「まあこわかったわ――でも不思議ね。ちょうど妾(わたし)が考えていることを夢に見たのよ」 「どんな夢を見たんだ?」 「あなたが気を悪くするといけないから今は言えないわ。ああ恐ろしかった」 彼女はまだ恐ろしさにふるえていた。三四郎も恐ろしさにふるえた。恐怖にとらわれて二人は思わず顔を見あわせた。そして、相手の形相(ぎょうそう)を見て更(さら)にふるえた。恐ろしき夜は刻々にふけて行った。二人は無言のまま夜のあけるのを待っていたが、二人とも明けがたになって、うとうととまどろんだ。
五
翌朝、先に床(とこ)をはなれた嘉子は、玄関に投げこんであった××新聞の社会面を見たとき、もう少しで卒倒するところだった。 「昨夜牛込(うしごめ)山吹町の惨劇」、「被害者は妙齢の美人、犯人の目星つく」という初号活字を交(まじ)えた四段抜き三行の標題(みだし)で次のようなことが記されてあった。 「昨夜(さくや)十一時、牛込区山吹町××番地朝吹光子(二二)は何者かのために胸部を短刀で突き刺されて惨殺されておるのを発見された。所轄××署よりは、直(ただ)ちに数名の警官出張し、警視庁はただちに管下に非常線を張りて犯人厳探中である。臨検の警官は既に有力な証拠品をつかんだらしく、深夜にも拘らず×××署を捜査本部としてある方面に活動を開始した模様であるから、本日中には犯人は逮捕される見込である」 「被害者の屍体を発見した隣家の老婆は語る――光子さんの家では十一時にもなるのに、玄関の戸も居間の襖も開けっぱなしになっているので、あんまり不(ぶ)用心だと思ってのぞいて見ますと、光子さんが布団を着てやすんでおられる様子でしたから、二度ばかり呼んで見ましたが返事がないので上(あが)って見るとあの始末なのです。妾(わたし)は腰を抜かしてしまってしばらくは言葉も出ませんでした。」 「被害者の身許(みもと)は不明であるが、近隣の人々の話を総合したところでは、本年四月まで浅草雷門前のカフェ大正軒に女給をしていたということである」 「記者は逸(いち)早く大正軒を訪(と)い生前被害者を知っていたという女給百合子(ゆりこ)についてただすと、百合子は『まあ光子さんが人手にかかって?』とおどろきながら語った。『あの人は人にうらまれるようなかたじゃないのですけれど、こちらに勤めておられる時分から色々なお客様と関係があったようですわ。何でも学生の方が二人と、たしか木見(きみ)さんとかいう請負師の方と、それから、大宅さんとかいってこの春からお役所へつとめておられる方とが、よく見えたように思います。そして噂によると、その請負師のかたと今の所に同棲しておられたということですわ」 「被害者の懐中より一通の封書と一通の電報とが発見された。封書の差出人は単にO生とあるのみであるが、被害前日の日附にて、『明日(みょうにち)夕方帰りに寄ります』という文句が認(したた)められてあり、用箋には××省の用箋が使用してあった。大正軒女給の言った大宅某と同一人であろうと記者は察する。電報は、名古屋(なごや)駅発信で、発信時刻は当日午前七時二分、受信八時二十分で電文は『キユウヨウアリチユウオウセンニテマツモトヘユキアスアサイイダマチツクキミ』となっている。電文の末尾にあるキミとは請負師の木見のことではなかろうか」 「屍体(したい)にはメリンスの掛布団をかけて一見眠っているように見せかけてあった。兇行の発見を長びかすための犯人の小細工らしい。現場は非常に取り乱され、箪笥(たんす)、鏡台等の抽斗(ひきだし)はのこらずひき出して中味はまぜっかえしてあったが、紛失物もない模様であるからこれ亦(また)強盗の仕わざと見せかけるための犯人の詭計(きけい)らしい」 「同夜、山吹町で履物(はきもの)専門の空巣ねらいが逮捕されたが、同人は、被害者宅にてキッドの赤靴を一足盗んだという奇怪な陳述をしているので取調中である」 新聞の記事は大体以上のようなものであった。嘉子は靴のところを読んだときに思わず、昨夜大宅が玄関に脱ぎすてたままになっていた靴に目をやった。それはまだ買いたての新しい靴であることが一目でわかった。 ――靴――ズボンの血――××省の用箋――大宅――嘉子は咽喉(のど)がつまってものが言えなくなった。 「おい、新聞を貸して御覧(ごらん)」 いつのまにか、三四郎も起きて、嘉子のうしろにたっていた。嘉子は思わず新聞をかかえた。 「お見せというに、何か出てるんだろ」 嘉子の全身がわなわな慄(ふる)えているので、大方の事情を察した三四郎は、つとめて冷静を装いながら追窮した。 「すみません、すみません……」 と言いながら、嘉子は新聞をそばにおいたままとうとうその場に泣き伏してしまった。 三四郎は非常に緊張して新聞の記事を読みおわった。彼は、自分に嫌疑がむいて来ることはもう覚悟していたのであったが、それでも新聞の記事を読むと胴慄(どうぶる)いがとまらなかった。が新聞記者が嘉子に少しも嫌疑をかけていないのを発見してほっとした。やっぱり嘉子ではないのかなと思って彼は嘉子の方をちらりと見た。嘉子はまだ顔をふせたまますすりないていた。矢張り嘉子だ。「すみません」とたった今彼女が言った言葉の意味が、彼にははっきりとわかったような気がした。 二人は互に相手の言葉をおそれた。慰さめることも、責めることも、といただすことも敢(あえ)てし得なかった。ただめいめい自分の胸の中で全てを諒解してだまっていた。
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