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政治的価値と芸術的価値(せいじてきかちとげいじゅつてきかち)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-25 14:54:57 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


            二

 プロレタリアの勝利のために貢献するといふことが、マルクス主義文学の評価の基礎とならねばならぬことは上述の説明によりて明かになつたと思ふが、マルクス主義文学も、文学である以上それだけでは不十分である。共産党宣言が最もすぐれた芸術品であるとは言へないからである。
 そこで、この根本原理に附随する、さま/″\な小さい原理が必要になつて来る。たとへば、文学作品はたゞある政党の綱領を解説するやうなものではなくて、新しい何物かを創造してゐなければならぬとか、或は、或る観念を露骨にあらはした作品はよくない作品であるとかいふ種類の小さい原理がそれである。これ等の諸原理はマルクス主義にも、政治にも関係のない、一般に芸術そのもの、若しくは文学そのものに関する原理である。こゝに於いてルナチヤルスキーのテーゼは、そして一般にマルクス主義的文学の理論体系は、かくの如く二つの部分――政治的部分と芸術的部分とから成立してゐるのであることがわかる。しかもこの二つの部分はいゝ加減につきまぜてあるのではなくて、政治的部分が絶対上位に立ち芸術的部分は下位にたつといふ風に結合されてゐるのである。この結合のしかたをかへることはマルクス主義文学の名に於ては許されないのである。
 このことは多くの実際問題に関連してゐる。たとへば、政治的原理と芸術的原理とを同じ平面に並べて、双方に同じ価値をもたせようと企てるとき、そこに折衷的理論が生れる。ある作家の或る作品は、闘争的精神も、階級的イデオロギイも稀薄であるが、芸術品としては立派な作品であることがあり得る。だがこの場合、如何なる芸術的な価値をもつてしても、マルクス主義文学である限り、闘争的精神の欠如の埋め合せにはならぬであらう。第一義的な、根本的なものを欠いてゐる限り、それはマルクス主義文学の作品としては低く評価されねばならぬであらう。
 又或るマルクス主義者、たとへばトロツキーが、政治的には全く価値のない詩をつくつたとする。河上肇博士が、花か虫かを見て政治と没交渉な俳句を一句詠んだとする。この場合、トロツキーや河上博士がマルクス主義者であるがために、それ等の人の作品が、すべてマルクス主義文学の作品であると考へるのは全くあやまつてゐる。況んや、或る作家が、マルクス主義的芸術団体に加盟したら、その作者の前日までの作品はすべてブルジヨア文学作品であつたのが、その翌日からとんぼ返りして、悉くマルクス主義的文学作品になるなどゝ考へるのは全く子供らしい考へかたである。マルクス主義の立場からする文学批評は、常に、先づ政治的見地からされねばならぬであらう。この意味に於いて政治的意識の弛緩は、マルクス主義文学作家にとつては致命的である。「イデオロギイはあやふやになつたけれども、技巧に於いてはすぐれて来た」といふような評語は、マルクス主義作家にとつては少しも名誉ではない。それは一つの芸術家としては、その作家が前進したことを意味するけれども、マルクス主義者としては後退したことを意味するからである。
 だが問題はそれだけでつきるのではない。以上はマルクス主義作品に対するマルクス主義批評の関係について言つたのであるが、マルクス主義批評は、マルクス主義作品ではない、広く一般の文芸作品に対してどんな態度をとるべきであるか?
 厳密に言へば、非マルクス主義作品の政治的価値は、マルクス主義的評価によれば零であり、反マルクス主義作品の価値は負になるわけである。たとへば「古池や蛙とびこむ水の音」という芭蕉の句は、マルクス主義的評価によれば、価値は零であると見なさねばならぬ。然るにすべての作家はマルクス主義者であるとは限らないのであり、マルクス主義の何たるかを全く解しない作家が沢山ある。
 この場合、マルクス主義批評家は、厳密にその機能をはたさうと思へば、これ等の作品に対する評価をさし控へねばならぬ。そして厳密には批評家といふ立場をすてゝ、分析者としての立場にたゝねばならぬ。プレハノフやレーニンの「トルストイ」評には、多分に(全くではないが)分析者としての姿が現はれてゐる。若しこの場合に、政治的な尺度をすてゝしまつて、たゞの表現や形式の批評だけをするならば、その時、この批評家は、マルクス主義的批評をしてゐるのではなくて、たゞの文芸批評をしてゐるわけである。
 更に一層進んで、反マルクス主義的思想を強くあらはした作品に対しては、マルクス主義批評家は、たゞその作品にあらはされた思想と戦ひ、その誤謬を指摘し、克服することに全力をつくさねばならない。そしてそれ以外のことに関心する必要は少しもない、もしかゝる反マルクス主義的作品の美に心ひかれ、その芸術的完成に恍惚とするのあまり、それを賞揚するなら、マルクス主義者はそこに退場して、たゞの文芸批評家と交替したと解釈しなければならぬ。
 私の説明はあまりに機械的であり、非実際的であつたことを私は知つてゐる。だが、それは、私が原則的な理論を説明したのだからに外ならぬ。原則を説明する場合には、最も典型的な、従つて最も極端な実例をあげるのが理解に最も都合がよいのだ。
 最後に私は、私自身の、所謂「懐疑的」立場を便利上逐条的に明かにして大方の教へを乞ふことにしよう。特に私の最も尊敬する蔵原惟人、勝本清一郎の両氏に私は教へを乞ひたいのだ。
 先づ第一に現在のマルクス主義文学理論に対して、懐疑的態度をとつてゐるといふ事実を告白しておく。(だが念のためにことはつておくが、私は何から何まで真理を疑ひたがるスケプチツクではないのである。懐疑家といふ言葉が、スケプチツクの訳語になつてゐるので、誤解されることを恐れてこのことを一言しておくのである。)
 第二に、私はマルクス主義の一般理論に対しては私の知るかぎりでは(それは非常に狭いのであるが)懐疑的態度をとつてゐるわけではない。私は、マルクス主義と文学作品の評価との関係の問題に対して懐疑的態度をとつてゐるのである。こゝでも私は一言しておきたい。といふのはかやうな新しい、未解決な問題に対して疑ひをもつことは、一般に理論家にとつて已むを得ないことであり、それは悪いことではなくて、却つて望ましいことであり、反対にあまりにはやく不完全なオーソドツクスを定立することこそ避くべきことであると私は思ふのだ。
 第三に私は前に長々しく述べきたつた政治的価値と芸術的価値との二元論を脱することができない。尤もこゝでもことはつておかねばならぬことは、「芸術的価値」といふ言葉であるが、これを私は神秘的な、先験的なものだとは解してはゐない。それは社会的に決定されるものだと信じてゐる。たゞマルクス主義イデオロギイや、政治闘争と直接の関係をもたぬと信ずるまでゞある。
 第四に、それにも拘はらず、私は文芸作品を批評するにあたつて、私の解釈するやうな意味の純然たる政治的評価にのみたよるわけにはゆかない。このことはマルクス主義の一般的理論の真実性を認めた上でのことである。マルクス主義の真実性を認めながら、私は非マルクス主義作品のもつ魅力にも打たれる。そしてその魅力に打たれる以上はそれをありのまゝに告白するより外はない。この点が最も重要なのであるが、若し私の言つたことが真実であるならば、政治的価値と芸術的価値とは遂に「調和」し得ないと私は信ずるのである。両者を統一する芸術理論はあり得ないと信ずるのである。マルクス主義文学理論は両者の統一ではなくて、政治的価値に芸術的価値を従属せしめ、これをそのヘゲモニイのもとにおかんとするものである。両者は力で、権威で結合せしめられるのである。
 若しさうであるならば、私は、現在のマルクス主義芸術理論は、一つの政策論であり、政治論であつて、芸術論と名づくべきものではないと信ずる。だから、幾分寄木細工的な感ある現在のマルクス主義芸術論を解体して、政治的部分と芸術的部分とに還元し、これを明白に規定しなほす必要があると思ふのである。もしマルクス主義芸術論が、完全な芸術論であるならば、フアシズム芸術論も、イムピリアリズム芸術論も同じ権利をもつて可能なわけである。久野豊彦氏が、マルクスの代りに、ダグラスをひつぱり出して来たことも亦当然認められねばならぬ。そして芸術の評価は、芸術と関係の少ない、千差万別の尺度をもつて行はれねばならないことになる。だが芸術評価の尺度が観音様の手のやうに沢山あるといふことは、芸術作品の評価が不可能だといふことゝかはりがない。
 これに反して、マルクス主義者は、政治的尺度によりて芸術作品の対社会、対大衆的効果を評価するのであるとすれば、この問題は至極簡単明瞭に解ける。これは政策論である。だが、人類の幸福のための政策論を、芸術の名によつて拒むことはできない。
 これを要するに、マルクス主義芸術運動は、芸術に関する定義の塗りかへや、芸術的価値と政治的価値との機械的混合によりて行はれるわけには決してゆかない。それは飽くまでも政治のヘゲモニイのもとに行はれる運動であり、政治によりて芸術を支配する運動である。この関係は政治と芸術との弁証法的統一といふやうなあいまいな言葉で説明してうつちやつておくべきものではない。先づ一応両者を区別し、それを当然さうであるべき関係におかねばならぬ。
 従つて、マルクス主義文学は――少なくもプロレタリアの勝利のために貢献するといふ意味に於けるマルクス主義文学は――一定の時期において、その特殊性を自然に失つてしまふべきものであることは自然の理である。そのためにマルクス主義文学の価値が減弱するものでないことは、もう一度繰り返していふが、勿論であるけれど。

〔昭和四年三月「新潮」〕





底本:「平林初之輔文藝評論全集 上巻」文泉堂書店
   1975(昭和50)年5月1日発行
入力:田中亨吾
校正:土屋隆
2004年11月2日作成
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