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諸家の芸術価値理論の批判(しょかのげいじゅつかちりろんのひはん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-25 14:52:52 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

         はしがき

 私が「新潮」三月号に発表した「政治的価値と芸術的価値」は、私の頭に疑問として残されてゐた一つの問題を、雑然と、無秩序に、しかも甚だ例証的に、従つて、非常に単純化された姿に於いて、そして何よりも率直に、表白して、私自身その問題に対する一つのサジエツシヨンを試みつゝ、大方の示教を乞ふために書かれたものであつた。
 多くの批評家と読者と先輩と友人とが、或は公けに、或は私に、この小論文に対して、多かれ少かれ各自の見解を吐露して、私に対して啓蒙、示教、駁撃、共鳴等の態度を表示されたことは私の非常に感謝するところであつた。
 私自身また、その後、この問題を多少系統的な形に於いて熟慮する余裕を得たのと、前記諸氏によつて、直接間接に教へられるところがあつたとのために、私の前の提言が如何にも粗雑であつたこと、そして全く妥当を欠いた引例などもあつたことに気がつくやうになつた。
 とは言へ、私の提出した問題の最も根本的な部分は、依然として未解決のまゝに残されてゐるし、問題自体が、前記諸氏の大部分の人々によつて、私の当初の目的とは全く別な方向へ展開せられ、いはゞ側線へ導かれて、一見簡単に片附けられてしまつたやうな観を呈した。私の批判者の大部分は、私の提出した問題を他へそらすためのポインツマンの役割を演じたに過ぎなかつた。
 これには勿論私自身の、あの小論文を起稿するに際しての甚だしき不用意、用語の不注意、引例の不妥当、論理の混迷、非系統的に問題を無暗にひろげてしまつたこと等が禍ひしてゐることは私の躊躇するところなく認めるところである。だが批判者たちが、先づ事実から出発することを忘れて、粗笨な公式で事実を無理矢理に規定してしまひ、かくて問題を問題として取り上げることを拒んだことも認めなければならぬと私は考へる。
 といふのは私の提出した問題が、私の意味する通りに理解された場合は殆んどなかつたからである。そしてこの問題の実践的重要性は遂に何人によつても発見されずに、かゝる問題は、既に一応片附いた問題であるとして通り過ぎようとされてゐるのである。
 この論文は、あの問題に対する批判者の批判を批判しつゝ、でき得べくんば、もつと系統的な姿に於いて、問題の所在を明かにする目的をもつて書かれるのである。私はせめて私の提出した問題の意味が正しく理解されることを希望するのみである。

         一 私はマルクス主義文学を如何に解したか又解するか?

 私は先づこの初歩的な問題から説明してゆく必要を感ずる。何故かといへば、私は前記の論文でマルクス主義文学について論じてみたに拘はらず、マルクス主義文学とは何かといふ問題を多くの批判者は私と同じやうには理解してゐないやうに思はれるからである。そしてこの出発点に於ける些かの見解の相違は、到達点に於ける千里の差となつてあらはれてゐるからである。
 私はマルクス主義文学とはマルクス主義者の文学、即ちプロレタリア前衛の文学であると解釈する。従つて、それは一定の、意識された任務をもつてゐる文学である。そしてこの任務は、個人の霊感によつて感得せられるものではなくて、マルクス主義政党の最高方針によりて規定されるものであり、且つさうされざるべからざるものであると解する。マルクス主義政党の一般的活動の中へ浸透して、その目的のために役立たなければならない文学であると解する。ルナチヤルスキーが、「プロレタリアの解放の仕事に助力する」ことを、マルクス主義文学の大前提として規定してゐるのはそのためであり、レーニンが、マルクス主義文学を、社会民主党の「歯車でありネヂである」必要があると言つてゐるのもそのためである。こゝで私の批判者たちが、文学は形象の文字で語られねばならぬといふ点を重視して、レーニンの歯車とネヂの説を曲解し、この一語によりてマルクス主義文学に於ける政治的優越性が消散してしまふやうに説いてゐるのは甚だしい間違ひである。
 更に進んで私はかりに私自身が、マルクス主義的イデオロギイの持ち主であると仮りに定めよう。(さういふ仮定をするのは僣越だと考へる人があるなら、私のかはりに田中総理大臣とかへても差支へない。仮定は飽くまでも仮定であるからだ。)その私が、マルクス主義政党の外にありて、党の仕事とは関係なく、たゞ文学的感興の湧くがまゝに一つの文学作品を書いたとする。この場合、たとひその作品が、マルクス主義的イデオロギイにつらぬかれてゐるとしても、私は、その作品を厳密な意味でマルクス主義文学の作品とは呼ばないであらう。何となれば、それは、マルクス主義政党の仕事を意識してかゝれた文学ではないからである。これに反してAといふマルクス主義作家が、或る明確な意識をもつて大衆を啓蒙するために、社会生活に於ける極めて初歩の階級性を面白く読ませながらわからせるやうな一篇の大衆小説を書いたとする。それは、一見マルクス主義者でなくとも、良心ある作家なら誰にでも書けさうな作品であつても、やはり、私はそれをマルクス主義の作品と呼ぶであらう。何となれば、この場合には党の仕事、従つてそれから規定された作家としての彼自身の任務が十分に意識されてゐるからである。
 この極端ではあるが、実際には屡々起り得る例によりてわかるやうに、マルクス主義文学とは、プロレタリアの前衛たるマルクス主義者が、プロレタリア政党の任務を意識し、その任務の実現にそふやうな目的をもつて書かれた武装した文学である。勿論、その政党が十分広汎な文化の領域を見とほす視野をもつてゐる有力な政党であるならば、レーニンが言つたやうに文学者には最大限の自由を与へなければならぬといふ見解を支持するであらう。といふのは政治的にはクーデタが有効な場合もあり、経済的には最も峻厳な諸種のレギユレーシヨンが必要である場合もあるであらうが、文学は、その本来の特殊性のために、さうした厳密な政治的規定を与へる瞬間に、その効果、従つてその価値を減殺してしまふからである。その価値が社会的な価値であることなどはこの場合きまりきつたことで問題は起らない。私はそんなことを問題とするために「政治的価値と芸術的価値」を書いたのではない。この価値は、社会的価値であることは無論であるにしても、それは、他のものの社会的価値、米や酒のもつてゐる社会的価値とも、宗教や科学がもつてゐる社会的価値ともちがつた、芸術的価値であるのである。このことはあとで説明する。
 ところでこの場合レーニンが文学者には最大限の自由を与へなければならぬと言つたのは、無制限の自由を与へなければならぬと言つたのとはちがふことを理解しなければならぬ。即ち最大限といつても矢張り限度があるのであつて、その限度は政治的に規定される。マルクス主義作家がどんな自由をもつにしても、反マルクス主義思想を宣伝するやうなおそれのある作品を書く自由ももたなければ、更に甚だしきは、同じマルクス主義者と称しつゝ、党の政策に反対する小数反対派の(現在のロシアではたとへばトロツキズムの)思想を宣伝する自由ももたない。自由といふのは表現の手法や技術上の自由であり、どこの国でも作家の頭は概して理論的には粗雑であるところから生ずる、認識の不十分に対する寛容であつて、政治的に反対の見解をも包容することを意味しないのである。さういふ場合にはどんなすぐれた作家でも「涙をのんで」粉砕する条件をつけられた上での自由である。私がマルクス主義作品に於ける政治的価値のヘゲモニイを主張した理由はこゝに起因するのである。
「政治的価値と芸術的価値」には、此の点が、私が今言つたやうにはつきりと説明されてゐなかつた。「プロレタリア文学の別名若しくはその一部分としてのマルクス主義文学」といふやうな、誤解を招き易い言葉が用ゐられてあつた。しかし、その後青野季吉氏の批判に答へた「目的意識の昇華」といふ小論の中では、簡単にではあるがはつきりとこの点を述べておいた筈であるに拘らず、その後にあらはれた批判者たちも、依然として青野氏と同様に自然発生的プロレタリアの文学とマルクス主義文学とを混同して議論を展開してゐるのである。
 私はプロレタリアの間から自然に発生する文学作品を、それがたとひマルクス主義的イデオロギイに浸透されてゐるものもあるとしても、マルクス主義文学と呼ぶことを欲しない。何となれば、それは、マルクス主義者の政治的目的を意識されずに書かれたものだからである。それはちやうど十八世紀の啓蒙派の作品や、十九世紀のロマンチツク初期の作品は革命的文学であるけれども、同じブルジヨア的イデオロギイをもちながら、十九世紀中葉以後のブルジヨア作家の作品を革命的文学と呼ぶのが不適当であるが如くである。尤もこの例は適当ではない。当時のブルジヨアの意識は全人類的意識の外観を帯びてゐて真に階級的ではなかつたからだ。真の階級意識はプロレタリアと共にはじまつたからだ。
 広義に於けるプロレタリア文学とマルクス主義文学との相違は、前者は大衆の文学であり、後者は前衛の文学であるといふ点に存する。前者は政治的目的を意識せずに自然に発生し成長して来た文学であり、後者は明確に政治的目的を意識して、その目的を遂行するために書かれた文学であるといふ点に存する。こゝで、殆んどことはる必要もないのであるが、何でもすきさへあれば、誤解しようと待ちもうけてゐるやうな批評家たちのために断つておくが、私がこゝで大衆の文学といふのは、所謂大衆文学即ち大衆のために書かれた文学とは無関係であり、その中にはこの意味の大衆文学もあれば極めて非大衆的な文学があつても差支へないのであり、その逆に、前衛の文学といふのも、前衛のために書かれる文学の意味ではなくて、前衛が大衆のために書く文学も含まれてゐるのみか、むしろこの場合は後者の方が普通である位であるのである。
 以上で、私が、マルクス主義文学といふ言葉を如何に解して来たか、又現在如何に解するかといふことはほゞ明かになつたであらう。これでもまだ不明瞭だといふ人に対しては、私は遺憾ながらこれ以上はつきり説明する術を知らないと答へておくより他はない。

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