生涯のある時期に於いて、教師をするということは、僕にとって予定されていたことかも知れません、とにかく、やってみるつもりです。――彼はある朝、ひっそりとした時刻に、友人に対ってこんな手紙を書いた。そしてペンを擱くと、障子の硝子の向うに見える空が、いまどこまでも白く寒々と無限に展がってゆくように想えた。あの寒々とした中に、以前からこの予言は誌されていたのであろうか――近く始ろうとする教師の姿をぼんやり考えてみた。殆ど何の自信も期待も持てなかったが、それでも、そこへ強いてゆくものが、たしかにあった。彼の安静な、そしてまた業苦多い、孤独の三昧境は既にこの二三年前から内からも外からも少しずつ破壊されていた。ある時は猛然と立って、敵を防ごうとしたが、空白の中に行詰ってゆく心理は、死守しようとするものを自ら弱めて行っているのでもあった。(だが、彼の力の絶したところに、やはり死守すべきものがあることだけは疑えなかった)生計の不安や激変の世の姿が今怒濤となって身辺にあれ狂っていた。絶えず忌避していた世間へ、一歩踏込んで行かねばならなかった。「中学生を相手にするのは何だか怕しいようです」そう云う彼を先輩は憐むように眺め、「そんなことはありません、余程あなたは世間を怖れているのですね、なあに、やってみるまでのことです」と励ましてくれるのであった。その人の家を辞して帰ってくる途中、家の近くの小駅のほとりで、中年の男が着流しで寒々と歩いている佗しい後姿を認めた。近所の男であった。ひどい酒癖がはじまると、隣近所に配給酒を乞うて歩くが、今も巷へ出て乏しい酒を漁って帰るところらしかった。寒々とした夕空がかすかに明るかった。 ……それから間もなく、あの恐しい朝(十二月八日)がやって来たのだった。気を滅入らす氷雨が朝から音もなく降りつづいていて、開け放たれた窓の外まで、まるで夕暮のように惨澹としていたが、ふと近所のラジオのただならぬ調子が彼の耳朶にピンと来た。スイッチを入れてみると、忽ち狂おしげな軍歌や興奮の声が轟々と室内を掻き乱した。彼は惘然として、息を潜め、それから氷のようなものが背筋を貫いて走るのを感じた。苛酷な冬が来る、恐しい日は始ったのだ。――彼は身に降りかかるものに対して身構えるように、じっと頑な気持で畳の上に蹲っていた。日の暮れる前から何処の家でも申合わせたように雨戸を立ててしまった。黒いカーテンを張りめぐらした部屋ではくつくつと鳥鍋が煮えていた。「こんな大戦争が始ったというのに、鳥鍋がいただけるとは何と幸なことでしょう」と若い女中のたつは全く浮々していた。が、妻は震駭のあとの発熱を怖れるように愁い沈んでいた。
押入の奥から古ぴた英語の参考書を取出して、彼はぼんやり眺めていた。久しく忘れていた英語を憶い出そうとするように、あちこちの頁をめくっていると、ふと昔の教室の姿が浮ぶ。円味を帯びた柔かな声で流暢にリーダーを読み了った先生は、黒い閻魔帳をひらいて、鉛筆でそっと名列の上をさぐっている。中学生の彼は息をのみ、自分があてられそうなのを心の中で一生懸命防ごうとしている。先生の鉛筆は宙を迷いなかなか指名は決まらない。やがて、先生は彼から二三番前の者にあてると、瞬間吻としたような顔つきになる。先生は彼の気持は知っているのだ。孤独で内気な、その中学生に読みをあてれば、どんなに彼が間誤つき、真※[#「赤+暇のつくり」、43-15]になるかをちゃんと呑込んでいたのだ。だから、どうしても指名しなければならない場合には、まるで長い躊躇の後の止むを得ない結果のように、態とぶっきら棒な調子で彼の名をあてる。あんな微妙な心づかいをする先生は、やはり孤独で内気な人間なのかもしれない。どうかすると、生徒たちの視線にも堪えられないような、壊れ易いものをそっと内に抱いているようなところがあり、それでいて、粘り強い意志を研ぎ澄ましている人のようだった。……いつも周囲には獣のような生徒がいて、無意味なことを騒ぎ廻っていた。それでなくても、彼にはこの世の中に生れて来たことが不思議に堪えがたいもののようになっていたが、学校の厭な空気はともすれば、居たたまらないものになっていた。それだから、彼はよく学校を休んだ。それは大概冬の日のことであったが、家でひとり静かに休息をとり、久し振りに学校へ出て行くと、彼の魂も、肉体もそれから周囲の様子まで少し新鮮になっていた。黒い服を着て大きな眼鏡をした先生は、彼の欠席していたことについては何も訊ねようとしなかった。 ――彼は久し振りに学校へ出掛けて行く中学生のようであったが、その昔の中学生がまだ根強く心の隅に蔓っているのであった。就職が決まりそうになると、女中のたつは、この生活の変化にひどく弾みをもち、靴下や手袋を新しく買いととのえて来てくれた。弁当箱も、それはこの頃既に巷から影を潜めていたが、どうやら手に入れることが出来た。
とらえどころのない空がどこまでも続いており、単調な坂路がはるかに展がっている。その風景は寒くて凍てついていたが、どこかにまだギラギラと燃える海や青野の悶えを潜めているようで、ふと眩しく強烈なものが、すぐ足もとにも感じられた。空漠としたなかにあって、荒れ狂うものに攫われまいとしているし、径や枯木も鋭い抵抗の表情をもっていた。だが、すべてはさり気なく、冬の朝日に洗われて静まっている。 坂の中ほどまでやって来ると、視野が改まり、向うに中学の色褪せた校舎が見えたが、彼の脚はひだるく熱っぽかった。家を出て電車で二十分、ここまで来ただけで、もうそんなに疲労するのだったが(荒天悪路だ、この坂を往かねばならぬのだ)と、彼は使い慣れぬ筋肉を酷使するように、速い足どりで歩いた。その癖、自分の魂は壊れもののようにおずおずと運んでいるのでもあった。彼には今の家に置いて来たもう一つの姿が頻りに気に懸った。それは今もじっと書斎の机に凭り、――彼方から彼の心の隅を射抜こうとしている。戸惑った表情の儘、前屈みの姿勢でせかせかと歩いている姿は、かえって何か影のように稀薄なものに想われて来る。彼は背後に、附纏う書斎からの視線を避れるように急いで中学の門へ這入って行く。そうして、その小さな門を潜った瞬間から、ともかくあの書斎からつき纏って来たものと別れることが出来た。だが、そのかわり今度は更に錯綜した視線の下に彼は剥出しで晒されるのであった。 ――その夜、睡ろうとすると、鼻腔にものの臭いがまだしつこく残っているのを彼は感じたが、たしかそれは今日の昼間、小使室で弁当を食べた時嗅いだものに他ならなかった。その日、はじめて彼も教員室へ入ったが、そこにはいろんな年配のさまざまの容貌をした教師たちが絶えず出入していた。弁当の時間になると、日南の狭い小使室に皆はぞろぞろと集っていた。彼はその部屋の片隅で、佗しいものの臭い――それは毛糸か何かが煉炭で焦げるような臭いであった――を感じた。家へ戻ると早速、彼はその臭いの佗しさを病妻に語った。妻は頬笑みながら「そんなに侘しいのなら、勤めなきゃいいでしょう」と労わるように云った。長い間、人なかに出たことのない彼にとっては、人間の臭いの生々しさが、まず神経を掻き乱すのであった。……ふと、昼間の光景が睡つけない闇の中に描かれた。階段を昇って、ザラザラの廊下を行くと、黄色く汚れた窓の中に少年たちのいきれが立こもっていた。そっと、教室の後の方の入口から這入って行ったのに、忽ち四十あまりの顔と眼鼻が一斉に振返って彼の方へ注がれた。その視線のなかには、火のように嶮しいものも混っていた。彼はかすかに青ざめてゆく自分を意識した。睡つけない闇のなかには、いつまでも何かはっきりしないものの像が揺れかえっていた。彼等はどうした貌なのだろう、なにを感じなにに為ろうとする姿なのだろう。
それはひどい雪の降っている朝のことだった。彼は電車の中で昂然とした姿勢の軍人の顔をつくづく眺めていた。人々は強いて昂然としているらしかったが、雪に鎖された窓の外の景色は、混濁した海を控えていて、ひそかに暗い愁を湛えているのだった。道すがら雪は容赦なく靴のやぶれから彼の足にしみていたが、泥濘の中をリヤカーで病人を運んで来る百姓の姿も――更に悲惨な日の前触のように、彼の心を衝くのだった。坂路のあちこちには、バタバタと汚れた紙片が貼ってあって、それには烈しい、そして空虚な文字が誌されていた。……寒さと慣れない仕事にうち克つためには、彼は絶えず背中をピンと張りつめていなければならなかった。教員室には、普通の家庭で使用する煉炭火鉢が一つ置いてあった。その貧弱な火をとり囲んで教師達は頻りにガヤガヤと談じ合った。そういう佗しいなかに交っていると、彼はふと、家に置忘れて来た自分の姿を振返ることがあった。長い間かかって、人生の隠微なるものの姿を把えようとしていたのに、それらはもうあのままに放置されてあった。学校から帰って来る彼の姿には外の新鮮な空気が附着しているのであろうか、妻は珍しげに彼を眺め、病んでいる彼女の顔にも前には見られなかった明るみが添った。行列に加わってものを買って帰ると、妻の喜びは一層大きかった。
ある朝、一羽の大きな鳥が運動場の枯木に来てとまった。あたりは今、妙にひっそりしていたが、枯木にいる鳥はゆっくりと孤独を娯しんでいるように枝から枝へと移り歩いている。その落着はらった動作は見ているうちに羨しくなるのであった。こういう静かな時刻というのも、あるにはあったのか。彼はその孤独な鳥の姿がしみじみと眼に泌みるのだった。……この運動場の砂は絶えず吹き荒さぶ風のために、一尺から窪んでしまったのです、とある教師が語ったことがある。絶えず吹き荒さぶものは風ばかりではなかった。無慙な季節に煽られて、生徒達はひどく騒々しく殺伐になっていた。旗行列の準備で学校中が沸騰している時も、彼はひとり職員室に残りぼんやりと異端者の位置にいた。もしも、こういう時代に自分が中学生だったら……と、彼はいつもそれを思うとぞっとする。そうして、生徒たちにものを教えていながらも、ふと向うの席に紛れている己れの中学生姿を見ることがあった。異端者の言葉がすぐ、口もとまで出かかっているのであった。
(昭和二十一年九月号『文明』)
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