私はその日の午後になるとやはり山宮泉の告別式に出かけて行く気になつてゐた。からりと晴れた寒い美しい日だつた。S学園前で電車を降りると、その辺は空気も澄んでゐて桜並木の路も私の眼に泌みるやうだつた。学園の運動場を横切つて、女学校の講堂へ来てみると、告別式は既に始まつてゐた。参列者の殆ど大部分が女学生で、祭壇の左右に遺族らしいものの姿やSの細君やSの友人のHやAの姿が見えた。祭壇にはたしかに山宮泉の写真が飾つてあるらしかつた。私はそれをやがて見ることができると思つた。その写真を眺めるために私はやつて来たのに違ひない。私はそつと後の列の脇にひとり離れて佇んでゐた。 先生らしい男がふと列を離れると、靴音をたてまいとして、慎重な身振りで歩かうとしてゐた。その靴さきに集中されてゐる慎重さが私の注意を惹くと、私は何となく「イン・イリツチの死」のこまかい描写を連想した。それから、人間の死の雰囲気のなかにゐる人間たちの姿を考へた。私は五年前死別れた妻の葬儀を夢のやうに思ひ出してゐるのだつた。その時、列の後の方で合唱隊の唱歌が始まつた。……悼詞が済んで焼香が始まると、やがて私の順番も廻つて来た。私は祭壇に近づくと正面に飾つてある写真を灼けつくやうに見上げた。が、それが私の知つてゐた彼かどうか、写真は茫として不明瞭な印象だつた。と、その瞬間、私は擦れ違ふ急行列車の窓のこちら側から向側の窓をちらつと眺めてゐるのではないかとおもへた。
二
ある日曜日の午後、私は夕方の外食時間にはまだ少し間があつたので、駿河台下から明大裏手にあたるひつそりとした坂路をひとりぶらぶら歩いてゐた。私が今まで生きのびて行けたのはまるで奇蹟ではないかとおもはれる。昨年の今頃は途方に暮れながら真空のなかを泳ぎ廻つてゐたのだが、たまたま私はある知人の厚意でその人が所有してゐる神田の事務所の一室へ押しつまつたその年の暮に入れてもらふことができた。それ以来、私はずつとここにゐる。生活が追ひつめられてゐることに於ては今とても変りはないのだが、生きて行くといふことは、私にとつて絶えず何ごとかに堪へ、何ごとかを祈りつづけることなのだらうか……私は歩きながらそんなことを考へてゐた。と、私の目にふれる壁の上の赤らんだ蔦の葉や枯れのこる葉鶏頭が幻か何かのやうにおもへて来た。しだいに私はひつそりとした空気のなかに、もう何も思はず何も考へたくなかつた。が、ふと、何かもの狂ほしい祈りのやうなものが私の胸に高く湧き上つて来た。 その翌々日、私は小村菊夫の死亡通知を受取つた。私が静かな、しかし、もの狂ほしい気持で歩いてゐた美しい日曜日の日に、彼は死んで行つたことになるのだつた。私はその母堂のわななく指で書かれたらしい葉書を見ると、凝としてゐられなくなつた。小村菊夫とはたつた一度しか逢つたことのない間柄だが、とにかく悔みに行つておきたかつた。 身支度をするとすぐ私は出掛けて行つた。地図で番地は凡そ調べてゐたが、中野駅で降りると、人に訊ね訊ねして、ぐるぐると小路を歩き廻つた。ひつそりとした小路の奥の突あたりの玄関に私はたどりついた。障子が開放たれ小さな座敷には七八人身内の人らしい正座の姿が見えた。今、私は告別式に間にあつて来てゐるのが分つた。が、座敷の一番端に坐つた時、それは私が今迄急いでせかせか歩いて来たためかもしれないが、急にパセチツクなものが湧上らうとした。牧師の静かな讃美歌が私を少し鎮めてくれるやうだつた。やがて私も祭壇の前に膝まづく番になつた。祭壇に飾つてある小村菊夫の写真を見上げると、茫とした白い顔は少し悲しげに微笑してゐるのではないかとおもへた。それから私は母堂に挨拶を述べるとすぐその家を辞した。中野駅の近くまで歩いて来ると、恰度、店頭のラジオがシヨパンらしい清冽なピアノを私の耳に投げかけて来た。 私は小村菊夫と生前たつた一度しか逢つてゐない。それも昨年私が神田の事務所の一室に移れる手筈になつて、引越の荷拵へをしてゐる年末の日だつた。部屋は品物でごつた返してゐたが、罹災以来転々として持運ばれてゐる僅かばかりの品物は、いい加減傷つき汚れてゐて、自分ながら悲惨に見えた。そこへ小村菊夫が訪ねて来たのだ。私は何か軽い狼狽を感じながら、窓の近くに坐をすすめると、彼は背広服のずぼんを端折つてそつと坐つた。その顔のなかには何か緊張と弱々しいものが混つてゐた。 「まだ熱が出たりするのですが、散歩がてらお訪ねしました」 かう云つて彼は持参の原稿を畳の上に置いた。前から私は彼の作品に惹きつけられてゐたので、私たちの同人雑誌に原稿を依頼してゐたのだつた。愛のほの温かさや死の澄んだ瞳を見つめて囁くやうに美しい彼の詩は私にとつて不思議な魅力だつた。私は彼の詩集が上梓されたら是非読んでみたいと思つてゐたので、そのことを話した。 「実は京都の書店から出るはずになつてゐたのですが……」と、彼の顔にいくぶん昂然とした暗さが横ぎつた。それから間もなく彼は坐を立つた。ほんの一寸私の部屋に挨拶がてら一休みしに来たやうな恰好だつたが、私も引きとめはしなかつた。 彼の作品は私たちの雑誌に掲載されだしたが、同人の間では評判が悪かつた。ことに学校を出たばかりの若い人たちは軽蔑と反撥を示した。 (信子はその暗い険の強い美しい横顔を厚志に向けながら「厚志さん、あれは一匹の蝶ではないのよ、二匹の蝶なのだわ……」とかう低く呟いた。厚志の心には、一瞬、羞恥にも似た秘やかな思ひが浮んだ。そして厚志は、その砂丘の上の明るい五月の空の下で、信子の甘い息づかひを、暗い眼ざしを、髪の毛の匂を次第に身近く燃える如く感じたのであつた。)[#底本は「あった)。」] このやうな作風は兵隊靴の音やサイレンの唸りに、つい昨日まで攪乱されてひき裂かれてゐる心にとつては無縁の世界だつたのかもしれない。 ある日、雑誌の同人会が新宿のある書店の二階の一室で行はれてゐた。そこは何かざわざわして、窓の向に見える表通りには絶え間なしに通行人の姿が映画のやうに動いてゐた。ふと私には通行人の顔や、この部屋で行はれてゐる雑談や、毎月生産されるおびただしい文学作品が、すべては動いて止まぬ戦後の汎濫のやうにおもへて来るのだつた。その時、誰かが雑誌の批評をはじめてゐた。批評は小村菊夫の作品に触れ、軽く抹殺されるのだつた。その言葉は私の耳にはいつてゐた。だが、その言葉もやはり動いてやまぬ汎濫のなかに吸込まれてゆくやうだつた。会合がはねると、私は通行人の汎濫のなかをかきわけ、ひとり駅の方へ向つてゐた。すると、誰かが追ついて来て声をかけた。それは学校を出たばかりのEであつた。 「一緒に少しつきあつて下さい」と縁無眼鏡をかけた背の高い青年はギクシヤクするやうな身振りで私を誘つた。私たちは小さな屋台店に腰を下ろした。癇高い抑揚のある声でEは頻りに文学談をしかけるのだつたが、 「小村菊夫があんな風に取扱はれるとは情ないツことです」と烈しく抗議するやうに喋りだした。どこかEは戦争の疵と疼きがのこつてゐるやうな青年だつたが、私はそのEが小村菊夫の支持者であるばかりか、かなり親交のあることをはじめてこの時知つたのである。 その後、私はEを通じて時折、小村菊夫の消息をきかされるやうになつた。……小村菊夫は既に咽喉結核が昂進して病臥してゐること、彼の作品がある雑誌社に行つたまま抹殺されてゐること、そんなことをEはいつも悲憤に似た調子で話した。 そのうち病気は絶望的になり、彼はもはや永遠の睡りに入ることしか望んでゐないといふことも私は耳にした。それから間もなく、小村菊夫の死亡通知を受取つたのだつた。 彼が死んで十日目位にEが私のところに訪ねて来た。Eは告別式には間にあはなかつたのだが、小村家からその遺稿をあづかつて、私のところに持つて来たのだつた。その遺稿は近くある書肆から出版される手筈になつてゐた。その遺された原稿を読み、私はぼんやり考へ耽けるのであつた。
神様、私の死にます日が美しく清らかでありますやうに。
私の文学上のまた他の不安が、そして生涯の皮肉が、 きつと私の額の大きな疲れを離れるでせう この日が大きな平和のうちにありますやうに。 私が死を望むのは、それは全く身振りを作る者達の やうにではありません、本当に全く素朴に、 人形のやうに、小さな子供のやうにです。……
これは小村菊夫が訳したフランシス・ジヤムの詩の一節だが、私は小村菊夫が死んだ日も、恐らく、美しく清らかな日であつたのだらうと思つてゐる。
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