「もう決して何も信じません。自分自身も……」 罹災を免れ家も壊されなかった中年女は誇らかに嘯くのだが。…… 寡婦の妹は絶えず飢餓からの脱出を企てていた。リュックを背負う面窶れした顔は、若々しい力を潜め、それが生きてゆくための最後の抗議、堕ちて来る火の粉を払おうとする表情となっていた。だがどうかすると、それは血まみれの亡者の面影に見入って、キャッと叫ぶ最後の眼の色になっている。悶え苦しむ眼つきで、この妹が僕に同情してくれると僕はぞっとした。たしかにその眼は、もうあの白骨の姿を僕のうちに予想する眼だった。 だが、その年が明けると、その妹にも急に再縁の話が持ち上っていた。その話をはじめてきいた日、僕は村の入口の橋のところで、リュックを背負ってやって来る妹とぱったり出逢った。立話をしているうちに僕はふと涙が滲んで来た。(涙が? それは後で考えてみると、人間一人飢死を免れたのを悦ぶ涙らしかった。)だが、その僕はまだ助かってはいなかった。焔は迫って来た。滅茶苦茶にあがき廻った挙句、僕は東京の友人のところへ逃げ込んだ。 だが、僕を迎えてくれた友人の家も忽ち不思議な焔に包囲された。飢餓の火はじりじりと燻んで、人間の白い牙はさっと現れた。一瞬にして、人間の顔は変貌する。人間は一瞬の閃光で変貌する。長い長い不幸が人間を変貌させたところで、何の不思議や嘆きがあろう。――日夜、その家の細君のいかつい顔つきに脅えながら僕はひとり心に囁いていた。 紅の衣服に育てられし者も今は塵堆を抱く……乞食のような足どりで、僕は雑沓のなかや、焼跡の路を歩いた。焼跡の塵堆に僕の眼はくらくらし、ひだるい膝は前につんのめりそうだった。と頭上にある青空が、さっと透き徹って光を放つ。(この心の疼き、この幻想のくるめき)僕は眼も眩むばかりの美しい世界に視入ろうとした。 それから、僕を置いてくれていたその家の主人は、ある日旅に出かけると、それきり帰って来なかった。暫くして、その友人は旅先で愛人を得ていて、もう東京へは戻って来ないことが判った。それから僕はその家を立退かねばならなかった。それから僕は宿なしの身になっていたのだが、それから……。苦悩が苦悩を追って行く。――つみかさなる苦悩にむかって跪き祈る女がいた。 「一度わたしは鏡でわたしの顔を見せてもらった。あれはもうわたしではなかった。わたしではない顔のわたしがそんなにもう怕くはなかった。怕いということまでもうわたしからは無くなっているようだ。わたしが滅びてゆく。わたしの糜爛した乳房や右の肘が、この連続する痛みが、痛みばかりが、今はわたしなのだろうか。 あのときサッと光が突然わたしの顔を斬りつけた。あっと声をあげたとき、たしかわたしの右手はわたしの顔を庇おうとしていた。顔と手を同時に一つの速度が滑り抜けた。あっと思いながらわたしはよろめいた。倒れてはいないのがわかった。なにかが走り抜けたあとの速さだけがわたしの耳もとで唸る。わたしの眼は、わたしが眼をあけたとき、濛々としているものが静まって、崩れ落ちたものがしーんとしていた。どこかで無数の小さな喚きが伝わってくる。風のようなものは通りすぎていたのに、風のようなものの唸りがまだ迫ってくる。あのとき、すべてはもう終っているのだ。だのに、これから何か始りそうで、そわそわしたものがわたしのなかで揺れうごいた。……」 「火の唇」の書きだしを彼はノートに誌していたが、惨劇のなかに死んでゆくこの女性は一たい誰なのか、はっきりしなかった。が、独白の囁きは絶えず聞えた。永遠の相に視入りながら、死の近づくにつれて、心の内側に澄み亘ってくる無限の展望。……突如、生の歓喜が、それは電撃の如くこの女を襲い、疾風よりも烈しくこの女を揺さぶる。まさに、その音楽はこの女を打砕こうとする。ああ、一人の女の胸に、これほどの喜びが、これほどの喜びが許されていていいので御座いましょうか、と、その女は感動している自分に感涙しながら跪く。と、時は永遠に停止し、それからまたゆるやかに流れだす。 こんな情景を追いながらも、彼は絶えず生活に追詰められていた。それから長く休刊だった雑誌が運転しだすと急に気忙しさが加わった。雑誌社は何時出かけて行っても、来訪者が詰めかけていたし、原稿は机上に山積していた。いろんな人間に面会したり、雑多な仕事を片づけてゆくことに何か興奮の波があった。その波が高まると、よく彼は「人間が人間を揉み苦茶にする」と悲鳴をあげた。 (人間が人間を……。昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のように戦いていた。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるえさせた。一人でも人間が僕の眼の前にいたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散った。僕は人間が滅茶苦茶に怕かったのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだった。しかも、そんなに戦き脅えながら、僕はどのように熱烈に人間を恋し理解したく思っていたことか) ところが今では、今でも僕が人生に於てぎこちないことは以前とかわりないが、それでも、人間と会うとき前とは違う型が出来上ってしまった。僕が誰かと面談しようとする。僕は僕のなかにスイッチを入れる。すると、さっと軽い電流が僕に流れ、するとあとはもう会話も態度も殆どオートマチックに流れだすのだ。これはどうしたことなのだ? 僕は相手を理解し、相手は今僕を知っていてくれるのだろうか――そういう反省をする暇もなく、僕の前にいる相手は入替り時間は流れ去る。そして深夜、僕にはいろんな人間のばらばらの顔や声や身振がごっちゃになって朧な暈のように僕のなかで揺れ返る。僕はその暈のなかにぼんやり睡り込んでしまいそうだ。と突然、戦慄が僕の背筋を突走る。 「いけない、いけない、あの向うを射抜け」 何万ボルトの電流が叫びとなって僕のなかを疾駆するのだ。 (人間が人間を……。その少女にとって、まるで人間一個の生存は恐怖の連続と苦悶の持続に他ならなかった。すべてが奇異に縺れ、すべてが極限まで彼女を追詰めてくる。食事を摂ることも、睡ることも、息をすることまで、何もかも困難になる。この幼い切ない魂は徒らに反転しながら泣号する。「生きていること、生きていることが、こんなに、こんなに辛い」と……。ところが、ある時、この少女の額に何か爽やかなものが訪れる。それから向側にぽっかりと新しい空間が見えてくる) 「火の唇」のイメージは揺らぎながら彼のなかに見え隠れしていた。そのうち仕事の関係で彼は盛場裏の酒場や露次奥の喫茶店に足を踏み入れることが急に増えて来た。すると、アルコールが、それは彼にとって戦後はじめてと云っていいのだったが、彼の眼や脳髄に沁みてゆき、夜の狭い裏通りには膨れ上ってゆらぐ空間が流れた。……彼の腰掛けている椅子のすぐ後を奇妙な身なりの少年や青年がざわざわと揺れて動く。屋台では若い女が一つのアクセントのように絶えず身動きしながら、揺れているものに取まかれている。眼はニスを塗ったようにピカピカし、ルージュで濡れた唇は血のようだ。あれが女の眼であり、唇かと僕はおもう。揺れているガス体は今にも何かパッと発火しそうだ。だが、僕の靴底を奇妙に冷たいものが流れる。どうにもならぬ冷たいものが……。あの女も恐らく炎々と燃える焔に頬を射られ、跣で地べたを走り廻ったのか。今も何かを避けようとしたり、何かに喰らいつこうとするリズムが、それも揺れている。めらめらと揺れている。それにしても、僕の靴底を流れてゆく冷たいものは……。ふと、彼の腰掛のすぐ後に、ふらふらの学生が近寄ってくる。自分の上衣のポケットからコップを取出し、それに酒を注いでもらっている。 「いいなあ、いいなあ、人間が信じられたらなあ」とその学生は甘ったれた表情でよろよろしている。冷たいものはざわざわとゆれる。火が、火が、火が、だが、火はもうここにはなさそうだ。火事場の跡のここは水溜りなのか。 水溜りを踏越えたかと思うと、彼の友人が四つ角のもの蔭で「夜の女」と立話している。それからその女は黙って二人の後をついて来る。薄暗い喫茶店の隅に入る。(どうして、そんな「夜の女」などになったのです)親切な友人は女に話しかけてみる。(家があんまり……家では暮らせないので飛出しました)小さないじけた鼻頭が、ひっぱたけ、何なりとひっぱたけと、そのように、そのように、歪んだように彼の目にうつる。それからテーブルの下にある女の足が、その足に穿いている佗しい下駄が、ふと彼の眼に触れる。あ、下駄、下駄、下駄……冷たいものの流れが……(じゃあお茶だけで失敬するよ)親切な友人は喫茶店の外で女と別れる。おとなしい女だ。そのまま女は頷いて別れる。 それからまた、ある日は、この親切な友人が彼を露次の奥の喫茶店へ連れて行く。と、テーブルというテーブルが人間と人間の声で沸騰している。濛々と渦巻く煙草の煙のなかから、声が、顔が、わざとらしいものがねちこいものが、どうにもならないものが、聞え、見え、閃くなかを、腫れぼったい頬のギラギラした眼の少女がお茶を運んでいる。(ここでも、人間が人間を……。だが、人間が人間と理解し合うには、ここでは二十種類位の符牒でこと足りる。たとえば、 清潔 立派 抵抗 ひねる 支える 崩れる ハッタリ ずれ カバア フィクション etc, そんな言葉の仕組だけで、お互がお互を刺戟し、お互に感激し、そして人間は人間の観念を確かめ合い、人間は人間の観念を生産してゆく。だが、僕の靴底を流れるこの冷たい流れ、これは一たい何なのだ。)……ふと気がつくと、向うのテーブルでさっきまで議論に熱狂していた連中の姿も今はない。夜更が急に籐椅子の上に滑り堕ちている。隣の椅子で親切な友人はギラギラした眼の少女と話しあっている。(お腹がすいたな、何か食べに行かないか)友人は少女を誘う。(ええ、わたしとても貧乏なのよ)少女は二人の後について夜更の街を歩く。冷たい雨がぽちぽち降ってくる。彼の靴底はすぐ雨が沁みて、靴下まで濡れてゆく。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもなさそうだ。(君もそんな靴はいていて、雨が沁みるだろう)彼はふと少女に訊ねてみる。(ええ 沁みるわ とても)少女はまるでうれしげに肯く。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもない。(わたし帰るわ)少女は冷たい水溜りのなかに靴を突込んで立留る。
「火の唇」はいつまでたっても容易に捗らなかった。そして彼がそれをまだ書き上げないうちに、その淋しげな女とも別れなければならぬ日がやって来たのだ。その後もその女とは裏通りなどでパッタリ行逢っていた。一緒に歩く時間も長くなったし、一緒に喫茶店に入ることもあった。人生のこと、恋愛のこと、お天気のこと、文学のこと、女は何でもとり混ぜて喋り、それから凝と遠方を眺める顔つきをする。絶えず何かに気を配っているところと、底抜けの夢みがちなところがあって、それが彼にとっては一つの謎のようだった。お天気のこと、恋愛のこと、文学のこと、彼は女の喋る言葉に聴き惚れることもあったが、何かがパッタリ滑り堕ちるような気もした。 ああして、女がこの世に一人存在していること、それは一たい何なのだ……その謎が次第に彼を圧迫し脅迫するようになっていた。それから、ある日、何故か分らないが、女の顔がこの世のなかで苦しむものの最後のもののように、ひどく疼いているように彼にはおもえた。 「あなたのほんとうの気持を、それを少しきかせて下さい」彼は突然口走った。 「もう少し歩いて行きましょう」と女は濠端に添う道の方へ彼を誘った。水の面や、夕暮の靄や、枯木の姿が何かパセチックな予感のようにおもえた。女は黙って慍ったような顔つきで歩いている。何かを払いのけようとする、その表情が何に堪えきれないのかと、彼はぼんやり従いて歩いた。突然、女はビリビリと声を震わせた。 「別れなければならない日が参りました。明日、明日もう一度ここでこの時刻にお逢い致しましょう」 そう云い捨てて、向側の鋪道へ走り去った。突然、それは彼にとって、あまりに突然だったのだが……。 女は翌日、約束の時刻に、その場所に姿を現していた。昨日と変って、女は静かに落着いた顔つきだった。が、その顔には何か滑り堕ちるような冷やかなものと、底抜けの夢のようなものが絡みあっている。 「遠いところから、遠いところから、わたしの愛人が戻って参りました」 遠いところから、遠いところから、という声が彼には夢のなかの歌声のようにおもえた。 「そうか、あなたには愛人があったのか」 「いいえ、いいえ、愛人があったところで、生きていることの切なさ、堪えきれなさは同じことで御座います」 生きていることの切なさ、淋しさ、堪えきれなさ、それも彼には遠いところから聴く歌声のようにおもえた。 「それではあなたはどうして僕に興味を持ったんです」 「それはあなたが淋しそうだったから、とても堪えきれない位、淋しそうな方だったから」 そう云いながら、女は手袋を外して、手を彼の方へ差出した。 「生きていて下さい、生きていて下さい」 彼が右の手を軽く握ったとき、女は祈るように囁いていた。
(昭和二十四年五、六月合併号『個性』)
●表記について
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