その南風が吹き募ると、海と空が茫と脹らんで白く燃え上るようであった。どうかすると真夏よりも酷しい光線で野の緑が射とめられていた。落着のないクラスの生徒たちは、この風が吹きまくるとき、ことに騒々しかった。彼はときどき教壇の方から眼を運動場のはてにある遠い緑の塊りに対けていた。舞上る砂埃に遮られて、それは森とも丘とも見わけのつかぬ茫漠とした眺めではあったが、あの混濁のなかに一つの清澄が棲んでいて、それが頻りに向うから彼の魂を誘っているようだった。すぐ表の坂を轟々と戦車が通りすぎて行った。すると、かぼそい彼の声は騒音と生徒の喚きで、すっかり捩ぎとられてしまうのであった。 その風が鎮まると、漸く秋らしい青空が眺められた。澄んだ午後の光線は電車の中にも流れ込んでいた。痩せ細った老人が萎びたコスモスの花を持って、恐しい顔つきのまま座席に蹲っている。ある小駅につづく露次では、うず高くつみ重ねられた芋俵をめぐって、人が蟻のように動いていた。よじくれた榎と叢のはてに、浅い海が白く光っていた。そうした眺めは、彼にとってはもう久しく見馴れている風景ではあったが、なぜか近頃、はっきりと輪郭をもって、小さな絵のように彼の眼の前にとまった。その絵を妻に頒ち与えたいような気持で、病院の方へ足を運んでいることがあった。 胸の奥に軽く生暖かい疼きを感じながら、彼は繊細なものの翳や、甘美な聯想にとり縋るように、歩き廻っていた。家と病院と学校と、その三つの間を往ったり来たりする靴が、溝に添う曲り角を歩いていた。そこから坂道を登って行けば病院だったが、その辺を歩いている時、ふと彼の時間は冷やかな秋の光で結晶し、永遠によって貫かれているような気がした。それから、病院の長い長い廊下や、(それは夢のなかの廊下ではなかったが)大概、彼が行くときか帰りかにきっと出逢う中風患者の姿、(冷たい雨の日も浴衣がけで何やら大袈裟な身振りで、可憐に片手を震わせていた)合同病室の扉の方から喰み出している痩せた女の黄色い顔、一つの角を曲ると忽ち轟然とひびいて来る庖厨部の皿の音、――そうした病院の風景を家に帰って振返ってみると、彼には半分夢のなかの印象か、ひそかに愛読している書物のなかにある情景のようにおもえた。
だが、彼の妻が白い寝巻の上にパッと派手な羽織をひっかけ、「その辺まで見送ってあげましょう」と、外の廊下の曲り角まで一緒について来て、「ここでおわかれ」と云った時、彼はかすかに後髪を牽かれるようなおもいがした。そこには、妻の振舞のあざやかさがひとり取残されていた。 ひとりで、附添も置かず、その部屋で暮している妻は、彼が訪れて行くたびに、何かパッと新鮮な閃きをつたえた。 「熱はもうすっかり退がりました。津軽先生が、この薬とてもよく効くとおっしゃるの」そう云って黒い小粒の薬を彼に見せながら、「そのうち気胸もしてみようかとおっしゃるの、でも、糖尿の方があるので……」と、妻は仔細そうな顔をする。「先生も尿の検査にはなかなか骨が折れるとおっしゃるの」 彼は妻の口振りから津軽先生の動作まで目に浮ぶようであった。……明るい窓辺で、静かにグラスの目盛を測っている津軽先生は、時々ペンを執って、何か紙片に書込んでいる。それは毎日、同じ時刻に同じ姿勢で確実に続けられて行く。と、ある日、どうしたことかグラスの尿はすべて青空に蒸発し、先生の眼前には露に揺らぐコスモスの花ばかりがある。先生はうれしげに笑う。妻はすっかり恢復しているのだった。 「わかったの、わかったのよ」 妻は彼が部屋に這入って行くと、待兼ねていたように口をきった。 「もうこれからは、独りで病気の加減を知ることが出来そうよ、どうすればいいかわかって」そう云って妻は大きな眼をみはった。 「尿を舐めてみたの、すると、とてもあまかった。糖がすっかり出てしまうのね」 妻はさびしげに笑った。だが、笑う妻の顔には悲痛がピンと漲っていた。この病院でも医者はつぎつぎに召集されていたし、津軽先生もいつまでも妻をみてくれるとは請合えなかった。三カ月の予定で糖尿の療法を身につけるため入院した妻は、毎日三度の試験食を丹念に手帳に書きとめているのだった。
ある午後、彼の眼の前には、透きとおった、美しい、少し冷やかな空気が真二つにはり裂け、その底にずしんと坐っている妻の顔があった。 「この頃は、毎朝、お祈りをしているの、もう祈るよりほかないでしょう、つまらないこと考えないで一生懸命お祈りするの」 そう云って妻はいまもベッドの上に坐り直り、祈るような必死の顔つきであった。すると、白い壁や天井がかすかに眩暈を放ちだす、あの熱っぽいものが、彼のうちにも疼きだした。彼はそっと椅子を立上って窓の外に出る扉を押した。そのベランダへ出ると、明るい気がじかに押しよせて来るようだった。すぐ近くに見おろせる精神科の棟や、石炭貯蔵所から、裏門の垣をへだてて、その向うは広漠とした田野であった。人家や径が色づいた野づらを匐っていたが、遮るもののない空は大きな弧を描いて目の前に垂れさがっていた。 ………………………… 「こんどおいでのとき聖書を持って来て下さい」 妻はうち砕かれた花のような笑みを浮べていた。……家へ戻ってから、ふと古びた小型のバイブルをとり出してみて、彼はハッとするのだった。それは彼が少年の頃、亡くなった姉から形見に貰ったものであった。二十年も前のことだが、死ぬ前、姉は県病院に入院していた。二度ばかり見舞に行って、それきり姉とは逢えなかったのだが、この姉の追憶はいつも彼を甘美な少年の魂に還らせていた。そういえば、彼が妻の顔をぼんやり眺めながら、この頃何かしきりに考えていたのはそのことだったのだろうか。静かな病室のなかで、うっとりと、ふと何か口をついて、喋りたくなりながら、口には出なかったのは、そのことだったのだろうか。
真昼の電車の窓から海岸の叢に白く光る薄の穂が見えた。砂丘が杜切れて、窪地になっているところに投げ出されている叢だったが、春さきにはうらうらと陽炎が燃え、雲雀の声がきこえた。その小景にこころ惹かれ、妻に話したのも、ついこのあいだのようだったが、そこのところが今、白い穂で揺れていた。薄は気がつくと、しかし沿線のいたるところにあった。電車の後方の窓から見ると、遙かにどこまでも遠ざかってゆく線路のまわりにチラチラと白いものが閃いた。ある朝、学校へ出掛けて行く彼は、電車の窓に迫って来る崖の上に、さわさわと露に揺れる丈高い草を刈り取っている女の姿を見た。崖下の叢もうっすらと色づいていた。それから間もなく、田のあちこちが黒いおもてを現して来た。刈あとの切株のほとりに、ふと大きな牛の胴を見ることもあった。時雨に濡れて、ある駅から乗込んだ画家は、すぐまた次の駅で降りて行った。そうした情景を彼もまた画家のような気持で眺めるのだった。 それから、ある午後、彼が教室で授業していると、ふと窓の外の方があやしく気にかかった。リーダーを持ったまま、彼は硝子窓の方へ注意を対けていた。ひょろひょろの銀杏の梢に黄金色の葉がヒラヒラしているのだ。あ、あれだろうか、……何とも名ざし出来ない、美しい透明な世界がすぐそこにあるようだし、それはひっそりととおりすぎてゆくのであった。
彼はそっと窓の方の扉をあけて、いつものベランダに出てみた。冷たい空気が頬にあたり、すぐ真下に見える鈴懸の並木がはっと色づいていた。と、何かヒラヒラするものがうごき、無数の落葉が眼の奥で渦巻いた。いま建物の蔭から、見習看護婦の群が現れると、つぎつぎに裏門の方へ消えて行くのだった。その宿舎へ帰って行くらしい少女たちの賑やかな足並は、次第にやさしい祈りを含んでいるようにおもえた。と、この大きな病院全体が、ふと彼には寺院の幻想となっていた。高台の上に建つこの大伽藍は、はてしない天にむかって、じっと祈りを捧げているのではないか。明るい空気のなかに、かすかな靄が顫えながら立罩めてくるようだった。やがて彼は病室へ戻って来た。すると、妻はいままで閉じていた眼をパッと見ひらいた。「行ってみる時刻でしょう」と妻は愁わしげに云う。その日、津軽先生から話があるというので、外来患者控室の前で逢うことになっていた。 彼は廊下の椅子に腰を下ろして待った。約束の時刻は来ていたが先生の姿は見えなかった。すぐ目の前を、医者や看護婦や医学生たちが、いく人もいく人も通りすぎて行った。やがて廊下はひっそりとして、冷え冷えして来た。めっきり暗くなった廊下で彼はいつまでも待った。よくない予感がしきりにしていたが、そうして待たされているうちに、もう彼は何も考えようとはしなかった。ただ、この世の一切から見離されて、極地のはてに、置きざりにされたような、暗い、冷たい、突き刺すような感覚があった。 「遅くなりました」ふと目の前に津軽先生の姿が現れた。 「召集がかかりましたので」先生は笑いながら穏やかな顔つきであった。急に彼は眼の前が真暗になり、置きざりにされている感覚がまたパッと大きく口を開いた。誰か女のつれが向うの廊下からちらとこちらを覗いたようであった。 「インシュリンのことでしたね、あの薬はあなたの方では手に這入りませんか」 「まるで、あてがないのです」 彼は歪んだ声で悲しそうに応えた。その大きな病院でも今は容易にそれが得られなかったが、その注射薬がなければ、妻の病は到底助からないのであった。 「そうですか、それでは僕が出て行ったあとも、引きつづいて、ここへ取寄せるように手筈しておきましょう」 そういって先生はもう立去りそうな気配であった。彼はとり縋って、何かもっと訊ねたいことや、訴えたいものを感じながらも、押黙っていた。 「それでは失礼します、お大切に」先生は軽く頷きながら静かな足どりで立去ってしまった。
日が短くなっていた。病院を出て家に戻って来るまでに、あたりは見る見るうちに薄暗くなってゆき、それが落魄のおもいをそそるのでもあった。薄暗い病院の廊下から表玄関へ出ると、パッと向うの空は明るかった。だが、そこの坂を下って、橋のところまで行くうちに、靄につつまれた街は刻々にうつろって行く。どこの店でも早くから戸を鎖ざし、人々は黙々と家路に急いでいた。たまに灯をつけた書店があると、彼は立寄って書棚を眺めた。彼ははじめて、この街を訪れた漂泊者のような気持で、ひとりゆっくりと歩いていた。そうしているうちにも、何か急きたてるようなものがあたりにあった。日が暮れて路を見失った旅人の話、むかし彼が子供の頃よくきかされたお伽噺に出てくる夕暮、日没とともに忍びよる魔ものの姿、そうした、さまざまの脅え心地が、どこか遠くからじっと、この巷にも紛れ込んでくるのではあるまいか。
……弥生も末の七日明ほのゝ空朧々として月は在明にて光をさまれる物から不二の峯幽にみえて上野谷中の花の梢又いつかはと心ほそしむつましきかきりは宵よりつとひて舟に乗て送る千しゆと云所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそゝく
彼は歩きながら『奥の細道』の一節を暗誦していた。これは妻のかたわらで暗誦してきかせたこともあるのだが、弱い己れの心を支えようとする祈りでもあった。 ……幻のちまたに離別の泪をそゝく 今も目の前を電車駅に通じる小路へ、人はぞろぞろと続いて行った。
(昭和二十二年四月号『四季』)
●表記について
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