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瑪瑙盤(めのうばん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-23 13:23:05 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



 7 十四区のゴミゴミした城街シャトウに、パリ共産党の本部があつた。
 外側から見ると、まるで日本の田舎に見る日曜学校のやうな造りで、通行人は、たまたまこのみすぼらしい建物を忘れて通つてしまふ。――昼間でさへ忘れられがちな、この本部は、夜になると、誰がこはしたのか――家の前の街灯はいつも灯火がはひらないので、ほとんど誰の注意も惹かないで過ぎる。
 そのやうな共産党本部なのに――今日は明明と灯火がもれて、天使のやうにマントを羽織つた巡査が二人、暗い地下室から、帽子をかぶらない女の腕を握つて通へ出て来た。
 灯火のついた二階の硝子窓はいつぱいに開いて、党員の残留組なのであらう。たくみなロシヤ語でこの無帽で引かれて行く一人の女に、拍手をおくり、歌をうたつて街角に折れるまで、狂人のやうなさわぎを止めなかつた。門で見張りをしてゐる巡査も時々二階を見上げながら笑つてゐるだけで、暫時すると、前よりもいつそう静かな暗が来た。
 寒子は、ロロから託された品物をパンタロンと一緒に鞄の中へ入れると、プラス・サン・ミツシヱルの燕街へ自動車を走らせた。
 星が美しく降るやうであつた。
 酔つぱらつた学生が伸びあがつては、自分のベレーを街灯の頭へ引つかけようとしてゐた。寒子はその街灯の前で自動車を降りるとアパッシュの門番のゐる、牢屋のキャバレーの中へ、赤いハンカチの男に案内をして貰つた。
 蜜柑[#「蜜柑」は底本では「密柑」]箱のやうな舞台の上では、十二三の娘の子が、人参のやうな長靴をはいて、ビギン、ビギンといふ踊ををどつてゐた。
 ギターと風琴が石の天井にコダマして、まるで水の底のやうに涼しい音をしてゐたし、女達も男達もいゝかげん煙草のもやの中に酔つぱらつてゐた。
 顔の長い顎髭の男、これが寒子のさがす男だ。――だがすぐ寒子の眼の中に、その男の顔は笑ひかけてゐた。カンテラの下の卓子テーブルに眠つたやうに凭れて、梅の実のはひつたカクテルを呑んでゐる。
 少しの間、一ツの卓子に沈黙つて坐りあつてゐた。――だがフッと思ひついて寒子が煙草を出すと眠つてゐたやうな、髭の男は、周章てブリッケの火を寒子の煙草につけてくれた。
 それが機会なのだ。
 寒子は別れたロロにそんな何でもない役割を課せられてゐたのであつた。
「有難う! ロロは国外追放になりましたよ」
 寒子から、一つの書類束を受け取ると、髭の男は冷たく美しい眼を伏せた。
「ロロはフランス人ぢやないんですか?」
「ヱストニヤ生れの混血児ですよ」
「まあ、ヱストニヤ、――さうですか」
「三四年たつたら、また逆もどりして来ますよ、――絵を描いて楽しみですか‥‥」
「楽しみ‥‥」
 寒子は、心の中の埃を叩かれたやうで沈黙つてしまつた。
 髭の男は、梅の実のカクテルをアンコールして寒子には甘いサンザノを註文してくれた。
「日本の××××は、どんな風なのです。貴方の眼から見た事だけで結構です」
 だが、ブルジョアの娘として伸々とそだつて来た寒子には、そんな風な事には関心してゐなかつた。
「どんな風つて、新聞で読むだけですのよ」
 すると、髭の男は、不意に話題を変へて、
「日本まで旅費はどのくらゐかゝりますか、勿論船ですが‥‥」
「さあ、二等で七〇パウンド位でせうかしら‥‥」
「二等でね、中々かゝりますね、――貴方は、中々おしあはせなお身分ですよ、ロロから聞くと、水を吸う苔のやうなひとだと聞きました。色々なものを勉強して下さい。絵は誰のが好きですか――僕も絵は好きで絵の理論はうまいのですが、中々ね」

 二人の会合を誰も知らない。
 寒子は、違つた世界をのぞいて、その夜はひどく、ドウキがはげしく踊つてゐた。

 8 パレットから緑を連想し、地図の上から、汽車をひろはふとした熱情もいつか失せて、寒子はまた何日か埃の中の静物の上に摸索を続けさせてゐた。
 ロロもいまは国外追放になつてしまつてゐるし、ミツシヱルも、他のモデルの風説では、すつかりソルボンヌの文科大学生と恋仲になつてしまつてゐると云ふ事であるし、――寒子は孤独なまゝに、いつか、自分の描く絵にギモンを持つて来た。
「こんな花だの、林檎だの描いていつたい何になるんだらう――何の役に立つのだらう」
 筆をポキ/\折つてしまひたかつた。
 何度となく故郷へ帰りたいと手紙を出しても、家から来るたよりは、折角パリへ出かけたのだから、仕上げて帰つて来たらといつて来るばかりであつた。「何を仕上げるのだらう――」
 パリにゐる日本人の絵描きは、大方寒子のことをうらやましがつてゐた。
 寒子もそれに甘へてひどく長閑に、気まゝに絵を描くことに精進してゐたのだが、牢屋のキャバレーで、眼の美しい髭の男を見てから、退屈屋の寒子が、余計海の上の雲のやうに呆んやり考へる日が多くなつた。
 たまに気が向くと十四区の城街へ足をやつてみるのだが、共産党の本部の扉は、いつでも閉つたまゝで人声が聞えない。
 ミツシヱルのアパルトも幾度か尋ねてはみたが、その都度留守で、会へない時が多かつた。たまに会つても、いつもそは/\と急がし気で、顔中がひどく武装して見えた。
「どうしたのだらう――」
 かうなると、妙に自分が金持ちの、のらくら娘に思へて、寒子は自分で自分の気持に弱り果てた。
 七月の革命祭にはお互にフィアンセを見つけてヒロウしようなぞと笑つた踊りの夜も過ぎて寒子にはなまあたゝかい無為の日が続く。

 まるで悪病みたいに静物にとりつかれて――さう開きなほると、寒子は方向転換に、毎日カルトンをさげてセーヌの石畳の上にスケッチに出かけた。
「パリへ来て、こんな気持の堆積が自分を神経衰弱にするのだ」
 さう思つて街を見ると、リオンの停車場でひと目見たパリの印象がボヤボヤと崩れて、最もビジネス的な風景になつて来る。
 寒子は胸を張つていつぱい空気を吸つた。
 両足を男の子のやうにふんばらして、カルトンを持ちあげた。
 眼を細めるとサン・ミツシヱル橋も樹も建物も生々と美しかつた。只黒いコンテの心臓から聴覚につたはるパリの姿を描かふ、私の仕事はそれでいゝのだわ、私を革命家にするのなら、もつと不遇な家に生れさせるといゝ。私は一年も二年もつかひきれない程の財産家に生れてゐるのだもの、何を好んで美しいものゝ無意義を感じなければならないのだらう、「楽しみですか?」と問はれた場合、はつきりと、大きな声で、「大変楽しみです」といふやうにしよう――。

 9 「今日はボンジュール!」
 眼鏡型の橋を描きかけてゐた時であつた。寒子の背を叩く白い大きな掌があつた。愕いて振り向いた寒子の眼の上に、あの澄んだ美しい髭の男があつた。
 だが、髭はもう綺麗に取り去られて、青年に近い美しさだ。
「まあ、しばらく‥‥」
「橋の上から貴女がよく見えた、――相変らずお楽しみですね」
「楽しみ‥‥」
 あんなに威張つて、「楽しみに描いてゐる」と云ふ言葉も、――また泡のやうに此男の前では消えてしまつたではないか。
 で、寒子はわざと話題を変へてロロはと聞くと、男は、笑つて、早い三、四年で、もうロロは巴里の屋根の下で眠つてるよと答へた。
 ものぐさなロロが、もうパリにはひりこんで、パリの街のどこかで眠つてゐる。――

 雨がパラパラと鼻の頭にあたつた。
 風が気早に、マロニヱの繁みを雨傘のやうに広げると、もう雨雲が破れて、雨脚が額に痛くなつた。
「オヽララ」
 男は黒いレンコートを寒子の頭からかけると、体を抱くやうにして、橋の下へ逃げ込んだ。
「驚いた‥‥」
「大丈夫、すぐ通つて行く――パリの雨だけは僕は大好きだ」
 二人は橋の下の下水管の上に腰をかけたまゝ石畳をバンジョウのやうにかきならす雨脚を眺めてゐた。
 仔犬がビショビショになつて、二人の足の下にうづくまる。
 河の流れが、急に乳色になつて早くなる。
「冷たい?」
 不意に思ひがけない親切な言葉にとまどひして、寒子がフッと振り向くと、腕木のやうな大きな掌が寒子の肩を抱き、男の唇は寒子の雨に濡れた唇を封じてゐた。
 暫時は、四ツの唇を静かに心に感じあつた。寒子は、長い間ほつて置かれた赤ん坊のやうに泪があふれると、胸を突きあげるやうに声が出た。
 沢山、色々な言葉が洪水のやうになつてあふれるが、それは皆東洋の故郷の言葉だ。
 二人が唇を離した時、もう雨脚は大分止んで、逃げ込んで来てゐた釣りの少年も、また河沿ひに歩いて行つた。
 二人は、只沈黙つてゐた。沈黙つて、この感情の空気を吸ふより仕方がない。

 雨が通り過ぎて行くと、マロニヱの並木は、すぼんだ傘のやうに、パツと水を切つて前よりもいつそう鮮やかに緑が美しくなる。
「これから何処へ行くの?」
 男は先に歩いてゐた。
「これから、――死にゝ行くのさ」
「死にゝ行くウ?」
「うん、――これだ!」
 男はポケットから、黒いピストルの口を出して見せた。

 10 寒子は気が狂ひさうであつた。
 温室咲きの薔薇のやうに美しくそだつて来た寒子の体内には、火がついたキリンが走りまはつてゐる。
 寝台に起きあがつて、何度巴里夕刊パリ・ソアルを引つくり返して見ても、やつぱりあの男の顔が出てゐる。今朝、あの男と雨宿りしたばかりなのに、「青色ロシヤ青年首相暗殺」この大きな表題の下には、自ら赤白を否定して、青色と名乗る青年の写真が出てゐた。
「まあ、あの人だ、あの人だわ――」
 寒子は空気を抱きしめて泣いた。
「死にに行くのだよ」
 さう云つて気軽に別れたあの男が、絵の展覧会場にゐるフランス首相のそば近くに寄つて、ピストルを放たうとは思ひもよらない。
 寒子は、坐つても立つてもられない気持であつた。
「さうだ! ミツシヱルの家に行けば、ロロの居所も分るだらうし、何か様子が知れよう」

 寒子は自動車の走りやうがおそいと云つては、コツコツ硝子戸を叩いて、運転手を厭がらせた。
 ――あの長い白暮だ。
 九時ごろであらう閉門の鐘が寺の塔から流れて来る。
 自動車から降りると、寒子は「ピュウピュ、ピュウピュ」と口笛でミツシヱルを呼んでみたが、何の反響もない。
 門番コンシヱルジヱは、「今朝から降りて来ないよ」とぶつきら棒に云ふきりだ。
「別に病気でもないの?」
「貧乏が病気さね、――若い男とゐるなら、その貧乏もおかまひなしだらうが、俺んとこだつて、空気の上に家を建てゝゐるんぢやないんだから、いゝかげんしびれが切れるよ」
 相変らず、ミツシヱルも困つてゐるんだ。それなら、それのやうに、何故借りに来ないのだらうか薄暗がりを手探りで、一段一段上に上つて行くことが寒子には切なかつた。
 低い天井裏の廊下に、やつと燐寸をすつて番号を探した。
「ミツシヱル!」
「‥‥‥‥」
今晩はボンソアール!」
「‥‥‥‥」
今晩はボンソアール!」
「ウ‥‥‥‥」
「ミツシヱル! 私よ、寒子よ、一寸開けて!」
「‥‥‥‥」
「居るんぢやないの、只の事で来たんぢやないから開けてツ!」
「ウ‥‥‥‥」
今晩はボンソアール! ミッシヱル」
 寒子は、向ふのかすかな唸り声と対かうして根気を出した。
 扉は固く閉つてゐる。
門番コンシヱルジヱぢやないのよツ」
「ウ‥‥‥‥」
 つひには、寒子は狂人のやうに扉を叩き出した。すると、思ひがけなく隣室が開いて銀色の頭髪をした美しい女が、「マドマゼール」と小声で寒子をまねいた。
「あの‥‥どうも変なんですよ、先程から、ガス臭くて仕方がないんですが、お友達だつたら立会つて戴いて、門番に開けて貰ひませうか」
 さういはれると、妙に廊下がガス臭かつた。少し大きな声を続けると汗ばんで、フラフラとたふれさうになる。
「ねえ、さうでせう‥‥」
 寒子と銀髪の女は、ミツシヱルの扉に鼻をつけて匂ひをかいだ。
今晩はボンソアール!」
今晩はボンソアールマダム!」
「ウ‥‥ウ‥‥」
 唸つてゐる人の声だ。ミツシヱルの声だ。寒子も銀髪の女も、七階上から、門番コンシヱルジヱのところまで、どう転び降りたか分らなかつた。門番コンシヱルジヱが鍵束を持つて七階上に走る時、寒子は頭の中の血脈がピンと音をたてゝ切れたやうに感じられた。

 11 小さい三角屋根の下には、ミツシヱルが寝台の上に眠つてゐた。
 洗面台の下には、かつて踊場で見た事のあるあの美しい青年がたふれてゐる。
「馬鹿者が‥‥全く恥知らずがツ!」
 一寸の怒りもすぐ第六感をおびやかして、体中をブルブルさせさうな門番コンシヱルジヱは窓といふ窓を開けると、かう云つて怒鳴り散らした。階下からも人達が愕いて上つて来る。
「ミツシヱル! 私よ、寒子よ!」
 だが、一足おくれたのであらうか、あんなに朗らかだつたミツシヱルも青年も息を吹き返さなかつた。
 部屋の中には、かつてロロのつかつた水ブラシと、気味の悪い人形の首がぶらさがつてゐるきりで只美しく清潔であつたのは、二人の体と、二足の靴だけであつた。壁の写真もいつか取りはらはれて、どんなに、一ヶ月の間、ミツシヱルの生活に苦悩があつたのか、あまりに部屋の中は何もなさすぎてゐた。
「何時になつたら敷物のある、花束のある、紅茶茶碗のある部屋が持てるのかしら」と云つてゐたミツシヱル!

 寒子は巡査の来ない間に、街の通へ、あんなにミツシヱルの欲しがつてゐた花束を買ひに出た。
 だが白暮はつひに物思ひのまゝ暗くなつてしまつてゐる。どの店も閉つてゐた。花屋の硝子戸の中には高洒[#「高洒」はママ]な、薔薇や蘭の花が並んでゐるが、こゝも網戸が降りてゐた。
 寒子は、妙に胸の薄さを感じる。
 静物に買つた、薔薇の一束を部屋から持ち出すと、まるで泣いた後のやうな涼しい気持になつて街に急いだ。
「皆々、孤独人なのだ、ミツシヱルだつて、ロロだつて、あの男だつて、――」
 ピストルを射つたあの男は、ピストルを射つまで、心のやり場に困つたのに違ひない。その心のやり場に、ひととき私の唇を利用したところで、何でとがめる事があらう。まして泣いて切ながる必要もない。楽しみに私は私で絵を描けばいゝぢやないか、寒子は、何気なく眉をあげた。二日間も部屋に匂つた白薔薇がハラ/\と蝶々のやうに舗道にあふれて散つた。

雨は真珠か
夜明の霧か
それとも私の
しのびなき

 ミツシヱルを愛して、雨の唄を教へた東洋の男も、今ごろは百号大のカンヴァスを広げて、妻君の裸体をでも描いてゐるのかも知れない。
一切は孤独なしのびなきなのだ。
 寒子は白皮の手袋をはづして心の葬礼にふさはしい青色のタクシーを呼び止めてゐた。





底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
   1977(昭和52)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※片仮名の拗音、促音を小書きするか否かは、底本通りとしました。
※疑問点の修正に当たっては、「清貧の書」改造社、1933(昭和8)年5月19日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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