打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

瀑布(ばくふ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/23 13:11:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 隆吉は誰かに貰つたと見えて、水色の派手なジヤケツを着込み、油で光つたリーゼントの頭を板壁に凭れさせて、立つて膝を抱きかゝへて[#「立つて膝を抱きかゝへて」はママ]煙草を吸つてゐる。色の悪い顔色で、眼尻が上つてゐるせゐか、何となくボーイ面して澄してゐる。直吉は片肘ついて寝転び、電気の下で新聞を拡げてゐたが、油気のない頭髪が広い額にかゝり、くぼんだ眼はぢいつと店の方へ向いたまゝだつた。いまだに復員服を着て、首によれよれのひろひものの白いマフラを巻いてゐる。頬骨がとがつて、色の黒い唇はむくれて、昔のおもかげはあとかたもないほどだつた。ひどく老け込んで、四十を過ぎた風貌に見える。
 鈍重で粘り強く、幾度も兵隊生活で制裁を加へられた人間特有の、がつしりした体つきで、直吉は悠然と喋つた。幾度となく忿怒を通り越して生きてきた直吉は、木の根株のやうな腰の坐り方でもある。
「全く、人間つてものは正気ぢやアない。正気ぢやないよ。豪さうな事を云つてるが、同じ事のむし返へしだ。癇癪もちで、おべつか屋で、いざ事が起きてみろ、心の中でひいひい悲鳴をあげる癖に、歩く時は我関せずえんだ。合点のいつてる顔してる奴にかぎつてろくなのはゐないね。女は女で新しもの好きで、二度と昔の男には見向きもしねえ‥‥。お前、女は出来たのかい?」
 直吉がしびれた肘をはづして、にやにや笑ひながら隆吉を見上げた。
「近いうちに結婚しますよ‥‥」
「ほゝう。そりやアいゝなア。べつぴんかね?」
「さア、どうですかね。僕には満足ですがね‥‥」
「そりアいゝな、大事にしなくちやいけねえな。それで、おふくろが邪魔になるンぢやないのか?」
「いや、僕は近々にこゝを出て行きますよ」
 直吉はあゝとのびをして、部屋の隅の継母の寝顔に眼をやつた。能面のやうにてらてらして、汚れた手を胸の上に組んですやすや眠つてゐる。隆吉に捨てられた父と継母はどうなつてゆくのかと直吉は、その寝姿に哀れな気がした。自分もこゝを逃げ出して行きたかつたのだ。二人が残されるとなると、差づめ困るのは父かも判らない。継母は物乞ひしても何とかして生きてゆけるだらうと思へた。犬猫の小便臭い匂ひが小舎のなかにこもつてゐる。継母は時々体の掻ゆさにぶるぶると身震ひしてゐる。昔は継母の若さが気に食はなかつたが、いまでは、汚れて泥々になつてゐる継母の寝姿が、神々しくも感じられた。継母に向つて、あの時感じた一瞬の悪魔的な気持ちが、あゝ何でもなくてよかつたと、直吉は苦笑してゐる。
「仲々死ぬやうな顔ぢやないね」
 冗談めかしく云つて、直吉は、生きるだけ生きて、この落下してゆく社会とともに、継母は継母の未来を持つた方がいゝと投げやりな事も考へる。

 直吉は、二本目のビールをコツプについで、様々な事を考へた。里子は、電話を掛けに行きたいらしく、そはそはしてゐる。直吉は今夜こそ、里子に向つて恨みを晴らしたい気がしてゐた。賠償を取りたててさつぱりと、籍を戻してしまふ気だつた。今日見た河底の広告マンの姿が瞼に焼きついて離れなかつた。橋の上から、弥次馬が大勢のぞきこんでゐたが、結局は自分達も、生きながらの河流れの広告マンと少しも変つてゐない気がした。このやうな見本があると云ふ姿を、世界に示してゐるやうな、一つの民族の広告マン振りが聯想されて、それに就いての自覚もない、高見の見物衆の心理が、直吉には、をかしくてならないのだ。有害無益な群衆を尻目に、泥河に寝転んでゐるあの広告マンの姿は、直吉には深く印象づけられた。あすこまで落ちこんで初めて平和な境地が発見出来るのかも知れない。流れる雲に愛撫されるやうに、水に写つた雲の上に、悠々と寝転んで、あの広告マンは灯のついた食卓に待つてゐる幾人もの子供の優しい声を聞いてゐるのかも知れない。「待つておいで、お父さんは今日の日当を貰つて、土産を買つてやるよ‥‥」そのやうな事を考へてゐたのかも知れないのだ。細君は時計を見てゐるに違ひない。完壁[#「完壁」はママ]なものだ。野次馬は、この完壁[#「完壁」はママ]なものの風懐に触れるよりも、まづ自分はあの泥河にまではまり込まなかつた幸福感を味つてゐるに違ひない。俺はまだ、あの男よりはいゝ生活だと‥‥。
 ビールの酔ひのせゐか、直吉は少しつつ昂奮して来た。甘い香水の匂ひが慾情を責めたてて来た。矢庭に直吉は手をのばして、里子の手を掴んだ。里子は吃驚したが、迷惑さうに、掴まれた手をふりほどきながら、「厭」と強く云つた。直吉は里子の声がきびしかつたので、思はず掴んだ手を離した。憤然となりながら、脆い気持ちになり、その手でコツプを掴んでぐいぐい飲み干して、唇の泡を手の甲でこすりながら、「何が厭なンだ」とぎらぎらした眼が里子を睨んだ。里子は後しざりしたいやうなそぶりで、また肩掛けを羽織り、
「私、それよか、一寸、電話かけて来るわ」
 と云つた。電話を掛けに行くと云ふのは口実で、急に気が変つて、泊りたくなくなつてゐるに違ひないのだ。直吉は返事もしなかつた。泊つて貰はなくてもよかつたし、自分も亦泊る気にはなつてはゐない。里子は、生まれついた性根で、面白をかしく暮したいのであらうし、こんな貧弱な男なぞにはかまつてはゐられないのかも知れない。亡くなつた冨子が、たいこ焼を食べろと云つて、素直に食べなかつた少女時代の里子の頑固さが、直吉には鮮かに記憶にあつた。――里子は里子で、また、違つた気持ちで、静かに直吉の焦々しさを観察してゐたのだ。長い間、戦争に行つて、自分だけが苦労をして戻つたやうな太々しさでゐる直吉に[#「直吉に」は底本では「直吉」]対して大きな不満があつた。貧しい家族に一銭の仕送りも考へてくれないやうな男には何の思ひもなかつた、いまでは、遠い昔の、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと祈つて身を任せた、あの逞ましい老人に何とも云へないなつかしささへ感じてゐる。長い間、子沢山の貧しい一家にそだてられて来た里子にとつては、家の為に犠牲になつてゐると云ふ思ひは一度も持つてみた事がない。たゞ、家へ金を送りたいのだ。あまり多くの男を知つたため、里子は男の世話になる事は、自分の体を代償にする事だと考へてゐた。荷馬車曳きの父は仕事も出来ない程老いてゐたし、弟妹達はみなそれぞれ巣立つてはゐたが、里子の送つて来る仕送りを当てにして、親達に対しては何一つ報いてやる気もないものばかりにそだつてしまつた。弟なぞは、時々上京して、里子に小遣さへ貰ひに来る。里子は金放れのいいところを見せるのが気持ちがよかつた。小言を云ひながら金をやるのだ。家へ送るのも、小言やぐちを並べて金を送つた。その金には、何の執着もなかつた。
 直吉は厠へ立つて行つた。里子が逃げるかも知れないと思つたが、それもいゝだらうと、階下に便所を探して戻つて来ると、里子は火鉢に手をかざしたまゝ困つたやうに坐つてゐる。継母を殺す前に、この女から締め殺してやりたい太々しさになつた。分つてゐる。何も云はなくてもお前さんの心持ちは分つてゐると、直吉はまたどつかと胡坐を組んで三本目のビールに手をつけてゐた。いくら籍に這入つてゐてもこの女を自由にする権利はもうないにきまつてゐる。ひゆうと唸りをこめた風が庇に吹いてゐた。誰にも一生を捧げたわけではない。里子には里子の自由さがあるにきまつてゐる。何の世話もしなかつた代りに、里子も、あの時の娘らしさから、世の荒波に揉まれた一人前の女に成長してゐた。二人の別れてゐた距離があまりに長すぎてゐたし、二人は籍の上で結婚はしてゐても、離れて別々の苦労をして今日まで暮してゐたのだ。
「貴方、いゝ奥さん貰ふといゝのよ」
 里子がぽつりと云つた。直吉は生いかの焼いたのをぐらぐらした前歯でちぎりながら、「さうだね」と云つた。
「私はね、もう、貴方と暮す女ぢやないのよ。あの時は戦争だつたから、あんな風になつたンでせうけど‥‥。私、貴方を友達みたいに好きなの。――よく考へてみると、私、心から男に惚れる道を知らないで今日まで来たみたいだわ。惚れるつてどんなのか、本当は判らないのよ。正直云つて、私、男のひとからお金を貰ふ時だけぞくぞくしちやふのよ。いけない女になつてるのね。これは世の中の女のひとと違ふンぢやないかしら。でも、私と一緒に働いてるひともさう云ふ気持ちがあるつて云ふのよ‥‥。こんな商売をしてたからでせうかしら‥‥。どんな厭なひとだつて、お金を貰ふ時は、とてもいゝ気持ちなの。別に貯めるつてわけぢやない。只、右から左に家へ送つてやるだけなンだけど、私つて、変りものなのね。――自分でも本当に厭な女だつて思ふわ‥‥」
 直吉は、戦争中の浅草の待合で、里子が、芸者と兵隊の心中を話してくれた、なつかしい夜を思ひ出してゐた。
「ちつとも、貴方以外に好きなひとはないのよ。あつても、すぐ醒めてしまふの。こんな気持ちや体で、私、貴方に黙つてなにするのは悪いンぢやないかしら‥‥。ねえ、私、貴方の事をどうしたらいいかつて思ふンだけど、判然り云へば、心が本当にこもらないのだし、千駄ヶ谷で家をたゝんだ時が、もうお互ひの終りだと思つてあきらめ合ふのがいゝと判つたのよ。――何時だつて、貴方の事は案じて心配してゐたンです。この気持ちは本当だわ。生きてかへつて下されば、それでいゝつて思つてたンですよ。さうなの‥‥私つて、そんな女なの。貴方が戻つて来てからね、あゝよかつたつて思つたわ。この気持ちはよく云へないけれど、これでもう、私の願ひは済んだつて気がして、晴々しちやつたの――。どうせ、私は、自分でも、いゝ行末は持つてないつて思ふンですけど、そンな事はどうでもいゝのね。行末なンて興味がないわ。家へお金を送つて、それで月日が過ぎちやふンだわ。私、いまさら人を好きになつて、自分のすべてを掻き乱されるつて厭なのよ‥‥」
 女の露骨な本心を打ちあけられて、直吉は、里子の心に似通ふたものが、自分にもあるやうな気がした。人間らしい生々した思ひの光彩は、この数年のあわたゞしさに押しつぶしてしまつた気がした。里子は手をのばして、卓子の上の煙草を取つて火をつけると、それを口に咥へて美味さうに煙を吐いてゐる。直吉は里子のきやしやな、しつとりしてゐる指を眺め、随分長い別離だつたと思つた。眼の前に坐つてゐる女は、戸籍上の妻ではあつたが、今夜の出逢ひに交はした、刺すやうな眼光は、妻でも良人でもない。他人の疑視であつた。お互ひに長く相逢はなかつた生活の変化が、いまでは二人の眼の中に、少しの引力も呼びあはなかつたのだ。里子は直吉を見て、掠めるやうな当惑の色を眼にたゞよはせてゐた。
 金を貰ふと、ぞくぞくすると云ふ里子の心理は、一応直吉にも判らないではない。昔の金と、いまの金の値打ちも違つて来てゐるせゐもある。荒い世相で、貧窮に怯えるのも厭だと云ふ心理も、ないではなからう。直吉はソ連から、戻つて来て、舞鶴の港で、山盛に積んだ蜜柑を見た。誘はれるやうに、その蜜柑を売つてゐる処へ行き、十箇あまりの蜜柑を買つた。三十円であつた。三十円と云へば、昔、榎本印刷に働いてゐた頃の一ヶ月のサラリーである。よういでない終戦後の日本の経済面を直吉は知つた。一つのむづかしい問題にぶつかつた気がしたが、此頃では、コオヒイでも、砂糖でも売りに行けば、直吉は沢山の百円紙幣を無雑作に受取る事が出来た。それをまた無雑作にボストンバツクに押し込んで持ち帰へる時の、スリルに似た気持ちは、自分でも一種の犯罪をやつてのけたやうなぞくぞくした嬉しさになる。里子のやうに、家へ貢ぐ金にはしなかつたが、直吉はその金で、無雑作に食事をし、女を買ひ、その日暮しの根性に落ちぶれてしまつてゐた。狂暴なほど金銭に対して直吉は反抗してみたかつたのだ。現にいまも、飲んでゐるビールが百五十円も二百円もしたところでかまはなかつた。持つてゐる金を今夜、みんなつかひ果してしまひたい焦々した気持ちに追はれてゐた。前田へ半金払つた金の残りは、二万円ばかりを内ポケットに蔵ひ込んでゐる。里子に見せる気はなかつたが里子が、金で体を売る女となつてゐるからには、金で、今夜は里子と遊んでみたい毒々しさにもなつてゐた。直吉は外套のポケットから、外国製のチユウインガムが一二枚あつたのを思ひ出して、手探りでそれを出して卓子に置いた。
「別れないとは云はないさ。籍も返へしてやる。君の云ふとほりに、いまさら、二人で一軒持つてみたところで、それは形だけのものかも知れない。――電話をかけに行かなくても、もう少し、ビールを飲むのつきあつて、浅草へ行きアいゝンだらう。泊らなくてもいゝ。さつきは泊るつもりでゐたンだが、もういゝ。いゝンだよ。やつと俺も納得したンだからね、少しつきあつて行きなさい」
 直吉は酔つた。寝転んで片肘ついて、卓子のコツプを手にした。里子は吻つとした表情で、手をのばして、煙草の吸殻を火鉢の灰につゝこみ、「私、可笑しくて涙が出ちやふわ」と云つた。
「何が可笑しい」
「可笑しいのよ。私の気持ちが‥‥馬鹿な女だわ」
「いま一緒にゐるの、いゝ旦那かい?」
「旦那なンかぢやないわ。部屋を借りてるだけよ。友達の家なンですけどね。そのひとの旦那が犬を飼つてるのよ。セパード専門なンだけど、とてもいゝ商売とみえて、大学生のアルバイト二人傭つてやつてるわ」
「ほう、色んな商売があるもンだな‥‥」
 それにしても、誰だつて河流れのやうなものだと、直吉は、幻影だけで生きてゐる自分を、これからさき何処まで耐へられるものかどうか、不安にならないでもない。再起してみたいにもひどく無気力になつてしまつてゐる。河底に寝転んでゐた、あの男の境地に行き着くのはわけのない事だと思ひながらも、あれだけの勇気はどうしても持てなかつた。人生を空費してゐると承知してゐながら、独りだと云ふ気楽さのなかに、無気力に溺れてしまつてゐる‥‥。兵隊のユニホームを着てゐる時には、兵隊の悩みだけしか判らなかつたが、ユニホームのない、気まゝな浮世に投げ出されてみると、直吉は世の中を、瀑布のやうなすさまじい流れのやうに思つた。放り込まれて、流され、揉まれて、無の大海へ押し出されるまで、何の抵抗も出来ない芥のやうな人間群が、荒い急流に押し流されゐるのだ。
 里子は動かなかつた。直吉は何も云はないで、里子の心のままに任せてゐた。軈て女中が、蒲団を敷きに来ても、里子は電話に立つ気配もない。

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6]  下一页 尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口