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或る女(あるおんな)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/23 12:48:02 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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何時ものやうに歸つて來ると、跫音をしのばせて梯子段へ足さぐりで行つたが、梯子段の下の暗がりで、良人の堂助が矢庭に懷中電燈をとぼした。たか子はぎくつとして小さい叫び聲を擧げた。 「何さ‥‥まだ、あなた、起きていらつしたの?」 「寢てればよかつたのかい?」 「厭アな方ねえ、一寸遲くなるとこれなンですもの‥‥あなたのお時計、いま幾時なンですの?」 さう云つて、たか子は暗がりの中へつつ立つてゐる堂助の方へ手を泳がせて良人の腕時計のある手首をつかんだ。 「パパ一寸それ照らして頂戴」 堂助は素直に懷中電燈をつけた。腕時計の針は丁度十二時に十五分前を差してゐる。 「あら、本當ねえ、隨分遲いわ‥‥ごめんなさい」 「‥‥‥‥」 「でも、吃驚したわ、パパそこへ立つていらつして‥‥」 「俺が立つてゐたからつて、そんなに驚くこたアないぢやないか‥‥」 「誰だとおもつたからよ‥‥」 「ふふん、佐々のおばけとでもおもつたかい?」 「まア、厭だ! それ皮肉でおつしやるの?」 「皮肉ぢやないよ‥‥」 堂助は、ふふんと口のなかで笑つて、懷中電燈を照しながら、さつさと二階へあがつて行つた。(何だつて、あのひとは懷中電燈など持ち出したンだらう‥‥) たか子はわざと荒々しく、廊下のスヰイツチをひねつた。四圍が森閑としてゐるので、堂助が書齋の革椅子をきしませて腰をかけてゐるのまで階下へきこえて來る。 たか子は化粧部屋へ這入つて着物をぬいだ。着物をぬぎながら、たか子は瞼に涙のたまるやうな熱いものを感じた。 寢卷きに着替へて二階の寢室へあがつて行つたが、堂助は書齋の灯をつけて何時までも起きてゐる樣子だつた。 「パパ、おやすみにならないの?」 「ああ」 「何故? 何を怒つてらつしやるの?」 たか子は寢床から起きあがると、良人の部屋へはいつて行つた。堂助は窓を明けて、星空を眺めながら煙草を吸つてゐた。 「あら、綺麗なお星樣だこと‥‥」 たか子は、太つた躯を堂助の膝の處へ持つて行つたが、堂助は小さい聲で、 「厭だ」と云つて、窓ぶちへ立つて行つた。 「何、そんな怖い顏して憤つてらつしやるの、だつて、今日は遠藤さんの出版記念の會ぢやありませんか、遲くなるの仕方ないわ」 何時までも堂助が默つてゐるので、たか子は、たよりなささうに良人のそばへ行き、 「怒つてるンだつたら、かんにんして頂戴、そんな怖い顏してるの厭よ‥‥」 「もういいよ。寢ておしまひ。怒つてなンかゐないよ‥‥」 「さう、でも‥‥」 たか子は、良人の机の灯を消すと、久しぶりに堂助とむきあつて窓ぶちに腰をおろした。 星が飛んでゐる。明日も天氣なのだらう、寺院の天井のやうに、高い星空で、秋の夜風が、たか子の髮を頬にふきよせてゐる。 「ねえ、おい‥‥」 「何ですの?」 「俊助や孝助の事考へるかい?」 「パパ、何云つてるの? 俊助から何か云つて來ましたの?」 「何も云つて來やしないよ。――だけどねえ、おい、子供の事を考へると、夫婦別れも中々めんだうだつて云ひたいのさ‥‥」 「厭! 何! パパの云ふこと‥‥別れるなンて何なのツ!」 「お前は子供のやうな顏をしてゐて、隨分押しが太いよ‥‥君には誰だつて甘いとばかりおもつちやいけないよ。わかるかい‥‥」 「パパは佐々さんの事をまだ責めていらつしやるの?」 「責めてはゐないが、氣持ちはよくないねえ」 「‥‥‥‥」 結城たか子はいはゆる名流婦人であつた。どんな會にも顏を出してゐないと云ふ事がない。俊助、孝助と云ふ二人の子供があつたが、二人の子供は、たか子と友達のやうな大人で、俊助は熊本の高等學校にゐたし、孝助は中學の學生で二人とも寄宿舍生活をしてゐた。良人の結城堂助は日本畫家であつたが、筆のたつ處から、よく、方々の雜誌や新聞に隨筆を載せて識られてゐた。 たか子には少しばかり歌が讀めた。歌をつくると云つても、乾いたばさばさしたもので、歌は有名ではなかつた。それでも、歌集は一二册自費出版をしてゐて、たかね會と云ふ若い女歌人の集りの幹事をも務めてゐた。 次男の孝助が丁度中學へ這入つた年の夏だつた。たか子と堂助は休みで歸つてゐる子供達を家へ殘して、輕井澤へ避暑に行つた。輕井澤といつても沓掛に近い方で、堂助の設計になる小さい別莊へ、毎年二人きりで出掛けて行くのである。 始め、堂助が沓掛へ別莊を持つたころには、四圍は雜草の原で、人家の遠いぽつんとした處だつたが、近年、堂助の別莊の近くには、四五軒も赤屋根の小さい別莊が何時か建つやうになつた。西側の白樺林にかこまれては佐々博士の和風莊と名づけた別莊がある。ここには子澤山の佐々一家が、二三年來やつて來るのであつたが、その夏は、佐々博士の一家は鎌倉の方へ避暑に行つたとかで、佐々博士の末弟だと云ふ、徹男と云ふ二十七八の青年がダツトサンを持つて一人でぽつんと遊びに來てゐた。 この青年と一番さきに話すやうになつたのはたか子である。たか子は徹男を知ると、すぐ徹男を良人に紹介して、 「ねえ‥‥パパ、うちの俊助が學校を出たら丁度あんなになるのねえ‥‥外務省に務めてらつしやるンですつて」 と、徹男の無口さを長男の無口さにくらべて、こんなことを云つたりしてゐた。 夏もそろそろ終り頃になつて、堂助は思ひたつたやうに二三日山の寫生に行つて來ると云つて、戸隱山か黒姫山かに登つて來るのだと、飛びたつやうにして長野へ發つてしまつた。後へ殘されたたか子は、朝から徹男を呼びに行つたり、夜更けまで、徹男の部屋に遊んでゐたりした。――霖雨のやうな雨の降る或日だつた。たか子は東京から菓子を送つて來たと云つて、徹男を自分の部屋へ呼んだ。 「ねえ、あんまり寒いから爐を焚いてみたのよ いいでせう?」 徹男は茶のスウヱータを着て、大きな野櫻のパイプを口にくはへてゐる。たか子は安樂椅子をすすめると、 「ああ、主人がゐない氣持ちなンて、桎梏から離れたやうな氣がするわよ‥‥」 と、蓮葉なことも云つた。 「だつて、隨分仲のいい御夫婦で、何時も奧さんは愉しさうぢやありませんか‥‥」 「さう見えるのよ。ちつとも愉しくなンかないのよ。早くから子供を産んで年をとつたンですもの、つまらないわ‥‥」 色んな草木の葉を鳴らして、細かな雨が降りつづいた。さうして、憂々と屈したやうな陰氣な、雨のくせに遠くでいなづまが光つてゐる。 「まるで夏の初めみたいぢやありませんか‥‥」 「さうですね‥‥」 爐の火ははぜて、ぱちぱち樹皮が燃えあがる。山で傭つた小さい女中が、熱い茶を淹れて持つて來た。 「中々、可愛い娘ですね‥‥」 「あああの娘ですか、毎年傭ふのが嫁に行つたので、その妹が來てるンですけど、素直ですよ」 「いくつですか?」 「十九ですつて、あんなのがお好き?」 「何も知らない、あんなのがいいぢやありませんか‥‥」 「ふふん、徹男さんも隅に置けないひとねえ‥‥」 二人は安樂椅子の話にも飽いて來ると、雨だれの音を聽きながらむつつり押し默つてゐた。 「ねえ、ドライヴでもしませんか?」 「まア! ドウイヴ? いいわね、雨の中のドライヴなンて素的だわ‥‥」 たか子は納戸にはいると、洋服を着てゆくのだと云つて、 「ねえ、一寸、徹男さんいらつしてよ、この黄ろいジヤケツをかしいかしら?」 徹男は苦笑ひに似た表情で、 「何でもいいでせう、寒くさへなけりやア‥‥」と云つた。 軈て二人は、白い自動車に乘つて信濃追分の方へ走つて行つた。野も樹木も人家も走つて行く。電線も濡れて光つて矢のやうに走り去る。革のやうな濕つた匂ひがたか子の鼻をついて、たか子は、少女のやうなはしやぎやうだつた。 「ねえ、このままどこかへ行つてしまひたいとおもふわ‥‥」 「私が惡い男だつたら、このまま奧さんをどこかへ連れて行く處ですね‥‥」 「まア、惡いひとぢやないの‥‥さつきから、あなたを惡いひとだと、おもつてゐるのよ‥‥」 「僕が、惡いひとですかねえ、これでも、僕の友人達は、僕をいいひとだと云つてくれますよ‥‥」 「お友達にはいいひとかも知れないけど、わたしには、とても惡いひとだわ‥‥」 「そんなことを云ふと、うんとスピードを出しますよ」 「厭よ」 不意に徹男の左腕をたか子が兩手でつかむやうにすると、自動車はぎいと音をたてて小徑で止つてしまひ、徹男の厚い胸がたか子の肩の上へかぶさつて來た。 二人が眼をよせると、雨の音と、自動車のエンヂンの音だけが、部屋の中よりも靜かにきこえて來る。たか子は胸がなしくなつて涙が溢れてゐた。 「泣いたりしちやいけない‥‥」 「‥‥‥‥」 「歸りませう‥‥」 徹男は、一寸、たか子の脣に小指を持つて行つただけで、接吻もしなかつた。 たか子は默りこくつてゐた。徹男も默つたなりでハンドルを握つてゐる。別莊へ歸り着いた時は、もう黄昏頃で、雨はますますひどくなつてゐた。女中は爐の火を焚いて、一人で唄ひながら厨で川魚を燒いてゐた。 ポーチの處で、徹男がさよならを云ふと、たか子は雨の中へ走り出て徹男を追つた。 「ねえ、いらつしてよ。このままお歸りになるンぢや厭よ‥‥」 「今夜はもうよします。結城さんがお歸りになつてからまたうかがひますよ‥‥」 「ねえ、お話したい事があるの、一寸でいいからいらつして頂戴!」 大股に歩いて行く徹男を追つて、たか子は雨に濡れながら、徹男のビイラへ行つた。自炊をしてゐるので、石油コンロがサロンの眞中に置いてあり、チーズや煙草の鑵が板の床に轉がつてゐる。 たか子は、散らかつてゐる部屋へ徹男の後から負けない氣持ちで這入つて行つた。 「困る‥‥」 徹男が、立ちどまつて「困る」と云つた。たか子はスクウリンの上が消えてしまつたやうな淋しさで、窓邊に立つてゐた。十年近くも年の違ふこの青年に噴きあげるやうな戀情を寄せてゐる自分を、痛々しく考へてみるのだつた。 何かの惡い隙間なのだとおもつてみても、たか子はいまさらひつこみのつかない氣持ちだつた。徹男は、徹男で、良人を持ち何人も子供を産んでも、少女の氣持ちと少しもかはらないたか子夫人に、何となくひかされるものを感じた。眼が黒くつぶらで、皮膚が白くて、太い眉が熱情的で、脣は南國の花のやうに厚い肉をしてゐるたか子。 「どうして、急に、そんなによそよそしくなさるの?」 たか子が、そつと徹男のそばへ寄つて來た。埃くさい、暗い部屋の中に、二人は暫く對立して立つてゐたが、たか子は、少女のやうに徹男の胸に飛びついて行くと、まるで蝶々が狂ふやうに、髮の毛を徹男の胸へ押しつけてゐた。氣位の高い、肉の厚い女が、野性になつて來るのを見て徹男は、いたはるやうにたか子を長椅子へ連れて行くと、雨で冷くなつた自分の頬をたか子の膏の浮いた額へぢつと押しあてるのであつた。 その日から、二人は人目をしのぶ仲になつてゐた。東京へ歸つてからも、たか子は口實をつくつては徹男に逢ひつづけてゐた。 初冬になつて、堂助が朝鮮へ寫生旅行に出かけて行くと、たか子は徹男を誘ひ出して伊豆めぐりなどをしてゐたが、何時かたか子と徹男の關係は徹男の兄の佐々博士に知られてしまつてゐた。 ――ごめんなさい。もう、これだけの思ひ出として、二人のことは溟心共に消えてしまひたいと思ひます。霧散さしてしまつて下さい。軈て何かの折に、僕の氣持ちをお應へする折もあるでせう。お躯をお大切に祈りあげます。
そんな、呆んやりした手紙が徹男から來たきり、たか子は徹男にふつつり逢ふ機會がなかつた。泣いては怒り、怒つては考へ深く想つてみたりしたが、溟心共に消えてしまつたと云ふことは、たか子の年齡にとつて、一番胸に浸みる言葉であつた。
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